インシデンツ(5)
目を覚ますと、軽い頭痛がし、それにひどく喉が乾いていた。胃腸まわりにも不快感がある。息子はもう起き出してリビングに置いてあるブロックの箱を乱暴にかき回している。「父ちゃん、ソファで眠ったの?」と息子が言う。その口調には、いけないことをたしなめるようなトーンが含まれている。水道の水を勢いよく三杯飲み、そして、いつものルーティンをこなしていく。身体を動かしているうちに頭痛はほとんど気にならなくなった。
息子を保育園に送って家に戻ってくると神田さんからメールが届いていた。
ひとまず、一次面接は通過した、と言ってよいのだろう。
三日後、ぼくらは再び麻布十番のオフィスで会った。今度は会議室に案内される。ミニマルな打ち合わせスペースだ。白いメラミンの壁にグレーのタイルカーペット、四人がけのデスクが置いてある。ラウンジ・スペースとはまるで雰囲気が異なる。こないだ水を運んできてくれた女性がまた水を置いてくれる。
「こないだは遅くまでありがとうございました」とまずは改めてお礼を言う。張本さんはこないだと同じ格好をしている。たまたま同じものを着ているのか、あるいは同じものを何着も持っていてユニフォームにしているのかもしれない。腕時計だけがウブロからオーデマ・ピゲのロイヤル・オークになっている。ピンクゴールドとステンレススティールのコンビネーションのタイプ。四〇ミリを超える大型フェイスの腕時計が流行するなかで、三四ミリの小ぶりなものを選んでいる。時計の趣味の良さを感じる。関西風にいうなら「シュッとしてる」感じ。
ぼくは勝負服であるスリーピースではなく、ライトグレーのスーツを着ていた。それにオックスフォード生地の白シャツに濃いネイビーのニット・タイという組み合わせ。二度目だし、前回飲みに行っているぐらいだから、そんなに気合をいれなくてもいいか、という判断。
「いえいえ、こちらこそ。遅くまで話し込んじゃってすみませんでしたね」と張本さんは椅子に深く腰掛けながら返す。手に持っていた濃いブラウンのドキュメントホルダーを机の上に置く。ベルルッティとかなんだろう、と思う。光沢のある牛革は、古いウィスキーを熟成させている木樽のような風合いだ。
その日は、かなり事務的な確認から会話がはじまった。
話を聞いてみて、張本さんの会社をどう思ったか。
「いろいろとお話うかがって、張本さんが目指しているビジョンには深く共感します。会社としてこれから開拓していきたいとおっしゃっていた金融業界で、ぼくが力を発揮できる部分はあるんじゃないかな、と思いました」
まだ設立して半年も経っていない会社だが家族は心配しないか。
「家族のことは、まあ、なんとかなるでしょう。というか、いまの会社がひどすぎるので、同じような目に合わなければ問題ないと思います」
それから条件、いくらぐらい給与があれば良いか。
「そうですね……。今の会社でこのままいくと年間で一〇〇〇万はいくと思うんですよね。なので、一一〇〇万ぐらいあればいいかな、と。家族もそれなら納得してくれるでしょう」
ここは思い切って少し盛った。夏の大炎上での手当が大きかったのは事実だが、年収が一〇〇〇万行くかどうかは微妙なところだった。
「うん、良いでしょう。その条件で」と張本さんは、少し考えてから言った。
「正式な内定通知や雇用契約書は、また今度準備しておきます。野原さんは内定ということにします。ご家族ともいろいろとお話があるでしょうし、入社の話は今日はこのぐらいで」
その瞬間にぼくは前の生命保険会社にいるときよりもベース給与で四〇〇万円以上の年収アップに成功していた。辞めてからまだ一年も経っていないのに。たちの悪いジョブホッパーそのものだった。
「それでなんですが……」と張本さんは改まって話を切り出した。
「こないだぼくの車で、ハワイアン・ウェイブスを聞いたでしょう」
「ええ」
「そのバンドについて知っていることを教えてほしいんです」
張本さんの顔を見る。サッカー選手に似たその顔。瞳の奥にある瞳孔が急に収縮する。
ハワイアン・ウェイブスでベースを弾いていたぼくのおじ、と言ってもぼくとの血縁関係はない。ぼくの祖父(つまりはぼくの父親の父親)は早くに妻(つまり、血縁上のぼくの祖母)を亡くしている。おじは祖父が迎え入れた後妻の連れ子だった。祖父との折り合いは良いものではなく、早くに家をでて、職を転々としながら暮らしていたらしい。ベーシストというのも数多ある職のひとつだったようだ。二〇代の半ばにハワイアン・ウェイブスに参加していた。どういう経緯でテディ金山と出会ったのかはよくわからない。
