4.物語の力
その秋から冬のことは忘れられない。
きっと、世界を敵に抵抗した。
あの若さと情熱とエネルギーでもって、エベレストの
山頂で舞いたい一匹の蝶だった。
そして、たぶん、思い知るしかなかった。
じぶんが17歳だということを。
ここで出来る最大のことは、なんなのか。
どこまでもあのわたしは、最大出力の矛先だけを
かんがえていたんだ。
◆
その秋からアサミから夜中にかかってくる電話は
すべてがSOSだった。
いつでも出られるように、わたしは出歩くことをきっぱり辞めた。いつの間にかセンパイからの連絡は途絶えた。友達の連絡を断り続けると、やがて誰からも誘われなくなった。
携帯にかかってくる連絡は限られた。もう悠長なものは要らない。ほとんど寝ていないのに、不思議と眠くならない。電話の音が鳴る前に起きることもあった。
電話に出ると、間に合った、と出掛ける身支度をした。
◆
アサミの家からわたしの家まで自転車だと20分かかる。田舎では車通りのない道には電灯がなく、その
まっくらな道をかっとばし何時であっても家を出た。
これまでと違う娘の外出に母は戸惑った。変な風に
わたしは痩せたが、変な風に体調に気を遣うように
なった。一大事を逃しては絶対にならない。
アサミから、一つだけ口留めされていたことを
犬のように忠実に守った。
『ゼッタイに、警察にもだれにも言わないで。親には絶対』
その重たい、約束しきれない契約を遵守する連帯保証人だった。
真相の告白はアサミの決壊を意味していた。
これ以上アサミが壊れてしまうことを、じぶんの手でしてしまうなんてできない。
アサミのお母さんを壊してしまうことだけは。
今のアサミにとっては、最後の砦がおばさんなのだ。
いまおばさんだけが、アサミの命をつなぎとめている。
それでもあきらめきれず、このすべての元凶を明らかにしてほしい想いで、わたしは何度も、駐在所の前をウロウロした。そこにいる眠気交じりの顔には、あの高校の数学教師と同じ匂いがした。
ああ一体どこに、信じていい大人がいるんだろう。
どうして、わたしは子どもなんだ。罪だ。
子どもなんて罪でしかない。
この日々はきっとわたしに与えられた、罰。
「今日おかあさん泣いててさ。目が覚めたら、泣き
ながら腕に包帯、巻いててくれて。ほんとにゴメンね
っておもったの。お母さんが泣くこと、ないのにね。
お母さんかわいそう」
その連絡のあと、アサミの家の玄関で、憔悴しきったおばさんが無言でわたしを迎えた。
「アサミは、大丈夫ですか」
「アサミちゃん、いま、部屋で寝てるよ」
アサミちゃん、って呼ばれているじゃないか、とおもいながら、わたしはアサミの部屋への階段を上った。アサミ、どうしてこの家を出ていったの。涙ぐむ。
この世界に効力のひとつもない、水を。
おばさん、元気ない、元気出してください、大丈夫です、いろんな言葉が自分の中でめぐっては、ひとつも出すことができずに、すべてを飲み込む。
わたしはいつも無言だった。
おばさんと目を合わせることすら、こわい。
もしあのことが一滴でも漏れてしまったら。
罪状の付かない裁かれない大罪があることを知った。その目の前に立っている。わたしだけ、がけっぷち。東尋坊から荒れ狂う黒い日本海へ、落ちるかどうかを、選ぶのは、じぶん。
踏み出していいのか。
焼き印が押されるかもしれない。この先生きていけるのか。ああでも、そんな十字架いくらでも負ってやる。ぜんぶ飲んでやる。どう染まってもいい。
そんなものどうでもいい。もう綺麗じゃない。
そこじゃない。
今から人を壊すかもしれない。
壊してしまうかもしれない。
その罪には罪状がつかない。世間の知らない、もっとも許されない罪を背負うのか。覚悟を迫った。もし
このあと、これ以上の惨劇が起きても、受け入れるという、覚悟をしろ。最後まで逃げないという覚悟を。
それだけは、できない。
この覚悟ができない。
ああ、だれか助けてくれないか。
だれか手を差し伸べてくれないのか。わたしたちに。
責めることなく、手を差し伸べ、アサミの命を延ばしてくれないか。
あのおばさんを救ってくれないか。
あの男を消して。
近隣の精神病院は何十キロも先で連れていけない。
17歳はなにもできない。
おばさんは知らない。
アサミがなにを病んでいて、なぜ病んだのか。
言っていいのかわからない。
だれもわたしに教えてくれない。
ほんとうのことを。
ほんとうに必要なことを、誰も教えてくれない。
どうして生き続けるのに必要なことを
大人はひとつも教えてくれない。
なぜ助けてくれない。
先に生まれたくせに。
その時間は教えるためにあるのではないの。
だれか、あのわたしの言葉を。消して。