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第一章 湯の宿にて

   1

 大阪から山陰線にはいると、K温泉がある。どこの温泉もあまり変わりがないが、初秋の明るい小春日和なら、幾階もの旅館が、山ふところに抱かれてならび、濃淡のみどりや、もう点々と色づいている落葉樹の中に、朽葉色の高い甍が重なり合つて、あつちこつちの谷間からは炊煙のような白い湯煙が幾すじも立ちのぼつている。静かな山の出で湯の一夜を楽しもうとする人々が、ドライブしてくる夕方近くになると、さらにくつきりとあらわれた山のスカイラインにすれすれな早い三日月が、晴れた夕空にキラリと光つている。強いものにおつぱらわれてまだ塒にかえれない若い夕鴉が、とんきような声で不平を叫んでいる。

 今年(昭和二十年)の八月十五日に、日本の天皇はポツダム宣言受諾の放送をした。日本人は日本が戦争に惨敗したことがやつとわかつた。生きる方向をまつたく失つた複雑な虚脱感が日本の国民の中にはりつめた。間もなくアメリカはじめ四国の連合軍が進駐した。敗戦国の人々は、不安で心を暗くした。事実にも、敗戦国民が必至に受けなければならぬ政治・経済・生活の上の屈辱的・凌辱的な事態が、中央から地方の末梢にまでいたるところに、ひんぴんとして起つた。そういう現象をあらわしている、そのものの実体をしつかり把握している少数の人々は、落ちついていた。そしてこれから日本は全く明るくなつて、めきめきと進歩するだろうと、満身に新しい希望があふれていた。

 戦時中、日本の少数の人々の中には、日本の対蒋戦によつては、腹背に敵を受けた蒋政権は必らず没落する。そして日本は中国の赤色政権を強化させる。日本は、中国赤化に重大な役割を演じていると演説して、投獄されたものもあつた。

 こういう、機械的に明らかな情勢判断の分析にも目がくらんでいた日本の指導者を持つた日本民族は、もはや救うことのできない滅亡的な運命に追いこまれていた。この日本の指導者の愚昧は、敗戦によつて日本民族にむごたらしく立証された。そしてそれは、日本民族の政治の貧困というかんたんな表現で集約することができた。

 しかし日本民族は、いつまでも虚脱感をいだいて低迷してはいなかつた。戦争中の自分たちの姿のあわれさに気がついた。やがて大きい人間的な抵抗の時代に入つた。戦争そのものと、その戦争請負人のかもし出した恐怖と暗黒から解放されたよろこびが、明るい抵抗となつて、わき上がつて来た。

 そのとしの十月に入つてから、音山三之助と小山庄吉は、K駅からやつと一台、車をひろつてそこを素通りして、それから秋草のしげつた五、六キロもある、ゆるいスロープをのぼつて行つた。そこは静かで素朴な、山の元湯があつた。さいきんどつとはいつて来たアメリカ軍人も、そこまでは足をのばさなかつた。かれらも、そんなところへはいるのに危険を感じていたからである。音山たちは、それが好ましかつた。終戦直後、交通は一時途絶状態だつたが、大阪からの補給で近ごろはハイヤァが少しばかり動いていた。駅についたのはもう日がとつぷり暮れていたので、運転手は気がすすまないようだつたが、ふんだんな祝儀で行くことになつた。運転手も、そのコースは、アメリカ軍人ははいらないことは知つていた。

 町をはなれると、左側は山腹で、右は断崖だつた。谷間に濃くかかつていた夕霧も闇に溶けて遠くの谷底に、水のせせらぎがきこえる。温泉町近くでも、行き合う車もない。ヘッドライトが路巾いつぱいに明々と照らしているが、人影も見えない。

 車はどこもゆるんでいるのか、がたがたして、ひどく動揺する。路も荒れているのだろう。断崖にコクリートで車の歯止めがしてあるが、それも、くずれているところもあろう。車がおどるとそこをとび越えたんじゃないかと、ハッとする。

 小山はこぼした。

 「ともかく、戦争で生き残つたんやさかい。ぼくはこんなところにあんまり来とうない。きみは相変らずもの好きや。わざわざこんなとこまで引つぱり出すなんて…」

 桐のような大きい落ち葉が重なり合つたところを、パッとヘッドライトが照らすと、たちまちパリパリと音を立てる。そんなことにでもいい気持ちでない。

 少し道巾の広いところには、青いかなめの生籬でとりかこまれて、うしろは断崖にのぞんだ草ぶきの家があつて、「たばこ」と書いた赤い看板が、くつきり照らし出される。

 小山が、煙草ケースを出して、

 「ああ、せき立てられたんで、煙草買うのんわすれた」

 音山が、だまつて自分のをつき出した。歯止めのされているところを行くときは、スローになる。すると一方の山腹に、くつわ虫の鳴いているのがきこえる。

 ヘッドライトの鼻先に、とつぜん二人の制服の巡査が立ちあわられて、こつちに向つて手を振つた。運転手は心得たもので、すぐブレーキの音をさせた。運転手はうしろへからだをねじむけて、窓を明けた。そこから二人が突立つて、じいつと怪しげな目つきで、二人の客の様子に見入つている。その一人は、色の黒い鼻のくずれたような四十男だが、愛きようよく、軽くあたまをさげて、用心深かそうに窓際に近ずいて、

 「元湯へ行かれるんですか」

 「そうや」

 「失礼ですが、非常線をはつているんですから…」

 と正直にいう。

 「非常線?…」

 音山が、車についた灰受がこわれていたので、煙草の吸いがらを靴でふみにじつて、眉をひそめた。

 「はあ、銀行ギャングの二人組が、この方面ににげこんだのを確かめましたのでね」

 「ほう」

 と小山が、唇を鯉の口のようにした。運転手もびつくりしている。

 「元湯においでになるでしたら、これから先きも、よう警戒してもらいます」

 「へえ、へえ、大きに。よう警戒します」

 小山が、如才のないあいさつをした。

 「おい、かいりに車にのせる客を警戒せいよ」

 運転手にその巡査がいつた。

 「へえ、ありがとうおま。だんな、どんな風態どす、その二人の銀行ギャングいうのは…」

 「うん…」

 巡査は苦笑して、音山たちをじろりと一べつしながら、少しいいにくそうに、

 「二人とも、失礼やがこの方のような、一人は三十前後、も一人は四十あまりで、どちらも体格の立派な、りゅうとした背広や」

 「へえ…」

 運転手は、二度びつくりして、バックミラーから二人の顔をのぞきこんだ。

 巡査は、かえりの車にのせる客を警戒せよというが、実は自分らのことでもあろうかと思つて、音山たちも苦笑した。

 「でもだんな、ぎゃんぐこつちの方へにげこんだいうても、だんな方、そのあと追わいて来て、ここで非常線はつてはりますのんか。元湯から来やはりましたんか」

 「そうや、元湯の支署へ本署かられんらくがあつたんや」

 終戦後設けた支署には、部長が主任で二三名の巡査がいた。田舎の巡査は、心安くものをいつた。

 音山たちは、下車させられて、身体検査でもされるのではないかと思つた。

 二人の巡査は、向うの山際で、なにかこそこそ打ち合わせていた。音山たちは気味が悪かつた。音山はやけに煙を吸つて、むつつりとだまつているので、小山は吐息まじりにいつた。

 「戦争やめて、やつとほつとしたのに、戦争中より物騒になつた。復員して食うに困つているやつが、あばれているのんやろ」

 一人の巡査のほうが、窓に近ずいて、

 「ごくろうさんです」

 といつて軽く会釈した。通つてもいいというのだろうが、なにがごくろうさんだかわからなかつた。

 小山が、

 「運転手さん。出してもええのやろう」

 といつた。

 「だんな、そのギャングは、ピストル持つていたんだつしゃろ」

 運転手は発車しようとしなかつた。運転手台のドアを閉めないで、半身を出して巡査に熱心にきいた。

 「うん、M銀行の宿直をピストルでおどかして、金庫から金をつかみ出しよつたんや。ええ性能のピストル持つとるらしいから危険や」

 「へえ、そんなら、きつとアメちゃんだつしゃろ」

 「いいや日本人や」

 「殺されたもんおますか」

 「本署のれんらくだけで、くわしくはわからん」

 やはり巡査は、気安くしゃべつた。

 「………」

 「心配することあらへん。かいりの客を警戒するのや」

 「かいりの客てだんな、そらのらしまへんで、こんなところにまごまごしてへん、きつと中国筋へぬけよる。非常線で追いつめられて、ここへ逃げて来たやつが、またもとえもどりますかいな。しろうとでもわかるこつちゃ」

 巡査は、にやりにやりしていた。

 「おどかしてなはる…」

 と、運転手は、おこつている様子で、またハンドルを握つたなりである。

 「おい、運転手さん。おりてやろうか」

 若い音山が、かんしやくを起した。運転手は首をふって、

 「なあによろしおま……」

 運転手がいうようにこれでは巡査が運転手をおどかしているようなものだ。しかし、また巡査の方も、もちろん犯人を見たことがないし、二人の紳士をもしかしたら犯人ではなかろうかと思つているのかも知れない。こんな犯人は、堂々たる風采――で押しまわるものだから、うまくいつぱい食うのではないかとあやうんでいるのだろう。もしそうだつたら、首の問題になる。この山の元湯は、運転手のいうように行きづまりではない。向うへぬけて関西でも中国筋へでも自由に出られる。二人のギャングは、K温泉から直接にそつちへ逃げず、たくみに迂回したものか、運転手がいうように非常線に追いつめられてここを逃げたとすれば、これはどんな人物にしても、その風采が似ているかぎり、とりにがしてはならないだろう。つまり巡査もまた、運転手の不安にそそられて、もう一度、思い切つて突つこんでみようと思つたらしい。

 あたりは虫の声が、雨のようだつた。しかしここまで来ると、標高が大きいのか、谷底の水の音もきこえない。くつわ虫のがさつな声にかえつて秋が感じられる。どこからともなく、遠くで山陰線の列車や気笛が、かすかに響いて来る。

 そうした静けさを破つて、たしかに耳なれている自動車の騒音がして、あとから一台の車が来てとまつた。一人の巡査がすばやくその車の窓をのぞくと女客だつたので、意外な顔してその方へは手をあげてストップをかけただけだつた。二人の巡査は、その方へは目もくれないで、この男客二人に、案外大手柄ができるかも知れないとハリ切つているのがわかる。が、若い方の巡査が、とつぜん、窓から自分の方へピストルでも発射されやしないかと、右手に拳銃でも握つているのか、車中から見られぬように、少しうしろへまわし、窓際からだいぶはなれて

 「失礼ですが、お名刺をいただけませんか…」

 といつた。

 音山はまた苦笑して、上着の裏に右手をつつこんだ。不快の色が顔にみなぎつている。

 「いやいや、警察官はごくろうや。これがみィ、わいたち二人がそのギャングで、それをうつかり通しでもしたらえらい落度や。警察官は罰棒や譴責ぐらいではすまんわい。そやからここでどうしても見のがしてはならんのや。網はつて鯛か鯨かちうところや。警察官かて、わいたちの同業者や。ハハハ…」

 小山は大口をあいて笑つた。その〝同業者〟の警察官は、では上官かと思つたが、そうでもないようだ。なにが同業者なのかえたいが知れなかつた。小山は自分も上着の裏へ手を入れて、名刺を警察官に渡たそうとしていると、巡査が、遠慮がちに左手を出している窓へ、その手を押しのけるようにして、うしろの車から降りて来た女客が、半身をのり入れた。

 「音山はん、こんばんは…」

 と、あでやかに笑つた。

 三十前後の、関西趣味の、年の割にはしぶいなりの、すらりとした長身の美人だつた。その巡査は、思わず出した手をひつこめて、夜中のこの物騒なこの山道に不意にあらわれた美しい妖精のような女に身をゆずつて、驚いてその横顔に見入つた。

 「ヤ、ヤ、ヤ。天から降つたか、地からわいたか。ここは一条戻り橋でもなさそうやが、ハテ面妖な…」

 小山がセリフもどきでいつた。

 「ギャング追わいて来たんやわ…」

 女客は、いまの話を、車から降りてきいていた。

 「ほほう。なるほど、どうしてまた、ギャングを追わいてこんなとこまで出て来たんや…」

 音山がわきから、

「そら旅館についてからにしよう」

 音山は、こうしてとび出して来た女客の気持がわかつているようだつた。

 巡査たちは、やつと安心したような様子で、名刺を、ヘッドライトのところまで持つて、行つて灯にかざしてじろじろ見ていた。女はクスクスと口に手の甲をあてて笑つた。そして窓から首をすつこんで、

「二人とも巡査、ピストル握つていやはりますえ」

 と驚きもしないで笑つた。

 小山は、うしろの方へ首をふつて、

 「お浜、ようあの車あつたな。わいたち、やつと一台見つけたんや」

 「女の一念岩をも通しまつすえ…」

 「へえ……」

 小山は、なんのことやらわからなかつた。

 巡査は二人とも、窓のそばへ寄つて来て、こんどは気の毒そうに、ていねえに挙手の敬礼をした。

 「いやどうも、おひまをとらしてごめいわくでした。どうぞお通り下さい。われわれはどうも職務上で…」

 そして運転手に、

 「最初通つてええというているのに、お前が行かんさかい、お客さんにごめいわくかけたんや。早う行け」

 「はい。すんまへん」

 エンヂンをかけた音が少し静ずまると運転手は、ハンドルをまわしながら、

 「だんな、あれがあいつらのいつものいい草だんね。だんな方が鯛でも鯨でもなかつたので、こつちへあたりくさる。戦争中はもつとひどかつたんだつせ。そやよつて負けたんや」

 小山が笑つて、

 「だれでも自分の商売が可愛いわい。きみかてそうやろ。向うえついたら、待たした時間だけのことはするわい。なんしろこの二人は、あんまり人相がようない。銀行ギャングそつくりの物騒なやつらや。きみがこわがるのんも、そらむりはない」

 「ハハハ、おそれ入りました」

 「そやから、ストップしていた責任はみな二人の客にあるのや。だれの責任でもない。その時間だけ歩ましするさかい、びつくりした慰藉料はまけてくれ……」

 音山も吹き出した。お浜の車もあとからつづいた。


   2

 山奥の元湯はどこでもそうであるように、昔ながらの面影がある。山の新鮮さで、そしてさびのある静けさである。ことにアメリカ軍人に接収された旅館は一けんもない。ほとんど日本建で、そこの松半旅館はちよつとした応接間が洋風になつているだけで元湯の別格である。音山三之助は、戦時中でもいつも沢山な本を持つて来て、そこの十畳の別館で読書をたのしんでいる。京大経済学部出身だが、哲学、政治、文学、美術、音楽と豊かな知識と深かい趣味をもつている。油絵はしろうとばなれがしているとほめられると、

 「そら、くろうとばなれのまちがいや」

 と笑う。別館の隣りに、自費でアトリヱを建てて製作する。読書や製作で水産会県連合会理事長という、しごとをほつたらかして幾日もかえつて来ないので、細君が迎えに行つても、うるさがつてかえらない。そのほかだれが行つても、

 「そんなら辞表書くよつてな、持つてかえつて」

 という。

 その理事長のしごとを自分で引き受け、なにくれとなく処理して、ぐち一つこぼさない県連会長の小山庄吉が、あんまりかえつて来ないと会員たちに悪いので、しびれを切らせて、にこにこしながら迎いに行くと、小山の顔を見るなり音山はあたまをかいて、

 「やあ、すまん、すまん。すぐかいるワ」

 という。註を加えるが、関西弁の男のこの〝ワ〟は、関東の婦人の、〝わ〟ではない。多くの場合、軽く決意を表わすときに用いられる。アクセントもごく軽い。

 「ええもんがでけたか……」

 音山がちよつと得意でいる、仕上つた絵のかけたところへ、小山は行つて首をふる。最初、小山は絵など一向趣味がなかつたのだが、いつも音山に自分の絵や、大金をかけてコレクションした、東西の名画などを見せて、わかり安いようにいろいろの例を引いてお談義をきかされるので、いつのまにか面白くなつて来たのだつた。小山はことし四十五で、魚屋の丁稚からきたえ上げた。音山は三十四だつた。

 「あかん。仕上げると破りとうなる」

 「そらきみィ、西洋の名画ばかり見ているさかいや。きみは目がこえとるさかいや。そのうち、負けんもんがでけるで…」

 「いや、あかん、東京の先生に見てもらいに行くと、いつもくそみそや」

 それから絵ばかりでなく、哲学、政治、文学を語り、レコードをかけて西洋の名曲まで説明してきかせる。

 小山はしかし、それでも決してたいくつでなかった。うっかりその音山にひきつけられて、つい翌日も引きとめられたり、たまには二日も泊まりこんでしまう。

 「さあもうきょうは、どうしてもかいろう。いつもミイラ取りがミイラになったと、浦上に叱られるのんや」

 浦上とは、小山の経営している南海漁業KKの支配人だった。

 「そやけど、ぼくはここへ来るたびに賢しこうなる。えらい学問するわいな。ぼくかて、たまには魚臭い話ばっかりのとこからぬけ出して、こんなとこでいろいろのことをきかしてもろうたら、世界が広うなる。音山君がいてくれるので、ぼくはしあわせや」

 と、小山はよろこぶのだった。

 お浜もときどき来るので、三人のあしらいは、松半の女中は万事のみこんでいた。

 音山も小山も会社からすぐ来たので夕めしは食っていない。それに、この山の元湯で、松半がとくに自慢で出す〝山の幸料理〟というのは、松半の長男の正夫が慶応大学にいるころ、そのかたわら栄養学を研究して、山の動植物から発見した新しい栄養料理だった。膏濃いものが好きな三人も、その簡素で天然味を尊重した野菜料理がとても気に入った。

 旅館の広いポーチに、そのころとしてはぜいたくな三人の客をのせた二台の車がすべりこんだ。長距離をかけておいたし、二台の車が遠くからスパーライルの山道をのぼって来る気配がわかっていたので、玄関には二三人の女中が出ていた。しかし音山も、小山も、お浜が終戦後の、なにかと物さわがしいとき夜中に女一人で、こんな山中にのりこんで来るとは思わなかった。

 三人は、旅館の軽いどてらに着替えて一浴した。地底にあるような浴場から、幾段もの長い階段を上がって地上まで来ると、秋草の白や赤の小さい花が咲きみだれて、かすかに香おっている中に、金木犀の強い匂いが、目にしみるようだった。音山の部屋にきめている別館にあつまって、虫の声をききながらここの創製のいちじくようかんを、この秋に採収した濃い豆茶のこうばしいのでのんだ。

 「こんな山荘の生活をして、本をよんだり、著作をしたりいていたいな」

 音山は、清水焼きの華奢な、あさがほ形の豆茶茶碗を膝の上で両手にかかえて、上目づかいで、あこがれるようにいった。

 「隅田のほとりに住いして、萩のしおり戸、四畳半だっか、ええもんやわ。音山はん、もうお魚やはんいやにおなりやしたやろ」

 お浜がいった。小山が笑った。

 「食うに困らんもんは、のん気なこと考えるわい。全国にどんどんギャングがとび出す世の中や。いや、さっきんのギャングには、ええ気持せなんだ」

 音山の係りの女中のお高はんが、二人の脱いだ外套や背広、帽子まで廊下へ持ち出してブラシをかけてはいって来ると、お浜がそれを引きとってたたんでいた。

 「まあ、ギャングて、どうしましたのん……」

 と、お高はんはびっくりした。お高はんは旧制高女を出ているが、夫が戦死したので、二人の子供を母に養育させここに働いている。

 もう二十六というのに、目のきれいな、あどけなく見える美人タイプの顔立である。音山の話をきいて私淑するようになり、音山の滞在中は、女房のようなまめまめしさだった。

 「こちらのお二人が、ギャングとまちがえられたん。人相が悪いさかい」

 お浜がいうと、

 「まあ、ひどい」

 お高はんは、背広を膝から外して畳の上に突っ伏すような格好で笑った。

 「そらしかたあれしめへん。どう見ても、お二人とも、一くせありそうなつらだましいだんが、音山はんの方は、それほどでもあれしめへえんけれど……」

 「まあひどい。そんなことございませんわ」

 お高はんは、同じことをくりかえして、気の毒そうな顔をしながら、それでもクスクスと笑った。

 小山も笑って、

 「そないよろこびないな。音山はん、プリプリおこって、ぼくは、巡査と喧嘩するかと思うた。そない笑うて油断していると、近ごろは物騒や。松半にも金ぎょううさんあるおもうて、こんばんはいりよるど」

 「あら、こっちへ来たんでっか」

 「うん。こっちへさしてにげて来たいう話や。こんばんあたり、この家危いど、非常警戒せんといかん。御主人にそういうとくのやな」

 「まあ、どないしましょう」

 「ええピストル持ってるいうことや」

 「ああ、こわ! そんならアメリカさんですやろ。戦争に負けたんで、日本どないなりまっしゃろ。こわいわ……」

 「いやいや、立派なふうした、わいたちみたいな人相の悪い日本人や。そやから、わいらが疑われたんや。そやから、わいら二人に、巡査もピストルで打つ用意してよった」

 お浜が、

 「そんなおどかしにのらん方がええわ。ギャング、いまごろこんなところに、うろうろしてまっかいな」

 「そらわからんど。ああいうやつは、いつも警戒の裏をかきよるさかいな。油断でけん。わいたち二台の車にのりこんで来たんで、この別館ねろうておるかも知れんど」

 「………」

 お高はんは、顔色を変えている。

 「でたらめばっかり……お高はん。こんばんあたりのあのお料理の中には、もみじのお刺身、はいっていません? もうもみじが獲れるころだんな」

 お浜は、ギャングの話からそらした。

 「はい、まだ少し早よございますので……」

 小山は、音山がカバンの中からドイツ語の原書を引き出して、夢中でよんでいるのに話しかけた。

 「音山君、きみィ、あの料理食うて、なん日もここに滞在してるが、ようひとりで寝られるな」

 音山は、うんといったきりで、本から目をはなさない。

 「いやあの料理は、いろいろなものがはいっているので、一ど食うとすぐその夜から、女がほしなる。音山君はぼくよりずっと若いさかい心配や。お高はん、音山君ここに滞在していると、Kからレコでも来るかいな」

 小山は小指を見せた。

 「よういわんわ、こんな物騒な世の中に、そんなもん来まっかいな。あんたらやあらへん。あきれたおしと……」

 「それでも、お前は、清姫のように来よったやないかい」

 「用があるから来らたんだ……」

 この「だ」も関東弁の「だ」ではない。「だす」の略である。

 「ふん、なんの用かいな」

 「あとでゆっくりいいます」

 「へへへへ」

 「なに、おかしい笑いするのん」

 お浜は、久しぶりで変った茶や菓子が、うまそうだった。お浜は、茶をのむのも、ようかんをつま楊子で食うのも、舞踊できたえた、舞い扇をあやつる手さばきの、しなやかさ、なまめかしさ、軽さだった。お浜は、大阪の宗右衛門町の舞妓から仕込まれた西川流の師匠である。

 「音山君かて男や、若い男や。そやけど、光子さんが、あかんと思うて迎いに来て、きっと泊って行くのんで、間に会わしているのかいな」

 「あほ。ほんまにあきれた。だれもかも、みな自分と同じや、勉強してたら、そんな気ィ起りまっかいな」

 「そうか、そんならちょっとも勉強なてせんわいのあと追いまわして、いつもここへ来よるお前は、それねろうているのんやろ。用てそれやろ」

 「あんたには負けや」

 お浜は苦笑して、だまってしまった。

 お高さんは逃げ出した。

 音山はお浜が来た用件に気がついていたので、とつぜん顔を上げてハハハと笑った。


   3

 そこへ、ここの主人とおかみさんがあいさつに来た。主人は代々慶応出身で、どの部屋にも、名ある書家に書かせた福沢諭吉の箴言の額や軸がかかっている。

 主人は福沢諭吉の話をし出すと、なかなかやめない。日本に新しい時代をつくったものは、福沢諭吉がその第一人者だといつも力説する。しかし着いたばかりで疲れている客や、相手によっては一言もいわない。音山は滞在中のいい相手だった。主人は終戦のことなど話してあっさり引き下ると、

