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日常と祝祭。その二項対立を解体する、カネコアヤノという示唆について

僕たちの暮らしとドーピングは、切っても切り離せない関係にある。

ドーピングとは字義通りには「スポーツ選手が競技出場前に運動能力を増進させるための刺激剤・興奮剤などを服用すること」だが、ここではもう少し広く捉えることにする。スポーツ選手ではない僕のような一般ピープルが、思考能力やモチベーションといった精神的なパラメータを高めるために、なにか「刺激剤・興奮剤などを服用」することもドーピング、としておく。

眠気覚ましのコーヒー、踏ん張り時のエナジードリンク、気分を切り替えたいときの一服(僕は吸わないが)。あまり大きな声では言えないが、仕事が山積みだけれど何をしてもどうしても気力が出ないとき、少量のアルコールとカフェインを摂取することで、いっときの刹那的なエネルギーを得ることもある(アルコールの量を少しでも間違えると惨事になるし、身体への負担も少なくないだろうから、基本的にはおすすめしない。やるとしても、本当に非常時の最終手段だ)。それから自己啓発書を読んで自分を奮い立たせること、ライバルの活躍をあえて目にして刺激を受けること、未来の楽しみやワクワクを想像することだって、一種のドーピングだ。日々の雑事から離れて、気のおけない友達と我を忘れて時間を過ごすことも、日々の活力をチャージすることにつながっているだろう。旅行やお祭り、バカンスだってドーピングの一種ともいえる。

僕たちは、嗜好品にせよエンターテインメントにせよ、自分なりのドーピングを駆使しながら、なんとか日々をやり過ごし、いくつもの山場を乗り越えている。

もちろんドーピングには副作用もある。カフェインを摂取し過ぎると頭が痛くなるし、アルコールはもちろん数時間後の倦怠感、量が過ぎればあのおぞましい二日酔いを引き起こす。自己啓発書に頼って得たモチベーションは、本当にやりたいこと/やりたくないことに対して、僕たちを盲目にさせるだろう。ドーピングばかりに頼っていると、正気と狂気の境目は曖昧になる。自分が何者なのか、見失ってしまう。気づけばドーピングなしには、何も手を動かせなくなってしまうかもしれない。

しかし、それでも僕たちにとって、完全にドーピングを手放すのは至難の業だ。ドーピングなんてしなくても、やる気がなくなったら休めばよい、とある人は言うかもしれない。しかし、僕らの大半は、そこまで自己完結して生きられるほど強くはない。一部の限られた人を除き、仕事や生活を大過なくこなしていくだけでも、何らかの負荷がかかる。それをときには自分にとっての自然な状態を引き伸ばしてでも乗り越えねばならないときはある。ドーピングが禁じられたら、僕のような凡人は、生きるためのよすがを失ってしまう。




ドーピングの一つとして、「音楽」を用いるケースも少なくないだろう。気持ちを奮い立たせる、あるいはテンションを上げるためにお気に入りの曲を聴くという営みは、とてもありふれている。

中でも、好きなアーティストのライブに参加することは、多くの人にとって、とっておきのドーピングになるはずだ。祝祭の空間に身を浸すことで、しんどい日常をしばし忘れ、日常を乗り切る活力をもらう。僕だって、そうしたドーピングに何度も頼ってきた。たまの祝祭でエネルギーをチャージし、日常へと帰っていくこと。ハレとケを往還しながら生きていくこと。それは人として、当たり前の所為だと思っていた。ドーピングは人間にとって、不要不急の対極にある生活必需品なのだと、そう信じて疑わなかった。




「いっとき日常から離れて、祝祭に身を委ねることで、日常を生き抜く活力をもらう」──そんなドーピング的な営みに対して、僕が疑いのまなざしを向けるようになったのは、今をときめくシンガーソングライター・カネコアヤノに出会ってからだ。

