見出し画像

インシデンツ(1)

毎日同じ時間、同じスーパーに買い物にいくと、おそらくはぼくと同じように規則的な生活リズムに従って暮らしている人たちなのだろうけれど、そこで見かける赤の他人もなんとなく顔見知り風に思えてくる。店内にいる圧倒的なマジョリティは中年から高齢にかけての女性で、男性はといえば、すでに仕事をリタイアしている高齢者(彼らは自ら主体的にスーパーに赴いているわけではない。妻の付随物のようにそこに存在している)か、時間の自由が効く職業についていそうな風体の人物だ。
彼ら自由業者たちの代表として最寄りのスーパーでは、キレイな水色をしたスカンディナヴィア・デザインのセダンを運転する著名な芥川賞作家を三度目撃した。経済番組の司会もつとめるその作家は、地元産の葉物野菜を手にとってはしげしげと眺めてから手元のカゴにいれていた。そういえば、そのスーパー・チェーンの経営者も彼が司会する番組に出ていたような気がする。葉物野菜の根元あたりの断面部をつぶさにチェックして新鮮さを確かめる方法は、農家から直接品物を仕入れることで良質な品物の安価な販売を可能にしたその経営者から学んだのかもしれない。
このスーパーの近くにある高級住宅地には著名人たちも多く住んでいるから、周辺住人たちも目撃体験には慣れっこで、とりたてて騒いだり、無遠慮な視線を送ったりするようなことはしない。ただ、まったく気に留めていないわけではなく、むしろ、見ていることを相手に悟られない程度にはしっかりと観察している。ぼくのように著名人でもなんでもない男性こそ、ある種の注意深さをもった中年女性の気を引くらしい。
とくにひとり、不審者に強い注意を払うような視線をぼくに送る女性がいた。年齢は五〇代ぐらいだったと思う。身体の全体にまんべんなく肉がついていて、背が低く、短くした髪を黄色に近い金に染めた女性だった。顔には瀬川瑛子に似た雰囲気があった。いっとき、テレビのバラエティ番組でもよく見たけれど、あの頓珍漢な受け答えが癪に障り、画面に映るとすぐチャンネルを変えてしまったものだ。その《瀬川瑛子》だが、ホンモノの瀬川瑛子同様にいつも温厚そうな表情で買い物を楽しんでいるのが、ぼくの姿を見るやいなや、冷ややかなまなざしを浴びせてくる。《あの人、最近、この店でよく見るけど、どういう人なのだろう?》彼女から無言で送られてくる疑問符に当初は困惑したものだ。

ぼくが平日のスーパーをウロウロできた理由はいくらでも説明できた。その直前の三ヶ月にどれほどひどい目に会っていたかを知れば、《瀬川瑛子》も同情してくれたに違いない。

