嫌だけどうれしい
何を選択するか
何を成すか
何になるのか
何をするのか
何をしたいのか
何をすればいいのか
そんな風な視点、姿勢でずっと過ごしてきて
「何」の部分は理想や想像、本や教科書、メディアや広告、人の目や他人の言動から学び、身につけて、実践することもできる。
それを「できるできないじゃない!やるかやらないかだ!」とか、
まだ本気だしてないだけ、とか、
スタートラインにたったとか、
中途半端とか、今さらとか、まだまだとか…
様々な言い訳のもとにやったり、やらないで済むように、
否、逃げ道を作り続けてきた、とも言えるのかな
けど
みるべきは「何」の方じゃないのかなと最近思えるようになった
何、というのが、今の私にはモノコト時間だと感じていて。誰、も含まれるかな
それが質量ということで
質量のない世界というのは
みるものが「何」ではない、ということが当たり前な世界
てことなのかな
なんとなく、少し前からマトリックスを見直していたり
知人の投稿で同じ感覚を感じたり
なんというか
いろんなことが重なっているように思えてきて
ここからは少し日にちをおいて書き足したところ↓
自分の居心地の悪さを避けて生きてきたけど
最近は居心地の悪さを求めてたりする自分がいて
例えば自分にストレートな言葉をぶつけてくれる人
今日まさにガツンとくる出来事があって悲しくて悔しくて涙でた
でも、なんか嬉しいな、とも感じるなーって気づいて。
現実や結果としては自分の望んだ形ではなくなったんだけど、その出来事で得た気付きという意味でのショックは、とてもありがたいものだなーと思った。
自分に必要なのはこれだなーって
こんな思いするのは嫌なんだけど、今まで避けてきたからこそ今からやってみようと思う。
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