CHAIは地球を救う

日本盛衰45年周期説

 日本盛衰45年周期説ってのがあるそうで。
 血まみれの明治維新、どん底から日本の近代が始まり、日露戦争で絶頂に至り、敗戦で再びどん底、バブルで再び絶頂へ。この説に拠れば、私達は2035年のどん底まで、順調に凋落を続けることになる。
 諸行無常は世の習い。にしても、1周期目が軍事、2周期目が経済ときたら、3周期目には何がやって来るのかが、気にかかる。
 13年後に底を打ち、新たに始まる価値観はすでに芽生えているはず。目を凝らせば見えるはず、耳を澄ませば聞こえるはず。歴史がそれを保証している。


CHAI、降臨

 「無料なら」とフジロック・フェスティバルを視聴しながら、清志郎が不在の同窓会に倦んでチャネルを変えると、同じフェスの異なるステージに立つ4人組の女の子バンド『CHAI』が現れた。
 ウッドストックの映画で初めて見たジミ・ヘンドリックスのような衝撃。
 そのカワイさは私の知る日本のレベルを超えていた。東アジアのエンタメが日本を超えていると思ってはいたけれど、ここまでか?という焦りを抑えてネットを検索。案の定、彼女たちを中国人と疑う、私と同じアホが散見された。
 日本のテレビって、女性の容姿にある種のフィルタを採用しているんじゃなかろうか。そのため、画面に規格外の女性が映ると自動的に海外の人と判断してしまう。それが、街を歩けばどこにでもいる、普通の少女だとしても、だ。・・うむ、責任転嫁かもしれない。原因はともかく、テレビの中の女性を視る私の目が曇っていることだけは、確からしい。

 335とプレシジョンベース、暴れ馬のような楽器を操りながら、彼女たちの演奏は「仲間」と呼べる関係だけが召喚できるロックバンドの精霊を降臨させ、しかもその奇跡とカジュアルに戯れている。
 やがて「なんじゃこりゃ!」という衝撃は沈静化し、難産だった娘を腕に抱いた20年前と同じような感情が込み上げてくるのであった、「やっと出てきてくれたんだね」。

 CHAIは、彼女たちの提唱する「ネオ・カワイイ」が「革命である」と宣言する。
 私はこれを字義通りに受け止めている。20世紀の革命が共産主義を目指したように、21世紀の革命は「Neo Kawaii」を目指すのだ!なんてね。鼻白んじゃいました?まぁ、そういわず、ここに至る私の歴史認識を聞いていただきたい。


カワイイの起源

 日本の貿易商品は戦前の絹に始まり、重工業、電子部品へと遷移してきた。20世紀が終わる頃には、ウォークマン、カラオケ、ゲーム、アニメなど、気がつけば「便利なもの」から「喜ばれるもの」へと商材は変質していた。
 追いつき追い越せと産業技術で日本を凌駕し、生活水準を向上させたアジア諸国が次に目指すべき生産品を探したとき、変質の延長上にあるのは、需要が飽和した国、日本に浸透したオタク文化であった。

 ここで立ち止まって考えたい。80年代初頭、起源としての「オタク」とはセンズリ臭い存在であったことだ。いや、青年とは古今東西、そういうもの。もう少し正確に「オタク」を定義する。起源としての「オタク」とは、青年が書(エロ本)を捨て町(秋葉原)へ出て同好の士と出会った瞬間に花開いたアングラ文化であった。
 その社会的背景として「モテない」男子は恋愛を夢見ることさえ許されないバブル時代の空気と、「それなら」と夢に見切りをつけて自己完結する青年像があるわけだが、それはそれとして話を戻す。

 彼らが育んだ巨大な娯楽市場はネットの普及とともに、衰退する日本が世界に誇る唯一の文化と呼べるほどに成長していった。
 呼応して女性アイドルの価値はかつての明星・平凡的な異性や恋愛への憧れから、人格的要素を喪失、「女」という商品性が精製され、置き屋のようなアイドルグループと女衒のようなプロデューサーが市場を席巻する頃には、かつての美人・麗人といった外見的評価基準は完全に「カワイイ」へと置き換わっていた。

