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『私見ですが...』 AIって相棒なのだろうか

ふと、AIについて書いてみることに。
気づけば世の中、”AI””ChatGPT”の言葉が溢れかえるようになっている。一昨年のChatGPTショックまでは、”人工知能”という日本語が囁かれている程度の巷感ではなかっただろうか。それほどに”ChatGPT”の登場は大きな衝撃を世界に与えた。正直、IT系は得意と思っていた自分にも大きなインパクトではあった。

ここで少し昔を振り返ってみる。というのも、ただ流行り物に乗っかっているおじさんに見られないようにしておきたいから。IT系は得意という根拠も一応ある。

若い頃からパソコン、インターネットにとてものめり込んでおり、Mac歴で言えば1985年の”Macintosh 512K”から使い始めた。その頃は店頭(おそらく店舗扱いはなかった?)でMacは買えず、Canonの営業所から買っていた。とにかく目が飛び出るほど高くて高くて。でもMacを使えるという喜びが苦難を乗り越える糧となっていた。今では当たり前のようにUI(ユーザーインターフェース)がコンピューティングの良し悪しを決めるに至っているが、当時はまだWindowsはコマンドベースの”MS-DOS”からようやく”Windows1.0”が発表された頃で、でもUIはお世辞にも優れているとは言えず、Macの使いやすさ、ビジュアル的な優位性は揺るがなかった。とにかくMacを使っている人たちに多かった職業はデザイナー職の方々だったので、それはイメージも自ずと良くなっていた。

そして一時期はコンピュータ販売、地域インターネットプロバイダーも行っていた。まだモデムという機械で電話回線に接続する儀式がある頃である。Z世代などは間違いなくその存在すら聞いたこともないだろう。インターネット黎明期は”Bekkoame”がプロバイダーの第一人者で、まだまだプロバイダーなど数少ない頃だ。回線速度も28.8kbpsという、今では考えられないスピードでネットサーフィン(昔はそう言っていた…汗)していたのだ。その頃のプロバイダーはとても原始的で、電話回線を何本引けるかという話である。そして引けたは良いが、事務所の倉庫に設置していたので、回線が繋がる時に「ピーヒャララ、ピーヒャララ」と鳴り出し、モデムの協奏曲が始まる。これは(昔の)FAXと同じ音で、40台がいっぺんに鳴ると家に帰ってからも頭の中で「ピーヒャララ、ピーヒャララ」であった。その頃はまだソフトバンクはPC雑誌の発行社だった頃で、広告を載せていたものだ。

またホームページの作成もWordpressなどは最近の話なので、HTMLコードを書いて作るしかない。タグを一生懸命覚えてホームページを作り、多分だが、日本で一番初めのインターネットオークションやインターネットオーディションを開催した。ただページを作って公開しても、インターネット人口が少なすぎて、大事なエンドユーザーがいなかった。ちょうどその頃、大手広告代理店にプレゼンしに行き、「これからはインターネットの時代です。テレビに代わる媒体になるので今から切り開いていきましょう」と説明したのだが、まずインターネットを知らない、もしくは言葉は知ってる程度の話で、「テレビに代わるわけがない!」と返されたものだ。また同じ頃に、友人のミュージシャンに「音楽はCDがなくなるよ。これからはインターネットでダウンロードできる時代になるから」と話したら、「そんなことがあるわけない。CDで聴いてもらえなければアーティストが大変なことになる」と返されたのが印象的だった。

そんな時代にネット関係のビジネスモデル特許を取得した。処方箋のオンライン化と宅配サービスである。相当なページ数の申請書を書きあげ(もちろん司法書士にお願いしているが)、図解も作った。くどいようだが、まだインターネットと言う言葉がポピュラーではなかったので、説明するのが大仕事だった。そのような時代背景なので、やはり取得後もプレゼンが大変である。「こんなことができるわけない」はまだ良い方で、「何言っているのかわからない」の連発であった。特に薬事法なども関わってくるので、なおさらである。しかもシステムの開発となるとどれほどのお金がかかるのか、もう想像でも天文学的であった。とやっているうちに、20年の特許期間も過ぎてしまい今にいたる。。。