そもそも、テディ金山という人物の詳しいプロフィールやミュージシャンとしての足取りもわからないことが多い。はっきりとわかっているのは、その名前が通名であって、本名は金泰正(キム・テジョン)ということ。一九〇〇年代初頭に朝鮮からハワイに移民した韓国系アメリカ人の三世だという話もあれば、それはミュージシャンとして箔を付けるための単なる設定、という説もある。卓越したスティール・ギターの技術は、朝鮮半島に駐留していた米軍人向けのショーに出演していた金山の父から手ほどきを受けたらしい。
その才能は早くから韓国ハワイアン界(といっても、それは在韓米軍向けの限られたマーケットにすぎない。民主化や経済発展が遅れていた韓国において若者が自由に音楽を楽しめるようになったのは、九〇年代に入ってからのことだ)でも注目されており、一〇代前半から父親のバンドに参加してショーに出演していた。転機となったのは一九七一年に朴正煕政権下で公布された「国家保衛に関する特別措置法」にもとづく、民主化勢力の封じ込めの余波だ。商売柄、リベラルな米国人との接触も多かったことで金泰正は危険人物とみなされていた。身の危険を感じた金泰正は、偽造した書類で日本に渡り「テディ金山」となった。一九七二年のことだ。
一九七二年の来日から一九七五年の「ダイアモンド・ヘッドのために泣かないで」のリリースまでは三年あまり。このあいだにどこで何をしていたかはまったく記録がない。日本語をどうやって学んだのか。生活はどうしていたのか。テディ金山の評判を聞き及んでいた在日コリアンが彼の活動を支援していた説が有力だ。録音された音源を聞くかぎり、テディ金山の発音には違和感はない。聴覚が発達した音楽家が言語習得を得意とすることはよくある話だ。
ともかく一九七二年〜一九七五年のあいだにテディ金山とぼくのおじは出会った。祖国を追われたテディ金山と祖父との折り合いが悪く家を飛び出したおじのあいだに通じるものがあったのかもしれない。「ダイアモンド・ヘッドのために泣かないで」のシングル盤のジャケットには、テディ金山とおじが写っている。中心にはラップ・スティール・ギターを膝に乗せてカメラに向かってスマイルを浮かべているテディ金山。わかりやすくオレンジ色のアロハ・シャツを着ている。その左後ろにおじはウッド・ベースを構えている。口を真一文字に結んで、無口なベーシストを装っているのか。衣装はグレーのスーツだが、ラペルの大きさと着丈の長さが時代を感じさせる。メンバーはほかにピアノとギターとウクレレとドラムの四人がいた。ウクレレのメンバーはアロハ(白地にヤシの木がモノグラムのようにたくさん描かれている)。ほかの楽器の担当者はおじと似たようなスーツを着ている。ハワイアン系の楽器はアロハで、ほかはジャズ・ミュージシャンのような衣装というコンセプトらしい。ふたつのバンドがたまたま集合写真を撮らされているような居心地の悪い写真だ。
このシングルをリリースしたあとのテディ金山とハワイアン・ウェイブスの活動には目立ったものはない。全国の健康センターや温泉地などを回るツアー(というと格好がつくが、要するに宣伝も兼ねた営業まわりだ)に出たようだが、一般的な評判は散々だった。バンドは八〇年頃には解散しており、テディ金山の消息はその後掴めていない。
ぼくが持っているシングル盤は、おじの遺品のなかから発見された。彼の終の棲家になったのは、郡山市にあった復興公営住宅の一室だ。そこで静かに亡くなっていた。震災とその直後の原発事故が起きる直前までは浪江町に住み、原子力発電所構内で清掃の仕事をしていたらしい。おじの死は葬儀のあとで事後報告のようにぼくに伝えられた。ほとんど会ったことがない親戚だったから(自分の結婚式の出席者リストにも入っていなかった)特別な感情はなにもわかなかった。
「おまえ、レコード集めてたろ。もしかしたら価値があるやつかもしれないから、今度送ってやるよ」
電話口で父はそう言っていた。結婚して三年経った頃だったと思う。まだ息子は生まれていなかった。しばらくして実家から送ってもらった米や野菜の荷物のなかに、そのレコードが入っていた。価値があるかも、というわりには輸送中の破損のリスクを考慮しない粗雑な梱包で、米がはいったビニール袋と段ボールの隙間に挟んだ茶封筒のなかにシングル盤が収まっていた。そのレコードの存在によって(血縁関係はないとはいえ)自分の家系にミュージシャンがいたことを知った。たまたまのめぐり合わせがなければ、テディ金山とハワイアン・ウェイブスについて耳にすることも、調べてみることもなかっただろう。