 一方、オタクとほぼ同数いたはずの、商品化を拒んだ(あるいは脱落した)少女たち。「腐女子」に代表される彼女たちは消費者としてオタク文化に合流し、性的商品を単体の価値から関係性の価値へとシフトする流れを加速させた。比較的、最近になって現れた「推す」という言葉も、かつての「〇〇ファン」という言い方に比べて、関係性に価値を置いていることがわかるだろう。
 この傾向は30年以上も継続し、もはや、モテ・非モテを問わず、ほぼ全ての少年少女がオタク化したのが平成後期から令和にかけての日本の姿である。


ネオ・カワイイの誕生

 環境に恵まれたサナギが健全なチョウに変態するように、この世界最先端の土壌が「カワイイ」から「ネオ・カワイイ」を誕生させることに成功した。
 変態の発生は、欲望(を刺激する商品の生産)を動力としてきた資本主義が臨界点に達する過程と軌を一にする。サブスク時代を迎え、聞くべき音楽、見るべき(映画を含む)動画は膨大で、これらの娯楽を消費するために用意された人生の可処分時間はあまりに短い。こうなれば、最低限の生活費を最短時間で稼ぎ、残りの時間はお気にいりの娯楽に投入したいと考えるのが合理的であるし、そんなライフスタイルが定着してきている。もはや、商品が陳列棚で輝く余地など、ありゃしないのだ。
 所有や消費を目的とした商品は発展的に解体し、体験や関係性を目的とするサービスに主軸を移していた。同様に、「カワイイ」から生まれた「ネオ・カワイイ」は「カワイイ」の商品価値の中核を放棄することで誕生し、令和の楼主を自由廃業に追い込むのだ、ばんざい。


CHAIは地球を救う

 「ネオ・カワイイ」は「カワイイ」から産まれながら、人類史上、もっとも古い商品である「エロさ」を蒸発させた。進化の過程でエラや尾が消えたような、これはヒトの進化における大事件なのだ。
 かつて、モテない男子の変態性欲を掻き立てた孤独はいま、わだかまりなく太陽の下で露出しあえる萌え衝動へと変態した。「ネオ・カワイイ」は人間にとって生殖に根ざした衝動からの開放という、倒錯の深淵に響く福音となる。

 日本のオタク文化に憧れる世界のオタクは、これに追従するだろう。
 北京五輪で「エロさ」のないカーリング女子日本代表に金メダル以上の価値=ネオ・カワイイを見出したオタクは世界中にいるはずだ。
 五輪競技だけではない。攻撃性と性衝動は多くの哺乳類で結びついている。この攻撃性が人間特有の戦争を生み出す以上、性衝動を超越した「ネオ・カワイイ」が、戦争をゲームチェンジさせても不思議ではない。
 ウクライナは「世界一『美女』の多い国」と呼ばれているそうだが、美女や美人は昭和の価値観。カワイイは平成。令和のネオ・カワイイには、今起きている戦争を周回遅れのチャンバラごっこに変えてしまうポテンシャルがあるとさえ、私は感じている。
 自衛官募集ポスターには現在、「カワイイ」(かつ少しエロい)キャラクターが採用されているが、ここに「ネオ・カワイイ」が採用される頃、戦争は居場所を失っているだろう。

 2035年以降、日本の新たな輸出品になるのは「ネオ・カワイイ」かもしれない。ただし、そのとき経済の時代は終わっている。したがって、主要な「産業」になるか否かは重要ではない。世界の文化へ貢献し、ひいては人類の進化に寄与するという、周期に伏流する通奏低音に耳を澄ませば、CHAIの「N.E.O」が聞こえてくるはずだ。


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