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風邪ひいちゃった

時間がないことを理由に掬われず落ちていく思考の数々が、きっと私が今歩いている駅のプラットホームにはたくさん転がっているのだろうと思ったことがあった。見えないだけでそれらは確かに存在していて、高速でやってくる電車の風圧に吹き飛ばされ、積もり、そしてまた吹き飛ばされていく。

やらなきゃいけないことは何も終わってないけれど、膿のように溜まった体の中の何かをきゅっと絞り出してあげないと、このまま腐ってしまうんだろうなと、急に怖くなったので書いている。自分のなかに言葉が全然なくて怖い、稚拙だ。

豊かで愛おしい生活なんてクソくらえだと思った。あの時期、大好きな人たちと一緒に住んでいたあの時期以外、小さな部屋は私にとってただ寝るための場所であり、ミニマリズムの流れに反して膨れ上がった大量の持ち物を保管する場所であり、ただ淡々とすぎていく日々をじっと待つための場所になってしまった。

そんな気持ちで生きていたら、夜眠れなくて、朝起きれなくなった。前もそうなったことがあったなと思った。夏場に買ったブランケットだけで冬を越えようとしているので、エアコンの暖房をガンガンにつけながら生活している。そしたら喉が痛くなっちゃって、ついに鼻水が止まらなくなった。久しぶりに風邪をひいた。私もまだ、風邪をひいたりするんだなと思った。

私の歩く速度より、日々の流れのほうが早くって、ここ最近のことを覚えていない。なにをしたのか、カメラロールを遡らないとわからない始末。そのうえ写真をたくさん撮るほうではないので、本当にわからなくなる。最近は気がついたら12月になっていた。本当に、気がついたら。

「はしまや」というタイトルのメモがあり、去年の夏から日々のあれこれを書き留めている。久しぶりに見たら、最終更新日は2ヶ月前だった。ということは、私は2ヶ月間、何も感じていなかったんだな。何かを学ばずに生きていることは死んだも同然だと言った人がいたけれど、何かを感じずに生きることも、同じく死んでいるのだと思う。

久しぶりに会った友人が、「東京は情報が多すぎるから、頭にいろんなことが一気に入ってきて、感じることができなくなっていく」と言った。新宿だった。彼女がそう言ったその瞬間でさえ私の意識は目上の巨大なサイネージ広告に向けられていて、もう何も言えなかった。

新しく何かを感じることはないけれど、何かを思い出すことは多くなった。これら全部をまとめて形容はできないけど、すこし隙間のあいた時間だったんだろうと思う。初めて私の文章を表現とよんでもらったときのこと、たとえ幸せじゃなくても大丈夫でいてほしい人とのこと、丘から見た21時の夕日、夜な夜なラム肉を焼き始める同居人、足を止めざるをえなかったターナーのあの絵、キャンパス中に咲いていたマグノリア、わけがわからなくなるまで酔っ払ったあの夜、フィレンツェの小さいホテルのロビー、誰もいないベンチで飲んだあつあつのドリップコーヒーと朝焼け、いつか読んだ本の書き出し、「来年も生きてる」というあの歌のフレーズ、ピンク色の花束、誕生日に食べた中華、飛行機の中で泣いた映画、車窓から眺める夏のヨーロッパ、白いうさぎの体温。

そういう時間を過ごしたいのは、その時間を過ごしたという事実に支えられて生きていける日々がその先あるからだと、そんなことを思い出していた。



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