「この夏、ぼくは大変だったんですよ。少しぐらい休んでもいいでしょう?」 


その年の春、ぼくは丸一一年間勤めた保険会社を辞めて、ある中国系のコンサルティング・ファームに転職した。保険会社ではずっとIT部門にいた。学生時代の専攻がコンピューターとは無縁であったにも関わらず、そのセクションに長らく縛られていたのは、話し方が理屈っぽくてコンピューターにも強そう、という印象を人事に持たれていたからと推測する。それからメガネもかけていて、新卒のときはいまより八キロは痩せていた。オタクっぽいからコンピューターにも強かろう。大胆な人事部長ならそんな采配をするかもしれない。
実際、インターネットが日本で爆発的に流行した時期にたまたま実家でパーソナル・コンピューターを買っていたこともあり、コンピューターに触れている期間は長いほうだった。仕事には適正があったのだと思う。ITの仕事は、創造性よりも解釈と整理の地道な事務能力が要求される。こういう能力もぼくには備わっていた。本を読むのが好きだったし、その感想を日記に書いたり、話し合ったりするのはもっと好きだった。大学では理論社会学をやっていて、卒論もニクラス・ルーマンという難解で知られる社会学者の「行政学における機能概念」という論文を取り上げた。システム開発においてユーザーの要望を解釈し、システム化できるように整理するプロセスは、文献を読んで解釈し、整理するのと大きく違わない。それを理解するのには時間はかからなかった。
自分では認識していなかった適正を見つけられたぼくはそれから他人からの評価を素直に受け入れるようになった。
本当は、編集者かマスコミみたいなクリエイティブな業界で働きたかった。その方面にはまったく縁がなかった。いくつかの出版社は一次面接か二次面接まで進んでいたが、ぼくが面接で話す「入社したら作りたい本」(どこの出版社でも質問された)は、まったく面接官には刺さらなかった。「哲学をぼくらのような若い読者にもウケるパッケージで売り込める本が作りたいんです」みたいなことを言った気がする。「すごいですね」、「よく本を読んでいらっしゃるんですね」と言葉と表情が伴わない感想がいつも返ってきた。自分のやりたいことと他人から求められることの根源的なアンマッチがぼくの宿命らしい。
好きでも嫌いでもない(しかし適性はあるらしい)生命保険のシステム開発を続けているあいだ、ぼくはそこそこ良い評価をされ続け、学生時代から付き合っていた恋人が妻になったり、妻の実家の近くに家を買ったり、子供が生まれたりした。

順風満帆だろうか? しかし、そのキャリアは、九年目から大きく足踏みしはじめた。

変化のきっかけは、ずっと一緒に働いていた上司の入れ替わりでやってきた新しい上司とまったく反りがあわなかった、というよくある話だ。マイペースな仕事ぶりを認めてくれた元の上司と違って、営業の現場あがりの新しい上司のモットーは「バックオフィスやシステムは常に現場のことを考えて仕事しろ!」というものだった。
営業活動が収益の柱である保険会社にとって、そのスローガンは至極まっとうなものだ。とはいえ、システムが常に現場の言い分を飲み込んで自在に変化できるわけではない。というか、現場の短期的な視点から発生する要求事項が、長期的にはすぐに廃止になる機能や技術的な負債となる可能性は往々にしてある。むしろ、九年もシステムの仕事をやっていれば、そうしたリスクある要求には、まっとうな理由をつけて跳ね返す力が必要なはずだ
だが、そうした態度は新しい上司には、消極的で現場視点が持てないメンバーとして見えたらしい。露骨なパワハラなどはなかったが、ぼくの評価は優等生レベルから平均点レベルに格下げされるようになった。同期が受けていた主任から課長代理への昇格試験も、ぼくには受験資格さえなかった。面談のたびに上司からは「野原くんは、まだ現場のことがわかってない」とか「課長代理になるにはもっと積極的にチームを引っ張る力がないと」とフィードバックされた。
九年目、一〇年目、一一年目をその上司の下で過ごし、さすがにその評価を素直に受け入れ続けるわけにはいかない、と思った。
そのあいだ、上司が現場目線でねじ込んだシステム変更に、効果の見合わない工数がどれほどかかったか。そして、無駄だと知りつつも「現場からの要求を受け入れないほうが良い理由の説明」をするのにどれだけの時間を費やしたのか。
繁忙期でも三〇時間以内で収まっていた残業時間は、毎月五〇時間を超すようになった。それも「あいつは残業代を稼ぐのにダラダラと仕事している」という低評価の要因にもなっていた。学生時代から続けていた読書やトレーニングの習慣もそのうんざりする日常のなかでどこかに消えてしまった。ぼくは太りだし、知的な愉しみにも欠いた日々を送っていた。毎日最低最悪な気分で、毎朝会社に行きたくなかった。
三歳になっていた息子は、ぼくが食卓で「出勤したくねえ〜」とぼやくのを保育園で真似しているらしかった。妻からのその報告(というか本質的には苦情だ)は、ぼくの気持ちを転職へと駆り立てた。

