かつて愛したルノアールのこと

五番街へ行ったならば
マリーの家へ行き
どんなくらししているのか 見て来てほしい
五番街で 住んだ頃は
長い髪をしてた
可愛いマリー今はどうか しらせてほしい
マリーという娘と
遠い昔にくらし
悲しい思いをさせた
それだけが 気がかり

1973年に発売された、日本のバンド・ペドロ&カプリシャスの代表曲「五番街のマリーへ」の一節である。作詞としてクレジットされているのは、日本を代表する作詞家・阿久悠。

僕はこの曲に、特に深い思い入れはない。ある疲れた夜の風呂上がり、ふるさと納税の返礼品として箱で手に入れた「よなよなエール」を飲んで、頭を弛緩させながら観ていたドラマの中でたまたま出てきただけだ。

ドラマの中に出てくる中年男性は、この曲を折に触れて口ずさんだり聴いたりしながら、昔の恋人の現在に想いを馳せる。彼の妻や娘たちは、この曲の歌詞に対して、男の勝手な独りよがり、自己陶酔だと断罪する。

僕もおおむね、彼女たちと同意見だ。しかし、バシッと断罪しきれない自分もいた。なぜなら僕の心の中にも、消そうとしても消しされない、“マリー”がいたからだ。


かつて愛したマリー。

僕はマリーを溺愛していた。どこの駅で降りても、某まさよしよろしく「こんなとこにいるはずもないのに」、ついつい探してしまう。何なら、Googleマップにその名を入れて検索しまうことも珍しくなかった。

一緒にいるときは、他では絶対に代替できない、とても上質な時間を約束してくれる。マリーと一緒にいて、まだ5分ほどしか経っていないと思い時計を見ると、数時間が経っている、なんてことはしょっちゅうだった。

正直に言えば、たまに浮気してしまうこともあった。そんなとき、マリーがいかに素敵で大切な存在か、ひしひしと痛感した。

そんなマリーに、僕は「悲しい思いをさせた」。「それだけが 気がかり」だ。今、マリーは誰と一緒にいるのだろう。マリーとその人は、果たして幸せな時間を過ごせているだろうか。




そう。僕にとってのマリーとは他でもない、「喫茶室ルノアール」のことである。

かつて僕は、ルノアールをこよなく愛していた。

間違いなく、ヘビーユーザーだった。個人商店で編集業を営む僕にとって、ルノアールはオフィスだった。電源とWifiが完備されているのはもちろん、定期的に店員さんがあたたかいお茶や水を継ぎ足してくれる。比較的高価格帯ということもあってか、騒ぎ立てる中高生などはほぼ見かけず、一人で静かに仕事や作業をしている人、人と一緒でも落ち着いてお喋りをしている大人たちばかり。主要な駅なら大体どこにでもあるし、店舗によっては、課金すれば半個室ブースや貸し会議室も使える。かつて松重豊が出演したCMで一斉を風靡した、とある名刺読み取りサービスのスキャナーが置いてある場所だってある。

ある人がこう言っていた。「ルノアールなんて高いだけでコーヒーまずいじゃん」。僕に言わせれば、問題外である。たしかにコーヒーは高いわりにそこまで美味しいわけではないが、それでも十分にお釣りが来る。なぜなら僕はルノアールで、コーヒーではなく、上質な時間や体験を買っているからだ。

とにかく、溺愛していた。正確に数えたことはないが、一週間のうち半分以上はルノアールに行っていたんじゃないかと思う。ドトールやタリーズ、スターバックスも嫌いではないけれど、仕事の場所という意味では、ルノアールに敵う店はなかった。

ルノアールは、僕にとって唯一無二の伴侶──であるはずだった。




結果として、僕はルノアールを裏切ってしまった。

最近は、どこかの街で仕事をする場所を探すとき、ルノアールは優先順位としては3番目くらいに凋落。月に1〜2回、行くか行かないかの関係性になってしまった。


なぜ僕は、ルノアールと疎遠になってしまったのか。

それは、あの人に出会ってしまったからだ。思いもよらぬ方角から訪れたその人に、僕の心は一挙に取りさらわれてしまった。僕はその人のことを、もとから知っていたし、ともに昼や夜を過ごしたこともあった。しかし、その奥深い魅力を、完全に見過ごしていた。その人の魅力に気づいたときは、僕の心がルノアールから離れる瞬間そのものだった。




そう、僕の新たな優先順位1位、ベストパートナーとして鎮座しているのは、「ジョナサン(COFFEE & RESTAURANT jonathan's)」だ。赤字に青い枠で描かれたロゴの、あのジョナサンだ。僕は今、どこかの街で仕事場所を探すとき、まずジョナサンを探すようになってしまった。あれだけ愛したルノアールを、探そうとすらしなくなってしまった。

ルノアールでは電源が使える席はまばらだが、ジョナサンはほぼ全席にある。ルノアールではお茶を継ぎ足してくれるとはいえ、640円でコーヒー1杯しか飲めないが、ジョナサンは単品でも399円払えばドリンクバーが利用できる。しかも、「季節のおすすめコーヒー」はゲイシャなど、ルノアールの数倍美味しいものが飲める。コーヒーに疲れたら、清涼飲料水の類はもちろん、ノンカフェインのものも含めて茶葉から飲めるお茶が10種類もある。ルノアールには数種類のパンやサンドイッチしかないが、ジョナサンはロゴに「RESTAURANT」を冠しているだけあり、もちろん食事だって和洋問わず豊富だ。仕事に疲れて夜になったとき、ルノアールでは酒が飲みたくなってもバドワイザーがあるくらいだが、ジョナサンにはビールやハイボールから、ワインまである。ルノアールにおつまみはないが、ジョナサンには豊富なアペタイザーがある。締めの炭水化物やスイーツだって充実している。