処方薬オンラインシステムの特許

少々前置きが長くなったが、そんなこんなで今から書くことの予防線を張ってみたわけだ。

”AI”を意識し始めたのはそれほど昔ではなく、5〜6年前だろうか。ちょうど少人数での”AI(人工知能”のレクチャーを受けられる機会があったので、それに参加してからである。映画でも”AI”と言うズバリのタイトルのものあり、古くは”2001年宇宙の旅”などがあったので、感覚的には未来の話的なものであった。ただその世界観からの疑問がいつも生じてはいた。これは良い機会だと思い、率直に質問してみた。「AIが人間を超え、支配する側に回ることはあるのでしょうか?」と。その時の答えは、「”AI(人工知能)”は機械学習なので、学習したこと以上の答えは出てこない。また感情は持ちえないので、その心配はない」と。「ただ進化のスピードが非常に速いので、人間が想定している領域を超えていってしまったらわからない」とも。

その頃から自身は”デジタル”と対極にある”シンプルライフ”を提唱し始めていたので、知識としての蓄積に留めていた。ただ正確にはデジタルの否定ではない。生き方をシンプルにすることで生きやすくし、その中に適度なデジタルを組み合わせたライフスタイルの提案である。デジタルに頼りすぎると、人間であることを疑わらずにはいられなくなってしまう事が多々あると思う。これはまた後日詳しく書こうと思う。

その薄っすらした”AI感”にインパクトを与えたのが、ChatGPTだった。使ってみるまでに少々時間がかかった。なぜかと言えば、使うのに特別な儀式(知識)があるのでは、と勝手にハードルを作ってしまっていた。デジタルは得意であると自負していても、”人工知能”とか”機械学習”と言う言葉にいささか躊躇いがあったのだ。しかもパーソナルベースでそれらを享受されるとなると、何か疑いたくなる。ただそうは言っても新しい技術には興味津々である。発表されてから2、3ヶ月遅れで初めてのChatGPTを体験することにした。

俗っぽい話だが、やはり最初は投資の仕方とかを聞いてみたくなるなるものだ。ただ見事にスカッた言葉が返ってきたものだ。笑。学習したこと以外の情報はないので、予測などはできない、みたいな感じの返答だった。笑。よくよく考えたら「大規模言語モデル」での学習である。もちろん金融界ではアルゴリズムの分析にAIが使われているだろうと思うが、一般社会でオープンに提供できるサービスのものは機械学習の範疇なのだろう。ただそうは言いつつ、使っていくうちに「これは凄い」と気づくポイントが出てきたのだ。

よく言われるのが、ブログとか論文も書いてくれる、とあるが、それにはあまり関心を惹かれるものがなく、その使い方を今までしたことがない。結局記事を書いた後に自分なりの考査をしながら間違い探しなどの作業をしなくてはならないし、そもそも文体の整えをやることを考えたら、自分には現実的には思えないからかもしれない。

では何に驚いたかというと、HTMLコードの修正点を的確に教えてくれたことだ。ちょうど自身に関係したHPの作り直し(もちろんWordpressでだが)を5〜6本やっている時に、どうしてもコードの方をいじらなくてはならないことが出てきた。前述した通り、インターネット黎明期の遠い昔に基本的なことでいじった記憶はあるが、今のコーディングは行数も多く厳しい。何となくわかるところもありながらも、不安でしかない。その時に登場したのが”ChatGPT”だ。まず間違い探しは得意らしく、ズバリ修正してくる。そして「こうしたい」のコードを書いてくれる。バージョンの問題か、その通りにいかない時もあるが、とにかく人に頼むとお金が発生するであろう作業を瞬時にやってくれるのだ。

