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地元に友達がいない──川崎ノーザン・ソウル的リアリティ、サミットという「歴史」について

僕は地元に友達がいない。

親が転勤族だったから地元がそもそもない、というわけではない。保育園から大学生まで、徒歩圏内での小さな引っ越しはしたものの、基本的にはずっと同じ街に住んでいた。

いや、「いない」は言い過ぎか。知り合いはいる。いちおう連絡先も知っている。ほんとうに珍しいケースではあったけれど、小学校の頃の友達と、大人になってから盃を酌み交わしたことはある。

でも、少なくとも、実家に帰るついでに大体声をかける友達や、定期的に会って近況報告をしあうような友達はいない。もちろん、友達じゃなくて先輩や後輩も。

別に、地元の人が嫌いなわけでは一切ない。むしろ、もう少し旧交を温めたい気持ちのほうが強いし、気軽に声をかけられる友達が欲しいなと感じることもある。

しかし、とにかくいないのだ。地元に友達がいない。それはたしかな事実として、僕の人生に横たわっている。






生まれ育ったのは、川崎。磯部涼『ルポ川崎』で描かれているような、ヒップホップと工場の街である“南部”ではない。小田急線沿線で、僕が生まれる少し前に開発されるまでは山の中だった、歴史の浅い街。近くには多摩ニュータウンもあり、渋谷や新宿、丸の内まで1時間以内でアクセスできる、典型的なベッドタウン。周辺で最も大きな街の駅前には、風俗店はおろか、カラオケすらほとんどない。よく言えば小綺麗で清潔、悪く言えばひだがなく空虚。自身も川崎北部出身のオザケンが、その空虚なニュータウン的な精神性を「川崎ノーザン・ソウル」と揶揄したと言われる地域。僕が育ったのは、そんな街だ。

小学生の頃までは、それなりに地元に友達もいた。子どもならではのクリエイティビティを発揮し、街の中にある面白い場所を探し出していた。団地が並ぶ合間の小さな裏山にささやかな秘密基地を作ったり、普段は行かない少し遠くの団地まで出かけて、今思えばものすごくしょうもない謎のサスペンスドラマを撮ったりしていた。中学受験のための塾に通うようになってからは、隣町の小学校の友達もできたりして、「地元」の範囲が拡張していった感覚があった。

しかし、小学校を卒業し、鎌倉の中高一貫校に通うようになってから、地元はただの「家がある街」になった。小学校を卒業した直後はたまに会っていた旧友とも、次第に疎遠になった。

もちろん、寮生活というわけでもなかったので、毎日地元の最寄り駅を利用し、地元にある家に帰っていた。一人で買い物をする街としては地元の街を利用していたし、定期試験の前は地元の図書館やファストフード店にも通った。だから、物理的に地元を離れたというわけでは、決してなかった。

でも気づけば、ふだん遊ぶ友達は、同じ中高に通う、別の街、地元ではない街に住む友達になっていた。通っていた小学校は一学年に50人程度とそこまで大きなサイズ感でもなかったので、地元の街を利用はしていても、かつての同級生にばったり出くわすことはほぼゼロ。こうして僕の地元は、人に会う街、誰かとコミュニケーションを取る場所ではなくなり、ただの「家がある街」になった。






気づけば僕は世間的には大人とみなされるような年齢になり、実家を出て、川崎を後にした。都内に住んだこともあったが、いまは横浜に住んでいる。川崎は、(実家はあるものの)「家がある街」ですらなくなった。たまに実家に帰っても、家で家族と話す以外に、取り立てて声をかける友達もいない。相変わらず、近くの駅や駅前の店で、知り合いにばったり遭遇することもない。

話はそれるが、実家を出たことで地元の街が相対化され、それまでに気づかなかった魅力に出会えたという副産物はあった。実際、実家を離れてから初めて、通うようになった地元の素敵な店がいくつもある。ただ、それもあくまでも人ではなく「店」という場所がベースとなっていて、「地元に友達がいない」事実は変わらない。






最近、このことを強く実感させられる出来事があった。

ちょうど数日前、仕事で知り合った友人たちと、そのうちの一人の実家である温泉宿のある、(おそらくそんな縁でもなければ決して訪れることがなかったであろう)東北の小さな地方都市に小旅行に出かけた。その土地ならではの食と酒を堪能し、友人たちとも文字通り朝から晩までいろいろな話をして、とても充実した旅だった。