転職活動は二ヶ月もかからなかった。転職エージェントに登録すると、向こうの方から選考を受けてほしいという声がいくつもあった。企業活動における情報システムの重要性が日に日に高まっている機運に乗じていたわけだけれど、なかでも金融業界のIT人材需要と供給のバランスは、売り手市場そのものだった。「お会いして弊社についてお話させてほしい」みたいな連絡をしてきた会社は、外資系の生保会社が二社、損保会社が一社、三つあるメガバンクはコンプリート……といった状況で、あまりのぼくのモテ具合に妻は「かぐや姫の婚活みたいだね」と言って笑っていた。
声をかけてきたのは金融系の事業会社だけではない。金融業界のクライアントをもつシステム開発会社やITコンサルからのアプローチはもっと多かった。金融業界でIT人材需要が高まっている、ということは、つまり金融業界のお客さんを相手に商売をしている連中も潤いまくっていたことを意味する。
金額的な条件は、ITコンサルの会社が一番良かったし、話も早かった。
「生命保険で一一年もキャリアがあるんでしたら、弊社は大歓迎です。マネージャー経験がないので、マネージャーでは採用難しいですが、野原さんのご経験ならすぐマネージャーに昇格できると思いますよ。年収はそうですね、来年には一〇〇〇万ぐらいになっているんじゃないでしょうか?」
コンサル業界のリクルーティング・スタッフは、どの会社も初回の面談から良い条件と将来像をちらつかせてきた。彼・彼女らの容姿やキャラクターはどれも判を押したようだった。
男性は、グレーかネイビーのストレッチが効く化学繊維のセットアップに、無地の白Tシャツ。足元はニューバランス。髪型は光沢がでるタイプの整髪料でセットしているか、清潔感のあるセンター分け。心理的な距離をすぐに詰めようとしているのか、相槌やリアクションが異常にデカい。こちらの話を理解できないときほど声が大きくなり「なるほどですね〜!」という声で会議室の壁が細かく振動した。
女性は、タイトスカート(丈の長さは年齢に比例して長くなる傾向にある)に、身体のラインがでるニット。胸は大きい。男性権力者が設定した女の価値が重要視された世界に最適化されたタイプ。パッと見では美人に見えるが「この人は自分の顔のこの部分がコンプレックスなのだろうな」と推測されるうる不調和を顔面のなかで表現しがちだった。たとえば、ある女性は目が離れているのを気にするあまり、目頭からラインを描きすぎてしまって大英博物館に展示されているエジプトの棺みたいになっていた。

転職先に選んだ中国系のコンサルティング・ファームでは、そうしたスタッフが登場しないのが好印象だった。単に日本法人を立ち上げて間もなく、採用も現場の人間が兼務しているだけだったのだが、最初から現場のマネージャーと話ができるのは、転職後のイメージを具体化するのにも良かった。小さい会社だったからスピード感をもって意思決定ができそうなことや裁量権をもって仕事をさせてもらえそうなところも魅力的だった。一〇年以上日本の金融機関の鈍重な意思決定プロセスのなかで仕事をしてきたから、一度ぐらい身軽な環境で仕事をしてみたいという気持ちになっていたのだと思う。給与の条件は他のファームと比べると少し落ちるが、マネージャーの経験がないのにも関わらず唯一マネージャーでのオファーを出してくれていたのも決め手になった。
「小さい会社なんだけどさ、頑張った分成果はでると思うし、今の会社で遅れている分を取り戻すには十分だと思うんだよね」と妻には説明した。