 「音山君、きみィ、いそがしいぼくをここまで引っぱり出して、すぐそんな本よんでいる。話はなんや。途中でもなにもいわんが……」

 小山は迎いに来ても、音山に引っぱり出されたことはなかった。音山は、まだ原書から目をはなさない。豆茶だけのんで、好物だといっているいちじくようかんにも、手を出さない。お浜は、まん中が少しずつ禿げて来た、それでいて房々した音山のあたまの中には、どれほど学問がつまつているのだろうかと想像してみたりした。いつもトランプを出して、女中たちをあつめて、だれかれの縁談などを占ってやって、みんなでキャツキャツと笑うのだが、こんばんはなにか大役があるようで重くるしい感じだった。そんな中で小山だけは、ひとりでほがらかに女中たちに冗談いって笑っている。

 「おいお浜。お蝶さんやみなようんで、ワーツとゆこうか」

 戦時中から、芸者が旅館の女中に化けこんでいた。

 「こんばんはあきまへん」

 お浜が相手にしないし、音山も相手にしないが、小山は一向気にもせず、にこにこしながら、

 「おい音やん、用件はなんや」

 音山はさっきとつぜん笑ったが、すぐまた本の方へ目を落して、いつまでも顔を上げない。そしてそれなりで、

 「なんや」

 と、つぶやくようにいった。小山はそんな音山をよく知っている。

 「なんや?……なんやとはなんや。これはあきれたもんや。なんやもかんやもあるもんかい。きみにかかっては、ぼくも顔負けや。ここまでわざわざ引っぱり出した用件は、なんやときいとる。なんやというのは、こっちからなんやや。のんびりしたぼんぼんや。長生きするわい……」

 お浜は、くるりと小山の方へ向き直った。

 「それはうちが前座しまんが……」

 「前座?……それお前、なんのこというとるのかいな。気ィたしかかいな」

 小山はしかし、相手にしないような、といってなにか一身上にもかかわるようなことではないかといった、裏表のある複雑な表情だった。

 そこへ女中がお膳をはこんで来た。ずらりと野菜料理や山の芋料理も三品ほどあり、あゆの塩焼、同じうるか、山め、それにほんのそら豆ほどの一切れの蒲焼も一皿ある。金粉をちりばめて「蘇命酒」と金文字で書いた美しい赤い徳利が一本立っている。野菜は畑から取ったものは一品もなく、悉く野生のを採取したのだそうである。重い結核が、これでなおったという。

 「お高はん、ぼくはそのはめ(まむし)の蒲焼だけは遠慮するワ。それだけはかなん」

 小山がお膳の上へ首をのばしていう。

 「まだ山鳥や、つむぎはとれんかいな。兎はいかんが、猪や鹿を食わせてほしいいな。そんなもん、きょうはなにも出とらん。

 小山は、肉類が好きらしい。

 「いつかの、もみじのお刺身、あれおいしかったわ。雪の降るばんに、ぼたんのすき焼きたべたときの味、わすれられんわ」

 「そら気ィのもんや。やっぱり牛肉の方がうまい。いつでもこいつは、ハナ(花札)でものいうよる。お里がわかる」

 「それでも、どこのお料理屋はんでも、ぼたん、もみじと書いたあるわ。売り来るのんでも、そういうて来るやおまへんかいな」

 「はめの蒲焼が出たか、ぼくそんなら、きみの分もよばれる。いつも注文するけどないのや」

 音山は、ぱたんと本をとぢた。

 「これ二人分やったら、目まいがして、鼻血が出る。それにいまから光子さんはよべん。きみは用件もいわんと、食いものになると、その通りや」

 「そやよって、その用件を切り出すのんは、うちが前座でよく話するいうてまんがむつかしいお話は、真打ちの先生や」

 「まるで寄席に来たようなもんやな。そのウ、前座、前座てなんのことや。お前、こんばんなにいうているのやさっぱりわからんがな。そんならちゃんと二人で打ち合わしてここへ来よったんやな。油断ならん。なんや、いったい。音やん、あっさり切り出してんか、わい、あたま、もやもやするのんや。なにも、もったいぶる仲やあらへん。戦争に負けてお互いにいそがしいのや」

 小山は、お高さんと、も一人、女中頭のお蝶さんという四十年増に酌をしてもらいながらのみはじめたが、さすがに少しじれ気味だった。本館の小座敷で、三味線の音が、しんみりときこえて来た。ここの女中である。

 「お蝶はん、箱入れて。わいも、近ごろはいそがして、いそがして、ゆっくりのんで、うとたことない。久しぶりで、おばはんの渋いとこで、きかしてもらうワ。お浜、お前、舞え」

 小山は、いい気持になりたいのだった。

 「いややわ。まだあんなこというてる。そんな、あんたにサービスするつもりで、こわい思いして来たんやあらへん」

 「そんなら、早よ話さんかいな」

 お高さんとお蝶さんは、気を利かして、座を外した。音山は蘇命酒をちびりちびちのみながら、そばに本をおいてよんでいる。いちばん強いのは、小山、次がお浜、音山の順で、小山はいくらのんでも平気ジョニーウォーカー一本やっても、足が少しふらつく程度である。しかしのんで話のまちがったことはない。

 「そんなら、うち、あんたに……」

 両袖をちょっとたぐるようにして、台ふきんで食卓をふいて、そこへのり出す格好だった。

 お浜が、その用件というのを切り出そうとしたので、小山は、

 「待て待て、どうも大事件のようやから、小便でもしてきて……」

 と、笑って立って行った。

 音山とお浜は、家にいるとき、相談しておいたのだった。音山が小山をつれて行ったので、お浜もじっとしていられない気がして、追っかけて来た。

 「音山はん。あのひと、話きいたら、びっくりしますえ」

 お浜は、蘇命酒の徳利が空になっているのを平気で本に見入っている音山に酌をしてやりながらいった。

 「そうかしら」

 音山は本を閉ぢて、顔を上げた。

 「そらそうだんが、あんたも知ってなはる通り、あのひとは県連会長していても、雨の中を合羽と長靴で、自転車にのって、県の役員さんたちの家を走りまわらはるやおへんか。そんなこと、小使いさんでもしいしめへんがな。やっぱり魚屋の丁稚やいうて、みなはんに笑われてはりますがな」

 「そやからいうて、びっくりするわけない。しかしともかくめづらしい人物やと、みな感心している。前の会長とは、月とすっぽんやいうている。配給品でも、県連の倉庫へ入れたことがない。水産庁から受取ると、すぐそんなりで全県の水産会へトラックで運ばせよる。いまどきめづらしいと評判している」

 「でもそれが音山はん、気に入らん役員さんが大勢おますやろ」

 「そらある。庄やんにかかったら、戦争中の、吉武会長時代のように、ボスたちは甘い汁がすえんさかいな」 

 「わしやもうこんな県連会長なてやめる。わしみたいな融通のきかんもんは、こんなしごとでけん。いつも古株からいじめられるさかい、かなん。音山君にすすめられて、むりにみなから祭りあげられたのやが、えらいもんを引き受けたというていやはります」

 音山は苦笑して、

 「そういうているやろ。自分の南海漁業の方は、終戦後とんとんびょうしにええ成績やし、この勢いで押して行って、遠洋に一大飛躍をこころみるいうて、とてもハリ切っているのやから、いまの県連の方は責任がはたせんいうているやろが、それでいて、もちろん自分の責任は十分果たした上、ぼくの責任まではたしてくれる。そのためにいうのではないが、そこをぼくらはほれこんでいるのや。会長の位置を利用して甘い汁を吸おうとせんところに小山君のねうちがある。終戦後の水産界でも政界でも、なによりそういう人物が出てくれんと困る。それでもし小山君がいま会長をやめてくれたら、全県の中以下の大勢の業者は、また戦争中のようにひどい目に会うのや。ぼくはどうしてもやめさせん」

 「そらそうだすやろが、いまの会長でも、すぐやめたい、いうているんだっせ。それにその上また、こんばん、そんなことすすめたかて、承知しますやろか」

 「あんたがここまで追っかけて来ていながら、なんや。そんな弱気出したらあかん。承知するもせんもない、承知するまで、なん日でもここへへたりこんで、二人でトコトンまでいじめ上げてやるのや」

 お浜は笑い出した。音山はつづけた。

 「あんたでもそうやないか、ぼく以上に熱があるのやから、こんばん、不意にやって来たんやろ。その意気ごみでしっかりやんなはい。たのみます。あんたが、すすめらた庄やん、きっと、うんといいよる」

 「そら、うちより、あんたのいわはることは、ようききますえ」

 音山はにやりとして、

 「そうやない。庄やんはあんたにぞっこんほれとる。ぼくは小山君という男は、なにかにつけてもそうやが、その方でも敬服している」

 するとお浜は、面白そうにポンと手をたたいて、それでもうれしそうに笑った、

 「まああほらしい。ほれるほれんで敬服してるひとが、どこにおまっかいな」

 音山は、まじめになって、

 「いやそうじゃない。あんたは世間で二号とかなんとかいわれているが、しかしや、ぼくはあの男のまじめさに敬服しているのや……」

 そこまで音山はいったが、自分でもおかしくなったのか、 

「アハハハ……」

 と、笑った。そしてふくみ笑いで、

 「つまり庄やんという男はやな。理くつづくめでは、あとへは引かんことがあるが、情ではころりとまいる。そこにええところも悪いところもある。こんどのような話は、ぼくの理くつより、あんたの情で押していくのやな。まあそこの呼吸でやんなはい」

 お高はんとそれより若い女中が、銚子の代りと、走りの松たけをつけたすき焼きにする鳥肉、きも焼きと焼松たけのわさびあえ、それに鳥刺などをはこんで来た。

 「小山君はどこへ行った。長い小便やな」

 お高はんが、

 「お帳場で御主人とお話していやはります。これおあつらえです」

 「この肉は山鳥かね」

 「いえ鶏ですけど、小山はん、いま猟師が持って来たばかりの山鳥やというておけと申しておられました」

 「味の見分けがつかんと思うているわ。そういえば、色が少し白すぎるわ」

 と、お浜は笑った。

 「山鳥の刺味なて食えんやろ」

 「山のお刺身なて、たべられしまへんがな。あいの三ばいのおつくりくらいなもんや。山はなんというても、もみじのお刺身だんな」

 「お浜はん、鹿の刺身、よっぼど気に入ってるようやな」

 「そらおいしおまんがな、鯛でも、平目でも、鮪でも、あんな味あれしめへん」

 「それでここへ来てから鹿の刺身、三どいうた」

 「二どだんが」

 「庄やん、お浜さんよろこばそう思うたら、山鳥のにせ肉より、馬肉のにせ肉でもあつらえてやったらよかったな」 

 「そうだ。うち馬鹿だすよってな」

 みんなドッと笑った。


   4 

 やっと小山がかえって来た。

 「なに笑うてるのんや。どや、山鳥……」

 お浜が、

 「いま猟師さんが持って来たんやそうだんな、ごっつおさん」

 音山が、

 「山鳥の刺身なて、食えるのんか」

 「うん、食える。食うてみたまえ。うまいど。山鳥、ちょうどええとこへ、ぼく帳場へ行たもんや。しかしきも焼きで精分つけても、音山君は可哀想や。お高はん、こんばん奥さんの代りしてやって」

 お高はんはまた逃げ出した。小山が盃をつき出すと、お浜はついでやりながら、小山と対決するようにまた食卓の上へのり出した。

 「さあ、そんなことどうでもよろし、お酒、あんまりのまんといて。うちのいうこと、こんばん、どうあってもきいてもらいます……」

 「なんや、また妙に開き直ったな。まるでわいが浮気でもしているようや。それ前座かいな。真打ちと陰謀たくらんでるな」

 小山は、どっかりすわって、音山に盃をくれを、潮風できたえた、たくましい腕をのばした。

 「陰謀やなて、ひとぎきの悪いこと、いわんとおいてくれやす。これでもうち、一生けん命だす」

 小山は笑って、

 「そんならなんやね。いったい道具立てがえろう大きいやないか、もったいつけんと、あっさりというてみんかいな」

 「きっときいてやると、お約束してちょうだい」

 「無茶いうな。お座敷のお約束やあるまいし。なんのことやらきかん前に、きくいうような約束がでけるか。あほだら……」

 「そんな理くつが通るときと、通らんときとがあります」

 「へえ、面白いこというな。お前は、通る理くつを、通さんといいよるのやな」

 「その通りだす。うちこんばんは、アメリカさんに殺される気で来たんだっせえ……」

 「そやから、通る理くつも通さん、いうのか」

 「その通りだす」

 「なにもお前、ここまで来んでも、うちで話したらええやないか」

 「それがでけんのだす」

 「なんでや」

 「うちでは、あんたに里心がついているさかい、あかんといやはります」

 「里心とはなんのことや。たれがそんなこというのや。音やんか」

 「そうだす。あんたは、うちがアメリカさんに殺されてもよろしおますのやろが、あんたには、貞夫が可愛いおまへんのやよって。そらわかってま……」

 小山は笑い出した。

 「お前、なにいうてるのやら、かいもく見当がつかんが、お前もまんざら低脳やない思うが、そんなこというていて、わいにわかると思うているのかいな」

 「そら、わかりまへんやろ」

 「わからんがな。わからんこというてなんになる」

 「代議士になっとくれやす」 

 「ええ、なんになれ?……」

 「代議士になっとくれやす」

 「代議士に……」

 「そうだす。代議士になっとくれやす」 

 「たれがや。三やんがか」 

 「あんただす」 

 「あんたて、わいか」 

 「そうだす。わいだす」

 「わいが、代議士になるのんか」 

 「そうだす。わいが代議士になっとくれやす」

 「ふうん、そらけっこうやが、代議士になっとくれやすいうたかて、明日警察へ行て、証明書もろうてなるわけにもいかんやろ」

 わさびあえをつついて、独酌でちびりちびりのんできいていた音山が笑った。

 「お浜はん、もうそれだけでええ。あとはぼくから話そう」 

 「なんや、これから真打ちの出番か。性もない。わいは、いまの県連でも荷が重すぎるのや。ほほ、お浜、でぼちん(おでこ)から鼻のあたままで、汗かいとるど……えらい御熱心なこっちゃ。わいはもう眠とうなった。音山君、お先きへごめんこうむるワ……」

 小山は、一つ生あくびをして、自分の部屋に立って行きそうだった。お浜は、きりっとした目を大きくみはって、

 「あんた、ちょっと待っとくれやす……」

 「ええがな。眠むたけれあ、寝さしとき、あしたでも、あさってでも庄やんここにいてもろうて、三人でゆっくり話しするがな」

 音山は、落ちついている。

 「じよ、じよだんいわんといて。わいと三やん二人がそんなのん気なことしてたら、県連の方どないするのや。無茶いいよる。そんなこと、なんといわれてもあかん。二日でも三日でも、あかん。むだや」

 「見こみのないことをするのが、むだや」

 「見こみなて、あらへん」

 「ある」

 小山とお浜が笑った。 

 「どだい、わいが、どうして代議士にならんならんのか、お浜のいうことがピント外れや。きみがまたぼくに、そんのことすすめるのが初手からピント外れや。ピント外れの寄せ集めでは、はっきりした写真になって、ぼくのあたまに写らん」

 「そらこっちのいうことや。ピントはそっちが外れているのや。ゆっくり話すと、そのうち双方のピントが、ぴったり合うわいな」

 お浜が、感心したようにうなづいて、

 「そうだ。そうだ。きっと合いまっせ……」

 「なにが合うのや。合うわけがないやないか。魚屋の丁稚に代議士になれなていうのは、山の芋に鰻になれいうようなもんや」

 「そんなら、きみはもう寝たらええ」

 音山は、お浜がすき焼きの世話もほったらかしているし、お高はんたちも遠慮して来ないので、音山は大きい電熱器に鍋をかけて、金だらいほどもある錦出の大皿に鳥料理が派手にならんでいるのを、肉ばかりいり焼きにして、はとんど一人で食ってしまい、飯を頬ばっている。

 「石芋はまだ煮えよらんが、すき焼きははよう煮えよる。食うた、食うた……」

 ほかのものにはわからんことをいって、ちらと腕時計をみて、

 「まだ十時や、小山君、もっとのみんかいな」

 帳場へ通ずる卓上電話の受話器を外して

 「ああ、そうや、別館一号や。お酒、あついのを七八本。そやそや、熱いのをすぐや。山は夜更けると寒いさかいな。それにコップの大きいのん二つ。それから鳥と松たけのお代り、少し沢山と、こんどは板わさか、このわた、あったら二つ持って来て。それから御飯二人分と、あっさりのお代り、あっさりも少し沢山、ハハハ、ぼく一人で三人分平げた、ハハハ……早幕でたのむで……」

 受話器をかけて

 「なんしろ昼、会社できつねうどん一つ食うただけやから、はらがペコチックや。ああうまかった。ハハハ」

 「ぼんぼん、のんびりしてござるわい……」

 小山は、いつものことだが、感心してつぶやいた。

 「いやきみ、こんな話はやな、石芋を煮るようなもんや。とろ火で根気よう煮上げることや。お浜はんのように即答せえと膝づめ談判の切り口上では。そら少しむりや。味よう煮上げるまでは、二日でも三日でも、一週間でも、ぼくはここにへたはりこんで、小山君かえってもらやせん。小山君は、ぼくらのほかに相談する人もあろうから、浦上君でも奥さんでも交代でここへ来てもろうて、ゆっくりぼくらと顔合わせて、相談してその人たちにもなっとくしてもらうようにするワ、そしてぼくが、きっと小山君に承諾してもらうことにするワ……」

 たんたんとしている。

 「これあ、わい、うまいこといっぱい食ったど。Kへ行こ、ちょっと相談がある。のみながら話そうなて、こないだちょっと話しといた遠洋のことか思うて、うかうかやって来たが、これではわいは軟禁しられについて来たようなもんや。やにわに代議士になれなて、かいもく無茶苦茶や。わいはいまの総理大臣の名もよう知らんのやないかい。殺された浜口さんと犬飼さん。二・二六のときの斎藤さんくらいのもんや。そのわいに代議士になれなて、なれもせんし、だいいちぼくにそんなことやらせるのんは殺生や。前会長の吉武はんかて大学出ている。音山君、ぼくおたのみするワ、それだけは、かんにんして……」


   5

 音山は、そういうであろう小山をもちろん予期していた。しかしそれを説伏するには、目の前の業務の繁忙から遠ざけて、そうとうの長談義をきかせて考えさせることが必要だと思ったので、ここへひっぱり出したのだった。

 「きみは大学なんぞ出たもんをあんまり買かぶってはいかん。フランスではあいつは大学を出ておらんくせに気の利かんやつやというそうや。生きた社会から、まるで隔離病室か監獄のように遠ざかって三年や四年、中学も入れると、十年あまりも学校の先生から時代おくれの古臭い談義をきかされて、そいつをあたまへ忠実にプリントしたやつが、いわゆる秀才や。こんな秀才が生き生きした社会にほうり出されるから、気の利かんやつやといわれるのは、あたりまえや。ぼくもその一人ええ見本や。そしてそんな講義のノートみたいな秀才が、官界、政会、学会、実業界にとびこんで、母校の先輩にすがりついて先輩のやって来た通りまねをしていたら無事やが、そこへこの思いもかけぬ大戦争に打つかって、すっかりうろたえて、手が出せん。この大戦争に縦横に対処して日本を指導して行く知識や技能は、大学のノートにもなければ、先輩の学識経験も間に合わん。だからあの戦争中の、官界、政会、実業界、学会の昔の秀才たちの醜態を見たまえ。いままでの日本の歴史に、日本の指導者が、あんな醜態をさらけ出したことが一度でもあった。それは日本に明治以来この大学という、人間の背景を溶かす、溶鉱炉が出現したからや。親のすねをかじって不良にちかいまねをして、のんびり大学という溶鉱炉をでた坊ちゃんたちは、くらげみたいに筋金の背骨も溶けてしもうて、広い海中を波の間に間に浮かびまわる存在になったんや。大学という知識の切り売りをするマーケットで、レデーメードの知識は一通り仕入れたが、さてそれから生きた社会でどう応用するか、知識のマーケットで大量生産されて、あたまはできてもはらのでけん、福助のような人間が、わかろうはずがない。まして古いあたまでは、さっぱり見当のつかん、いわゆる複雑怪奇の世界大戦や。なにも日本がそんな中に手を出す必要は少しもないのに、中国侵略から世界制覇を夢みている妄想狂の軍部に恫喝されると、この溶鉱炉でつくられたデク人形は、腰を抜かして、へなへなになって、とうとう無謀な大戦争に追いこまれて、日本をメチャメチャにしてしもうた。

  しかしなあ小山君。ようきいてくれよ。日本にも、こんな溶鉱炉のなかった時代には、太い鋼鉄のはいった背骨を持った、多くの政治家がいた。そして日本を隆盛にもしたし、日本の危機も救ったんや。きみでもよう知っているあの明治維新の前後や。もしあのとき、いまのような政治家ばかりやったら、日本はこんどの敗戦よりも、もっと悲惨な植民地になっているやろ。こんどの軍部そっくりに、世界の大勢をなにも知らんと、尊皇攘夷で夢中になっている徳川斉昭その他の猛烈な攘夷派を押え、一方にはアメリカの恫喝に屈せずに、見事戦争をさけて、日本をアメリカの侵略から救った阿部正弘や井伊直弼。大政奉還で戦雲がおさまり、すっかりたいくつになつた西郷隆盛はじめその一党が、征韓論を持ち出して韓国出兵を叫んだのを、東洋の国際情勢と、内政の充実を力説して、暴力的な迫害もおそれずに、日本の国際的危機を救った大久保利通や岩倉具視は、みんな筋金入りの政治家や。ぼくはいまの滅亡にひんしている日本を救うのはきみのようなひとが政治家として立ってほしいのや」

 京大出の秀才だといわれている音山のいうことを、小山もお浜も初めてきいてあきれた。

 「うん、そらきみのいうこともようわかる。しかしな音山君。たとい丁稚同様に苦労した人でも、そんな人には学がある。政治家としての学がある。ぼくらとちごうわいな」

 「学というもんは、そんなむつかしいものやない。政治家としての学といえば、国民の生活はどうすれば楽になるかと考えることや。水産業者なら、国民に鮮度の高い、栄養分の豊富な魚を、安うてうんと食わせるのは、どうすればええかを知っていれば、それが立派な政治家としての学や。君は、学とか政治とかいうものを、八幡の籔のように考えているようや。きみばかりでなく、たいがいの人がそんな考えを持っている。そやからこんどの戦争でも、学者や政治家にだまされて、ひどい目にあったんや。これから国民一人一人が、このだれにでもわかる道理をのみこんで、民主政治をやらんならんのや……」

 ここへ来ると音山は、いつも落ちついて、小山にいろいろの話をしてきかせるが、こんばんのように本腰になったことはないし、たんたんとして、清い流れの音をきいているような音山のことばで、まだそんな新しい人生画を描いて見せたこともなかった。平凡で無価値だと思いこんでいた自分の日常の生活の中には、自分たちが考もおよばなかった、そんな価値があったのかと、小山にはおぼろげながら、気がついたように思われるのだった。しかし小山は、

 「うん……」

 と心持ちうなづいたにはうなづいたが、だまっていた。音山がどんなことをきかせようとも、自分と代議士などというものには、およそ大きいへだたりが感じられた。

 音山は笑って

 「即答というわけにはいかんやろが、きみにはまあよう考えておいてくれとでもいうたら、きっとやめるというにきまっている。こんやは、のみ明ししても、きみにうんというてもらわんならん」