ただ、個人的にひとつ、とても印象に残ったことがあった。その街は、「地元の人はほとんど友達」だったのである。

いや、「ほとんど友達」は言い過ぎかもしれない。でも、たしかに僕の目には、その友人は街の中に友達や、その友達の知り合いがたくさんいるように見えた。

電車に乗れば、かつて公文式で一緒だったという人に遭遇する。近くのコンビニに入れば、小学校か中学校だかの同級生が店員をしている。昼食を取ったうどん屋の御曹司は、知り合いの知り合い。ふらりと訪れたスナックのママも、のちにその友人の父親と古い知り合いであることが判明する──。

「地元に友達がいない」街、どこを歩いても匿名性の中に紛れられる街で生まれ育った僕にとって、衝撃の光景だった。

もちろん、僕も仕事で地方創生系の企画に関わったり、いろいろとものを読んだりする中で、都市部と比較していわゆる”地方”と呼ばれる地域に、そうした匿名性が限りなく低い街が存在することを、頭では知っていた。それはときに「心温まる地域コミュニティ」という言葉で称揚され、ときに「地縁的共同体」や「ゲマインシャフト」という言葉で分析され、ときに「ムラ社会」という言葉で批判される。自分が生まれ育った街とは違う、そうした地域が存在することを知識としては知っていたし、そうした地域を出身にもつ知人も少なくない。同行したもう一人、別のもっと小さな地方都市出身の友人は「田舎あるあるだよ」と言っていた。

でも、こうして具体的な固有名を持って、「●●の友達」という固有の顔を持って、まざまざとそうしたコミュニティを目の当たりにしたのは、これまでほとんどなかったかもしれない。「これが、あれか」。滞在二夜め、なぜか二日連続で訪れることになったその街の小さなスナックで、前日も遅くまで深酒して疲れ切った肝臓に、またたくさんのアルコールを流し込んで麻痺させ、ほろ酔いになってきた頭で、その友人とママが繰り広げる「知り合い」トークを聞きながら、僕はなにかを少し理解した感覚になっていた。地元と生きること、街の歴史と生きることとは、こういうことだったのかと。





むろん、僕はこうしたあり方を「人間らしい関係性」と称揚する気は毛頭ない。それゆえの閉鎖性や生きづらさがあることを概念レベルでも知っているし、その”具体例“としての生々しい話も、その場でいくつも聞いた。「友達がいない地元」で生まれ育った僕がその街になじむのは、おそらく難しいだろう。

でも同時に、”前時代的”だとか“封建的”だとか乱暴な言葉で片付けようなんて気も、まったくしない。かたや東北の小さな地方都市、かたや川崎北部のベッドタウン。それぞれに固有のリアリティがあり、それぞれで固有名を持った人々が、決して代替不可能な、生と死の連鎖を起こしている。どちらが前時代的で、どちらが進んでいる、などない。ただ、それぞれがあるだけだ。

念のためことわっておくが、小さな地方都市にも首都圏のベッドタウンにも、それぞれ解決されるべき政治・経済・文化(など)上の”課題”があり、それらに取り組むことは紛れもなく必要である。現状維持でいいと言っているわけではない。しかし、そこにたしかに存在する固有の暮らしをまずは知ること、受け止めること、それがどういうことなのか、片鱗を感じ取れた気がするというだけだ。






もう一度、繰り返す。

僕は地元に友達がいない。

それは厳然たる事実であり、僕にはその東北の街にあったような、友達や「知り合いの知り合い」だらけの地元はない。

しかし、それでも川崎北部は、僕の地元として厳然と存在している。

そして、歴史の浅い街であっても、それがたった数十年のスパンだとしても、たしかに歴史はある。

例えば、僕にとって最初の”お店”の記憶は、5歳まで住んでいた集合住宅の近くにあった「サミット」だ。

そこで僕は初めて「買い物」という営みを知った。そこで僕は、何のシールが出るか楽しみにしながら、ポケモンパンを買ってもらった。そこで僕は、初めて迷子になって、世界に一人取り残されることの怖さを知った。

その後、近隣の別の小さなマンションに引っ越してからは、そのサミットからは足が遠のくようになった……というより、気づけばそのサミットは「ポプラ」になっていて、いまではまた別のスーパーチェーンになっている。

でも僕は、いまでもそのかつてサミットだった場所の近くを通ると思い出す。迷子になったときの、あのどうしようもない絶望感と心細さを。

それが紛れもない、僕にとっての街の歴史である。たとえ地元に友達がいなくても、僕にとっての地元は、たしかに存在し続けている。

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