ぼくを高く評価してくれたのは、どうやら神田さんだったらしい。
「野原ちゃんみたいちゃんと保険会社で実績を積んできた人を採用しないと、これから保険業界でプレゼンスを発揮できないからね」と彼は言った。
クライアントのほとんどが金融関連だったその会社では、神田さんが現場の実質的な最高責だった。年齢はちょうど五〇歳。二〇年近く保険会社に勤務したあとで、保険会社を相手にするシステム開発やITコンサルティングの会社を数社渡り歩いたという経歴の持ち主だった。事業会社からコンサルティング業界へというキャリアの変遷は特別珍しいものではないが、神田さんはアクチュアリーの資格も保有している変わり種だった。取得には数学と統計の高度な知識が求められ、保険商品の保険料計算などをつかさどる(一般的にはあまり知られていないが)持っていたら食いっぱぐれることはないと言われる強い資格だ。
アクチュアリー志望の専用枠で保険会社に入社した数学科出身の人でも日本アクチュアリー会の正会員になるには五年〜八年とかかると言われている。その極めて狭い門戸を、神田さんは静岡県浜松市の営業所長時代に二年でくぐり抜けてしまった。酒好き・料理好きの大食漢で、最大限に太っていた頃に買ったというサイズのまったく合っていないスーツをいつも着ていた。しかしその冴えないオヤジ然とした風体に、天才的な頭脳が詰め込まれていた。丸顔の頭頂部には、空き家の庭に生えっぱなしになった不揃いな芝生のように髪が生えていて、鼻の横に太った女性の陥没した乳首のようなイボがあった。
会社の組織図上では、神田さんの上に社長がいた。この社長というのがまたクセの強い人物で夢を語るが現実を見ていないタイプだった。複数の保険会社を渡り歩いてきた業界では顔が利く(と自称する)社長は、これまで仕事をした相手や、元々所属していた保険会社とのコネクションを利用して仕事をとってきていた。しかし、その獲得案件は大抵他の会社が手を挙げない分野やプロジェクトばかりだった。会社のメンバーは危険地帯に首を突っ込まされては痛い目に会うことを繰り返していた。クライアントもこれまでの付き合いがあるから無下には断れず、臭い仕事ばかりを押し付けられている、というのが実情だったのだろう。
痛々しい炎上現場を抑えるのが神田さんの役目だった。五つや六つも現場を掛け持ちしていて日中は、タクシーで現場から現場を移動し、顧客に謝り、その場の解決策を提示してまた移動していく。火消しの専門家みたいなものだ。

その会社で初めて担当したプロジェクトは、ある生命保険会社の古くなったシステムをひとつに統合する大掛かりなものだった。ぼくたちのチームはそのうちのデータベース設計に関わるコンセプト立案を担当していた。ぼくは立ち上げ時のリーダーだった吉村という社員の交代要員だった。吉村は四〇代前半で、重度のヘビー・スモーカーで、会話すると色素沈着した歯茎の色と口臭がひどかった。いま考えるとその最悪な口元の印象もプロジェクトの戦況悪化によるものだったのかもしれない。メンタルとフィジカルは連動している。前月の長時間労働によって産業医から就業制限がでている、とか言っていたが、ぼくと入れ替わりにプロジェクトを離れられることを心底喜んでいるようだった。
「お客さんにどんな提案をしても、リアクションがないんです。良いのか悪いのかもわからないんですよ。そもそもぼくってずっと損保畑の人間だから生保のことはよくわからない。だからお客さんにも提案が刺さらないのかもしれない。ま、野原さんなら大丈夫でしょ! 若いし、なんか仕事できそうだし! 頑張ってくださいね!」
引き継ぎ会のなかで吉村は、口臭を撒き散らしながらまくし立てた。缶コーヒーとタバコのにおいが混じった悪臭だ。昔、息子が風邪をひいたときの排泄物のにおいを思い出させる。
契約期間は残り二ヶ月。このあいだに顧客に刺さる提案ができれば、契約は継続し、プロジェクトはもっと大きく成長するはずだった。保険会社のシステム刷新は、業界的にも成功事例が極めて少ないジャンルの仕事だ。返り討ちに合う可能性も高いが、やるだけやってみよう、と取り組んだ。