ほとんど絶滅危惧種といってもいいが、マニア大国である日本語インターネット空間には、今なお趣味人が個人サイトを運営し、自分の知識やコレクションについて更新し続けている。そのうちのひとつに「日本ハワイアン愛好会の部屋」がある。テディ金山とハワイアン・ウェイブスに関してぼくが知っている知識はそのサイト内にある「超珍品! ハワイアンとソウルのフュージョンは遅すぎたのか、早すぎたのか」というページに書かれている内容に大きく寄っている。ページの文末には「当サイトでは、この幻のバンドについての情報をお待ちしております」と一言書き添えてあった。管理人の名前は、ハナホウ・ジロー。ハナホウは、ハワイ語で「もう一度」の意味。ハワイアン・ミュージックの日本での復権を夢見るハンドル・ネームなのだと思う。ジローはなんだろう? 本名かもしれないし、ラーメン二郎かもしれない。それとも「鼻ほじろう」というダジャレか? ぼくはこの人物に次のようなメールを送った。
メールを送ったことも忘れていたころにハナホウ・ジローからの返信があった。
ハワイアン・ウェイブスのページを見ると《ベーシストの野原猪之吉さんが二〇一X年七月二七日にご逝去されたと御親族から連絡がありました。謹んでご冥福をお祈りいたします》と追記されていた。
張本さんはぼくの話を黙って聞いていた。胸の前で組んだ腕の左右を時々入れ替えながら、目線はずっとぼくの顔に向けられていた。
「よく調べていますね」
ぼくが知っているすべてを話し終えると張本さんは感想を言った。《今話してもらったことは、自分も知っている》。そんな口ぶりだった。
「でも、どうしてこのバンドのことを気にしてるんです?」
また立ち入るべきではない話題のような気がして聞けていなかった疑問をぼくは口にした。
ぼくの質問に張本さんは答えずに、机の上にあったドキュメントホルダーに手を伸ばした。中からでてきたのは、古いシングル盤だった。薄い透明ビニールの保護カバーにいれられている。間違いなくティディ金山とハワイアン・ウェイブスの「ダイアモンド・ヘッドのために泣かないで」だ。ジャケットは、ぼくの持っているものよりもずっと状態が悪い。マニアが大事にしていたというよりは、かなり頻繁に日常的レベルで聴かれていたような使い古された状態だ。Dマイナス、といったコンディション。この状態ならいくらプレミア盤でも五千円ぐらいで買えるかもしれない。
「実はね、このジャケットに写っている人のなかに、ぼくの父親がいるらしいんです」
「つまり……どういうことなんでしょうか」
ややこしい話になってきた、とぼくは思う。こめかみのあたりが緊張する。「いま、言ったとおりです。このバンドのメンバーにぼくの父親がいます。でも、だれかはわからない。そもそもそれが本当かどうかもわからない。このレコードはおふくろの形見です。話の真偽をはっきりさせないまま、おふくろは死んでしまいました」
「あの……それで……?」
「野原さんは今、プロジェクトにアサインされていなくて……時間が自由に使えるんですよね?」
話をズラされている。しかし、目線はずっとぼくの顔に向けられたままだ。
「……そうです。いまは自宅待機状態、アベイラブルってことですね。会社を辞めるとはまだ言ってないので、有給も振替休暇も残ってます」
「じゃあ、その残っている休暇を使い切って弊社に来ていただくなら、いつからになりますか?」
ぼくの頭のなかで計算がはじまる。
「そうですね、すぐに退職の手続きをするとしたら、ちょうど来月の頭には間に合うと思います」とぼくは答える。もしかしたら退職の交渉で話がこじれるかもしれない。まあ、そのときは強引に辞めちゃっても良い。あれだけひどい目に合わせてくれた会社だ。いきなりやめるぐらいの権利はぼくにもあるだろう。
「ということはあと三週間ぐらいはフリーに時間を使えるわけですか」
「ええ」
張本さんはまた腕を組み直す。
「野原さんにひとつお願いがあるんです。弊社に入社いただく前の時間を使って、ぼくの父親について調べてほしいんです」
(続く)
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