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京都の秋がはじまる

昔住んでいた場所を訪れたときのどうしようもなさに、名前がついていませんように、と願っている。

不在の間に流れていた見えない時間の重みと、その中で変わらずそこにあり続けたものへの羨み。そこら中に散らばる記憶の断片に押し潰されて、動けなくなったときに感じるどうしようもなさ。それは心をぎゅっと締め付けるけれど、ほんの少しだけ、角度が浅くなった秋の日差しのように優しさを含んでいるときがある。あの複雑な心の機微に名前をつけるなんて、そんな馬鹿げたことを過去の誰かがしていませんように、と願う。

*

京都は美しくて、そしてやっぱり懐かしい。

鴨川にかかる橋を渡って、見える風景の全てが切なかった。深煎りのコーヒーをクッと体に流し込んだとき、舌の上に残る切なさのようだと思った。誰に言っても理解されないような、それでいて全員が確実に隠している、そんな感情を京都はちゃんと知っている。そしてそれをいとも簡単にほどいて、私の目の前に差し出してくる。

二年ぶりに訪れたカフェの、WiFiを携帯が覚えていた。すこしぎこちなく、表示される見知ったそのマーク。久しぶりに再開する友人と、なにを話せばいいのか思考を巡らせているようだと思った。

あの日のこのカフェで、私は何を食べて、何を考えて、何を思っていたんだっけ。もう思い出せないけれど、ワンピースを着ていたことだけは覚えている。好きだった人が可愛いと、似合うねと言ってくれた青いプリーツのスカート。

あの頃、私が京都を去ったあの夏、もうここに住むことはないだろうと思っていた。そして一年を少しすぎたこの秋に、やっぱりここに住むことはきっとないと思った。とてもとても住みたいと思うけれど、なんだかそういう縁が、私と京都の間にはない気がするのだ。

帰りの新幹線で、昔同じ車内で書いた拙い文章のことを思った。あのときは往路だった、東京行きの新幹線。少なくともあの文章は私の人生を変えたし、(大袈裟?)でもその前から、種はまかれていたんだろうなとも思う。だから私の人生を変えたのは、別にその文章だけじゃなくて、ところどころで意図的に進む道を大きく逸らしたことや、その中で気づかないほどに小さい石を蹴ったことも、全部含まれていたのだろう。それらは色んな角度から、私の人生を変えたり、捻ったり、ねじ曲げたり、伸ばしたり。もしくはもともとそうなるように仕組まれていたり。そうすると、変わったという言葉はあわないのかな。もしかしたら、京都に住む人生も、そこにはあったんだろうか。それは少し惜しいかも。でも結局、どんな人生も、私は等しく、暖かい温度で好きだったと思うよ。


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