 「石芋を、一ばんで煮上げるつもりか」

 と、小山も笑った。

 そこへお高はんたち二人の女中が持ちこんで来たおあつらえに、小山もお浜も興味を失ったように手を出さず、小山は、脇息に半身をもたせて、首をかしげて考えこんでいた。

 「雨が降ってまりましたわ。あしたのおかえりは、たいへんですわ。この路はほんとうに悪いのですさかいな」

 お高はんはそういいながら、食卓におあつらえをならべていると、

 「そうかい、そんなら、あしたは、車ないな……」

 そして、にやりとしている音山の前へ、お高はんはコップを置いて酒をつごうとした。音山は頤で、

 「それは向うや」

 と、小山をさした。お浜は、

 「お高はん。おそまでサービスさせてすみません。あとはほっといて、もうやすんでおくれやす」

 手早く百円札十枚ばかりかぞえて、

 「これ、少いけど、みなに分けとくなはい」

 お高たちが行ってしもうと、小山は、やっと口を開いた。

 「まあ、理くつだけはその通りにちがいなかろうが、音山君、世間はそう理屈通りには甘う通しよらんわい」

 と、首を横にふった。

 「いいや、決してそうやない。それが通る時代になったんや」

 音山も首を横に振った。


   6

 前夜、小山小吉はあまりのまなかったので、翌朝六時近くに目がさめると、きょうはどうあってもかえるつもりで歯ブラシをくわえて湯槽に下りて行った。あいにく階段の窓ガラスには、小雨が真珠玉に水銀柱のような尾を引いて光っている。自動車さえあれば、雨ぐらいなんでもない。色づく前のすがれを見せていた常緑樹も、雨に葉をたたかれて、急につややかにうるんでいる。ゆうべはやかましかった虫の声もぴったりやんで、白や赤い秋草の小さい花は、すっかりしぼんでいる。湯量の豊富な元湯は、下へ近づくに従って、むこうからも、ここからもぼうっと湯煙が立ちのぼっている。小山が雨やいで湯というものがこうも人間の心を落ちつかせるものかと、自分でもふしぎだった。近海で遠洋だといって、毎日出入する漁船の成績ばかりに気をうばわれて、一喜一憂している、なまぐさい中で、そんな小さい、目の先きのことで地眼になっている自分が浅ましくもあった。ここへ来ると、そんな自分がぽっかり浮き彫りにされる。世界がどうなっているのやら、日本の政治がどっちを向いているのやら、そんなことは、ちょっと目をはなせばたちまち押しつぶされてしもう底の浅い企業経営者には、考えてみることもできなかった。しかしそれでいいと思っているのではない。

 たとい兄弟のように交わっていても、このきびしい現実の問題になれば、おたがいの領域はむごたらしいほど、冷たく、はっきりして来る。そしてその領域を、友情というものでとび越えたら、きっとどっちかが傷つく。それは決して友情ではない。そんな友情というものは、いまでは伝説の墓に葬られているし、また葬っておくべきものだ。もしそれを忘れて、それに少しでも甘えようものなら、たちまち自他の破滅になろう。自分の事業の協力者といっても、決してそんな甘いものではなく、あくまでも自力で行って、その自力に正しい利益をのぞんでついて来させることである。いわゆる友情を拒否することが、友情であろう。たよったり、たよられたりすることではなく、たがいにそういうことを期待するのではなく、この冷たい現実に、心と心をあたため合うことではなかろうか。それにはいささかも物質が伴のうてはならぬと決していうのではない。それどころか、あたたかな心は、それが伴のうてこそ感じられることが多い。といって、それが行きすぎてそのために、どちらかの一方が、犠牲になったり、場合によれば双方がともに破滅にひんすることがないでもない。いあやままある。これは友情というものが、情愛であるかぎり、いつかおぼれ勝ちになるからである。世間では、それを美しいという。小山は、その美しさが、おそろしかった。破滅するものの美しさなど、小山は戦慄する。

 小山はいつまでもこんなところにいる気はしなかった。ここにいることは、あの大釜にたたきこまれて、銀鱗をひるがえしてとび出そうとあせっている小魚のようだった。湯煙を見ると、工場を思い出した。曇った空には、煤煙がうづまいている。こんなことをしていられない!

 放館の老夫婦、大学出の若夫婦、女中たちに甘やかされて、いつまでいてもさびしくはない静かさである。その上地熱は人間の肉体をあたため、清めてくれる。うるさい事業や肉親から遠ざかっていれば清々しい。財産は億単位で見積られる。そしてここで好きな本を読み、絵を書いて、幾日でも滞在している幸福の見本みたいな音山三之助がそこへとつぜん、やっと中企業にせり上りそうな経営にあせっている丁稚上りの自分を引っぱり出して代議士になれなどという。これは金持のぼんぼんの、きまぐれである。とんでもない。うかうかとそんな手にのってたまるものではない。とは思ってみたが、よく考え直してみると、小山はまた、そうとばかりともいえない気もするのだった。日ごろ融通の利かない、妥協ということを知らないほどの純真さで、業界のためには爪の垢ほどの不正をゆるさないばかりか、県連会の必要な出費についても、総会で紛糾すると、進んで自分の私財を投げ出すようなこともある。小山を地区の水産会長や県連会長に推せんして裏面で奔走したのも、すべて音山である。小山は自分というものを客観的において考えると、音山は、自分の親友をそういうポストに据えて勢力をふるいたいというような派閥根性では毛頭なく、長い戦争中に累積している水産会の積弊を終戦とともに一掃して、明るい水産会に刷新する任務を自分にやらせた。自分も音山にはげまされて、思い切ってやったことは、争えない事実である。とすれば、全県連会長の吉武三郎が代議士だったので、そのあとを受けて、自分にもすすめるのは、さほどにふしぎではない。もちろん、前会長が、代議士としてやった不正と汚職を、根本からくつがえさせるためであろう。これはただの、気まぐれとも思われない。――ただ代議士というものが、今の自分とあまり開きがあるので、そんな気がするのであろう。

 そして、そんな考え方をすると、小山は音山の気持がよくわかるのだった。しかしそれで、小山が、身のほど知らずに、音山の切なるすすめで、総選挙に打って出るとすれば、ここに大きな壁にぶつかる。それは今まで積み上げてきた自分の事業は、犠牲にしなければならないということである。戦後事業は順調ではあるが、たとえば、いまやっと、歯が生えそろったばかりで、むりをすれば、ポロリと落ちる。それを硬い歯とするには、これからの努力である。そんな会社の経営者が、政治運動に足をふみこむなどは、以てのほかである。それどころか、ここでしっかり梃子を入れて、大企業的な遠洋に進出しなければならない。

 そう決心すると、きょうはこれから音山の知らないうちに逃げてかえろう。お浜は起きても押えておけばいいと、たかをくくっていた。音山がおきて話かけたら、もう動けない。広い共同風呂のドアを押しあけてはいると、しっとりとしたあたたかさとともに、濃い湯煙で目がかすんだが、目を据えるともう自分より先きに一人、ぽかんと蛙のように湯槽のふちをつかんで浮いているものがある。近づくと、意外にも音山だった。小山は妙に先手を打たれた気持だったが、元気よく、

 「ようお早う。早いな。けさは音やん」

 といった。滞在中の女中の話によると、明け方まで本をよんでいて、ひるごろまで眠っているそうである。逃げを打とうとしたのを、音山に王手と押えられたようで、小山は苦笑がこみ上げて来た。

 「きょうは雨や。朝風呂丹前長火鉢でゆっくりいっぱいやろうかいな」

 音山は、柄にもないことをいって、笑っている。

 「阿保いわんといて、それどころやあらへん。きょうは県連の油の配給や。かんじんな日や」

 「ハハハハ、庄やん、目のつけどころが狭い。たった一県の油の配給より、全国都道府県のあの油の配給の乱脈を粛清することに目をつけてほしいな。小山会長、音山理事長の目は、どこにいても光っている。うちの県は、きみやぼくがおらんかて、一合の不正もやりよらん。その係は、二人の目でにらんで選任したもんばかりや。たまには、あいつらに任しておきんかいな。それが信頼でけんような大将でもあるまい。この雨の中を山奥からあたふたとかえって行っては、大将の貫禄がさがる。まあ落ちつき」

 「………」

 そうやられては、小山も二の句はつげない。いかにも、小山は自分の会社では、支配人の浦上にその方針で任せているのだが、県連会という業界の公器であり、手当てや活動費を受けている限り、一日の曠職も許されないと考えたのである。しかし、たまには部下に任かしておくのも、部下を信頼することになる。部下にも決して悪い感じは与えない。それは音山のいう通りである。

 小山は、そう考えてうなづいてみたが、その下から、すぐまた苦笑がこみ上げて来た。これでは、まんまと音山の罠にかかったことになる。これまでにでも、固辞している水産会長、県連会長と、音山の意見通りに、まるで催眠術にでもかけられたように動いて来た。しかし小山は、だからといって、音山の奴隷になったとは思わない。音山のいうことには、動かすことのできない道理がある。その道理が、腐れ切った水産会を刷新することになる。小山はそれに従っただけである。罠といえば悪いが、小山はぴたりとその罠にかかるから、小山は、自分の事業のために、とびのこうとするが、それを音山はきりきりするように、ちょっとつまんで、籠にいれると、小山は音山の注文通り、鳴き出すのである。これは小山自身にもわからない、ふしぎなことだった。しかしこんどこそは、そう安々とその手にはのらんぞと思った。

 そこへお浜がはいって来た。真白い長身で、薄緑色のタオルを、舞踊できたえたのびのびとした、きゃしゃな腕につかんで前に当て湯槽のへりに、しゃがみもしないで無遠慮につつ立った。舞踊の師匠というものは、どんなときでも、すんなりと立っていたいものらしい。

 「あんた、なんだんねん、ひとりでぬけがけして……」

 ちょっと目を据えて、

 「まあ、音山はんもだっか。そんなら、わてひとりおいとけ堀やわ」

 それからちょっとしゃがんで、桶で下腹部に湯をかけた。

 「よう洗うとき、けがれたなりでとびこまれてはかなん」

 音山は笑いもせずにいった。

 「阿保らしい、清れん潔白なもんだんが。うちのじぼた(おやじ)、ゆうべは溜め息ばかりついて、わてヱに口説かれてへなへなや。いくじあれしめへん」

 「うそつき、はめの蒲焼、効能あったやろ」

 「音やん、よういわんわ。わいは食わなんだ。そらきみが食うたのや。ゆうべは、お高はんのとこへ、はいよったやろ」

 「音山はんは、あんたのようないくじなしいやあれしめへん、お高はんでもお糸はんでも、ひとばんのうちに、二人でも三人でも、はめのようにのたりのたりと、はいまわったらようおまんがな。そんな元気のええ男はんはたのもしいわ。あんたのように、月のもんのあがったしもうたじぼたあかん。末の見こみない」

 こうなると、お浜のような女は、ろこつである。

 「アハハハ、山坂こえて来て、あてが外れたんで、風あたりが強いワ」

 「そんならお浜はん、きょうはゆっくりさせて蒲焼や蘇命酒をしっかりのまして、こん夜はうんと骨折らしてやることや」 

 「音やん、ひとの家庭のことはほっとき。きみはどうも悪質のせん動家や。わい、こんどこそこわうなったよって、きょうはわい、どうあっても失礼するワ」

 お浜は皮肉そうににたりとして、

 「へへヱ、あんたはいつもそんなえらそうな口利いても、音山はんひとりここへのこしてかえらるひとかいな。あかん、音山はんは不動さんや、あんたは金しばりに会うているのや。あきらめときなはい」

 小山は、ただにやにや笑っている。

 そこへ男女一組の、男は丸々と太って膏濃く、海獣の感じだが、六十あまりにもなろう、女はまだ十代に見える水々しい肉体の美人で、父子のようであるが、そうではない。

 「いよう、これはこれは……」

 小山は、湯槽のへりに手をかけて、ていねいにあたまを下げた。

 「いよう、これはこれはみなさんおそろいで、……」

 と、相手も同じことをいった。なにを考えたのか、も一人の男が音山だとわかると、わざわざそばへ近づいて、

 「音山はん、お久しぶりだすな。ええ御保養で……」

 とていねいにあたまをさげた。音山もだまって、あたまをさげた。

 朝は、家族風呂の湯が落ちているのでみんなここへ集まって来る。

 「山下はん、いつお越しやした」

 「あんた方より一ばん先きだ。ハハハハ」

 「へヱへヱ、こっそりしん猫で、おたのしみだしたな。そらよろしおました。そんならゆんべどこやらできこえていた、あの爪びき、あんただしたか。きょうも、しっぽりぬれて。けなり(うらやましい)おすな、ハハハハ」

 「けなりいのはこっちのことだすわいな。ゆんべはあんたのお部屋で、夜明け方まで、いちやいちや喧嘩きかされて、あてられましたで。若い人はけなりおす。ハハハ」

 小山も一しょに、どっと笑った。音山の別館からかえったときの隣り部屋が、山下だったらしい。つれの少女は、お浜の姿を見るととてもうれしそうに近づいて、

 「お師匠はん、うんべお越しやしたん。ちょっとも知らなんだわ。うち知ってたら、すぐお部屋へ行くのんやったわ」

 「菊ちゃん、ここへ来るのん、こわかったやろ」

 「はあ、お師匠はん」

 「わてヱ来たとき、銀行ギャング、出たんやわ」

 「まあ」

 菊ちゃんはびっくりして、ぱっちりと張りのある大きい目をぐるぐるまわした。そしてお浜に肌のふれるように近づいた。色の白いお浜の肌も、つやで光っている。弾力のみなぎったふっくらとしまった菊ちゃんの肌とは、白さだけでもはっきり目立った。

 「うちのひと、音山はんが、ギャングにまちがえられたんや。人相悪いさかい」

 「まあ、そうだっか、それでどないしやはったん」

 菊ちゃんは、まじめな顔して、心配そうである。山下は河馬そっくりで、じっと湯槽に沈んで、ワーッと天井に向って大きい欠伸をした。

 「きょうは、雨で陰気や。こう顔がそろうたんや。みんなで陽気にワッといいまひょかい。戦争負けたんで、やけ糞や。ここなら箱や太鼓で大騒ぎしてもかめへん。音山はんもつき合うとくれやす。あんただけは片ちんばやが、いつもここに来やはるよってここにええのがあるのんだすやろ。ぽつんとひとり、聖人顔しているのが曲者や。ハハハハ」

 「ええのなてないけど、そらけっこうですな。ワッといいまひょか」

 「ヤアはん。ええとこでお目にかかりましたわ。なあ菊ちゃん。きょうはここの女中さん総あげで、底抜け騒ぎや」

 お浜はすっかりはしゃいでしまった。

 小山は弱った。山下賢太はこの大きい水産県で屈指というより独占に近い一二を争う海産物問屋の山下海産物KKの社長で、小山の南海漁業の工場加工品は、直接阪神向けの外は七、八割もの大得意である。遠洋漁区拡張の増資計画についても、こう人物の援助がなくてはならないのだった。こんなところで、えらい人物に出くわしたものだと思ったが、もちろん逃げるは不利だ。こんないい機会に近づいておくべきだと考えた。ねらいは別だが、音山まで妙に相槌を打っているのもおかしかったが、音山が山下にそんなこというのは、せえいっぱいだったので、小山は、いじらしい気持もするのである。


   7

 「ああ、ええ気持や」

 山下はひとあたたまりすると、湯槽から大きい図体をヨウ、ドッコイショと調子をつけて、おっくうそうに、色々な色の小さい自然石がはめこんだ洗い場に上ると、菊ちゃんが心得て、洗い場へどんどん湯をぶっかける。またワーッと欠伸をした山下は、そこへごろりと横になった。そして、

 「やれやれ、ああ疲れた」

 とつぶやいた。その動作は、どう見ても鈍重な海獣が水からあがったとしか思われない。海産物問屋ということになにかえんがある感じである。その年で十代の女と二晩も一しょにいれば疲れるはずだと、小山もお浜もおかしかった。

 「お先へ失礼します。いづれ後刻また……」

 音山は少しも礼を失わない、慣れたヂェスチュアで、山下にそうあいさつしてあがって行った。

 「これは失礼します……」

 山下は、いままでの鈍重さを忘れたように、ひょいと起きて、ていねいに答えた。音山が行ってしまうと、菊ちゃんは、音山の均整のとれた美しい白い肉体のうしろ姿を、なごり惜しげに、うっとりながめて、その姿がドアのそとに消えると、そっとお浜のそばによって、耳打ちするように、

 「お師匠はん、オオさん、うち、岡惚れだっせ。大好き」

 「ホホ、あんたも」

 「あんたもて、そないぎょさんあるのん」

 「はあ、そらぎょさんおま。でも、わたしの好くひと、だれも好く、いいまっしゃろな」

 「そんならお師匠はんも……」

 「はあ、そらお師匠はんかて、女どすがな」

 お浜はホホホと、年増らしい仇っぽさでほほえんだ。

 「ああおかし、コオはんにゆうたげよ」

 菊ちゃんは、そのくせ大きい目をくるくるまわして、子供っぽく手でもたたくような調子でいった。

 「ゆうてもええわ。あんたそういうてお見、コオはん、笑らやはりまっせ。そらオオさんはいつでもゆづってもええけど、こんな婆さん、オオさん、ねがいさげやろて。でも菊ちゃん、さっきんから、オオさんのヌード、前からもうしろからも、右からも左からも、きりきりまいして、テレット会社の女社長さんみたいな目ヱして、およだたらして。わてヱ、ヤアはん、おこらはらへんか思うて、心配してましたのん」

 「あんなじぼたなて、なんぼおこってもかめしめへん。うちしん気くさいさかい、いっぺん、ぽんぽんおこらしてやろおもていますねん。けどあのじぼた、うちなにういうも、どんなことしても、にやにやしてばかりいてちょっともおこらしめへんさかい、うち、しん気くそうてかなんのだ。あんな芋虫みたいなじぼた、うち大きらいだんが。オオさん、キリッとして、ピリッと眉に青筋立てて、ちょっと気に入らんことあったら、延二郎はんの福岡貢みたいに、『身不肖なれど福岡貢、女をだまして金取ろうや。まんよべ、まんよべ、まんのよべヱ……』て、オオさんおこったら、あんな顔になれはりますえ。わてあんな顔、大好き! オオさん、いっぺんおこらしてみたいわ。お師匠はんかて、そうだすやろな」

 お浜は、クスクス笑って、

 「菊ちゃん、なにいうのかわからへん。菊ちゃん、そんなこというたかて、オオさんの顔よりヌード見て、ぼうとしてたんやろ……」

 「ヌードてなんだすのん、お師匠はん」

 「わてヱもオオさんからきいたんだすけど、裸体画のことだ」

 「あ、裸体画、英語でヌードだっか。そらオオさんのヌード見たらたまりまへんがな。オオさん、オリンピックにでやはったんだっしゃろ。あのヌード見たら、あたまのしんから足のつま先まで、ゾッとして、からだ中がうづうづして、ぶるぶるふるえますがな。お師匠はんでもそうだっしゃろ」

 「なんでもお師匠はんやな。お師匠はんはそんなこと、もう卒業してまんがな」

 「お師匠はん、ほんまだっかいな。そんなこといやはってもさっきんお師匠はんかて女や、おいやいしたやろう。うち、うちもヌードになって、オオさんのヌードで、ぐうっと抱きしめてほしいわ。お師匠はんかて、そうだっしゃろ」

 山下と小山は、戦後の景気や、インフレや、このインフレを利用して、どうしたらもうかるかを夢中で話していたが、お浜が気がつくと、腰かけと、小桶に湯をくみ、横になっている山下に、

 「一つお流ししまひょ」

 といっているところだった。

 「いや、いや、それは御無用。ここへ来てから、なんどもやらせましたよって……」

 とまだ横になっている山下は、手を振った。

 お浜はすぐそこへ近づいて小山を押しのけ、

 「いえ、わてお流しします」

 「おお、お師匠はんか。これはこれは、それでは舞いの手のリズムでやってもろうたら、さぞいい気持やろ。小山はんにもお師匠にもすまんけど、折角や。そんなら一つやってもらおうか」

 リズムなんていうのがへんに感じられた。

 ヨウ、ドッコイショと、大げさにかけ声して起き上がり、小山とお浜に手を取られて、太い、女のような腰を、腰かけからはみ出すようにぺたりと、へばりつかせた。まだ湯の中に真白い海獣のように浮いている菊ちゃんは、その方へ背を向けて、雨のしぶきのする窓の色ガラスをじっと見つめている。オオさんのヌードでも描いているように。お浜がいっている。

 「菊ちゃんやないとお気に入りまへんやろが、まあこんなお婆さんでしんぼうしておくれやす」

 「いやいや。色は年増がとどめさすいうてな。年増のくぜづたつぷりの味は、乳臭い女を相手にしていてはわからん」

 「お上手おっしゃるけど、それでもお年寄りは、やっぱり若いのんがよろしおまっしゃろ」

 お浜は山下の手拭をしぼって、三助のように腰のあたりから垢をすった。

 「お師匠はん、垢はもうでん、ざっとでええ。それよりお師匠はんのそのすんなりした腕や長い脚で、舞いの奥ゆるしの秘術を出して、ぐっとからみつかれたら、息がつまるほどええ気持やろ。小山はんの前やがわしもお師匠はん手に入れる機会もあったんやが、惜しいことしたもんやと、いまでは残念に思うてる。小山はんはしやわせや。お師匠はん、小山はんに内証内証で、あんたのおなかだけでもぴったりとわしの背中にあててみとくなはい。アハハハ年寄りは図々しいもんや」

 小山も大口あいて笑って、

 「そんなら山下はん、こんばん一つ、交換しようやおまへんか、わしやまた、菊ちゃんをあんたに取られたんで、ほんまに残念やおもうていますねん。うちの婆さんは、もう肉がたるんで、どこもかしこもぶよぶよや。腐れかけの水蜜桃みたいや。それにあの菊ちゃん見イな。真鯉のようにぴんぴんしてぎらぎら光っとる。ぐっと抱きしめてやったら、電気のように、ブルンとはねかえしよるようや。そうなると、どないしても、絞め殺しても、目的をたっしとうなるのや」

 「おおこわ。うちいや! 年寄りはみなだつきらい」

 湯からあがった菊ちゃんは、大阪でパーマをかけるつもりでしきりに髪を洗っていたが、小山のいうことをきいて、まじめにびっくりして、ヒステリックな声を出した。山下と小山はゲラゲラ笑った。

 「あんたのような変態だれも相手にしいしめへん」

 とお浜がいうと、山下が、

 「ハハハ、それが男や、男はみな変態や。おなごも、その変態を好きよる」

 「気色の悪い」

 お浜は山下に、さんざんお礼をいわれて、また湯槽にとびこんだ。そして菊ちゃんのほうを見ながら、

 「うちも、髪洗うてさっぱりしよ」

 「お師匠はん、悪いのでよろしかったら、シャンプウ、ここにありますえ」

 「いそいだんで、なにも持って来なんだ。ちょっと貸して」

 浴場から幾曲がりかの長い階段を、山下は一段一段ヨウ、ドッコイショッとかけ声をかけぬばかりに菊ちゃんとお浜に両手を引かれ、小山に腰を押されて、ごたいそうにあがって行くのだが、

 「きょうは、うち助かるわ。ひとりのときは休み休みして、一時間もかかるのんやもん。女中さんにチップやれば手伝ってくれるおんやけど、けちんぼやさかい」

 菊ちゃんがずけずけと鼻声まじりにいったので、小山やお浜は笑ったが、お浜は、

 「一時間は大げさやわ」

 といった。山下はうんうんうなりながら、とぎれとぎれに、

 「なあ小山はん。あんた方の業界ではだれでもいうてます。小山はんはええうしろ盾持ってる、てな。みんなけなるがってる。あんたの南海漁業が味よういん筈やてな」

 ほんとに「けなる」そうに山下はそんなこといった。そんなうわさは小山もきかないではないが、山下のような人物から直接にそうきくと、小山は苦笑した。音山三之助は、万兵衛の三人兄妹の中の一人息子で、立派なあととりだが、実権は父の万兵衛ががっちりと握っていて、息子には貧乏ゆるぎもさせない。――ここで、小山が、山下のいうような、音山との関係でないことを説明する必要が生じた――音山三之助は、父の万兵衛が社長になっている東洋漁業の社員として、ほんの課長級の月給をくれるばかりだが、その代り、無任所課長である。万兵衛が三之助に、専務などの重要なポストを与えても受けない。万兵衛が正統の(妾腹には男子は、何人もいる)一人息子にたいするそれが不満でもあり、不安でもある。いまではこの父子は、業界で対立している。