以前参加したレクチャーの時の話を思い出した。「”AI 人工知能”で今まで名医と呼ばれる医者を転々としたけれど病名が特定されず、本当にわからない難病として諦めていた人が、ある医者に辿り着いた。その医者は試験的に取り組んでいた機械学習されたデータベースに症状を打ち込んだら、何の病気かが判明し、治療に取り組めた」と言う。分野と事の大きさは全く違うが、その話を聞いた時の印象と同じくらい機械学習の可能性を非常に感じたのが、コーディングの相談で”ChatGPT”を使った時である。

そして当然の如く、画像生成AIも試したくなる。既に数ヶ月遅れてのスタートなので、先人たちの「マジか」と思うような画像がアップされている。そしてググってみると、「簡単に!」のような装飾語が付けられたタイトルが跋扈しているが、実際にやってみると全く簡単ではない。プロンプト(単語)を重ねて指示をしていくわけだが、得体の知れない物が生成されてきたり、誰かに似ているよね、的なものばかりだ。挙句は同じワードでも違うものが出てくる一発屋的な生成である。しかも動画の生成はこの時点では対応できるものが無く、いまだに格闘している。ただ面白いのが、希望を連ねるだけではなく、ネガティブワード(これはNGというワード)をしっかりと指定していかなければならないことだ。禁止事項を設定しないと”AI”がやりたい放題の解釈になってしまうと言うことで、得たいの知れない度が高まっていく。

”ChatGPT”に慣れてきたら、あれやこれやと次々に似たものが登場してきて、”AI”大競争時代に突入した様である。Googleの”Bard”、ビルゲイツも絶賛して投資した”PI”、そして最近だとMicrosoftの”Copilot”などである。Metaの”Meta AI”やイーロンマスクの”xAI”も注目されている。ただどれが良いかは個人差が大きいので割愛するが、個人的によく使っているのは”ChatGPT”と”Copilot”である。”Copilot”はベースが”ChatGPT”であるからして、一択しかしていないのかも知れないが。

そんな中、ふとド忘れしてしまったことがあったので、”ChatGPT”に聞いてみた。何を聞いたかというと、カメラセンサーの違いによるレンズ表記の解釈である。要は、センサーの小さいカメラ(APS-C)で、そのセンサー用に作られたレンズの画角表記は、表記通りの画角が得られるのか?と言うことだ。そして返ってきた答えは「その通りです」と。あれ、そうだっけ?と頭をよぎったが、ド忘れなのと自信満々の回答だったので自分の頭の中を疑い始めた。なら別の”AI”にも聞いてみようと”PI”にもコピペで同じ質問をしてみた。すると「表記通りの画角になります」と。あれれ、いよいよ自分がおかしいのでは?の領域に入ってきた。ただ疑いの目は積まれていなかったので、さらに”Copilot”にも聞いてみようと。そしたら「違います」と。この時点で”ド忘れ”が”無知識”に変えられてしまい、2対1だから「その通りです」を信じ込まされそうになってしまった。で、”Copilot”の回答に必ず書かれている出典元も見てみたら、Sonyからの引用があることに気づきリンクから確認してみると、自分の”ド忘れ”だったことで着地した。危ないところだった。それらの回答は画像の通りである。

ChatGPTとのやり取り
PIとのやり取り
Copilotとのやり取り

そしてソニーでのアナウンスページはこちら。
https://www.sony.jp/support/ichigan/lens/#a2

この事からも、”AI”を信じ切るにはまだ早いのであろう。無知識のまま”AI”の回答に触れてしまったら、間違った答えでもいとも簡単に信じてしまう可能性が非常に高いのだ。よく”AI”は平気で嘘をつく、と言う方々も多い。確かに自信満々で回答を出してくるので、間違っていた時に嘘をつかれた感覚になるのだろう。ただ人間でも間違って覚えた事を自信持って正答としてくる人はいるし、間違っていると言っても聞き入れない方もいる。それを考えたら”AI”は「ごめんなさい」は言ってくるので、愛嬌はあるかな。笑。ただあまりのめり込むと擬人化してくるので、気をつけた方がいい。笑。