しかし、本当のところ、クライアントはぼくらになにも期待していなかった。

アーサー・プロジェクト。バブル崩壊後の経営難からの外資による買収、他社との経営統合、さらには過去のシステム刷新プロジェクトの失敗によって中途半端に稼働しているシステムなど、クライアント企業内部で一二個の契約管理システムが稼働していることにちなんだプロジェクト名だ。大本となったプロジェクトの青写真は、業界最大手の外資コンサルが描いていた。プロジェクトの完遂まで数百億の金がかかるこの一大事業は、計画を描いたところでプロジェクトの次のフェーズに進めるための予算が取れていないという事態に陥っていた。
プロジェクトを停止するわけにはいかないが、動かす金はない、という状態でとられた方策が、予算が取れるまでのつなぎの期間に外資の大手よりも安いコストで入れる業者に入ってもらい動いているように見せかけることだった。
その見せかけの働きをするのに呼ばれたのが、ぼくらのチームだった。仕事をとってきた社長がクライアント側の本意まで知っていたのかはわからない。しかし、良い提案ができれば、次に繋がるなんていう話は大嘘で、はじめから「次」は元々の青写真を描いた他社に決まっていた。ぼくらの働きが悪ければ「ほかの業者に任せてみましたがやはり大手のあの会社じゃないとダメなようです」という理由づけにもなるし、良い提案がでてくれば、アイデアだけいただいて他社に還元すればいい話だ。どちらに転んでもクライアントには都合が良かった。プロジェクトが止まって見えない報告させできれば、怒られなくて済むのだ。それに気づいたのは契約期間が残り三週間の時点だった。
プロジェクトのリーダーがぼくに変わっても状況は良くなっていなかった。無反応だった顧客からの反応は「こんな提案じゃダメ、使い物にならない!」という罵声に代わり、改善どころか悪化していた。「どこがダメなのか具体的に指摘いただけますか?」という要求には「高いコンサル・フィーを払っているんだから、それぐらい自分で考えろ!」という新たな罵声が返ってくる。しかし、提案を改善しようにも顧客からは統合対象となっているシステムの資料すらもらえない。材料がないのに器を作ろうとしているようなものだ。
「神田さん、申し訳ないですけど、このプロジェクトどうしようもないですよ。神田さんぐらい保険に精通している人のお墨付きが提案についていれば、お客さんも納得してもらえるかもしれないですが」
たまらなくなってあるときぼくは神田さんに相談した。しかし、相談するタイミングが悪かったのだろう。他のプロジェクトでも大炎上が続いており、神田さんがこのプロジェクトに介入する余裕はまったくないようだった。
「とりあえずさ、お客さんにはわたしのほうから謝っておくから、野原ちゃんも踏ん張ってみてよ」といって次の謝罪先に移動していく。
顧客は、結果が出ていないのに早く帰るなんて許さない、と言っていた。客の立場からしたら、そう言いたくなる気持ちもわかるのだが、使い物になる提案書を書くためのヒントもない状況でどうすればよかったのだろうか?  毎日、二二時過ぎまでプロジェクト・ルームにチーム全員が残り、提案書のファイルを眺めて過ごした。二二時すぎるとオフィスの電気が自動的に消灯される。それを合図にぼくらはシステムをログオフし、コンピューターの電源を落とした。これまでになく無為な業務時間の使い方だった。

コンサル業界に入って初打席となるプロジェクトでぼくは、心と身体を完全に分断させることを覚えた。顧客から罵倒されているのは、ぼくであって、ぼくじゃない。時間は有限であって、かならず終わりがくる。我慢していれば、このつらい時間も終わる。心を無にしてやりすごせば、いつか必ず嵐は過ぎ去っていく。契約の満了日の二二時。ぼくたちは逃げるようにしてオフィスを出た。

「なんかさ、転職しないほうが良かったんじゃないの?」と妻は言った。
まったくだ。ぼくは離人症を技術として身につけるために転職したんじゃない。しかし、地獄の釜茹ででいうなら、こんなのはまだ生煮えだった。アイドルが入るときの熱湯コマーシャルぐらいのぬるさだ。

(続く)

いただいたサポートでさらに良いアウトプットを出せるようインプットを高めます!