 そんなわけで、三之助は、経済力には全くといっていいほど無力である。しかし、三之助には、万兵衛以上に、人物としての社会的な信用がある、人気がある。それには親の七光りもあることは争えないが、それとは別に、人物にたいする信用や敬愛は、万兵衛以上といえる。世間にはそんなことは、よくあることだった。細君の光子の父は、終戦前の、近県の多額納税議員だったが、光子の兄の大高潔は、三之助の学友で、三之助が大高家に出入するうち、潔の父の尭人に見こまれて、娘の光子の三国一の婿になった。光子のは多分の持参金や土地をつけられて音山家にとついで来た。もし音山が自分の名で融資をしようとするなら、銀行もよろこんで貸すだろうし、大高尭人も二つ返事で小切手帖を持ち出すだろう。小山は十分そのことを知っていたが、いままで、南海漁業について、少数の株は持ってもらっているが、音山に特にむりをさせたことがない。またしてもらいたくなかった。それは戦後の船価高と、魚類統制の鋏状で、ヤミ流しを一切やらぬ南海漁業が失敗した場合の責任感からだった。しかし最近、信用もますます高まり、少しばかりの増配もしたし、会社の基礎も固まったので、思い切って遠洋漁区と漁船買い入れの拡張計画を立てたのだった。

 「お師匠はん、うちのお部屋で一しょに御飯べまひよ」

 みんなは浴室からやっと地階まであがると、廊下で二組の男女はそれぞれの部屋に別れようとしたが、菊ちゃんは、お浜の手を握っていった。山下もうなづいて、

 「小山はんもお浜はんも、まあええがな。わいの方へ来なはれ、熱かんでいっぱいやろう。どうせこんな雨ではかえられへん。酒でものんで、うたでもうとうているよりほかないがな。音山はんにもぜひ来てもろて……」

 「へえ、大け。そんなら、音山君つれてすぐおうかがいします」

 小山は、音山は来ないだろうと思った。しかし、小山は、きょうは逃げられないとすれば、山下のいうがままになって、いづれ発表する遠洋漁区拡張計画にも、それとなく話しを持ち出して、力になってくれるようたのみこんでみようと考えた。

 「お師匠はん。すぐこれなりで、みんなうちのお部屋へおいでやす」

 山下はそこにつっ立って、

 「小山はん、音山はんもぜひ来てもろて。あんた音山はんに、失礼やがわいの部屋に来とくなはれといううてたのんで、そして三人そろうて来てもろて。その間に、ここの広間で賑やかにやるよう用意さすワ」

 これは山下にとっても、雨が降って所在がないからという単なる理由からではなかった。山下は、この機会に、戦時中、漁業関係でしこたまもうけて、いまでは億万長者だといわれている音山万兵衛の一人息子の三之助に親交を結びたいねらいだった。財産からいえば、音山万兵衛が大大名なら、山下賢太は中大名だった。その上に音山万兵衛は、県政や水産行政を動かす勢力があったが、山下賢太は、まるでそんなものはなかった。

 「へヱ、おおきに……では夜分にでも、寄せていただきます」

 お浜は、それどころでない用件があるので、小山に代って、そういって、廊下のまがり角で別れると、お浜の手をはなした菊ちゃんが、すたすたと二人を追っかけて来た。

 「お師匠はん……」

 「はい……」

 お浜は、湯上りの菊ちゃんを、薄暗い廊下でふりむいた。雨の窓からさしこむ明りで、お浜はまるで別人のような凄いほど美しい菊ちゃんにぶつかった。重そうな、艶々した洗い髪をうしろに束ねて、瓜実で豊頬の、彫りの深い派手な、透明なほど真白い顔に、大きくはった薄いまぶた、はっきりとすいて見える並木のような濃いまつ毛のかぶさった黒いひとみで、じっと見つめられると、多くの美少女を見なれているお浜さえ、まぶしいようだった。それに、湯の中であれほど蓮っ葉なことをいって、はしゃいでいたのに、それとは似てもつかない憂鬱さが、額と、眉根に、隈のようににじみ出て黒いひとみがうるんでさえいる。

 それに気づくと、お浜は、首をかしげて、

 「どないしたん、菊ちゃん……」

 「………」

 しかし、お浜は、すぐ気がついた。そういう憂鬱は、お客にこんなところへつれ出された菊ちゃん時代のだれにもあることだった。

 「お師匠は、早よ来て、うちきょう、だまって逃げてかえろ、思うたん……」

 「そないに、うるさいの」

 お浜は、にっとした。

 「うるさいどころやあれしめへん。ヱゲツないのん。うち、あんな狒々じいさんまだ知らしめへん」

 菊ちゃんは眉根を痙攣させて、唇をふるわせている。

 「そないヱゲツないのん」

 お浜は、笑うわけにもいかなかった。

 「はあ、朝かて、お酒一本のむと、もうはじまりまんのん……」

 「まあ」

 「ヌードで、前からでもうしろからでも……そして、尺八吹けというて鼻先へつきつけよる」

 お浜は、体を二つ折りにして笑ってしまった。

 「お師匠はんたら、ほんまだすえ、笑いことやあれしめへん。それからまたあのだんだん、下りしなも上りしなも、うちに負われるようにして、湯にはいって、夕方、夕御飯をたべると、また明しではじまるのんだんがな。ちょっとも寝ささんのだんがな。あのじぼた、淫乱病だ。うちもうかなん。お師匠はん来てくれやはらへなんだら、うちもう、足袋はだしで、どこへでも逃げますさかい、そう思うていておくれやす。よろしおまっか、お師匠はん……」

 「はあ、そらすぐ行くけど……」

 「きっとお師匠はん、オオさんもつれて来とくれやす」

 「コオさんはどうでもええのやろ」

 とお浜は笑った。

 「うちこんばん、うんとのんで、オオさんのとこへほうていていやろ。そしたらあの狒々爺イうちにあいそつかしよるやろ」

 「ホホ、十代の性典やな。狒々さんあいそづかしどころやあれしめへんで、もっとうるそうなるえ」

 「ほんま、お師匠はん、そらかなんわ。でもオオさん、どんな顔するやろ」

 菊ちゃんは、いたずらッ子らしい顔つきで、明るく笑った。可愛い唇が、真赤いなめくじのように動いている。

 「そら、よろこんで抱きしめてくれはる」

 「うそ、大うそ! いきなりうちのびんたいて、足でけとばさはるわうちそうしてもらいたいわ。そしたらうちすぐに武者ぶりついて、腕でも足でもかぶりついてやるわ」

 「やんちゃなおこんさんやな。菊ちゃん。ヤアはん待ってやはる。わてらがヤアはんに悪いさかい。早よおかえり、きょうはみんな行くさかい、なんぼヤアさんかてはじめやはらしめへん」

 お浜はそういっているうちに、目が熱くなって、涙があふれて来た。料理屋、待合、芸者置屋は、まだ禁止中だったが、公然な裏口営業だった。こうして金持の男子に若い肉体をさいなまれるみじめさは、自分につらかった体験をさんざん持っているお浜は、身につまされた。もちろんこんな少女は多くの貧しい家の美しい少女たちである。そのために、どんなしとやかな少女でも、菊ちゃんのように荒んで来る。女中が一人、朝の膳をはこんで行っただけで、あとは静かだった。菊ちゃんはお浜の顔を意外な目つきで見つめていたが、

 「お師匠は、うち可哀想や思もて、泣いてくれはるんだすか……お師匠はんだけだすわ……」

 そして菊ちゃんは、お浜の胸に顔をあて抱きついて泣いた。

 「うち、お師匠はんに会うてうれしいわ。こんな山の中で山賊にかどわかされたような気イしてましたんやさかいな……」

 お浜はしゃくりあげている菊ちゃんの背中に手をまわして、軽くさすってやりながら、

 「すぐ行きますえ。そしてきょう一日わてら、ヤアさんのそばはなれしめへん」

 「夜は、お師匠はん……」

 「夜……そうそう、ええことがある。明しでいきまひょ」

 菊ちゃんは、子供のようによろこんで肩をゆすった。

 「うれしいわ。でもお師匠はん、明しで疲れはらしまへんやろか……」

 「なれているさかい、大丈夫……」

 「ほんならお師匠はん。早よ来とくれやすや」

 菊ちゃんは勇んでかえって行った。


   8

 小山はお浜を廊下にのこして、その足で音山の別館に行ってみた。音山はねころんで本をよんでいた。朝飯は三人分食卓の上にならべて、まだ蝿が出るので蝿帳がかかっている。小山の姿を見ると、お高はんが急ぎ足ではいって来た。そして中鍋を火鉢からおろして、おつけをあたためなどしていると、音山はまたねころんで本をよみながら、

 「お高はん、庄やんに二三本つけてやり。そしてあのまたたびの塩漬と、鮎のうるか、庄やんの好物や。持って来てやり」

 「はい」

 とお高はんが立って行くと、やっと本をほうり出した。

 音山はむっくり起きあがった。

 「えろうゆつくりやつたな。山賢老人、相変わらずあの方は達者や。その方で話がはずんだやろ」

 いまよんでいた本のあと味をたどっているのか笑いもしなかった。

 「えらいもんに出くわしたわい。きょうは一日、またわやや。性むない」

 音山はやっと笑って、

 「引きとめて酒のお相手さすか」

 といったが、これできょう一日のうちに、小山はきっと落城させてみせると思った。

 「たいこ持ちのつもりやろ」

 小山は苦笑した。

 「だいじなお得意さんや。しっかり取り持つとき、損にならへん」

 「きみはうまいこというな。わい、その手にのらんど。きみにもすぐ来てくれ、熱かんでいっぱいやろ、わいに引っぱって来ていいよった」

 「ぼくか、ぼくは朝はごめんや。ばんならつき合うワ。気イ悪させてもいかん」

 「いや、昼ごろからやろ、いいよった。派手なこというくせに、しんしまりのけちんぼや。どうせ安い会席膳やろ」

 「けちんぼやないと、父子二代であこまでなれん。御招待もありがたいが、あとのお礼の方が高うつく」

 「ぬけ目のない、じぼたや。えび鯛主義やろ。しかし、行かんわけにもならんな」

 お浜ははいって来ると、あっさり茶漬をかきこんで、急いで山下の部屋にかけつけた。

 「ああお師匠はん!」

 菊ちゃんは、お浜の顔を見るとまた肩をゆすってこおどりした。

 山下は菊ちゃんがよろこぶので、とてもごきげんである。色も格好も、寺のくすぶり切った木魚の感じで、そこへごま塩のブラシのような濃い口ひげだけがくっつけたように異彩を放っている。その顔に愛嬌をたたえると、木魚が笑ってるようで薄気味が悪い。これでは菊ちゃんにモテるはずはない。その上、一方のほうがうるさいとくればなおさらだ。たとえ十代や二十代の妓でも、五十六十の客に、案外モテることもある。年配でも、歌舞伎役者のような男前で気前も悪くなく、それにやさしくて思いやりがありその方はごくあっさりしているか、きれいに手を出さない、といった客なら、五十六十の客は、かえって若いのに好かれるものである。死んだお浜のお祖母さんは、京の舞妓時代に伊藤博文が京大阪へ来ると、きっとよばれたときのことを、いつも一つ話しにきかせた。博文は老妓をなかなか尊重するが、若がえりのつもりか、若い妓や舞妓が好きだった。新聞や雑誌では、牡丹公か、狒々親父とか悪口されたが、粋な遊びぶりには、お座敷によばれた老若におおもてだった。いわゆる位、人臣をきわめたからというばかりではない。たとい高位高官でも、巨富であっても、ここでは、ソウスカンを食うものがある。老境に入って健康に注意して酒なども、フランスから取り寄せた葡萄酒に、蒸留水を割ってのんでいた。女色は近づけなかった。

 「ほんまにわて一どでええさかい、御前と首尾してみたいとおもいますえ」

 「ほんまになあ……」

 という年増芸者たちもある。

 こんな会話が、若い妓たちの間にも交わされた。しかし、当時の伊藤博文は、目尻のさがった助平ったらしい顔を白髪長髯でうづめていた。それはなんのことはない、銀色に化けた狒々だった。同じ老人でも、歌舞伎役者なんぞとは、およそえんのないご面相だが、若い妓にはとてもモテたと、お浜のお祖母さんは笑った。

 「お師匠はん、おおきに、おおきに……」

 山下はペコペコお浜にあたまをさげた。なにがおおきにだか、わからないが、菊ちゃんがよろこぶのでお礼をいうのだろうと、お浜はおかしかった。さっそく、山下は自分の盃をほして、お浜につき出した。

 「さあ、かけつけ三ばいや」

 見ると、山下は湯豆腐でのんでいたのだが、その蝦蟇のような大きい口のまわりに、吹き出した泡とともに、べたべたと豆腐のかけらがへばりついていた。泡やかけらは、盃にもついているかもしれない。お浜はからだがぶるぶるっとした。しかし、いやな顔もできないので、そっと手をのばした。菊ちゃんはお浜とならんでいたが、敏感に眉をひそめて、自分の膝に当てていた特大の白いハンカチーフをつかんで、つと立って山下のそばに行き、

 「だあはん、この口なんだす。ほんまにぢぢむさいわ。こんな口から、盃洗もつかわんとお師匠はんにお盃さしたりして、そこに盃洗ありますやろな……」

 と叱りつけて、ぐるぐるっと、わん白小僧の顔でも拭くように、じゃけんに口から顔中をこすりまわすと、山下は不意をくらって目をつぶったが、無性にうれしそうに、顔の相好をくづして、

 「そうか、そうか、気がつかなんだ。お前のハンカチ、ええ匂いするな。ハハハハ」

 菊ちゃんは、汚らしいといった顔で、

 「ええ匂いするなら、あんたにあげるさかい、これからよう口おふきやす」

 とそのハンカチーフを、山下の膝にほうりつけた。

 「ホウ、気前ええな。お前あるのかいな」

 「何枚でも持って来ましたさかいな。あんたのような、けちんぼやあらへん」

 「アッハハハ、えらい悪口いいよる。こないだのとつけ(時計)を根に持っとるな。かえりしなに買うてやる」

 「もういりしめえん」

 「まあ、そういうな」

 「うち、きょうかえらしてもらいます」

 「ホホウ、またそんなこというて、すねよる。ハハハハ」

 立っている菊ちゃんは、お浜の方を見てにやりとして、ゲンコをかため、大きく口をあいて、ハーッと息を吹っかけると、そのゲンコで山下の白くなった丸刈り頭へ、やけにガンガンと入れるまねをして見せた。そして、ベロリと長い舌を出し、

 「だあはん、頭、ちょっともんであげまひょか。だあはん、長いお湯でのぼせていやはるさかい」

 「ウン、大きに。頭もええが、そんなら頭より腰がええ。お前、きょうは親切やな。お師匠はんや見せて、ほめてもらおう思うてやろ」

 山下は、菊ちゃんが頭の上でなにをしているのかたいがい見当はつくが、なにをしていてもいいので、ますますいいきげんである。菊ちゃんは、またベロを出した。

 「はあ、うち、いつでも親切だんがな。立っているついでや。頭の方が早よ手がとどく」

 その頭を、やわらかであるが、ボカン、ボカンとやった。

 「ホホウ、よう利くぞ、立っているついでなら、肩の方がええ」

 「肩より頭のほうが近くや。近くから片づけるのや」

 そしてまたボカン、ボカンとやつた。

 おかしさをこらえていたお浜は、とうとう吹き出した。

 「ああしんど。もうしんどて、遠い方へ手がまわらん」

 菊ちやんは最後に少し強いのをボカンとやつて、五どめのベロを出して、笑いもせずにもとの座にもどつた。

 「あたまのあんまもええもんだんな。あたまがはつきりして、気がはれます。うちは、いつもやらせますえ」

 にやにやしながら、ことばつきはまじめにお浜はいつた。

 「ウン、そうきけは、そんな気がするわい。なるほど、二日酔いに、のうしんのんだようや」

 と山下は、おでこをたたいて、首をふつて笑つた。そして、こんどは口を膝のハンカチーフで拭いて、お浜に盃をさし、

 「さあ、一つ、色男の口に豆腐かすついていてもえやろ。小山はんなら、舌づつみ打つてねぶりよるやろう」

 と笑つて、

 「小山はんや音山はんは、どうしたんや」

 「ゆうべから相談あるので来ましたんや」

 「ほう、ええ相談かいな。もうけ口ならわいも一口入れてもらいたいもんやな。なんしろ音山はん、小山はんは、業界のお歴々で、なかなかの切れもんや。どんな相談かいな」

 山下は、こうした機会には、かえつてボロイ話がころがりこむものだと考えていた。

 「もうけ口やおへんけど、かくすことやあれしめえへんさかい、いいますけど、ちようどええとこでお会いしましたので、ヤアはんのだあはんにも小山にお口添えしておもらいしたい思うてますねん」

 お浜は、けさ山下に会つたとき、その下心がわいた。小山が│││県連会会長が│││山下の背中を流してやろうとしているのを見て。

 「それはどんなことかいな、お師匠はんのおたのみとあらば、わいもひと肌ぬぐがな」

 「音山はんが、うちのひとに、こんどの総選挙に代議士の候補者になれいうてすすめていやはるんだす。ゆうべ、わてヱも、二人のあと追わいて来て、音山はんと、夜通ししてすすめているんだんが」

 「おお、それはええことや。さすがに音山はんや。ええひとに目をつけた。わいは小山はんは、どんなひとやいうこと、早うからよう知つている。ああいうひとが代議士になつてくれはつたら、日本にもええ政治がでける。そらけつこうな話や。ぜひ出てもらいたい。それで話はきまつたのかいな」

 山下のような人物が、お浜にも意外なほど立派なことをいつた。そして、急に意気ごんで膝をのり出した。お浜は首をひねつてみたが、これも音山のいう、終戦後の革新気分のあらわれにちがいないのだろう。お浜は、いい出してよかつたと思つた。

 「それにヤアはん、小山がうんといわんのだんがな。わいのようなもん、代議士なてなれるもんかいうて……」

 「そらまた、なんでかいな。小山はんは、県連合会長の肩書もある立派に貫禄のある人物や、前の会長の吉武はんかて、代議士やないか。いまどき、県連会長が代議士にでもなつて、中央政府や水産官庁とつながりがないと、運営は味よういかん。わいのような丸腰の前だれがけの商人ではあかんワ。タカが知れてる」

 山下は、秒に心細そそうにいう。

 「それがヤアはん、小山はアベコベでんね。いまの会長でさえ重荷や。魚屋の丁稚が身のほど知らずの考えをおこしたら、ろくなことあらへんいうてまんね」

 「そらちがう、お師匠はん。政治家いうもんは、昔からどない身分のないもんでも、大臣参議にもなれるんや。そこが政治家の面白いところや。音山はんはようわかつてはるのんやが、小山はんにどんなこというてすすめているのかいな。一つ、わいが行てすすめる」

 「おたのみします。小山はヤアはんを力にしてまつさかい、ヤアはんからすすめてもらえば、きつとうんといいますやろ」

 「よしや、心配することあらへん。わいきつと承知さして見る。そらなるほど、音山はんは学問もあるし金もある。しかしなにいうても小山はんの相談相手にしては若いわい。小山はんはもう五十やろうが……」

 お浜は笑つて、

 「ヤアはん、小山はまだ四十三だんが……」

 「あ、そうか、若いな。あとやくやな。しかしあのぼんぼん、まだ三十にならんやろ。ぼんぼん十五六も下やろ」

 「十下だす」

 「そうか、そんなもんか、やつぱりぼんぼんや、若う見える。しかし十も下やと、子供のように思われるもんや。音山はんはお金持ちのぼんぼんや。丁稚からたたき上げた苦労人の小山はんの相談相手には心細いわいな」

 それもたしかにあると、お浜は思つていた。

 「そらヤアはん。音山はんは立派な方だす。小山もなにかにつけてたよりにして相談相手にしていますけど、いままでは業界だけのことだすやろ。それがこんどは、まるきり勝手のわからん政治のことだすがな。そら音山はんは吉武代議士さんの秘書してやつたけど、国会の秘書やあれしめへんさかい、小山も、落選にきまつているが、怪我のひようしに当選したかて、総理大臣は幣原さんやということだけしか知らんわいに、代議士なてなれるもんかいというていやはります。そういえばわてヱもそうやろ思いますが、音山はんは、わてヱらにもわからん理屈いうてきかしてくれはりますが、小山はどうしても、うんといいまへん」

 山下は、とつぜんハハハと大口あいて笑つた。

 「理屈の問題やない。お師匠はん、最初からわかつているがな、これやこれや……」

 と、指を輪にして高くあげて振つて見せて、

 「音山はん、すすめるくらいなら、自分でたんまり出すつもりやろな。それでないと、小山はん、どないすすめられても、渋りよる。わかり切つたこつちや」

 「いえ、それはなあ、音山はんかて部屋住みの身やし、あれだけの財産はあつても、自分の自由になれしめへんさかい、小山もそんなことで、音山はんが融通するいうても、むりさせとうない、いうてはります」

 「うん、音山はんも、なるほど、そうやろな。あの親爺さんもがつちりしとるさかいな」

 と山下は首を振つたが、思い切つて男気を出したといつた調子で、

 「よしや。ようわかつた。そんならわいもひと肌ぬぐワ」

 と、手打ちでもするような格好である。 

 この海産物の大問屋は自分で選挙費は一切引き受けるとでもいうのか、またひと肌ぬぐと声明した。お浜はこの男気を出した大阪商人らしい大問屋が、理屈やない、これやこれやと指を輪にして見せたとき胸にぴたりと来た。ゆうべひとばん、音山にあのややこしい、ねばり強い理屈をいくらきかされても、小山が一向うんといわないのは、そのことにちがいないのだつた。小山は、この話にまんざらでもないのはお浜は十分気がついていた。県連会長で、総会の席上の会長のあいさつなどは、なかなか手に入つたもので、傍聴席にいるお浜も手をたたきたいほどの雄弁である。それから議長席についての議長ぶりもあざやかなもので、小山・音山の両山を中心とする革新派と、死んだ前会長、吉武三郎がのこして、いまでは、音山の父の万兵衛が糸を引いている旧ボス派との議論の紛糾したとき、あわや乱闘になろうとする一歩手前で、至つて公平無私、そこへウイットやユーモアをまぜて満場をドッと笑わせながら、ぴたりと静かにさせて裁決する議長振りは、敵も味方も、

 「名議長!」 

 と叫ばすのである。そんなことだけでも、小山はそうとうな政治家だとお浜は思つている。政治がわからんとか、丁稚上りだとかいつて逃げようとするのを、音山が熱心に説得しているのは、音山らしい生一本のまじめさではあるが、やはりぼんぼんの域を脱しないのだろうと、お浜は山下の話をきいてみて腑に落ちるようだつた。

