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わたしを離さないで

春って残酷だ。なんの思い入れもない桜を眺めながら「綺麗だね」と口にして、でも心の中ではずっと絶望している。今朝、起きたらぼんやりと、だけど確実に世界が全て変わってしまったような気持ちになった。それは桜が咲いて散っていくことのように、意味もなく悲しいこととして私を虚無で包んでいく。どこにいても忘れることができない幻に、ずっと支配され続けていることを感じる。

そう、どうしても忘れられないことを、ひとつも抱えずに生きている人がいるのだろうか。人でも、場所でも、景色でも、ただ一瞬のうちに過ぎていったあのときのことでも。ただ恋しくて、情けなくて、もう一度手に入れたいと狂おしく思うのに、現実は変わらず静寂を湛えてただ流れていくだけ。そんな寂しさを誰しもが抱えていると信じたい。そうじゃなければ、私はこれから一体どう生きていけばいいのか、いよいよわからなくなってしまう。

おもしろいくらい、ちゃんと色んなことに疲れてしまった3月だった。2月くらいからずっと朝起きれなくなって、1月くらいから食べることが怖くなった。正確には、通常外食で出される量を食べ切るのが難しくなって、残してしまったり、人に呆れられるのが怖くなった。初めて会う人に、「ごめんなさい、あんまり食べられなくて」と断りを入れてから始まる会話。なのに夜一人でお腹が空いてしまって、コンビニのあんかけ焼きそばを食べたりする。肌が荒れて、自分の外側を中側も、全てが茶色い餡のようにドロドロとめちゃくちゃになっていくのを感じる。総じて気持ち悪い冬の終わり。

悲しいことは、悲観されるわけでもなく、ただの事実として私の中に存在し続けている。時を追うごとに視界はぼんやりとしてきて、だんだんとその輪郭は見えなくなっていく。でも匂いとか、声とか、目に見えないことばかりが少し褪せながらも細く長く残っている。

それって呪いのようだよねと言われて、昔自分も同じ表現を使ったことを思い出したりした。その人は私がそう言ったことを覚えてはいないのだろうけど、結局やっぱりそうなんだよねと。最終回で立っていられないほど泣いてしまったと言った人のことも、100%を越えて信頼できると思った。

そういう人を見つけたとき、薄情だけどすごく安心する。私だけじゃないんだと、私は私だけになるのが怖いんだと自覚する。だって一人でいることは、まるでマラソンみたいだ。ずっと心地よく走っていたのに、少し歩いてみたら、それがとても楽なことに感じられて、また走り出すのが億劫になる。走り出しても、苦しくて、つらくて、また心地よさを感じるまでに辛い時間を過ごさなきゃいけない。嫌になってまた歩こうとしてしまう。

それが、忘れられないことを思い出すということに繋がっていく。まるで無限ループだ。この一年間、いや、もしくはずっと前から。たまにさ、名前を呼び間違えそうになることさえあるよ。身体的に離れることで、精神的にも離れることができるのだと教えてもらって、本当にそうだなあなんて、香港のタクシーの中で考えていた。誰のことも想わない自由な私。今もまだ、自分で自分を幸せにできない。

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