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作品の望みを考える〜ブラームス交響曲第1番第4楽章

ブラームスop68第4楽章の有名な主題だが、楽譜のフレージングはどうなっているのか考える必要がある。

とある演奏を聴いているとき、気になったのは、長く引き延ばされたアウフタクトをうけて62小節目のC音の二分音符がやたらと重いことだった。その原因はスラーの行く末が見えていないからではないだろうか。
アウフタクトの帰着点をCにおいてしまったら、当然、楽譜の言っているallegro ma non troppo,ma con brioとは思えない重厚すぎる響きが推進力を押さえつけてくる。

確かにこの音楽の持つ分厚いハーモニーは魅力的だ。だが、その本能的な欲望に負けて、楽譜の望みを見失ってしまうその演奏は、もはや「ブラームスの交響曲第1番」という作品自体を無視したものだとしか言えない。
だが、そんな演奏は少なくないように思う。

この楽譜のフレージングは、演奏に何を期待しているのか明確だ。

アウフタクトから始まるこのフレーズは次の小節までをまるまるスラーで括っている。スラーとは複数の音符を一つのものとしてまとめることだ。スラーの途中に膨らみを持たせるのは基本はない。
61小節目からのスラーの運動を受けて63小節目は最初の3拍をスラーで括り、4拍めを次の小節のアウフタクトとして、最初と同じようにまるまるスラーで括る。そして、このフレーズは65小節目にとりあえず帰着する。だが、その65小節めの1拍めを重くは弾けない。というのはその小節の4拍めは次のフレーズのアウフタクトとして幅を要求されているからだ。
さて、最初のフレーズだけを見ても、62小節目アウフタクトから始まるこの運動は65小節目に帰着する一連の運動体であり、それぞれのスラーで括られている要素は、このアウフタクト小節を含む61小節めからの4小節間は互いに拍を融通しあって65小節目に向かっている。しかし、先述したように65小節目の拍頭は決して重くは弾けない。そのように運動を配慮すると、楽譜のいうallegro感はとても妥当なものだとわかる。さらにこの主題全体は、4つの小節を分母にした大きな4拍子として77小節目に向かっていく。

つまり、この主題をそんなに重く歌うことはできない。そのメロディの運動の起点と帰着点を見るとこの楽譜のフレージングは絶妙だと思う。

こういう姿を捉えると62小節めのアウフタクトG音はあまりにも深く響かせ、長く引っ張るとC音に深く落下してしまう。それは一見響きとして魅力的に感じるかもしれないが、その深みにハマる運動では4つの小節を分母とする長丁場を歌い切ることができない。いやそもそも、そういうアウフタクトのとり方はこのスラーの存在を無視してしまっている。

楽譜からではなく本能に従って、太い音響を鳴らすことに頼ってしまう。そしてそれはallegroとしてのテンポ感を殺してしまう。そこにお得意の「ブラームスは太っていたのだからテンポは遅い」という非論理的な言い訳を罷り通してしまう。

音響や聞いた印象からスタートすると楽譜の望みを見落としてしまう。先日のD759の6小節目の場合と同じだ。感覚を優先させてしまうのは失敗の元なんだ。落ち着いて全体像から見て考えないとならない。



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