 「ヤアはんにそういうてもらうと、うち、ほんまにぞくぞくするほどうれしおま。小山もよろこびますやろ、大きにありがとうござります……」

 とお浜は、食卓よりからだをはなして、山下へは斜めに畳に手をついて、あたまをさげた。

 「いやいや。まあお礼は、当選でもしてからのこつちや。ハハハハ」

 しかし、山下はまだ腰をあげようとしなかつた。

 お浜は考えた。ゆうべからの小山と音山の対決は、これなりでいつまでつづけても切りがない。音山はたかをくくつているようでも、話は結局行きづまる。小山はとうてい承諾しない。やはり選挙費の問題であろう。そこへ山下という、意外な人物がとびこんで来て、意外なことを申し出た。山下ともあろうものが、ああまで立派な口を利いている。いざ金を出すというどたん場で、まさか逃げは打つまい。いや、そこまで行けば、打てないような手を打つて、決して逃がしはしない。音山は小山はどういう意見であつても、この行きづまりを打開するには、山下を利用することよりほかにない。それにはどんなことがあろうとも、小山や音山には一切迷惑のかからぬようにすればいいのだ。悉く自分の責任でさばいて行こう。この話を進めるには、それよりほかに手がない。


   9

 山下は、意気ごんでいるわりに落ちついている。そして菊ちやんに酌をしろと、チュッウと音を立てて吸つた盃をつきつけて、

 「一菊、お前もうれしやろ。お前の好きなお師匠はんがよろこんでくれやはる」 

 と甚だ自慢である。

 「へえ、うれしおす」

 と菊ちやんはたいしてうれしくもなさそうである。そのため恩にきせて、なにか山下にサーヴイスを強いられる気持で、重くるしかつた。山下は妙に開き直つた格好で、

 「お師匠はん、あんたに一つきくことがある。あんたははなんでそないに小山はんを代議士にしたいのかいな。いらんことやが、あんたがあんまりのぼせているので、わい、ちよつとききたい気がするのんや。代議士を夫に持てば……ちよつと鼻も高い、ちゆうところか」

 「……江戸長崎や国々へだつか。そんな派手なこつちやあれしめへんがな。それは語るも涙の種ながらだんが……思い起せば三とせの秋、わが夫はなさけなや長き病の床に臥し、チイ、チイ、チイ、つてとことだんが……」

 いつの間にか、朝酒にお浜も少々酔つて、いい気持で首をふつていた。

 「ハハハハ、なんやお師匠はん。前のだんなのおのろけかいな。さわりはまあこれくらいにしい」

 「はあ、もと木にまさる裏木なしでな、ヤアはん、まあきいとくれやす」

 「なあにいうてるのや。裏木の方にぞつこんまいつているくせに」

 「実はなあヤアはん、あんたうちの貞夫知つてはりまつしやろ。来年中学(旧制)卒業します」

 「前のだんなのやな」

 「はあ。あの子、政治家にしよう、おもてまんね」

 「ほう、それはええ心がけや」

 「あのひと死ぬとき、貞夫、軍人か政治家にせえ。なまぐさい商売は、もうあきあきや。貞夫はあたまええ、魚屋にはもつたいない。いやはりましたん。そやけど、戦争にまけて、軍人もだめだつしやろな」

 「武田はん、あんた可愛がつていたな。これや土地家屋、二人の子供に、うんとのこしておいたやろ。そんなうわさや」

 山下は、また指を輪にして見せた。

 「いいえ、たいしたことあれしめへん」

 「そら武田はんからすれば、たいしたことないやろけれどな。ははあん……」

 山下はそしてなにか思い当つたように大きくうなづいて、

 「なるほど、それで小山はんをいまから代議士にし立てておいて、貞夫君の先生にするコンタンやな。うん、こいつは用意周到や。そこまで考えてるあんたに武田はんも地下でよろこんではるやろ。お師匠はんは、ほれぼれするほどやさしいわい。わいもひと苦労しとうなつたな。ハハハハ。菊公見習い」

 山下は、厚い、大きい唇から、パッパッと白い泡を吹きとばしてしやべりつづけたが、すぐまた首をふつて、

 「いやいや、わいも武田はんには、生前いろいろとむりをきいてもろうた。御恩がえしにひと肌ぬぐワ。お師匠はん安心して、さあさ行こ」 

 と、またひと肌ぬぐをくりかえして、ヨウ、ドツコイショと、重い腰をあげた。そして窓のそとをながめて、

 「やらずの雨が、よう降りよるわい。これではいつかえれるかわからん」

 菊ちやんの顔が、さつと曇つた。そして意地悪く窓ガラスを洗う雨をうらめしそうにしよんぼりと肩を落してながめている。そんな菊ちやんに、お浜は、

 「菊ちやん。あしたは雨でもなんでも、お弟子さんに悪いさかい、お師匠はんかえります。もう秋の踊りの会、ほんのわずかだすやろな。そやさかい、だれでも他所行きことわつてとてもはげしい稽古してはりますよつて、あんたのような立ち方の看板、こんなところでぼんやりしていたら、お師匠はんの責任もあるさかい、あしたの朝は、だあはんにおたのみして、わてがあんたをもろうて一しようにかえります。だあはん、よろしおまつすやろ。菊ちやんの芸ヱに、ほかのお師匠はんからだめが出たら、菊ちやんもわてヱも、恥どすやろな。菊ちやんのだあはんかて恥だすえ」

 「やれやれ、お師匠はんにそう出られては、かえさんわけにはいかんわい。ハハハハ」

 「ヤアはんは、ここの住みこみにも好きなんいやはりますやろな。ひとりのおなごはんにいつまでものめのめしてるより、変つた方がええもんだつせ。北海道御出張なら、どうぞまあごゆつくり……」

 「ハハハハ、お師匠はん、昔取つた杵柄で達者なもんや。負けたわい」

 「菊ちやん。向うのお部屋へ行きまほ。きようはお酌なてやめて、甘い甘いおぜんざいと、栗のきんとんあつらえて、お師匠はんとふたりで、たべるわ」

 菊ちやんは急に元気づいた。美しい目をキラキラかがやかして立ち上つた。

 「お師匠はん、大きに……」

 そしていそいそと二人について来た。

 廊下に出ると、お浜はふと、地階でなにかいつてる女の声が耳についた。そしてじつと耳をすましていたが、思わず、

 「そうやないようや。よう似た声やな……」

 とつぶやいて、どうやら安心したらしい顔つきである。

 「本家のレコやろ」

 山下は、うしろをふり向いて、お浜に小指を見せ、にやりとして、

 「お師匠はんでも、やつぱり、本家のレコには一目おくのかいな」

 「そら一目も二目もおきますわいな。わてヱの方があと口やさかい」

 「レコ、やくかいな」

 「えらい方だつせ。ちよつとも」

 「フン。そんならかぎつけて、ここまで押しかけるはずないやないか」

 「そこがわてヱの良心だすがな。すまん思うてますがな」 

 「なるほど、お師匠はん、なかなかええところある。えらいな。そやけどこんどの話、レコきいたら反対しよるやろ。あんたとアベコベやろ。あのひとのことなら、そんな気ィする」

 「いいえ、そやあれしめえへん。小山はんが出る気にならはつたら、ブツともいやはらしめへん。わてヱとちがいます」

 「あんたのように、あとから追わいて来て、わいわいと責め立てやせんかいな」

 「わてヱのように柄の悪いおなごやあらしめへん。上品なひとだす。そやから、わてヱや音山はんがすすめて、もしお金つこて落選さしたら、奥さんに申しわけおへんさかい。心配だす」

 「フーン」

 と山下も感心した。

 「そやよつて、ヤアはん、ひと肌ぬいでおくれやすな」

 こんどはお浜の方からいつた。

 「よしや、ひと肌ぬぐど……」

 二人のいる別館入口の前まで来たとき、山下は中へきこえるほど、大声でそういつた。


   9

 山下は音山たちのいる別館にのつそりと、河馬そつくりの姿で、へらへら愛嬌笑いをしながらはいつて来た。うしろからついていた菊ちやんは、小山や音山の方へ、

 「イイ イイ イイ……」

 と、片目と紅い唇を引つつらせ、また山下のあたまへゲンコを入れるまねをした。そのあとのお浜は、菊ちやんのゲンコが見えたので笑つている。

 「こつちへ来てもらお思うたんやけどなあ、わいが話したいことあるので来たんや」

 うしろ向いて、

 「こら菊公、この電話で、わいがお銚子五六本と、なんぞ見つくろうてもつて来い、いうているといい」

 至つてまじめで、ヨウ、ドツコイシヨと派手にあぐらをかいた。小山は一歩引き下つて、

 「へえ、へえ。そらごくろうさんだ……さあ、もそつとこつちへ……」

 小山は自分の座布団を裏がえして、山下に与えた。山下はそれにかまわず、ただうなづいて、

 「へえ大きに……小山はん、あんたこんどの選挙に出るいうのんやそうやな、そらええこつちや、わい大賛成や。やんなはい、やんなはい。あんたのようなひとに出てもらわんと、ええ政治でけん。無茶な戦争やつて、日本つぶしよる。わいもそんなら一肌ぬぐワアと、いまお師匠はんにいうてましたんや」

 音山と小山は意外さに面くらつて顔を見合わせた。

 「山下はん、そら御親切にありがとおもあすけどな、選挙いうても山下はん、ここの市会やおへんで」

 小山はそういつて、音山の顔をチラと見て笑つた。山下はプツリとした様子で、

 「そらなにいうのんや。そらわいかてわかつてますがな。代議士やろな。前の会長のあとつぎやろな」

 「そやかて山下はん、代議士は当選せんとなれまへんがな」

 山下は意古地になつた感じで、

 「そんなこといわいでもわかつとる。わいばかにしたらあかん。小山はん、当選するには、これや、これや、これやろが。心配いらん」

 山下は右手の指を輪にして振つて見せた。

 「…………」

 音山は苦笑した。小山は驚いている。山下は首をひねつて、

 「いまインフレになつとるさかい、これくらいはいるやろ」

 と思い切つたという身振りを見せて、輪にした右手をパツと開いてまた振つた。それがセリ市に立つているようなので、音山も小山もお浜も、明るく笑つた。その山下の様子が、いかにも本気に一肌ぬいでかかつているようなので、人の気持のふしぎさで、その魅力に引つけられて音山さえもなにか好感が持てた。それに、戦争でしこたまもうけている山下でも、かけがえのないいのちと引きかえのこの戦争にはこりごりしているだろう。そのとき三人は、いい合わせたように胸にうかんだものがある。それは山下の三男が、慶応大学に在学中、学徒総出陣で、からだが強くもないのに特攻隊にはいつて戦死した。五人ある兄妹の中では出来のいいほうで、山下は自慢でもあり、可愛がつていた。三男の先輩のこの松半の主人や長男に、ぐちをきいてもらいによく来る。こんなところへ若い女をつれて来て、悶々の情をいやしているのだろう……。

 「山下はん、五枚いうても、五万やあらしめへんか」

 「あんたはわいがまじめにいうているのに、なぶつてばかりいる。いかにわいでも五万や十万で代議士に当選するとは思うとらん。五百万や」

 山下は、とうとう、おこつてしまつた。小山は大きい、丸い二皮目をぱちくりさせた。音山はそのうそでもなさそうな山下の顔をながめて、ふしぎそうである。しかし政治運動というものには、スポーツと同じように、万人がそれを好む人間的な本能のようなものがある。そのスタンドプレイには魅力がある。気に入つた力士、政治家、選手、俳優などに、スタンドプレイをさせたいとは夢中になつて、日ごろ吝な人間でも、金を惜しまないと、音山はいつもそう考えていた。山下が一肌ぬぐと力むのは、愛児を殺した戦争への憎悪に加えて、小山が好きなのであろう。そういえば音山だつてそうである。山下は、小山のような人物に、政見発表演説会の壇上や、国会で、戦争の罪悪をあげて、さんざんに旧軍部を攻撃してもらいたいのだろう。県連総会へ傍聴に来た山下が、巧みな皮肉やユウモア、たまには忌憚なく県知事の水産方針や警察の取締りの不当について鋭く攻撃して、会員に万雷のような拍手を浴びる小山が、とてもえらい人物に思われた。また小山が、その戦争を利用して不当な利益をむさぼらないのもとても気に入つた。自分はむさぼつても、他人がむさぼらないのは、えらいと思える。しかしばかとも、見える。山下は戦争中は小山をばかだと思つていたろうが、自分の愛児を殺して、何億もうけたとてそれが何になろう。と考えたとすれば、小山がえらいとも、山下のような人物には、むしろ偉大だとも感じられるにちがいない。こういう戦争は、人を石から玉に砥き上げるものである。愛児の死によつて、酒色におぼれていることの無意義に気がついて、この申し出となつたものであろう。お浜が、どんな話をしたかわからないが、山下の心機一転は、もう疑う余地はない。しかし山下に限らない。だれにしても、戦争中のことを標準にして律してはならない。戦争に協力したものでも、いまでは前非を悔いているものが多い。山下の意外な申し出でも、決して意外ではないのであろう。音山はそんな結論を打ち出した。

 音山や小山がだまつていると、山下は、じれつたそうに首を振つた。

 「五百万で足らんかいな。そんならいるだけ出そかいな。まさか一億も二億もいらんやろ。わいはな、音山はんにも小山はんにもようきいてもらいます。あんたがたも知つてなはる通り、あの継男のやつ、戦争で殺された。戦争負けると、こんな戦争まちごうていたんやといやがる。そんならこんな戦争、うそばかりついて、なんでやりやがつたんや。わいは残念で残念でたまらんのや。それでわい、小山はんが、継男のかたき取つてくれるんなら、わいが戦争でもうけた金、みんなでも出すわいな……」

 山下は大きいこぶしで目をこすつて、泣いてしまつた。お浜も鼻をすすつた。さすがの菊ちやんも、しゆうんとしている。山下のおあつらえをはこんで来て、食卓の上にならべていたお高はんや、山下の部屋の受持の女中も、うつむいたきり、手だけ動かしている。音山も、目をしよぼしよぼさせた。小山だけは、きよとんとして山下をながめている。音山は、うなづいて、

 「山下はん、あんたのお気持、ようわかりました。あんたの御好意は、小山君も十分わかりますやろ。それではもういつぺん、小山君と相談した上でお返事します。山下はんのような有力者に後援してもろたら、当選疑いなしや」

 いまのところ、後援者とか、小山に出馬させたところで、相談相手は、音山一人だつた。音山は、少し心細い感じでもあつた。こんな運動に力になつてやるという人には、無性にうれしいものである。

 「音山はんにそういわれると、わいは満足や。うれしてたまらん。音山はんや小山はんは、わいらとちごうて立派な人や。戦争中はわいらをけいべつしてなはつたやろが、いまの山下はちがいますえ」

 「わかりました」

 山下は、ほつとしたようにあたりを見まわして、アハハハと笑つた。

 「なんや、きようは雨やさかい、みんなで陽気にワーッといおうと、わいが発起人になるつもりでいたんやのに、わいが涙こぼしたりして……、さあこれから、やりまひよ。お高はん、お酒どんどんはこんで来て、ごつつおも、もつともつと持つて来てや。お蝶はんもよんで来て箱入れよ」

 「いや山下はん、それは話がすんでからにしまひよかい。あんたはここでのんで待つていてもらいますワ。なあ幸やん、ちよつときみと別室へ行こう」

 音山がそういうと、お浜が、

 「それがよろしおま。うちと菊ちやんで、ヤアはんのお守りしますさかいな」

 菊ちやんといわれたので、好きな秋の舞踊会の夢でも見ていたのか、ふらりふらりと居眠りしながら、両手をむづむづさせていた菊ちやんは、ぱつちり目をあいた。さつきからの話の様子では、こん夜はお師匠はんに明しで花も引けんだろうし、あすもかえれそうにもないと、腐り切つていた。お師匠はんはそんなことよりも、自分のだんなのほうが大切だろうと思つて、うらめしかつた。窓外では、太いが白々と光る雨脚が走つている。


   10

 「どうや、山賢さんああいうが。僕は信じられると思うな」

 別室へ豆茶といちぢくようかんがはこばれると、音山は豆茶をのんで、〝光〟に火をつけた。

 「さあ、ぼくはここへ来て、なにもかも意外なことばかりで、なにがなにやらわからん」

 全然白紙でとびこんで来た小山にとつては、そうであろう。しかし正直なところ、小山は昨夜からの音山のいうこともよくわかるし、自分がそこまで買われていることもうれしかつた。自分というものが全く新しい価値を持つた像として浮き彫りにされた感じだつた。人間にはだれも、自惚れもあれば、ほこりもある。小山がはじめて白浪五人男の芝居を見たとき、泥棒にも三分の理というのか、あの大泥棒たちにみんなそれぞれのほこりがあるのに驚いた。ふたこと目には、魚屋の丁稚丁稚といつて音山の鉾先きから逃げようとするが、しかし小山は、自分がただの魚屋の丁稚だと思つてはいない。丁稚は丁稚でも、丁稚がちがうと思つている。自分の価値を見出してくれたのを、古来から知己という。そのために男はいのちをすててもいいといわれているし、女は自分をかたちつくるという。音山は小山の知己であり、これは一生涯に得がたいものであろう。はらの底にそのうれしさや、ほこり、自信をおしかくして、あくまで逃げを打つているのは、音山の性格を知つている小山は、音山に迷惑をかけてはならぬとの友情からだつた。もちろん小山自身にも金はないし、音山もない。しかし音山は小山とちがつて、金をつくる気なら、いくらでもつくられる。音山は、そのはらで小山に立候補をすすめていることは、小山にはわかりすぎている。小山はそれがさせたくなかつた。音山は小山を当選させるためには、きつと思い切つた金の融通をするにちがいない。またそうするよりほかにない。小山には、それが危険に感じられるのだつた。音山はあくまで億万長者のぼんぼんで、少し誇張していうと、貨幣の市場価格などの感覚は持つていない。とついて、金をけいべつしているのではないが、百万や二百万の金は、金と思つていない。その点は大胆不敵で、無鉄砲である。だから会員にも、人物を見こむと、緊急を要する場合、事後承諾の形式で、県連の積立金から理事会にもかけないで、平気で融通してやる。それがたまにこげつきになつても、自分の細君の財産や細君の実家の大高家や、取引銀行から自分が連帯債務者になつて借り出して、低利の年賦償還に切り替えてやる。理事会で知つていても、その底力のある背景と、穴埋めに決してぼろを出さないのでだまつている。そんな会員は感激してきつと決済する。

 「政府は中小企業に冷たいんや。つぶれること知つていて、ほつときよる。県連はこうでもしてやらんと、みんな大企業に食われてしもう」

 という。中小企業が九十九パーセントを占める会員は、たれも同感だつた。音山はそういう理事長だつた。しかしそれは水産事業だけのことで、政治運動となれば、全くわけがちごう。しかし音山には、そんな差別はないように、小山には思われるのだつた。小山は水産業者としてどんな苦しいことがあつても、音山にそんなむりはさせなかつた。そこでつまり、小山のはらを割つてみると、やはり山下のいう通り、金だつた。

 「山賢さんはどういうても、三やん自分で出馬したらどうや、それがええやないか。学はあるし、出馬するということなら、おやじさんでも、どこからでも、金はなんぼでも出るし……、そうなれば、ぼくはじめ、三やんに恩になつてる会員は、いのちがけで働きよる、当選疑いなしや」

 小山は、それが最も安全だと思つた。音山は、首を大きく横に振つた。

 「あかん、あかん。おやじの目の黒い間は見こみなしや。まだおやじとこないに仲悪くならん前、ぼくいちど県会に立つたやろな。あのときおやじ、目白黒して、こないぎよさん金かけて、県会議員になつてみても、お前のような金もうけでけん甲斐性なしがどないするのやいうて、途中で金出しよらん。大高が、自分のおやじに話したんやが、それは音山家に悪いというのや。そらそうや」

 「吉田家はんには、なんぼでも出すやないか」

 「そら当選すれば、年からいうてもきみが順序や。ぼくも後から行くよつて、きみが先き行つて、勉強しておいてくれたまえ」

 音山は、昨夜の小山でないことを感じた。そうしてもう話はついたような口振りだつた。

 「山賢さん、あれほんまかいな、あんまり話がうますぎるさかいな。ぼく狐につままれているような気イした。頬つぺたつめつてみたら、痛かつた。ハハハハ」

 小山は半信半疑で愉快そうに笑つた。

 「うん、まあほんまやろ」

 音山は、いつものようにたんたんとしていつた。

 「あれ! そらきみ、どうかしてるのやあらへんかいな。ぼく山賢さん正気やない思うた」

 小山は、二度びつくりといつた恰好で、丸い二皮目をくるくるまわした。

 「うん、ぼくも最初、一肌ぬぐいうたとき、ははあと思うた」

 「なにが、ははあや」

 「わかつているがな」

 「なにがわかつているのんや」

 「吉武が野村に、戦争中、うんともうけさせたやろが……」

 野村物産KKは、山下とは両横綱で、前会長の吉武代議士と結託して、不当な大もうけをしていた。小山は、ぽんと膝をたたいて、につこりした。

 「なあるほど、さすが、三やん目が高い」

 「いや、正直なもんは、自分の気持で人を見るから、きみのように、まるで見当がつかんことになるのや」

 「そんなら、断然ことわろうかい。継男が殺された、かたきとつてくれなて、そら涙出しくさつて、金もうけしたいやつは、自分の子オのいのちなて、どうでもええのんや」

 音山は、首を横に振つて、

 「そうとばかりいえん。そら人間をけいべつすることや」

 「…………」

 小山は、叱られている気持だつた。

 「あれは本心や。戦争がそうさせたんや。戦争は日本民族の生活と意識に大きい革命をもたらしたんや。これからは、日本ばかりやない。世界に大きい平和運働が、怒濤のように盛れ上がつて来る。そんなことは、わかり切つた話や。ぼくらも大いにやらんならん」

 音山は、そういう小山に、もうこつちのものだと、はらの中で、ほくそ笑んだ。それで、まじめな表情で、

 「ああして、金出そいうている。やりんかいな」

 「ほんまかいな、五百万なて……」

 「そら山下は、一二億はもうけているというから、五百万出すいうたかて、ふしぎはない」

 音山だつて疑問だが、少しは出すだろう、出さなくても、自分が一切引き受けるはらだつた。小山は、そんな疑問を持つていても、強い誘惑を感じた。昨夜、お浜がその話を持ち出したときは、てんで受けつけなかつたのは、代議士とは天上の星のように考えられたからだつた。しかし音山の話をきいていると、その星との距離がだいぶちぢまつた。

 だが、山下の指摘したように、そこには選挙費という大きな障壁がそびえ立つていて、手の出せない気持だつた。手が出せない気持には、その対象に強い魅力が感じられるものである。魚屋の丁稚で、お屋敷の御用用聞きに自転車で走りまわり、お台どころで奥さんから昨日配達した魚のお小言をちようだいしているより、吉武のように菊花のバツチをつけてそつくりかえり、知事や出先官庁の役人どもにペコペコされて招待ぜめに会い、近ごろ発効された十円の新紙幣に出ている、あの〝白堊の殿堂〟を肩で風を切つて押しまわり、〝議政壇上〟で総理大臣以下の大臣共をくそみそにやつつけて、全国のラジオや新聞に写真入りで、デカデカと宣伝される……。魚屋の丁稚とくらべて、あまり悪いしごとではない。終戦後は女でもやれるようになつたという。男に生れて、いちどはやつてみるも、男児の本懐というものだろう……。

 といつても小山庄吉は、代議士になることを出世だとは考えているが、ただ出世したいばかりでは、一票を投じてくれた人々にすまないと思つている。いかに政治に無関心な小山も、代議士の候補者に立つたときだけ、公約とかいつて、うまいことのうそ八百をしやべり散らかして、当選すると、向うむいて長いベロを出しているような代議士ばかりだという話は、いつもきいている。そうきく毎に、小山は一票しに行く気もしなかつた。金をもらつて行くものは、平気でいつている。もらわないで清き一票を投じても、金をもらつて行くものの方が多いから、とてもいい政治はやれない。とてもいい政治ができないなら、もらつた方がとくだ。これでは、いつまでたつても、国民は気の毒だと思うが、国民も悪い。だが国民の中に、正直に清き一票を入れている人こそ気の毒だ。小山は、自分に清き一票を入れてくれた人には、献身的に公約を果たそうと考えている。これはいまの県連会長でもその通りである。といつても、小山は、まだ立候補することを、決心したわけではない。