しかも最近は、なんと配膳ロボットまでいる。全ての注文がタブレットで完結するのなんて当たり前、「配膳」すらテクノロジーで代替しているのだ。しかも自らテックカンパニーだと称することなく、謙虚に淡々と、だ。はっきり言って、めちゃくちゃかっこいいと思う。DXDX言って何もしない企業は、ジョナサンを見習ってほしい。かつて巨匠アーサー・C・クラークが言った「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」の世界が、ジョナサンでだけは実現している。

2020年に全店廃止されてしまったが、かつては24時間営業もしていたから驚きだ。しかも、仕事に適したカフェが少ない地域にも、ジョナサンならあったりする。最近、たまたま何度か白金台を仕事で訪れることがあり、瀟洒な住宅街ゆえにドトールはおろかタリーズやスタバですらなくて困ったが、なんとジョナサンはあった。ジョナサンがなければ仕事場難民になっていたところを、救われた。シロガネーゼですら、ジョナサンには行くのだ。

強いて欠点を挙げるなら、ジョナサンのWifi「.Wi2_Free_at_[SK.GROUP]」は1時間ごとに切れるが、そもそも仕事用にiPhoneのテザリングを大容量にしている僕には痛くも痒くもない。ルノアールよりは店の中がザワザワしていることは事実だが、AirPodsという相棒がいる僕にとって、さしたる問題ではない。

僕という人間にとって、ジョナサンの完全勝利であることは明らかだった。ルノアールから足が遠のくのは、抗えない物理法則そのものだった。




しかし、人間とはほとほと自分勝手な生き物である。

ジョナサンでゲイシャブレンドを飲んでいるとき、ふと思い出してしまうのだ。かつて愛し、日夜をともにしたルノアールは、今頃どうしているのだろうと。僕という大ファンを一人失って、咽び泣いてはいないたと。ほんとうに、自意識過剰で自分勝手である。

ここに、件の歌詞を再掲しよう。マリーをルノアールに置き換えると、ジョナサンでノンカフェインのそば茶を飲みながら一息ついている僕の、とても自分勝手で自己陶酔的な心情そのものになる。

五番街へ行ったならば
マリーの家へ行き
どんなくらししているのか 見て来てほしい
五番街で 住んだ頃は
長い髪をしてた
可愛いマリー今はどうか しらせてほしい
マリーという娘と
遠い昔にくらし
悲しい思いをさせた
それだけが 気がかり




ただ、これもまた自分勝手以外の何者でもないのだけれど、最後に一つだけ、言い訳をさせてほしい。

誤解を恐れずに言えば、僕はジョナサンという最大の伴侶を得た今でさえ、ルノアールを愛している。ルノアールでしか得られない快楽が、間違いなくあるのだ。

私見だが、ルノアールには”四天王”がいると思っている。

一に、昆布茶。ルノアールの飲み物の中でも段違いに美味しく、コーヒーを飲み疲れた胃を癒やしてくれる昆布茶。デフォルトでおかきもついてくる。しかもなんと、罪なことに”塩”が一緒に運ばれてくる。これを昆布茶にふりかけて飲むと、罪悪感と快楽で脳がはち切れそうになる。毎日やっていたら早々に身体を壊しそうだが、数ヶ月に一度なら許されるはずだ。ちなみに、ルノアールはその歴史を紐解くと、今から60年近く前の1964年、有限会社花見煎餅というお煎餅の会社の、喫茶部門を分離独立させたのが発祥だという。昆布茶とおかきという組み合わせは、ルノアールがDNAレベルで得意としている伝統芸能なのだ。これは、いかにドリンクバーに種類豊富なお茶を取り揃えるジョナサンでも、全く歯が立たない。

二に、アイスココア。ルノアールのアイスココアは、ココアそのものがミルキーで脳天モノなのはもちろん、なんとバニラアイスが乗っている。あたたかい季節、取材や打ち合わせの後で疲弊しきった身体にこれを投入すると、天にも昇る気持ちになる。カフェインに疲れたときの代替選手としても、とても優秀だ。

三に、ハニートースト。これは人気の高いメニューなのでファンも多いと思うが、こんがり焼けたあたたかいトーストにたっぷりのはちみつがかけられ、さらには北海道クリームチーズまで添えられてくる。カロリー爆弾を体現したような食べ物なので容易には手が出せないが、間違いなく高い満足度が得られる一品だし、仕事に使える店でこのレベルのハニートーストを出す店を、少なくとも僕は、寡聞にして知らない。

四に、モーニングAセット。ルノアールでは、通常のドリンクメニューに60円〜200円ほど追加すると、ゆで卵とスープ、さらには何かしらのパンがついたモーニングセットに変更することができる。60円のAセットだとパンはバタートーストで、数十円ずつ課金してグレードを上げていくごとに、パンがフォッカッチャサンドやサンドイッチへと昇進していくのだが、個人的にはAセットのバタートーストがたまらなく好きだ。バタートーストのお手本のような、じんわりとバターが染み込んだ熱々の厚切りトースト。ゆで卵とスープもついて60円とは破格である。しかもモーニングと言いつつ、12時までやっているのもポイントが高い。



色々と未練がましく並び立ててしまった。

書いていて気づいたが、やはり僕は、浮気症と言われようが、自分勝手だと言われようが、ルノアールが好きだ。ジョナサンという最高の伴侶を手に入れた今でも、たまには足を向けて”四天王”に会いたくなる。

「どんなくらししているのか 見て来てほしい」「今はどうか しらせてほしい」などと他人任せにする必要はない。

会いたくなったら、足を運べばいい。自分の足で、マリーに会いに行けばいいのだ。

[了]


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