メディアを通して伝わってくる”AI”はとても素晴らしい未来あるものと言う論調がほとんどかも知れない。たまに危険性を訴えるものも見かけるが、ビジネス面では非常に万能選手や救世主的な扱いが多いだろう。しかも何でも”AI”と付ければ良し、的な風潮が少々違和感を覚えている。極め付けは某局がニュースの中で、「これから先は”AI”による自動音声でお伝えします」とアナウンサーに言わせている事だ。”AI”が綺麗に喋りアナウンサーの代用をさせる技術のお披露目かも知れないが、ちょっとねぇ。それを言わされているアナウンサーの方は自分の職への否定にも繋がりかねず、それをやるなら最初から”AI”音声だけのものにした方がいいかも知れない。人として伝える温度感がアナウンサーにはあるものだろう。最近は過剰に決めポーズを入れてくるアナウンサーも多くなってきたが、良くも悪くも温度感はある。それが悪い方に働いた場合は、ニュースの事の大きさが軽くみられてしまうかも知れないが、能登半島地震の時のような緊急性の緊迫感ある「今すぐ逃げてください!」と強い口調のアナウンスはやはり人だからできたところだろう。

つまり現時点の”AI”の凄さは、膨大なデータの瞬時的絞り込みであろう。そこに倫理性や人間の情状的判断を組み込むまでにはまだまだ時間がかかるような気がしている。果たしてその領域まで可能にできるのかはわからない。逆に言えば、”AI”社会の中で人間が人間らしさを維持していくには、学習させるデータに依存していくだろう。画像生成AIで必要なネガティブワードの概念と同じで、何を学習していくかで”AI”の立ち位置が変わっていく。ネットや意図的な不確かな情報を学習させてしまえば、その結果は暗澹たる社会が想像できる。面白いニュースを紹介しよう。”AI”ではないが、ヨウムが悪い言葉を覚えてしまったので、人に対して悪態を連発するようになってしまった。そのリハビリをするというニュースだ。ふと思うのは、”AI”も同じ事であろう。人間がネガティブワードを浴びせかければ、とんでもない嘘が事実化してしまう可能性がまだまだ高い。実際に「戦争」「権力闘争」と言う場面ではそれが行われている。

CNN.co.jpから引用

https://www.cnn.co.jp/fringe/35214292.html

技術の進化は人間がコントロールできる範疇で収めていかなければ、制御できなくなり人間自身の否定に繋がりかねない。またAIに頼り切ってしまうと考える力が衰えてしまうだろう。調べることは面倒であったり、行き詰まったりで苦労が伴う作業である。だけれども、その過程があるから情報が身に付いていき、そのことに対して考えるようになるのだろう。つまり情報の価値に気づくことにもなる。それはスマホやPC慣れで漢字を忘れてしまうのと同じなのかもしれない。と書きながら、漢字は読めても書く時に自信がなくなっている我が身を見てだが。

さらに”AI”に聞いているだけのつもりで入力していることが、個人情報の抜き取りにつながる可能性も懸念される。成長過程の中に”競争”という言葉が付け加えられた時、より個人の嗜好性に強い回答を用意しようとし、企業側に倫理観が抜けてしまうことがある。その倫理性と技術のせめぎあいは必ず起こり、核爆弾を開発したオッペンハイマーにも生涯を渡って投げかけたと思う。ちょうどオスカーでのノミネートが話題になっており、被爆者の取材を30名近く行ってきた身として深く思うところだ。これも後日語りたいと思う。

とは言いつつ、”AI”の可能性はコントロールする側の人間次第だろうが、将来性は非常に感じている。特に医療分野、科学分野、法律のチェック機能、プログラミング、書類作成、会計処理などの士業分野では特に力が発揮されると思う。ただ著作権の問題やらも絡んできて、最終的なヒューマンチェックを怠らないことが”間違い”を防いでいく手段には変わらないであろう。”凶器”にするも”最良のパートナー”するも人間次第だと思う。

今の段階では”調査や調べごと”の時短ツールと捉えておくのがいいのかも知れない。その意味では非常に頼れる相棒アシスタントを得たと思っている。作業性が高まったのは間違いないので。

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