正直に言えば、僕はどちらかといえばこういうサブカルっぽいものには距離を感じてしまうタイプだったのだけれど、彼女の音楽には、そういうくだらない自意識もろとも全て吹き飛ばす、圧倒的な力があった。20代も終盤に差し掛かると、少し斜に構えて、幾ばくかの諦観とともに音楽に接することが作法かのようにも錯覚してしまうが、初めて音楽に心を動かされた、あの頃に戻してくれるほどの、爆発的な熱量。「イケてる」や「かわいい」、ましてや「エモい」なんかじゃとてもじゃないほど形容しきれない、その魅力を言語化しようとすればするほど言葉という不自由なツールのもつ限界を思い知らされる、地球の芯から湧き上がってきたかのようなエネルギー。

彼女の魅力を語っているとそれだけで夜が明けそうなので、ここでは少しそれについて書いた、昨年末のブログを引用するにとどめておく。

なぜそんなに惹かれているのか、言語化はなかなか難しいのですが、できるだけ頑張って私見を述べます。

まずとにかく、典型的なライブアーティストで、ライブパフォーマンスがほんとうに素晴らしい。めちゃくちゃデカくて存在感があり、攻撃的な歌声。本当に気持ちよさそうな表情でかき鳴らすギター。あんまり良い語彙が出てこないのですが、マジでかっこいい。うまいでもなく、かわいいでもなく、かっこいい。MCはほとんどせず、淡々と演奏をこなしていき、でもライブ中一回だけするMCシーンではゆるくお茶目に、来場者の健康を気遣ってくれる。ものすごいエキサイティングでありながら、とてもじんわりと心温まる、奇跡的な時空間が成立している。何度足を運んでも、まったく飽きる気配がないどころか、毎回新たな感銘を受ける。

そして、エネルギッシュでパンキッシュに歌い上げるにもかかわらず、その内容は一見まったく攻撃的ではなく、むしろ「日常の些細なものごとを大切にしよう」的な世界観であるというギャップ。「ていねいな暮らし」的な権威性とは無縁で、ある意味で凡庸な、インスタントコーヒーや洗濯物に見出す詩情。それをとても攻撃的に歌っているさまからは、生活を自分なりに組み立てて味わうこと、それこそが最強のカウンターなのだと伝わってくる。先ほども少し触れたように、今年は花森安治の文章を集中的に読んだりもしたのですが、「暮らしという抵抗」を大切にしている点で、共通した精神性を感じました。

凡庸な暮らしを愛おしむということは、日常と祝祭という二項対立を解体することも意味している。しんどい日常と、そのストレスを発散するための祝祭という対立ではなく、日常の中にこそ祝祭を見出し、祝祭を日常に組み込んでいくこと。2021年11月29日、初の武道館ライブでは、最後のアンコール曲として演奏した「アーケード」という曲が始まった瞬間、会場の照明が一気にパッとついて、それまで座っていたフロアの全員が自然と立ち上がった。そのとき、まさにライブという祝祭のピークポイントが、明るい照明という日常の中で訪れて、日常と祝祭の境が溶けたような感覚になったのをよく覚えている。




さて、ここで話題にしたいのは、引用部分の最終段落。日常と祝祭という二項対立を、解体するということだ。

彼女の音楽、ライブパフォーマンスを浴びていると、「日常からいっとき離れてライブを楽しみ、しんどい毎日を乗り切る活力をもらう」という考え方は間違っているのではないか、と思わされる。それに気づいたのは、ある彼女のライブの帰り道。かつての渋谷公会堂だったLINE CUBE SHIBUYAを後にして、余韻に浸りながら駅を目指していると、「これで明日からまた頑張れる」という声が聞こえた。会話の節々から、いかにも古参ファンという感じがにじみ出るその声の主に少し反発したいという子どもじみた気持ちがあったのは事実だが、その言葉に概ね同意しながらも、一筋の違和感を覚えたのだ。

「これでまた明日から頑張れる」──それじゃ、週末に行くスーパー銭湯みたいじゃないか。いや、スーパー銭湯は大好きなのだけれど、なかなか平日には行けない。つまり、典型的なハレの場である。彼女の音楽は、ハレの場だけにとどめていいものなのだろうかと、違和感が沸き起こってきたのだ。