 翌日、山下が、思いがけなく介入して来た。そして思いがけない申し出をした。その申し出は、星への大きな障壁がたちまちとりのぞかれたように音山はいうが、小山にはそんな気はしなかつた。しかし音山はその保証人になつている。そしてまた、音山一流の理屈をきかせる。けれど、小山は、あの山下がそうなつたとは思われないが、とにかく、筋は通つているから、わかつたとはいつた。わかつたようでもあり、わからないようでもある。あの欲に目のない強つくばりの因劫爺が、なんぼ息子が戦死したので、一念発起して蓮生坊のようになつたとしても、あの戦争中、食料不足につけこんで、血まなこでもうけた金を、そうボカボカほうり出すとは思われない。これは音山の、ぼんぼんインテリの甘さだろうと思つたが、万一出すとすれば、もちろん出馬しよう。五百万でなくても、三百万でも二百万でもいい。小山はいつの間にか、かなり重い〝代議士病〟にとりつかれていた。それが自分では気がつかなかつた。まだ自覚症状となつてあらわれていないかつた。好きな男に働きかけられて、いやいやと手を払つて逃げ出した女が、またあともどりして、誘惑を待つようなものだつた。

 「そんならまあええ、きみがそこまでいうてくれるんやから、やることにするワ」

 小山は、たいしてなんでもないことを決定する感じで、たんたんとした口振りだつた。音山は少し意外でもあつた。しかし小山は、どんな大きい問題でも、さんざ考えた末の結論は、いつもこうしたふうだつた。小山の方も、まあよかつたといつた様子で、ただ二三度、大きくうなづいたきりだつた。それはだれにも昨夜からの興奮のようなものがみなぎつていたのにくらべて、至極あつけないものだつた。

 「そやけど三やん、ぼくは山賢さんなんて相手にしてへんで。そんなもん相手にでけるもんやない。わいはつきりいうワ、きみもわいのことかまわんといて。それを条件にして、わい立候補する。わいはだれの力にもならんつもりや。きみはじめ、他人の力をあてにしてなら、わいは初めから立とうなていえへん。それだけは、わいはつきりいうとくワ」

 「…………」

 音山は、小山庄吉という人物が、ぽつかりと浮彫りにされた感じだつた。こうなると、そこまで考えて決意した小山が痛々しかつた。しかし小山はそういうが、事実は、とうていそんなものでないことを知つていた。大学を出るとすぐ、前会長の吉武三郎代議士の秘書になつて、幾回も総選挙をやつている。音山からすれば、小山には一文も出させない。また政治運動に出せるような小山ではない。一切のまかないは、自分でやるつもりでいる。ところで、ここでなにをいつてみても、むだである。立つ決心だけつけば、音山は満足できる。

 「山賢さん、待つているのんや」

 音山は、にやりとした。

 「あれはきみ、ぼくには、どうもわからん」

 小山は首を振つている。

 「そやけど、総選挙には、あんな人も出て来ることもある。面白いもんや。ぼく、すぐ準備にかかるから、すぐ百万ほど出していうてやる」

 「そしたら、どういうやろ」

 「出すかも知れん」

 「ほんまかいな」

 音山もだまつて笑つて、

 「どつちにしてもきみイ、つこうてくれいうているんやから、つこうてやりんかいな。戦争でもうけた不浄財や。つこうてやれば、戦死した人への功徳になるわいな」

 「功徳か回向か知らんけど、出しよるかいな」

 小山は、同じようなことをくりかえしている。小山の決意は、山下が申出たことによつたので、ふみ切りがついたともいえるが、だからといつて、山下を信じてはいない。そのくせ、出してほしい気持である。

 「不浄財でもなんでも、ひとが商売でもうけたもんや。出してくれても、当選したらかえしてやる」

 「ハハハハ、当選したら、幸やん利権でも取るつもりかいな」

 小山も笑つた。



第二章 日本革命史の書初め

   1

 小山は魚屋の丁稚、丁稚というが、漁師のせがれである。W県の海岸の漁村に生れて、海獣のように育つて来た。

 小学校を出るとすぐ、S市の魚屋へ丁稚にやられた。十三だつた。

 「たちよれば大樹の蔭や」

 幸吉のおやじの源助が、S市中の魚屋で、別格の大きい魚屋の店へのりこんで、

 「うちの小せがれ、ここのお店の丁稚につこうてやつとくなはれ、なかなか賢しこいやつで、正直もんで、よう働きま……」

 とつぜん、見知らぬ漁師らしいのが店へやつて来て、帳場のけつかいの中で、大きい原簿をひろげて、上にそろばんをのせて、バランスシートを見つめている大番頭に、海でつかいなれている大声でいつた。大番頭はけげんな顔で、源助を見上げて、

 「きみ、なんや……」

 源助は、同じことをくりかえした。

 「その賢しこい。正直な、よう働く丁稚いうのは、きみの子か」

 「そうだ」

 「自分の子をそないほめる親、あるもんか」

 大番頭は笑つた。

 「親かて、ほんまのこというのやさかい、おスーおまつしやろ」

 「ハハハ、きみは面白い男や。だんなにいうておくさかい、子供つれて来なはい」

 丁稚の幸吉は、海から上つた若いあざらしのように元気よく働いた。おやじのいう通りだつた。源助が考えた通り、立ち寄れば大樹の蔭で幸吉の主人は武田文吉といつて、このW市の魚市場の取締社長で、戦争中魚統制になつて、かえつて巨利を博した。堺、阪神に、チヱン・ストアを持ち、優良品を闇流しするのだから、もうかるはずである。

 「だんな、あいつは賢しこうて正直やと親がいうたそうやが、その通りだす」

 主人の武田文吉に、大番頭がいつた。

 「それに、蔭日なたがおまへん」

 文吉は、多くの雇人の中で、このやかましやの大番頭から、そんな評判をきいたことがない。文吉は、そういう雇人こそ、使用人にとつては、ありがたい宝だと思つている。

 「夜学へやつたり」

 「へえ、よろしおま、商業学校へやつたりま」

 幸吉は三十になつて、番頭を五六年もつとめた。文吉は、京阪神、どこへでも、のれんを分けて店を持たそうといつた。

 「わしは商売より、漁師がよろしおまんねん。漁師のせがれだすさかい」

 「うん、そらそうやろ」

 文吉は、笑つた。庄吉は、いつも網元になりたいといつている。しかし、どのくらい大きい魚店を持たせても、網元にするような大金はかからない。文吉はそつちへ逃げようと思つたのだが、庄吉は、逃さなかつた。

 文吉は、庄吉の、その大きいところが面白かつた。そこを買つた。文吉も漁業の方へ手をのばしたいと考えていたので、一つ、思い切つて金をかけることにした。南海漁業KKがそれだつた。

 武田文吉の取締役社長は名儀だけで、二十人の支配人小山庄吉の個人経営だつた。漁船・魚網等当時にしても二三千万円の資本は、ほとんど武田文吉の個人出資だつたが、小山庄吉は、創立二三年で、それをほとんど武田文吉にかえしてしまつたので、文吉は舌を巻いた。そのころ代議士だつた前県連会長の吉武三郎が、若い腕のいい小山を手に入れるつもりで、軍部に紹介したので、小山はさつそく水産食料加工場を建て、軍部の前渡金で北海道まで手をまわして、思い切つた大量生産をやつて、軍部さえ驚いた。もちろん大いにもうけた。

 とつぜんの終戦で莫大な納入品が支払不能や行衛不明になり、工場は進駐軍の倉庫に接収されたりしてさんざんな目に会い、会社はつぶれかけた。力強いうしろ立てだつた武田は、それより二年前に死んでいた。加工作業が当分絶望となれば、漁船を増加することだが、船価はべらぼうに高い。魚価は統制で割り安だ。どちらにしても資本の底の浅い南海漁業は四苦八苦した。

 吉武前会長の秘書だつた音山三之助は、武田商店の丁稚から番頭、南海漁業の支配人になるまでは、一通りのつき合いだつた。吉武が戦時中出先水産庁や軍部と結托して、悪らつな手段で県連を利用し、不当な利欲をむさぼつているのを知つていた。吉武は小山の敏腕を見こんで、自分の片腕にしようとして、小山を軍部へ紹介などして歓心を求めていたが、小山はさすがの吉武も驚くほどの鋭さで軍部を相手にもうけたが、決して不正な手段はとらなかつた。そして吉武が怪しからん相談を持ちかけて、莫大な利得のあるしごとを引き受けるようすすめるのだが、

 「そらあかん、そらそんなことしたら、国民にすまん。わいはおことわりします」

 と、きつぱりいつた。そんなことが、二三度もあつた。

 音山は、この人物はえらいと思つた。吉武は終戦直後、ぽくりと死んだ。県連会長のあとがまは、音山の父の音山万兵衛がねらつていた。万兵衛は吉武と青年時代から親交があり、万兵衛は、吉武の政治家としての手腕を信頼するというよりも、崇拝している。音山家は南海屈指の昔からの網元で、代々健実な経営で産を積み、戦時中は吉武の政治的手腕で、出先水産庁や軍部を相手にもうけ、終戦のどさくさに巨額の漁具、魚網、加工食糧品を取りこんで、たちまち二三億の利得をしたとかうわさされている。いまはすでに数億の私財がある。長男の三之助という名は、吉武三郎の三の字をもらつたのだつた。

 終戦後の革新気分は、各階層のいたるところにみなぎつていた。この地方の水産業界もその通りだつた。戦時中、軍部や政府の圧力を利用した政治ボスや業界ボスは、中小企業の活路を開いて、水産界の民主化にまい進するための先頭に立つたのは、旧業界ボスの巨頭、万兵衛の長男で、地方水産界の新人といわれている音山三之助だつた。県連会員の中小企業者を糺合して、父の音山万兵衛会長候補を見事蹴落して、清新な小山庄吉を当選させて、業界に革新気分を注入した。


   2

 お浜は舞妓に時代に、武田文吉に落籍されて、それから大阪の西川の家元に通つた。そしてまた二十にならない前、舞踊の師匠になつてそのご、だんなとの間に、二人兄妹の子供を育てて、土地で立派に一家のくらしを立てていた。しかしだんなは、二人の子供にといつて、そうとうなものをのこしてくれた。貸家・土地・証券等数百万円にのぼつている。

 お浜は、死んだだんながとても信用していた小山が、若い番頭時代、お浜の世話を一切まかしていた。小山は親切にしてやつた。だんなが死ぬと、それまででも、たいへん好きだつた小山に誘惑といつていいほど、積極的だつた。お浜は二十六、小山は三十八だつた。

 音にきく高師の浜の仇浪にかけしや袖のぬれもこそすれ

 夏である。その海岸一帯は阪神からのつれこみや、家族連れでにぎ合う。なかでも水明荘は碁石式に独立した座敷がならんで、客をよろこばせている。ある日、お浜から松半旅館のお高はんが海水浴に水明荘へ来ている、すぐ来い、そのうち音山はんも来る、という長距離が小山にかかつて来た。お高はんということなら、日ごろのサーヴィスにたいしても、ほつとけない。ハイヤァでも一時間あまりもかかるのをとんで行つた。音山が来るというのにも、小山は興味が持てた。

 「三やんが、ふふん……」

 車の中で、小山はほほえんだ。男は、自分が信じられないように、他人も信じない。

 来てみると、玄関の客の出入りのはげしい中に、お浜が小山の車を待つていた。だまつて、車から出た小山に近づいて来て、につこりした。狐が化けたような美しさだつた。

 「おゝお浜はん、お高はんはどないしました」

 「お高はんだけにようがあるんだつか……」

 「………」

 「お高はん、お部屋で待つていやはりま……」

 「三やん来てまつか」 

 「へえ、もう来やはりますやろ……」

 「………」

 「そんなとこに立つてんと、お部屋においでやすいな。わてヱのお迎いでは、お気にいりまへんやろけどな」

 「………」

 小山は苦笑して、玄関へ上つて、それからお浜について、庭下駄を引つかけ、とび石の上を歩きにくそうに部屋へ行つた。

 八畳と四畳半の涼しい部屋だつた。

 八畳のまん中に朱彫りの大きい円卓が一つあるきりで、上に水晶の灰皿が光つている。その向うに夏座布団と脇息がある。だれもいない。

 「お高はんは……」

 しきいぎわに立つて、小山はつぶやいた。

 「お蝶はんと二人だしたけどな。山の方もいそがしうて、さつきんかえらはりましたん。それでいまお掃除してもらいましたん……」

 これは、いつぱいくつたと小山は思つた。もちろん小山は、お浜の気持は早くからわかつている。しかし、死んだ大恩ある社長には義理がある。世間の思惑もある。しかし、こんばんのように、わざわざ遠くの松半から二人の女中をよんで、計画的に誘いをかけられたことはなかつた。小山は、なにか女心のいぢらしさといつたようなものを感じた。女がそこまでしているのに、てらすということも気の毒である。じつと突立つている小山に、お浜はやはりてれたのか、きまり悪そう、そつと小山に寄り添うて、

 「おおこりやしたんだつしやろ。わてえ、悪い女だつしやろ。そんならすぐ車よびますよつて、それまでここで、おぶうでもあがつて行つとくれやす……」

 お浜は、しおしおとして、円い食卓の前に、三人ばかりの女中が、ビール半打ばかりと、七八品の夏料理をはこんで来た。

 小山はつかつかと部屋の中にはいつた。そして白麻の上着を、いきなりぬぎすてた。それを見たお浜はぱつと全身に明るい花電灯がついたようにいそいで立ち上つて、すぐ上着をひろつてハンガーにかけ、小山がネクタイに手をやつているのを、その手をどけて自分で解いてやり、シャツやズボンをぬがせて、

 「ねえさん、すぐお風呂のおかげんたのみますえ」

 といつた。ここは、わかし湯だつた。小山が浴衣に着替えると、

 「あの、このおビールもお料理も、もいつぺん冷蔵庫へ入れておいとくれやす。だんなはん、お風呂お上りやしたら、お電話します」

 お浜は、白足袋をぬいで、腰紐と湯道具を持つて、流してやろうとするのか、いそいそと先きに立つた。

 そのあとからついて行つた小山は、お浜に必ずしもいやらしいみだらななものは感じられなかつた。たよりにしていただんなに、二人の子供をのこされて、とつぜん死んでいかれた若い母が、たれか強い男をたよりに生きていきたいとあせつている気持が、小山の胸を打つのだつた。

 小山は、いままででも、そういうお浜の気持を、幾度きかされたか知れない。

 「こんなお話するのん、わてえ小山はんだけだつせ、そら相談にのつてやろいう方、わてえのようなもんでも、たんとありますえ……」

 それがうそとは思われなかつた。

 小山とお浜は、その夜結ばれた。


   3

 昭和二十年十二月十八日に、第八十九回臨時帝国議会は解散、翌二十一年四月十日総選挙の公示がなされた。小山庄吉はいよいよ初陣に出馬することになつた。これは日本革命史の一ページが書きはじめられる書き初めだつた。

 愚昧な戦争請負人と、その手につかわれた下働人足までが追放されて、戦争の血によごされなかつた清い手を持つた人だけが、この革命後の新しい政治に携わる権利があつた。小山庄吉もその一人としてかがやかしい日本最初の民主主義的政治家の第一歩をふみ出すのだつた。

 小山たちが温泉からかえつたのは十月の末だつた。それまでにはいろいろのことがあつた。それは日本が逆立ちになつたようなものだうた。同月の九日には東久邇内閣が辞職して同日、幣原内閣が成立した。年末までに解散が必至なことは明かになつた。そして選挙区制は全県一区の大選挙区となり、新人の進出が予想された。その新選出議員の新国会では帝国憲法は廃棄されて、世界の五大強国の中にいた日本に、軍備と戦争放棄を規定した新しい民主主義平和憲法が制定されるだろうといわれていた。進駐軍の総司令官マッカーサーは、日本の天皇を宮城(当時の称呼)から司令部の本部へ呼びつけて、巨大な白人の軍服姿と、日本の天皇の貧弱な有色人種のモーニング姿とをならべた写真を全国の新聞紙に発表させた。そして天皇に、自分は人間であると宣言させた。これで日本というものの化けの皮が引つぱがされたように日本民族は感じた。とともに、これはまだ日本が、ヨーロッパの中世的存在だつたことをばくろするものであるが、果して日本民族はそれに大きい衝撃を受けたほど、たしかに中世的だつた。「お召し」の名によつて息子や、夫を殺されたものさえ、そういう天皇を痛ましく思つた。そしてこのことは、かつて日本が朝鮮や満洲を支配して来たように、日本がアメリカから支配するためには必要だつたのに気のついている日本人は少なかつた。間もなく、日本へ視察に来たむかしの朝鮮人や台湾人のように、日本の国会議員は、赤いネクタイをつけたアメリカンスタイルで、得意でアメリカの〝視察〟に出かけた。

 この年のこの月の十日には、日本共産党員が十数年の牢獄生活から解放されて街頭にとび出した。国民大衆は、上野の動物園から猛獣が放されたような気持になつた。ある女学生は、新聞の写真で見た共産党員が普通の人間の顔をしているのにふしぎがつて、わざわざ、彼らの集まつている家屋へ見学に行つたことがあつた。天皇は神であつたが、共産党員は野獣だつた。そしてこの野獣は野獣らしく、檻から出されると、〝天皇制打倒!〟と、長い歴史を持つ日本民族がかつて口にしたことのないことばで吼え立てた。

 音山三之助は、こんな日本になつたことをふしぎともなんとも考えていなかつた。日本がここまで来る必然性のあつたことがよくわかつていた。日本の軍閥が、日清戦争時代の中国だと考えて、中国侵略にのり出した時代錯誤の結果だ。それが同じ侵略の意図を持つていた米英に負けたのにすぎなかつた。こうした日本は、旧組織が全く解体して、新組織の生れる陣痛のときだと思つている。だから戦時中よりもまるでちがつた働き甲斐を感じ、なにをするのにも明るい元気が出るのだつた。パチパチはぜる豆のようだつた。

 県連の事務所にちよつと顔を出して、早い昼飯をいつものように給仕にいいつけて、きつねうどんを一ぱいすすりこむと、きようから小山の選挙事務長になつたようなつもりで、県連事務所をとび出そうとすると、書記が卓子からペンを握つたなりで立つて来て、

 「音山はん、会長がきようは午後から漁網の配給があるから県水(県水産課)の方へ理事長も来てもらいたい、自分は先き行つて待つているいうていやはりましたが、音山はん、そつちの方へ行かれるのんですか」

 新築された水産会館の一階の県連事務所は、正面に会長の卓子があり常任理事の卓子が左右に三つ、音山理事長はその片隅の一卓だつた。会長席も理事席も空つぽで、県水や水産庁出張所へ出向いているのだろう。あとは男女の事務員が三十名あまりもいて卓上電話で応接したり、あつちこつちにタイプを打つ音がやかましかつた。

 「きみに会長がそうことづけしたんか」

 音山はうるさそうな顔をした。

 「いえ、理事長さんは知つているけれど、出てきたらそういえと、会長さんがいやはりましたんで……」

 「漁網の配給なて理事一人行けば十分や」

 そして音山は、さつさと出てしまつた。事務所は海岸通りにあつたが、それとT字になつて、この市の広いメインストリートがあり、そのつきあたりが国鉄の駅だつた。海岸通りは倉庫が多くならんでいる。その間にここの市のめぼしい海産物会社や大問屋、それから農協などがあつた。しかしメインストリートになると全く様相を変えた繁華街で、電車も通り、空襲を受けなかつたので映画館やデパート、カフヱ、小料理店が派手にならび、人出はどの通りよりも多い。

 音山はその通りを幾度となく歩きまわつた。自分で満足のできるような選挙事務所を見つけるためである。といつて、音山が山からかえつたころは、まだ公示もない。総選挙は予想されるだけだが、事務所は候補者の城郭だ。そこで全市の市民の集る目抜きに、華々しくもうけようと考えているのだつた。そのため毎日この通りを歩きまわつていた。あつちこつちと、視角を変え首を振つた。根気のいいものである。

 どうもいいところがない、もちろんあるが盛んに営業している商店、会社、銀行、飲食店ばかりである。それを一ヶ月近く休業させることは不可能である。目抜きの通りなんて言うものは、そう長い通りでない。三十分も歩けば、往来ができる。いつまでも同じことをくりかえしていても仕方がない。といつて、音山はこの通りよか他に選定する気はしない。音山は毎日、県連にちよつと顔を出すと、すぐとび出すのだつた。あんまりそんな日がつづくので、会長席で来訪者のなかつたとき小山が笑いながら、

 「音山君またこれからお出かけやな。毎日どこへ行きなはる」

 音山はまだ小山には話してはいない、いそがしい理事長のしごとは、れいによつて小山がやつている。音山は面倒臭そうに、

 「うん、まあきまつてからいうわ」

 そこに訪問者用の椅子が三脚も空いてあるのに、音山は煙草をくわえて突立つていた。

 「なにがきまつてからなんや」

 そばに理事もいる。

 「まあええ、きようはぼく、きつときめて来る。きみものん気な気になつてたらあかん」

 「……」

 小山には、音山という人間にときどき全く見当のつかないことがある。つまり、小山の世界と、音山の世界にはたいへんなへだたりができたり、また密着したりするのだつた。ラジオがよく聞こえたり、聞こえなかつたりするようなものだつた。小山が立候補を決意したのは、ほんの二三日前である。といつて、小山はそんなこと忘れたように、自分の会社の間をぐるぐるまわつて、いつにも変わらない活動振りである。忘れているのかも知れない。音山はそんな気がした。そしてプイと出て行つた。


   4

 音山は、事務所さえできたら、なんでもかまわない、小山庄吉の存在を有権者に知らす宣伝活動をやつてやろうと意気ごんでいた。小山がどこへ行くのかときくのも無理はない。これで四日目である。

 音山はきようも、いつもするように駅の前に立つて首を振つていた。ここからずつとメインストリートが見通せる。背後の駅は幾本も放射状になつて駅の構内へ集中している会社線の市街電車から絶えず呑吐される乗客で雑踏している。それがすぐ駅前の電車の交叉点へ交流する。電車は、メインストリートの線と、左右へ分れる線で、ここでも逆にしたT字形になつていた。

 右の角は、五階のデパートで、屋上に白地に黒い丸のなかに大のはいつた蓆のような大きな旗がひるがえつている。左角は、ここの地方銀行だ。なんとか貯金で一億円とかまるで一人に一億円くれるような宣伝の大看板を、これも屋上に上げている。デパートの向う隣りは海産物や鑵詰類をぎつしりつみ上げた大店、銀行の向う隣りは、市の警察本署の大きな建物である。どれを見ても手がつかない。

 駅前を左右に分れた電車通りに面した銀行のこつち隣りは、これも大きいガレーヂを持つた自動車屋である。それにつづいて、近ごろ急にふえたアメリカ人向きの毒々しい赤い色の勝つた土産物の店が、駅前だけに、表構の広い、問屋のようで、店先きの道路にまで、大箱を高く積み上げている。その隣りは、ここでは一流の旅館が軒をならべていた。

これではどうにもならないと、音山は少しまいつた気持である。それはきように限つたことではなが、公示は間もないから、きようはもうどうにかきめなければならない。すでに立候補決定したものも多かろうし、その人々が、このへんを選挙事務所にしようときつとねらつているにちがいない。ひそかに猛活動をしているにちがいない。総選挙はなによりも地の利を占めることだ。選挙事務所は築城の地をえらぶようなものだ。これに成功することは、勝利への道だ。いや勝敗を決する鍵だ。

