アベノアノミー(安倍晋三の死去に寄せて)

 この10年、安倍晋三に対して「死ねばいいのに」と思わない日はなかったくらい。けれどもホントに殺されちゃったので、直情的な表現を抑えてきた自分を褒めてあげたい。
 もちろん、事件が僥倖だなんて思わない。かといって、彼が生きていれば「丁寧な説明」が聞けたのに…などという期待は微塵もない。彼は棺桶の前に刑務所に入るべきだった。犯人の凶行はその機会を永遠に奪ってしまった。それが残念で仕方がない。
 その犯人、山上徹也についても、膨大なツイートを読めば、環境が同じなら犯人は自分だったかもしれないとは思うけれども、大いに共感するってほどでもない。

 射殺事件の日、意図的にニュースを遠ざけたという声を複数の人から聞いた。
 生なましい映像が思考を停止してしまう恐怖、思考停止した国民が熱狂する恐怖、密かに狂喜する自分を発見する恐怖、総合的に賢明な判断としかいいようがない。
 何かがついに臨界点に達し決壊したという感覚。大きな不安と僅かな希望を内包する胸騒ぎ。私たちは同じ肌感覚を共有していた。
 「誰もが動揺している、こんな時にこそ、文章ですよね」と小田嶋隆先生の声。

 いわゆるアベガーのなかに「安倍晋三さえ死ねば全てが解決される」と、彼を過大に評価していた人などいたのだろうか。多くの人は彼が水面に表出した氷山であることを知りながら、水面下を語(りだせば避けられない陰謀論込みの熱く不毛な議論によ)る消耗を退けて「アベ『政治』を許さない」と訴えていたのではなかろーか。
 皮肉なことにそれは「本当の敵ではないが仕方なく狙った」と語る射殺犯、山上徹也もまた同じだった。

 神輿は軽いほうがいい。安倍晋三は理念も知性も無い男だった。浅草の料理屋の三代目なら友達になれたかもしれない。
 彼を憐れむとすれば、暗殺されたことではなくて総理大臣になってしまったこと。料理屋の三代目なら国会で「云々」を「でんでん」と読むこともなかった。しかし、それ以上に不憫なのは彼、安倍晋三の脳みそが「自分が何を破壊しているのか」を理解できなかったことだ。

 私達は日常、刑事裁判や新しい法律や国の行政とは無縁に生きている。
 それでもその日常は社会の制度的基盤のうえに成り立っていることを心得ている。これらはいわば「社会の底」、そして司法・立法・行政といった制度は個人の道徳や倫理のような社会規範と不可分の関係にある。

  2017年 9月25日、野党の憲法五三条に基づく臨時国会要求に対してモリカケ追求を恐れた安倍政権は、国会開催に3か月間応じなかった。そしてようやく始まった国会を開会宣言からわずか103秒で解散させた。
 後に菅総理も、2021年7月16日に提出されたコロナ対策を理由とした野党の国会開催要求を無視したまま総裁選に突入した。
 どちらの時にも「(憲法に)召集までの期限に関しての記述はないこと」が理由とされた。
 法律は犬が読むことを前提に書かれてはない。憲法に限らず、すべての法には対象の前提ってもんがある。「合理的期間内に臨時会を召集する義務がある」と理解すべきところを「期限が明示されてないのだから違法ではない」と言い切る人間が為政者に選ばれることを憲法は想定していなかった。法の前提が壊れてしまったのだ。
 誘導された問題設定によって「開催期限を20日以内」と明記する自民党改憲草案が妥当に見えるかもしれない。けれども、法の前提が壊れた基盤の上では、どんな実定法も成り立ちはしないだろう。
 安倍政権が破壊した社会の制度と個人の規律は表裏一体となって社会の底を支える基盤だった。

 言い飽きたし、聞き飽きたことではあるけれど。安保法制や原発再稼働といった世論調査での反対多数を押し切って強行採決された法案の数々、社会の耳目であるメディアへの圧力、中村格氏による警察への、黒川弘務氏による検察への、その他諸官庁の信用失墜など、これらの影響を推し測るのは難しい。
 しかし、これらによる社会の底の破壊が、ついにはコロナ対策の特別給付金を原資に議員会館でサラ金商売をする遠山清彦議員や半グレと組んで給付金詐欺を働く経産省キャリアなどを産出するに至ったように私には思える。足下で社会の底が腐食され価値観を新自由主義が上書きしてしまえば、彼らの犯罪は合理的行動として正当化される。
 異常な思考が犯罪を生んだのではなくて、全国民のメンタルが病み、たまたま権力を持つ人がそれを行使し、たまたま逮捕されたに過ぎない。権力者から「無敵の人」まで、底が壊れた社会に生きる国民はまんべんなく病み、重症化しつつあるんだぜ、と申し上げたい。
 社会の底が壊れ人が病んでいる所にコロナやウクライナ侵攻といった世界的な不幸の大波に襲われた日本。今回の射殺事件に、限界まで張り詰めていた何かが決壊する音を聞いてしまうのは無理からぬことだよね。

 繰り返す。安倍政権の8年は国民が拠って立つ社会の底を破壊し続けた。作るより壊す方が簡単なのは自明の理、完全復旧する日まで私は生きていないだろう。だからせめて、ターニングポイントまでは見届けたい。でもそれ、いつ?
 安定した社会の秩序を空気のように呼吸しながら想像する無秩序とは異なる、未知の無秩序が口を開けて待っている。でもって、ターニング・ポイントはその向こう側にしかない。

 社会の底、そのまた下にある世界を大人は知っている。それはケダモノの世界ではなくて、鬼の世界。先に「安倍晋三は自分が何を破壊しているのかを理解できなかった」と断定した。ではなぜ理解できなかったのか。その理由がこれ。鬼の実在を知らなかったから。(狡猾な男は気がついたようだ。昨日、竹中平蔵がパソナ取締役の退任を申し出た。)

 犯行の2週間前、山上徹也は「人は究極的には自分が味わった事しか身に沁みないものだ」とツイートしている。私にはこれが単なる一般論や自分に酔ったニヒリズムには思えない。私には山上徹也が(統一教会二世の痛みに)無自覚な安倍晋三を許し、彼を射殺する自分を許すという、鬼の地平に立っているように見える。
 この鬼の世界こそ、大人たちが社会の底を支え、制度を営繕する動機なのだ。制度に盲従するのではなく、快感に任せて破壊するのでもなく、報酬を期待するでもなく、自由と権利を保持するために求められる国民の不断の努力(憲法12条)、その熱源なのだ。なのだったら、なのだ。

 以上、山上徹也が絶望したこと、安倍晋三が理解できなかったこと。私がこの10年安倍晋三に対して「死ねばいいのに」と思い続けてきたこと。
 事件から2週間、それまでに費やした時間と労力が大きすぎて整理された総括には程遠いけれど、現段階で考えられるのは、こんな所です。

 今にして思えば、安倍政権による愚行に憤り、異を唱えることは、自分が(健全な)自分であるための免疫反応のようなものだった。
 そう思うのは、社会の底が破壊される痛みに無自覚だった人は、自身の精神が病むことにもやはり無自覚で、そういう悲しい人たちを見てきたから。
 でも、気がついてみたら声を上げ続けたことで、自由な心を持ち、自分のアタマで考え、自分の言葉で語れる、素晴らしい人たちに数多く出会うことができた。
 戦争なんてぜったいに嫌だけれど、戦友ほど価値ある財産はないんじゃないかしらん。
 親友と呼べる人がたった一人でもいればよかったのにね、という気持ちで安倍晋三を追悼する。

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