彼女の音楽からは一貫して、日常と祝祭を切り分けず、日常を祝祭として捉えるスタンスが伝わってくる。彼女が讃えるのは、洗濯物が揺れるさまを眺めることであり、コーヒーにミルクが溶けてゆく名前のない快楽だ。自ら選んだ人と友達になり、屋根の色を自分で決めることで、燦々とした気持ちでいること。それが彼女にとっての最優先事項であり、それは祝祭というドーピングに頼らずとも、日常性そのものに深く潜り、拡張していくことだ。日常と祝祭、ハレとケ。その二項対立を解体していくことこそ、彼女がその、生活を愛おしむことをものすごくオラついてパンキッシュに歌い上げるという特異な音楽の中で、叫んでいることなのではないか。




例えばそのスタンスは、現在の彼女の音楽性の出発点となっており、事実上のデビューアルバムとされる、2018年4月25日に発売された『祝祭』によく表れている。

まさにアルバムタイトルに「祝祭」を冠しているわけだが、お祭りやパーティーの話は、基本的には一切出てこない。いやむしろ、積極的にそうしたハレの言葉を拒んでいるようにすら思える。驚くほど、ケの言葉で彩られたアルバムになっているのだ(そしてそれは、このアルバム以降のほぼ全ての作品に通底している)。

まず、アルバムのタイトルを「祝祭」と銘打っていながら、1曲目のタイトルは「Home Alone」。こんなこと、あっていいのだろうか?

ホームアローン
この暮らしにもようやく慣れてきた
手遊びが大きくなった
今でもなおらない

いつもどおりだよ
カバンの中身
傘がいるらしいけど
手がふさがるしいらない
ただの予報だよ
良い子にしていれば
大丈夫な気がしてる

こんな歌い出しで始まる「Home Alone」。この取り留めもない、むしろ日常性の極みと言えるような歌詞から「祝祭」と題するアルバムをスタートするなんて、誰が予想し得ただろうか。いわゆる日常から離れたものとしての祝祭とは、まったく正反対のイメージを突きつけてくる。日常そのものが祝祭なのだと言わんばかりに、高らかに歌い上げる。日常こそが祝祭であり、祝祭すなわち日常という、彼女のスタンスを端的に表していると言えるだろう。

このアルバムはその後も同様に、一見すると日常一辺倒、まったく「祝祭」感のない世界観が展開されていく。

洗濯物を入れたり、未読の漫画を読んだりする日々を抱きしめる「恋しい日々」。クローゼットの中で一番気に入っているワンピースを着て出かけ、帰りには焼き肉を食べ、明るい明日(未来ではなく”明日”であることがキモだと思う。未来はいつ来るかわからないが、明日は生きてさえいれば、必ず訪れるからだ)を確信することの美しさを描いた「エメラルド」……そして最後は「祝日」という曲で〆られる。つまり、彼女にとって祝祭とは、日常と切り離されたものではなく、平日や土日といった日常と隣合わせのものでしかないのだ。




こうして彼女の思想を浴びているうち、ライブという祝祭を、日常と切り分けて考えることに、違和感を覚えるようになった。もちろん、彼女のライブには首都圏でやっているものはできる限り行くようにしているし、行けばかならず圧倒されるのだが、手放しに「さぁ、これで明日からも頑張ろう」と思えなくなってしまった。

それはもしかしたら、祝祭を純粋に祝祭そのものとして味わえない、とても寂しい状態なのかもしれない。

でも僕は、日常と祝祭をあえて分けないこと、祝祭でドーピングせずとも生き抜ける術を探すべく、もがいてみたいと思っている。

繰り返すが、僕たちのほとんどは、ドーピングなしに生きられるほど強くはない。しかし、毎日の取り留めもないワンシーンから、日常と祝祭を解体する彼女のスタンスからは、ドーピングなしに生きること、日常そのものを祝福できるようになることへの予感が伝わってきて、ワクワクさせられる。









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