 音山は、つかつかと、その自動車屋の隣りの和洋折衷の、南海ホテルと屋根に大看板のかかつた旅館のポーチにはいつて行つた。きちんとした中年増の美人の女中が出て来た。

 「おいでやす。どうぞお上がりやしとくれやす」

 お客だと思つている。

 「御主人にお目にかかりたいのやが、少しいそぐのや」

 「はい、主人はおりますが……」

 音山は名刺を出した。女中は名刺を見ると、もいちど、うやうやしくあたまを下げて、

 「どうぞお上がりやして、主人へすぐ申し伝えますまでこちらでちよつとお待ちやしとくれやす」

 音山は手軽く靴をぬいで、そこにならんでいる小豆色のスリッパを引つかけた。女中は来訪者用の応接室に案内した。

 南海ホテルは海岸通りにアメリカ人向きの別館を新築中で、なかなか抜け目なくやつている。ここでもポーチにつくりかえ、応接室はぜいたくなセッチィンである。音山とは中学の先輩の息子は、戦前洋行して各国のホテル制度を研究して来た。それが日本の敗戦によつて当てたわけである。

 主人はもう六十以上で鼻下に短かく苅りこんだ白いひげがある。

 濃茶結城の和服に白足袋姿で出て来た。そしてていねいに腰を低くしてあいさつをすると、来意をきいた。

 「さつそくやが田代はん、このホテル、一ヶ月ほど借り切りにしてもらいたいのやが、どうです」

 「へえ……」

 主人はきよとんとしている。

 「それとも、もうだれかと契約しましたか」

 主人は袂からピースを出して一本音山にすすめ自分も抜いて、卓上のマッチで火をつけた。音山も主人のさし出したマッチで火をつけて、プーツと煙を吹いた。

 ポーチの方で、自動車が女中を呼んでいる。客であろう。

 「まだなら、すぐ契約してほしいのやが、どうですか。計算してもらえば、ここで前金でさし上げます」

 音山は小切手帳を用意していた。

 「とつぜんで、どういうお話か、わたしにはなんや、ようのみこめませんが……」

 音山は、自分でも気がついたので苦笑した。

 「そうですか、そうでしよう、少しいそいでますのや」

 音山は、かいつまんで話をした。

 「せつかく音山はんがごひいきにしてやろうとおつしやるのやが、一ヶ月近くも営業を休むわけにはまいりませんのでな」

 「いや、ぜんぜん休業せんでもよろしいのや。営業はやつてもろうたらええのです」

 「貸し切りにしたとなれば、営業はでけません。音山はん、お金がなんぼあつても、そないな派手なお金おつかいにならんかて、音山はんのあと押しなら、小山はんきつと当選はでけますやろ。年寄りのさし出口は失礼やけど」

 「いや田代はん、総選挙というもんは、そんなもんやありまへんで、力いつばい出さんとだれも危い。油断は禁物や。それに、そろばんで割り出せんもんですが、またそろばんで割り出せるもんです。ちよつと矛盾しているようですが、それが矛盾やないのです。金をかけるなら、けちけちして死に金をかけるより、かけただけの金が生きるようにすることです」

 主人は苦笑した。

 「お客さんから僅かの口銭もろうて商売しているもんには、政治運働のことはわかりまへんな」

 「どうです田代はん、思い切つて貸してもらえませんか、損はかけまへん」

 「音山はん、損得よりも、店の看板だすわいな、お隣りの徳島屋はんに当つてみたらどうだす。あそこなら話つく思います」

 「あこは少し陰気で、選挙事務所には不適当ですよ。それにあこまで行くとあんまり片よりすぎています。ここが最後や、是が非でもここを貸してもらいます」

 音山は自分できめてしまつているようだつた。主人は笑つた。

 「息子ともよう相談してみますが、まだ先きのことやさかい、ほかにええとこなんぼもありますやろから、さがしてみて下さい」

 「それがないのです。もう一週間も前からさがしていたんです」

 「……」

 主人はあきれていた。結局、話はつかなかつた。音山はしかし決してここをあきらめていなかつた。


   5

 音山は人力車(がまだあつた)でお浜のところへかけつけた。十畳の座敷はお弟子でいつぱいで、脂粉の香おりのまざつた少女たちの体臭と体温で、むつとするほど生温かい。二、三日にせまる秋の舞踊会は、藤間・花柳と次々に開かれるので、ひけはとれなかつた。きようは舞台稽古からかえつて来て、大阪の家元から来た師匠に、お弟子たちはお小言を頂戴しているところだつた。お浜もつつしんできいている。菊ちやんもいた。音山の姿を見ても、生まじめな顔して、お小言をきいていた。これからお浜や地かたに出る姉芸者の糸で、だめの出たところを踊り直すというので、十畳つづきの舞台の唐紙が双方に押し開かれていた。その舞台の前には、置き屋の女主人や、たいこ持ち、地かたに出る名取りの姉芸者たちが詰めかけていた。

 音山はえらいところへとびこんだものだと思つて、末席にすわつていた。しかしお浜は音山が来たので、家元の師匠にちよつと会釈して、音山を別室につれだした。音山に用件をきくとお浜はよろこんで、 

 「いま弥生さんもお母はんもお座敷に見えています。会がすんだら、わてえがお母はんにたのんで、きつとなんとかしてもらいます」

 といつた。弥生というのは、南海ホテルの主人の孫娘で、お浜の秘蔵弟子だつた。音山はそれを知つていたので、かけつけたのだつた。

 「全部借らなくても、二階だけでも貸してくれるようにたのんで下さい」

 「それだけで間に合いますのん」

 「広いから間に合います」

 「よろしおま。どうあつても貸してもらうようお話します。お金、なんぼたんとかかつてもかめしまへん?」

 「その心配はぼくに任してもらいます。あこが借れたら、ほかの候補者を圧倒しますよつてな。候補者の事務所は候補者の城や。あの家の屋上に大き幟立てて、二階の窓から大きいマイクロホーンでどんどん政見発表演説やすいせん演説やれば庄やん鬼に金棒や」

 「音山はんがついていてくれはるのんで、うちうれしいおすわ、小山、よろこんでいますやろ」

 お浜はわくわくしている。

 「先生、そんなことなにも知らんと、県連の椅子にがんばつてよる」

 音山は愉快そうに笑つた。

 「あれ、なんにも知らはらしまへんのん。のん気やなあ」

 お浜は目を丸くした。

 「候補者はそれでええのや。その代り事務所がきまつたらへとへとにしたる」

 そしてまた笑つた。

 「そんなら、こんばんにも、わてえ事務所かけ合いに行きま」

 お浜はそして不安げに、

 「当選しますやろか」

 「当選させるのや」

 音山は強気にいつた。

 「そらそうと、音山はん、山賢はん、毎日毎日、菊ちやんについて来てはりますえ。舞台に立つときの衣裳、京に注文したりして大奮発や。それに菊ちやん、人の中でも山賢はんにポンポンいいますがな。山賢はんうれしそうににやにやして、お師匠はん、菊公人中でもわいに甘えよるのでかなんいうたはります」

 お浜は笑つた。

 「そらむかし、武田はんがあんたにそんなんやつたやろな」

 「負けた」

 お浜はにげて行つた。

 お浜はとうとう南海ホテルの主人を口説き落した。二階を借り切つてその当時で一日一万円、お浜は三十万円前払いしてしまつた。音山はまた三十万円出して、話のついた日から借り切つた。

 二階から表の高塀についたくぐり門が出入口になつた。二階から大きいマイクロホーンで放送した。

 「市民のみなさん、こんばん午後六時から第三小学校で小山庄吉水産会県連会長の魚価統制問題演説会があります。市民のみなさんは、どうして味ない魚をこんな割高い公定で買わんならんか、そしてすぐそこの海でなんぼもとれているのになんで営養価のあるうまい魚が口にはいらんのか、そのわけをくわしくお話しますからどうぞおいで下さい……」

 といつて、小山は毎晩、市内から郡部にかけて演説会に引つぱり出された。

 その小山の演説は、魚需要者にはたいへんな人気になつたが、しかし全県の水産会は大騒ぎだつた。県連会長が水産業者の不正をばくろするのは怪しからんというのだつた。

 ことに、音山三之助の父の万兵衛はじめ闇流しで大もうけしている旧ボスの一派は、そんな県連会長や理事長は即時辞職せよと迫つた。音山や小山は、水産会を革新して、国民保健の向上を促すのだとがんばつた。旧ボス派は二人の頑強なのを見ると、即時臨時総会を開いて役員を改選せよと叫んだ。

 臨時総会の召集は、会員三分の二以上の要求か、県連会長の権限にある。旧ボス派の数は三分の二に達しなかつた。小山県連会長の演説会は、次々と行われて行つた。いたるところで、盛んな拍手で迎えられた。

 しかし革新派といわれる絶対多数派の中にも、自分等の痛いところを突かれるのだから、まいつてしまつた。その人々が中立派をさそつて、演説の要旨を緩和してくれるよう申し入れた。小山は音山を信頼もし、恩恵も受けているのだが、背に腹はかえられなかつた。

 「もう二三日で公示があるそうやから、まああの会員たちの顔立てて、このくらいでこの演説会、打ち切つてもええ。政見発表演説会には、庄やん、もつと辛らつなところをやるのや。ぼく原稿書いておくワ」

 南海ホテルの二階の八畳の、大火鉢の前に陣取つた音山は、前哨戦が大当りなので、すつかり気をよくして〝ひかり〟の煙を吹いた。お浜は稽古を早く切り上げて、ホテルから夕食をあつらえて、演説会に出て行く運動員にたべさせている。一演説会の宣伝ビラが、その一帯の地域の有権者へ、前日中に一万枚づつばらまかれて、ポスターがべたべたはられた。

 「もつと辛らつなもんて、三やん、あれでまだいかんのかいな」

 小山は抗議を申しこまれるほど辛辣にやつているつもりでいた。

 「あかん、まだまだ生ぬるい、ぼくの原稿通りやつとらん、庄やん遠慮している。そんなことではどもならん」

 「公示公示て、公示があつたらどないな演説するのかいな、いまでもまるで総選挙やつとるようなもんや」

 「総選挙いうもんはな、公示の前は蛇頭や、後は竜尾や」

 「へえ……そらどういうことかいな」

 「竜頭蛇尾の逆さまや、蛇頭竜尾や。初めは少女のごとく、終りは脱兎のごとくや」

 運動員たちはドツと笑つた。小山はれいの二皮目をぐるぐるまわして、

 「そうすると、いまのわいの演説は少女のごとくかいな、これは驚いた」

 「あしたからその少女のごとき、蛇頭の演説会は一休みや。そして公示が出て供託金を納めたら、でツかい竜尾の脱兎のような凄い活動を初めるのや。県連会長や理事長の椅子なてフツとばしたかてなんや。そんな会員に一票も入れてもらわんかて、魚食う全県五十万の有権者がひかえよるわい」

 若い運動員たちは手をたたいた。

 二階から街頭へ向つて、大きなマイクロホーンが呻つた。

 「市民のみなさん、こんばん午後六時から、M町M座に於て、小山庄吉水産会県連会長の魚価統制問題演説会があります。それは市民のみなさんがどうして味ない魚を割高い公定相場で買わんならんか、そしてすぐそこの目の前の海では、なんぼでもうまい、ぴちぴちした、栄養価のある魚が、べらぼうに高うて口にはいらんのかを、くわしくお話ししますからおいで下さい……」


   6

 音山は、立候補者予想の新聞宣伝も抜け目なくやつた。幸い有力紙のこの市の通信部に、大学の後輩がいたので、とても親切な報道をして小山の人気をふつ立ててくれた。水産会県連会長が、水産会の不正を忌憚なくすつぱぬいて、国民保健向上のために、水産会を革新するのだという建前。それが社会党とか共産党とかの、いわゆる革新政党の畑ならふしぎではないが、それがなんと、自由党系だというのだから、ニュース・バリュウは百パーセントになるはずである。全国紙の地方版はもちろん、地方新聞までが盛んに書き立てる。しかし、この人気というものが決してアテにならない。演説会には押すな押すなの盛会でも蓋をあけてみると、一向票ははいつていない。まるで聴衆はなくても買収で地下工作をやつたものは最高点になつたりする。選挙は水物ではない。ちやんと一定の軌道がある。

 有権者の気持というものには、格別に保守的なものがあつて、自分の生活をよくするための正義とか政界、業界の革新とかにすぐ賛成して、必らずしもついて来るものではない。ついて来ると思うものは、国民は、政治上の正義とか革新とかを望んでいるものと、甘くもひとり合点しているものである。もちろんそれもあるが、パーセンテーヂはぐつと低い。多くの国民はそんなことよりも、ナニワブシで語るやくざの仁義や、安つぽい映画のお涙頂戴の義理人情に熱狂するものである。だからもし、小山庄吉が水産会県連会長でありながら、その水産業者の不正をすつぱぬくようなことは、人間としての義理人情をふみにじつたもので、たとえそれが国民健康保健向上のためであろうと、決してゆるされないことだと考えるものが多い。それでたいへん人気がふつ立つているといい気になつていれば、とんでもない誤算を生ずる。音山は、ある年配で、総選挙に経験のある人から、小山の人気について注意されたので、なるほどと、ちよつとあわてた。

 「庄やん、ぼく少しのぼせていたワ」

 音山が夕方、毎日落ち合う南海ホテルの二階で、いささか悄気気味でいつた。

 「なんや、三やん、きように限つてどうしたんや」

 根がぼんぼんだ。はしやいでいるかと思うと、急にまた悄気っる。そばにいるお浜も心配顔になつているし、運動員もなんだろうと、景気づいたおしやべりをやめて音山の方を見る。小山にしたところで初めてのことだ。音山船長の顔色が変れば、心配でたまらない。暗礁にのり上げたのでないかと、ハッとする。

 「庄やん、ちよつとこつちへ……」

 音山が立つて事務長室にしてある六畳の別間につれて行つて、そののぼせていたわけを話した。

 「きみでもぼくでも、甘ちやんやでえ。国民のためや思うてやることが、国民はかえつて反感持ちよる。国民ちゆもんは困つたもんや」

 小山はきよとんとして、

 「そらどんなことやねん……」

 小山にしても水産業者のため、国民のためと、自分の利欲をすてて一生懸命になつているのに、それに反感を持つとは意外である。それが国民だということなら、自分一人で力んでいるのはおかしな話でたしかに甘チヨコである。小山はつづけて、

 「きみが公示後は、竜尾、脱兎のごとくやるんや。わいのいままでの演説、あら生ぬるいから、あかんというたのは取消しか」

 音山は、フフフフと笑つた。小山は、

 「きみのいうこと、さつぱりアテにならんやないか、しつかりしてくれ。わいこれでもしんけんでかかつているのやで……」

 「そんなら、ぼくしんけんにかかつておらんと思うているのか」

 「これは失言した。三やん、そうとつてくれてはぼく一言もない。あやまる。こらえてくれ」

 小山はあわてて、あたまをさげた。

 「そやからぼく、あのばくろはつづけてやりながら、少し有権者に同情されるような宣伝するつもりや。それきみ、了解しておいてくれたまえ、金つこうて、国民のためになる思うているのに、同情求めんならん。厄介な国民や」

 「まあ、親の心子知らずいうようなもんやろかい、わいやきみは、県連でいつもそんな気持になるやないか。それでいても、ついうかうかと、人のためや、国民のためや思うてやりよる。ハハハハ、まあええ道楽や。ばくちや女道楽よりも、少しはましやろかい。きみはその中の極道息子やで。、ハハハハ」

 「ともかくきみ、いよいよ政見発表演説会になつたら、ばくろのほかにたのんだり、少しは泣き落しもやるんやな、落選したら、やつぱり負けや」

 「うん、そやからぼくは政治家には向かん思うているのや」

 「いまになつて、そんなこというてもろうては困る。ほかの候補者が、拝み倒しや泣き落ししているのに、きみ一人、威張りかえつて、すつぱ抜きばかりやつていては落選やで……」

 「きようはまた、落選落選でおどかされるな。しかしや、もうここまで引つぱりこまれたんや、泣き落しでも、拝み倒しでも、なんでもやるわいな。近頃河原の伊達引や。お俊伝兵衛猿まわし、猿は目出た目出たやや。やつてやつて、どんな芸当でもやるわいな。ハハハハ……」

 「小山はん、もう時間だつせ」

 運動員で室外から大声で叫んだ。二人ともチラと腕時計を見た。もう八時だつた。小山はまだ夕飯を食つていなかつた。お浜が生卵を十ほど持つて来た。





第三章 總選擧写生帳第一冊

   1

 昭和二十年十二月十八日第八十九回臨時帝国議会が解散されて、間もなく翌年四月十日総選挙の告示があると、南海ホテルの二階の屋根に高々と「自由党公認、衆議院議員候補者小山庄吉選挙事務所」と大書した、でつかい看板をあげた。そして高性能の拡声器がうなつた。市民はその目抜の場所といい看板といい、すばらしい拡声器といい、とても派手なんでおどろいた。それだけでも、他の多数の候補者を圧倒している。小山庄吉を知つている人でも、こんどの出馬の背景についていろいろうわさした。選挙は水ものではない。また必らずしも、カバン、カンバン、ジバンで決するものでもない。そんな時代はとつくにすぎさつた。あくまでも各層の有権者の生活と心理を理解して支持をつかみ、機宜を得た宣伝と、周到綿密な堅陣を敷いて、油断のない努力をすることである。〝選挙は科学である〟と、選挙事務長を引受けた音山三之助は考えている。

 南海ホテルの二階はH形に廊下がついて、両側の六畳と八畳の二間だけ借りていたが、選挙運動がはじまると、事務長以下全部泊りこみにして、表側十数室を借りることにした。ところで旅館の主人は、運動の華々しいというよりも、騒々しいのに驚いて、これでは裏側部屋へも客は入れられないからと申し出たので、、音山はさつそくに二階全部を借り切つてしまつた。小山はびつくりして、早くもその方に移して事務長室とはり紙をした音山の部屋へはいつて行つた。その部屋は、ここでは松の間と称して特級の、裏庭に面した二間つづきだつた。音山は袋戸棚のある豪奢な床の間の柱を背負つて、デンとあぐらをかき、わんさと来ている、関係書類を、秘書格の女房の光子相手に処理していた。あすのばんから第一回演説会に出るという小山はもうきようからフロックコートなど着こんでさつそうとした姿である。

 「三やん、ええのかいな」

 「なにがかいな」

 「なんのことやもあらへん。こんな派手なことして……」

 「なにがや、ぼくいまいそがしいから、もつとかんたんに、具体的にはつきりいうて」

 「わかりきつていることをわざわざ具体的にいうことあらへん」

 「そやからなんやときいている……」

 やれやれといつたように、手にしていたパーカーをほうり出して、煙草を一本いきなりつまみ出した。

 小山が来たのでそばにいた光子が、

 「お茶でもそう申しましようか」

 と自分の卓上にあつた受話器を握ろうとすると、音山は首を横にふつて、

 「お茶どころやあらへん、きみィ、その書類早く片づけてしまい。あとにまだ山ほどあるぞ」

 といつて、放心したように、ぼうつとした目をして、小山を迷惑そうに、やつと気づいたように、にやりともせず、

 「幸やん、用なんや。フロックなて着て」

 と天井向いて煙をプーツと吹いた。

 「いや、この旅館、こないみんな借り切つたりして派手にやつてええのかいな。ここがなんやつたら、いまならまだどこでもある……」

 「選挙いうもんは派手なもんや。ケチンボのやることやあらへん。派手やない、勝つためや、勝たんならん。そんなことは事務長にまかしとき。候補者はそんないらん心配せずと、政見演説をあたまの中へようたたきこんで、あしたのばんから投票日まで、なにも考えんとスケジュウル通り演説会にまわつてたらええのや。候補者はまあ、あやつり人形みたいなもんや」

 「ふふん、するとつまり事務長のあやつり人形や」

 「まあそう思うていたらええ」

 またプーツと煙を吹き出して笑つた。小山はもつとほがらかに、大口あけて笑つた。音山の大卓子の前にどつかり腰をおろした小山は、上着の内ポケットからハトロン紙の大型封筒を引き出した。

 「演説、あしたのばんが皮切りやが三やん、これぼくに少しむつかしいぞ。なんやわいにはややこしてあたまもやもやする……」

 二三枚めくつて、

 「ええと……目下の国際情勢といたしましては、この第二大戦によりまして、民主主義諸国の絶対的勝利。そしてフア、ファショ……三やん、この英語なんやねん、ニュウファッションということがニューがぬけてるのやないのんか?……」

 夜学商業優等卒業生には、それだけはわかつた。音山と光子が笑つた。

 「奥さんまで笑わんと、ホンヤクしてきかしてえな。三やん、わいこんなむつかしい演説かなん。どうしてもやれというなら、もう立候補辞退するわで……」

 その間に若い運動員が代り代り音山に指図を受けにはいつて来る。音山はそれに一々、テキパキと裁断を下している。

 「ポスターは、制限されてるんやから、有効に利用するんやで。でたらめにべたべたはるんやないよ。ぼくあとからまわつてみるから三分の一くらいのこしておき……。しかし正々堂々とやつてくれ、卑劣な違反はいかんぞ」

 といつたふうだつた。そこへお浜がはいつて来た。きようはめずらしく紺サージのもん平姿である。全身の血がすつかり新しくなつたような感じで、いそいそとして、とてもハリ切つている様子がわかる。音山がしごとをつづけながら、そつちの方には向かずに、

 「お浜はん、この部屋はいるときは、ノックしてや」

 「へえ、へえ、そら悪うおました、こんどからそないします」

 小山が、

 「お浜、お前こんな所へ用はない。きようから運動員にうまいもの食わせて、がんばらすようにするんや」

 「そやから事務長さんにご相談に来ましたん」

 小山は、音山のつくつてくれた原稿をひねくつて、

 「こらあなんやな、県連会長のあいさつとちごうて、わいを代議士にしてくれいう演説やさかい、魚屋にはえらいむつかしいわい。ええと……」

 原稿用紙二百字三十枚ぐらい綴ぢたものをまた最初の一ページをあけてにらみつけている。

 「ええと、……わたくしが、ただいま御紹介にあづけられました、衆議院議員候補者、小山庄吉でござります、か……へへへ、ちよつとてれくさいな。ちよつときまりが悪いな、なんやあいつ、ついこないだまで、魚の出前箱かついで自転車で走りまわつた丁稚が、フロックコートなんて着てえらそうなことぬかすわい……ハハハハ」

 音山はまいつて、苦笑しながら、

 「庄やん、ここでそんなこというていると、ぼくの仕事の邪魔になる。ぼくいそがしいので、ちよつと前に、いそいで書いたんやが原稿むつかしかつたらそんなもんほつたらかして、きみの考え通り、なんでもええからやりんかいな。ぼくが代議士になるのやない。きみが代議士になるのや」

 小山はふふんと笑つて、

 「それがいつもきみの論法や。わいが代議士になろということはわかつているが、わいの思う通りしやべり散らかして、代議士になれるかいな。わいのしやべれるのは魚の値と、水産庁の水産方針ぐらいや」

 「それでええがな、なにも代議士になれるというようなむつかしい演説なてない。このあいだからやつている県連会長のうまい魚安売り演説や、あれやりんかいな」

 音山は、めんどう臭そうな顔して、ペンを走らせている。

 「あんなしようむないことしやべつていたら、だれも代議士なてしてくれやせん」

 「してくれる」

 そばにきいていたお浜は、いつものような二人の問答に笑いもせず、はらはらして、失望したように、

 「やつぱりむりだしたやろか……」

 「それ見ィ、いわんこつちやない、まぐろ船に、くじら取つて来い、いうようなもんや」

 小山がまじめにお浜の顔を見た。音山は光子の清書していた、放送原稿を

 「ちよつと貸し」

 といつて、自分の手元に引きとり、その中から三四行ペンで抹殺して、そこへ新しく書き加えて、また光子の方へやつた。

 「あんまり金ヱつかわんうちに、三やん、ぼく辞退さしてもろうたほうがええ……」

 音山はにやりとして、

 「いまになつてなにいうてんのや。もたもたいうてることあらへん、あしたのばんから、なんでもええから、自分のしやべりたいことなんでもしやべり歩いたら当選するのや。それにそんな十八世紀のフロックなて着ることない。背広でけつこうや。光子、それ早よ書いて、すぐ放送局に持たしてやり。早うせんとええ番とれん。三やん、心配いらん。光子、その放送原稿、わたしが皆さんの清き御一票によつて当選させていただきましたら……の次ぎから二三行、声出してよんで見ィ……」

