善悪の此岸(つるんとした世界)

善悪の此岸

40年近く前に橋本治が「いまの子は反抗期がない」といった。

娘は小学校の頃から成人した現在に至るまで決して信号機を無視をしない。

増田書店の前の赤信号を私とカミさんが渡ったあとに気がついて振り返ると、娘は向こうで不機嫌な顔をして私たちを睨んでいる。

昔はこれを「良い子」と呼んだものだけれど、これが標準化されてみると、どうもそんな平穏な話でもなさそうだ、と子育てを終えて考えるようになった。

反抗期がなかったために善悪を自分で考える能力が未熟で、それを補う処世の術が「ルールの堅守」しかないように見えちゃうから。


今にして思えば、反抗期とは既存のルールを全否定したところで自分なりの善悪を再構築する過程だったのだろう。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに「ルールだから」では納得できない衝動を抱えながら、「みーんな悩んで大きくなった♪」昭和の時代。

自分なりの構築した善悪(倫理観)を守りつつ、善悪の此岸に厳然とある社会のルールとの間で折り合いを見つける能力は成人に求められる暗黙の条件で、暗黙であるがため人知れず絶滅の危機に瀕していたのではなかろーか。


つるんとした世界

浅草でご一緒することが多い、心のお医者さんS氏が「最近の人の自我はつるんとしてる」といった。

昭和型の自我は反抗期に善悪を咀嚼して腹に宿すのに対して、ルールの手前に留まる平成型の自我は視聴覚を通じて脳に留まり、いびつな所がない工業製品みたいだなと私も感じる。

思い返してみると、それは今、急に始まったことではない。

40年近く前、私が大学生の頃、新社会人は「新人類」と呼ばれていた。そこには理解不能な未知なる生物という意味のほかに、彼らが(それまで自分たちがそうしてきたように)ルールの向こう側で自分なりの倫理を構築する作業を省略していることの危うさに対して「そんなんで大丈夫なのかな」という漠然とした心配も含まれていたように、今になって感じる。

というのは、その後、宮崎勤事件の猟奇性に「わ、やっぱり!」てなったから。事件が「オタク」という言葉と結び付けられて大人たちを不安に陥れたのは、「オタク」という言葉の語源となった同人への距離感や対人マナーが、「相互理解のためには腹を割って話し合う」昭和型の大人たちにとって、あまりに異質だったから。

彼らは、善悪の此岸でルールを守る、恐るべき良い子たちなのであった。


そりゃいろんな問題もありますよ

・ルールに従順なのは、ルールの彼岸で善悪を考えたことがないからなのでしょうし、

・自分と無関係でもルール違反者へのバッシングに容赦ないのは、ルールを守る自分が損した気持ちになるからでしょうし、

・殺人は減っているのに自殺が減らないのはルール(善悪の此岸)で自己責任を感じちゃうからなのでしょうし、

・若い男女が脱毛するのは13歳前に留まっていたいからなのでしょうし、

・ネットで中傷はあっても議論はない、学校でイジメはあってもケンカがないのは、平和だからではなく、自我がつるんとしていて摩擦が生じないからでしょうし、ね。


でもま、いつだってそんなもんでしょ

空想上の古き良き時代を懐かしみ、世情を嘆くのがオトナの自慰行為。

いつだってオトナにとってワカモノは異星人。彼らが過去を切り捨て顧みない危うさを秘めているのも世の習い。オトナにできることは、自分たちが構築した社会が生み出したゴジラとしてのワカモノを理解(なんて、できやしないけどさ、せめてその努力を)することでオトナ自身の不安を和らげ、ワカモノへの放置力を高め、彼らに聞こえない声でエールを送ることくらい。

そうすりゃ、オトナがワカモノを怖れたり説教したり戦地に放り込んだりすることも、ないんじゃないのかな。


たとえばこんな未来かも

幸運にも平和と技術革新が進み、今の日本のように中国やインドでも需要が飽和して欲しい物も売る物も無くなったとき、日本のミレニアム世代がいち早く産み出した価値観やスタイルが世界のお手本になったりして。


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