3月25日のはなし。

「本当の孤独は親が死んでからなんて聞いたけど、俺たち早くない?」なんて話になった。友達のご家族が亡くなって喪主をしたらしい。彼にとって母親のような人で、たった一人の家族だったから、正直もっと泣き崩れてしまうんじゃないかって心配してたけど、思ったよりしっかりしていて、というか、「しっかり」し過ぎていて、ちょっとだけ危うかった。

大切な人が死んでいく姿を目をそらさずに見つめなきゃいけない時があって、責任を背負って、その死に向かい合わなきゃいけない時があって、それをひとりで乗りこえなきゃいけない時があって。そんなの、しっかりしちゃうよ。
たぶん、彼は今、まだ心のなかはブラウン管の砂嵐みたいにいろんな感情がざわざわしてて、気持ちの整理なんか出来なくて、ちゃんとした自分でいるために全エネルギーを使っているんだろうな、だから、こんなに「しっかり」しているんだろうな、と思って。そんななかでも、彼はちゃんと色んなことをこなしていて、それは本当にすごい。どんなにしんどかっただろう。今日まで頑張ったね。よく頑張ったよね、頑張ってきたよね、と思って、思ったけど口には出さなかった。

適当な喫茶店に入って同じコーヒーを注文して、亡くなった家族の思い出をぐだぐだ話してると、やっぱり、ひとりになっちゃった心細さというか、かなしさというか悔しさというか、なんとも呼べない気持ちがポロポロこぼれてきちゃう。「しあわせになれるかなぁ。こんな大きな愛情をもらって、それ以上に大切だと思える人に出会えるかな」とかなんとか言いはじめたりして。

私たちは貧しくて大学だって目一杯背伸びして、身の丈に合わない買いものをしたかもしれないし、たったひとりの大切な家族さえ失ってしまって、ちょっとだけ他人からみたらカワイソウかもしれない。ちょっとだけ、ふつうの人より幸せから遠くなったかもしれない。

だけど、まだ全然生きてるよねって。ベタだけど、心の中では生きてるよねって。愛されたんだって記憶がしっかりとあって、その幸せはまだ残ってて、それだけでいいよね。その幸せが絶望したがりの私たちを生かしてて、時々その大切な人の残像にすがりついて、なんとか死なないでいるよね。それってどうなの?って思う人もいるだろうけど、それでもいいじゃん。人って弱いから。そうやって、なんとか死なないように生きてるだけで、本当に少しずつ立てるようになっていく気もするし。まだこのひとりぼっちのコンプレックスは大きいけど。
だからこそ、まだ元気な両親や家族を勝手に心の中で殺して、自分は孤独だってイきってる人間が許せなかったりもするけど。

2時間くらい喋りきって、やっとギャル達が合流してきて、みんなで居酒屋に行った。チーズダッカルビを食べて「想像してた味とちがう」とか文句言ったりして、各々好きな料理を勝手に注文しはじめたりして、めっちゃ笑ったりグダグダして、もうすぐ社会人になるギャルが「ウチらは!ずっとトモダチ!」って言ったりして、なんやかんや幸せじゃない?って話たりして。

色々変わっていくけど、5年後も10年後もみんなで集まれたらいいよねってグダグダした日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?