情けは人の為ならず!


「情けは人の為ならず」に対して俗説と真説の二通りがあることを昔、職場の先輩に聞いたことがある。どちらも立派過ぎて自分には馴染めないので、三つ目の解釈を提案してみたい。

80年代に中米某国でボランティアをしていた人に聞いた話。
日本のある団体が放置自転車を送りたいという。「それは間に合っているから自転車を鉄屑にでもして現金を送ってほしい」と伝えるのだが、それではダメだと。やがて輸送費をかけて送られてきた自転車が寄贈先の町を走る姿を確認しに彼らはツアーを組んでやって来たという。

町長さんに感謝状をもらったか小学校で歓迎セレモニーがあったか知らないけれど、そりゃ気持ちよかったでしょーよ。
「情けは人の為ならず」、人を迂回するまでもなくて、情けはダイレクトに自分のためなのであった。

自分にも思い当たる節がある。
311から1年後、あちこちへ寄付して100万円ほどあった預金が底をついた。
少しオカネが貯まると散財したくなるタチなので珍しいことではないのだけれど、寄付をするほど気持ちが楽になるという体験が新鮮で、私にとっては大発見だった。
誰かが困っているから寄付をする。ということは、自分が困った時にも誰かが助けてくれるはず。そう信じられる日常というのは、ドン・キホーテで買えるものではない。
だだし、その後も「もっと寄付を」という声が情け容赦なく押し寄せてくるのには閉口した。財布がカラだと借金取りに追いかけられているような気がして、なんだか情けない。

コロナ禍で困窮している人と困窮してない人、どちらもオカネの奴隷なのに、情けを差し伸べる手だてがオカネしかないって所に限界を感じる。
アンパンマンみたいにアタマを千切って差し出して、それを喜んでもらえたら嬉しいのになと、こんな文章を書いてみたりして。


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