 「はい、ではよみますよ。当選させていただきましたら、の次からですよ……きつと皆さんに、生きのええ、おいしい栄養分のたつぷりするお魚を、そんなええお魚をいまの公定の半分くらいのお値段で、どんどんとなんぼうでもたべられるようにいたします。そして工場や国鉄、私鉄、電車や電灯、電力、または山林で働いていられる労働者の皆さんや、栄養が取れないので、結核の巣やと云われている農村の方方、それに官庁公署等へ勤めていられるサラリイマンの方々、また毎日自動車でとびまわつても、利薄のために経営の苦しい小売商人さんなどのかたがたの保健、老人、婦人、ことに育ちざかりの子供さんたちの体位向上等になりますように、国会で奮闘させていただきます。それで毎晩の演説会では、ただいまの公定のお魚がどうして高くて味ないのか、そのわけをくわしく話します。……」

 小山もお浜も、思わず手をたたいた。しかし小山は首をひねつて、

 「放送、それでええのかいな。魚、魚で、魚屋演説や、政治演説やあれへん」

 「それが政治演説や。庄やんが代議士になつて国会でその通り働くということになれば、それが政治や、有権者にそう約束するのや」

 「ふふん、それ公約というのかいな」

 「そうや」

 「そんならいままで県連会長でしやべつてまわつたんと同じや。ぼくそれならお手のもんや。思いきり、それやつてええかいな」

 「やつてええどころやない、じやんじやんやりなはい」

 「そえかてきみこないだ、ぼくがあんまり業界をすつぱぬくので、あんまりやりすぎると、いつぱんの人も反感起すさかい、少し手心せえいうたやないか、きみのいうことぼくなんやらさつぱりわからへん。もうつと手きびしくやれいうかと思うとまあ少し手心せえや。いつたい、ぼくどうしたらええのかいな」

 音山は小山にすわりこまれて、いつかな動かないので、目の前の事務の処理もちよつとあきらめた様子で、

 「光子、その清書でけたら、この書類と一しよに上田にすぐ持たしてやつて。持つて行くところはきみ知つているやろ。ちやんと分けてやらんと間違うで……お浜はん、帳場へ濃いコーヒーとケーキを持つて来いいうて、あの薄いやつ、あかんで」 

 「はい」

 と光子が返事して受話器を握つた。

 「そらきみがそう思うのもむりはないが、庄やん、きみが吉武のような候補でないだけに一本調子ではいかん。それでぼくもいろいろと考えるのやが、それをきみにわかつてもらいたいのや」

 「……」

 「こないだからの、あの事実上の事前運動やが、あれはなあ庄やん、まき餌をして魚が寄つて来るかどうかの小手しらべや。ところがきみも知つている通りの凄い人気で、あんまり薬が利いて、会員の中からも苦情が出たんでそれで、ぼくもまあ、ちよつと弱つてきみにあんなこというたんやが……」

 と苦笑した。小山もハハハハと大声で笑つた。

  

   2

 小山は、戦時中から、公然たるヤミ取引きが往行して、優秀品が料理屋、待合、待合兼業の旅館などに流れて、軍人・軍需資本家・その関係大臣・代議士等の口腹をたらふく肥やしているのに、サラリイマンや労働者、ことに工場で深夜業をやつている青少年労働者が、夜業をやめて寝る前に、なにか食いたいと思つても、軍で公定された安い賃金では食えないので、文字通り泣き寝入りしたときいていた。

 またサラリイマンや労働者の家庭では、その安い配給の魚でさえ買えないものが多かつた。小山はそんな家庭へは、あと払いにして配給してやつた。そんなことをしても、やはりもうかつていた。それでそのうち国民のばちがあたると思つた。しかし敗戦で国民も一しよにばちを受けたので、あきれた。

 「そらきみ、ぼくは県連会長なていつでもやめてやるつもりでやつてやつたんや。面白うて、面白うて、戦争中からのリュウインが一度で下がつた。そやけど、それでもきみはまだ生ぬるいいうたやないか」

 「ハハハハそういうた。それはこないだも話したようにな庄やん、きみは国民のためや思うて夢中でしやべりまくつてまわつているが、小山君はこんどの総選挙で立候補するつもりやろうが、その片棒を音山がかついでやりだしよつたら、二人で業界をひつくりかえしてしまいよる。いまのうちになんとかせんならんと相談しているその先頭に立つてカンカンになつているのは、うちのおやじや」

 「そらぼくもこないだきみにきいて知つている。そやからきみが手心せえいうたんで手心したんや」

 「いや、ぼくのそれがまちがいやつた。大まちがいや、そんな妥協してはいかん。断じていかん!」

 「……」

 小山は、音山の顔をながめて、ぽかんとしてしまつた。

 「きみはいまの放送の原稿、光子がよんだのをきいたやろううな、あれでわかつているやろが」

 「………」

 小山には、わからなかつた。あたまの悪くない小山も、総選挙の技術だけはわからないと音山はうなづきながら、

 「なあ幸やん、鯛が釣れる漁区ではぼら釣つてることないやろな」

 「ふうん、あたりまえや。わいになにいうているんや。わい、あしたからいそがしいのんや。きようはこれから演説のけいこせんならん。あたまもやもやしてたらあかん。いうことあるならさつさというて……」

 三人分のコーヒーセットとケーキを持つて来て世話していたお浜と、書きものをつづけていた光子が、クツクツと笑つた。

 小山は女たちの方を向いて、

 「なにおかしいのんや、気色の悪い」

 お浜はなをクックと笑つて、

 「おかしいおまんが、あんたと音山はん、アベコベになつてしもうたさかい」

 「そら三やん、わいにわからんことばかりいいよるよつてや」

 音山が笑つて、

 「ちよつと待ちいな。おたがいにいそがしいとき、そんなこといい合うていたら、らちあかん」

 小山が、

 「そんなら三やん、早よわかるようにいいんかいな」

 お浜が笑いもせず、

 「先生にえらそうなこという幼稚園のぼんさんやな」

 音山はこのへんになると、ふくみ笑いで目をかがやかし、自信たつぷりな口調で、

 「つまり庄やん。きみがいままでにやつていた演説は、漁場ちがいや。つまり沿岸漁区や、そんなせまい漁場はほつたらかしておくんや。もうと広い遠洋に出るのや。というのはやな、主としてあの演説やつてまわつたのは、この海岸地帯の同業者の多いところやつたので、同業者がわいわい騒ぎよつたんや。それでぼくよう考え直したんや。最初のうちは海岸地帯の方は、ともかく有権者の比率は高いさかい、そつちの方に重点をおいて主力をそそぐつもりやつたが、前の吉武とはちごうているのやから、作戦もちがわんならんはずやが、ぼく常識通りやつたんで、あたま打ちになつたんで考えた。ようし全県一区や、工業地帯、農山村地帯の魚食う消費者階級の中へこんなりで押しまくつてやれと思うた。これは庄やん沿岸漁区から遠洋への進出や」

 ううん、いかにもと、小山はうなづいた。やつぱり経験とあたまの良さだ。そこへ音山の秘書の上田がはいつて来た。

 「理事長さん、山下海産の大将が見えています。……」

 音山と小山は、顔を見合わせた。

 「お通り下さいといい」

 秘書が出て行くと音山は、

 「ぼくもう、あしたから、このホテル引き上げや、なんにもできん。アジトはきみにも知らさへん」

 「そんなこというたられんらくに困るがな。きみのほかにだれもかれもちんぷんかんや」

 「ハハハハ」

 と音山は笑つた。そこへ山下は、持ち前の愛嬌笑いをして、秘書に案内されてのしりのしりとはいつて来た。

 「やあいよいよ店開きやな、これはええとこや」

 と、あたりをきよろきよろ見まわして立つている。

 うしろに大学生がついている。

 「まあまあようきてくれやした、さあどうぞこちらへ」

 山下はお浜の出した小山の上座の座布団へ、ヨウ、ドッコイショとすわつた。きょうは仕立ておろしのような洋服だが、ちやんと正座した。

 「さあ山下はん、まあらくに、わたしどもも失礼をしてます」

 小山はそういいながら自分は座布団を押しのけて、あぐらからきちんとすわり直し、手をついた。

 「こないだはまた、なにかと御親切にありがとうございました」

 「いやいや小山はん、こないだいうても、口先きばかりのことや。そのご、あんた方のどちらかに御相談かけてもらえるかと思つて待つてたんやが。いそがしかろうが、お師匠はんでも……」

 と、お浜や音山の方を見た。音山は目のやりばにこまつて、小山と打つかつた。小山やお浜はさては音山は、まだ山下へは行つていなかつたのかと思つた。あのK温泉で自分に立候補を決意させた動機の一つは、山下の申し出でにあつたことは、小山は正直に認めないわけにはいかない。それでいて小山は山下を心から信じていない。むしろ音山の方が山下を信じているようだつた。しかし小山が決意をすると、音山は山下を相手にしないようである。音山はともかくも山下を信じて小山に立候補の決意をうながしたくらいだつた。音山は小山の決意をたしかめてK温泉から帰つて来ると、さつそく準備をはじめたが、

 「ああいうているから、百万くらいすぐ引つぱり出してやる」

 とはつきりいつた音山だつた。そして小山には、金のことについて一口もいわない。小山が五十万円つくつて音山に出すと、

 「金は、きみが心配することない。これから候補者も小使銭が要るから持つていい」

 といつた。五十万出したところで、南海ホテルに払つてしまえば、足が出るのでないかと思われるくらいだつた。小山は、

 「ぼくの小使銭くらい、きみ心配せでもええ、そのくらいな金、運動費の当分の足代や、いま浦上にも少しつくらせている」

 というと、音山は、そのときばかりは、強く首と手を横にふつて、

 「いかん、いかん、きみは演説だけしてまわつてたらええのや。そんなことは一切選挙事務長に任しておくべきもんや。それでないと候補者は全能力をあげて活動することでけん!」

 そのときの音山のきびしい顔は、小山がついぞ見たこともない憤りの色さえ浮かんで、いたので小山はハッとした。小山に、こんな経験は全くなかつた。小山は今から考えると音山は山下の介入をたくみに利用して自分に、決意させたのではなかろうか。しかし、山下を信用していても、金はまだ引き出さないのかも知れない。しかし実は、音山は選挙費は一切自分で引き受けるつもりだろう。やつぱり予想通りだつた。これはどうにも取りかえしのつかないことになつてしまつた。いつぱい食つたといえばいえないこともないが、そうしていつぱい食つたのは、自分があれほど身を固めていたのに、からだのどこかに十分すきがあつたにちがいない。そのすきが、いまではだんだん大きくなつて来たようにも小山は感じられるのだつた。立候補を辞退するなどといつてみたが、音山がまるで問題にしないのも、気味が悪い。人間はやつてはならないと思いながら実は進んでやつていることがある。悲劇はいつもそんな草叢にかくれている。度々ぶつかつた疑問だが小山は、音山がどうしてそうまでして自分のようなものを立候補させたいのかが、また全くわからなくなつてしまつた。こんなことが政治運動というものだろうか。政治運動をする人物には、こんな人物がまだほかにもいくらもあるのだろうか、小山はふしぎでたまらなかつた。やはりそうしてまで自分によい政治をやらせようというのであろうか……そんなに期待させていることが苦しくも、おそろしくもあつた。しかしまた、そう考えすごすこともあるまい。この選挙戦もまだ緒戦である。金はこれからいくらでもいるのだから、山下はあと口にまわしているのかもしれない。きつとそうにちがいない。そう思えば、あたりまえのことである。経済的に底力のある音山が、山下がたとえどういつたからにしても、さつそくかけつけて援助をたのむというようなことは、音山にしてはできないことだし、またするまいと考えてみると、なんでもない常識である。そんな常識に気づかずに、あれこれといらぬことまで思いわずらつていたのは愚だつた。小山は、それで山下へていねいにあたまをさげた。


   3

 「どうも山下はん、ありがとうございます。なんしろあんた、やつとまだ手をつけたばかりで、わたしがなんにもわからんさかい、音山君一人でなにもかも引き受けていてくれますので、へえ、へえありがとうございます」

 小山はそういつたが、いづれうかがいますともいわなかつた。音山は、たえず差図を受けに来る運動員に相手になつているし、お浜は自分で立つて、山下と大学生のコーヒーやケーキをはんこんで来たり、ピースに火をつけたものを山下にすすめたりしている。表では、たえずマイクロホーンが動物園式にうなつている。

 「あなた、この表へ書きこむ金額、そちらで計算して下さる?」

 と光子が音山へ見せると、音山は手に取りもせず、首だけのばして、

 「そらおまえ、決算報告書や。選挙がすんでからでええのや」

 そこへ秘書がはいつて来て、

 「理事長さん、困つたことがでけました」

 上田は理事長の秘書である。

 「なんや」

 と立つている秘書に音山が顔を上げると、

 「H区へはる百枚のポスター、途中のバスの中で紛失したので、あわててハイヤーで見つけまわつてみたが、無かつたそうやいうています」

 「エツ、検印もらつたポスターか? ポスターは定数千数枚よりないのやで……」

 音山は目をみはつてびつくりした。小山もお浜も光子もハッとした顔色である。

 「はい、H区へはりに行つたんです」

 「そら外の候補者の運動員に盗まれたんや。それにちがいない。えらいことやつてくれたな。何人で持つて行つたんか」

 「二人です」

 「二人とも居眠りしていたな」

 「そうやそうです。二人は正直にそういうています。そしてバスの中にいたもんが、そのハトロン紙の包みなら前の停留場でだれやら持つておりたいうていたそうです」

 「そんなこと二人でみんな白状しているのか」

 「はい」

 「しようのないやつや」

 「いえ、音山はんになんでも正直に白状したら決して叱られやへんから、ぼくに行つて来てくれいいよるんです」

 音山が苦笑して、

 「こないだから、睡眠不足やつたからむりない」

 みんなうなづいた。小山が、

 「若いやつが自分の船に穴あけてよるのも船長が悪いのや。叱るわけにはいかんわい」

 山下は、

 「選挙も魚の統制とおんなじやな。千枚よりないのに百枚も盗られたらかなわん」

 そして山下は、その二人の名を、秘書もいわないし音山もきかなかつたので、感心した。するとさつきからだまつていた、山下のつれていた大学生がとつぜん、音山と小山の顔を見まわしながら、突つこむようにいつた。

 「ちよつとおききしますが、小山さんはどうして自由党公認で立たれたんですか」

 不意をくらつた二人は、学生の方へ視線をやつたが、音山はうなづいた。そばにほうりだした帽章だとどこかの国立大学である。

 「君どこの学校や」

 「東北です。山下君とは東京の中学(旧制―作者)時代に一しよだつたんです」

 「中学時代は仲よくなるもんさ」

 音山はまたうなづいた。山下は、うれしそうに自分の息子のように学生の顔をながめて、

 「この麻見君は、継男の親友で、麻見君は継男のかたき取つてやるいうていましたんで、わいが小山はんの応援に来てくれいうて電報打つたら、特急で来てくれましたんや……」

 山下は、ぼろぼろ涙をこぼした。学生もキラキラ光る美しい目から涙をほとばしらせた。またK温泉のときのように、みんなはしゆんとしてしまつた。音山はすぐ手をさし出して学生の手を握つた。

 「それはありがとう。それにいまのきみの疑問は正しいよ。ぼくらは一言もない。小山候補は、社会党か、きみらなら共産党から立てたかつたんやろ。それがあたりまえや。ぼくも小山君もそうしたかつたんや……」

 そこまでいうと山下はもちろん、お浜もあきれて音山の顔をながめた。ことに小山はいつもの二皮の丸い目をぐるぐるまわして、たまげたり、苦笑したりしている。まだそこにいた秘書は、にやにやしている。光子はおかしいのでうつむいてしまつた。音山は、

 「だがねきみ、日本はまだ、小山君がそんな党から立つてて当選がでけるほど進んでおらんのや。そら当選するところもあるで。それは東京や大阪の進んだところや……」

 「そんならそこでやつたらどうです」

 みんな笑つた。

 「そうもいかん。条件がいろいろあるのでね。これはたれにもわからん現実の問題やが。政治運動は思想運動でなく、現実に即してベターコースをとるべきや」

 「しかし保守反動の党などで立たない方が革命政党に有利になるでしよう」

 「そういう消極主義は問題だよ。それにここにはきみのいう革命政党の候補者は立つておらんから、不利も有利もないよ。そして保守主義者必らずしも反動じやないからねえ、保守主義の中に現実主義的な健全な進歩があるのや」

 「それで保守党から立つたんです」

 「その通りや、保守党の中にも正直な候補者を送ることが必要や。保守党の中へ、悪質な候補者と、良質候補者を送ることは、国民にとつてどつちが利益や」

 「少し甘いと思いますね。一つの政党にいれば代議士もきつとグレシヤム的法則で良貨は駆逐されるでしよう」

 「もちろん、その危険もあるが、ぼくは保守党を支持する国民の審判でも、現在の敗戦で目が開いて来たと思うよ。いまの日本国民の大部分は正しい保守党を望んでいる。日本の保守党は、イギリスの保守党のように正しい意味の保守党やないからな―私欲のための私党で、政権亡者の利権党で公党やないね。それを健全な公党にするためには、国民とともに、内部からたたかわねばならないのや」

 「そんな私党は、直ちに粉砕すべきでしよう!」

 音山は笑つて、

 「そうのみみたいに、すぐひねりつぶすわけにもいかん。日本の保守党は、大蛇のように昔からのたりのたりと国民を丸のみにして来よつたから、とても強いようなつとる……」

 みんなまた笑つた。学生はぐつと唇を引きしめた。音山は熱心にしかしやさしい微笑で、

 「わからんかね。それはきみ、日本はきみらの考えるように進歩しとらんし戦争にコリコリしている。そやから国民は、共産党のいうようにすぐ革命戦争をやられたりしてはかなわんとふるえる。きみらは、このいまの国民の気持、わかるかね」

 学生は固くなつて、お浜がコーヒーを持つて来てすすめたが手も出さない。

 「しかしこの日本敗戦には、もちろん、そんな一面ばかりやない。こうして日本を破壊した政治家の愚昧や。軍人が国民の人間性をふみにじつた凶暴性にたいして、強い抵抗となつてあらわれている。それがきみらの周囲の社会党や共産党、労働運働の凄い勃興となつているのやな。しかし遠い将来は別として現在は、太田道灌が河を渡るときの歌のように、浅き瀬にこそ仇浪は立てや。上の上は沸こうとしていても、底は水や」

 「……」

 学生はやはり熱く硬直している。音山のいうことに不満であることはわかつているが、といつて論陣をはるほどの自信もないらしい。こうなると音山は相手がなつとくするまでなかなかやめない。盛んな征服欲をもつている。小山もときどき引つかかるが、この学生は小山のように巧みに体がわしはできない。金があつてもおやじがケチで小学校よりでなかつた山下は、わかつたところも、わかつたようなところも、また全くわからないところもある。本屋の看板みたいに三色がグルグルまわつている。といつても、戦争反対の話だということだけはわかつていた。ただ東北から学校を休んで応援にかけつけてくれたのに話の折れ合いがつかんようで、気の毒に思つている。その気持はお浜もあまりかわらない。光子は、話がわかるので学生は可哀想だと同情しながらも自分も学生にもためになることだと、じつときいている。そこへ運動員が違反かどうかをききに来る。音山は改正選挙法を出して、これを見よ、そつちへ持つて行つてしらべよといつて、学生の方へ

 「そらなあ君、東京では労働者やきみたち学生がブカブカドンで、赤旗ひるがえして宮城や首相官邸ににえらいデモやつとるが、田舎ではびつくりしとる。あのロンドンのチャテイスト運動のときや、オーコンネルが、都会には闘士叫び、田園には永遠の沈黙ただようといつた有名演説をしたな、きみも知つているやろう」

 「……」

 「知らんかい。そのオーコンネルのいうた田園は、日本では全国の八十八九パーセント占めている。この田園に住む国民が民主化せんことには、日本は決して民主化せん。なかなか容易でないことや。骨の折れるしごとやが、なんぼ骨が折れても、民主化運動は日本人はみんな力を合わせてやらんならん。それにはきみらのように気短かではいかん。ローマは一日にして成らずや。田園の住民―つまり農民やな、農民の人々の中にはいつて、ぼつりぼつりと、牛になつたつもりでやるのやな。それにはきみのような青年が必要やが、あのナロードニキのような失敗したらあかん。ナロードニキも大きい役割を果したが。……きみ、ナロードニキいうたら知つてるやろ。ナロードニキぐらいは……」

 学生は、少し硬直をやわらげて、苦笑した。

 「知つています」

 「君の生れはどこやね、失礼やけれど」

 「東京です」

 「そうやろうなあ。まあこれからしつかりこんな田舎で勉強してやつてくれたまえ。いまいう通り、国民は長い戦争にあきあきして、平和をのぞむというよりも、安息をのぞんでいるのやな。出征した人達の遺族は、夫や息子が早うかえつて来てほしい。荒つぽいことばや、血なまぐさい話はもういやだと思つている。その耳に、闘争や革命やと、わんわんどなられては。ゾツとする。もちろんぼくらでもきみらでも、そんな労働者の気持はようわかるが、いつぱんの国民はみんなびつくりして逃げよる。こんどの総選挙でも、やつぱり保守政党の方がきつと絶対多数になると、ぼくは思う」

 「そんなことになりますか……」

 学生は、意外なことをきくように目をみはつた。そしてやけ気味にでもなつたように、いきなり自分の前へおかれたドーナツを丸ごとガブリ、ガブリとやつた。黒い制服の膝に、細かい砂糖がフケのように落ちた。

 「では、きみはどう思う」

 「そらもちろん革新政党でしよう」

 「絶対多数になるのやで?」

 「そうです」

 学生は肩をそびやかした。

 「ぼくは、こないだ東京へ行つて来たがな、あの凄いデモ見たら、だれでもきつとそう感じるだろうと思うたな。しかしぼくが今いうたオーコンネルの演説で、まだわからんかな……」

 さすがの音山も少し説きあぐんだ。学生は少しけいべつするような目と唇で、

 「それは、時代がちがいます。いまは二十世紀も半ば近くなつています」

 「とすると、日本は一世紀前のイギリスではないということや」

 「そうです」

 「いかにも、科学文明はどこでも進んでいるな。しかしいまの日本の農民は、あのころのイギリスの農民より進歩していると、きみは考えるかい。まあもつと農村へはいつて現実を見聞してくれたまえ」

 「……」

 「さあ、もうそんなこといつていても切りがない。いそがしいことが山ほどあるのやから。きみもしつかり働いて下さい」

 音山が書類を引き寄ると、

 「ぼく、自由党公認の候補者には、どうしても働く情熱が持てないんですが……」

 「いかにも、ごもつともや。それならやむをえん。遠いところをごくろうさんでした」

 音山が頭をさげると、みんなも頭をさげた。しかし学生は、

 「ぼくの感じはそうですが、山下君のお父さんの気持もわかるし、選挙事務長さんはズブの保守反動主義者じやないと思いますから……良心的なのもわかります」

 秘書がはいつて来て、音山の卓子の前にすわつて用件をいおうとしているところだつたので、にやりと笑つた。秘書は音山の学校の後輩だつた。

 「そう見てくれるのは光栄や」

 と、音山や小山も笑つた。山下はなんのことやわからんのでへんな顔でいる。

 「それではぼく、どうして小山さんが保守党から立たれるのか、その理論的根拠をきかせてもらつて、なつとくがいつたらやらしてもらいます。それにぼくの要求もあります」

 「けつこう、けつこう」

 音山はこんどは書類を整理して、光子と秘書に仕事をつくりながら、

 「つまりやな、ぼくがさつきからしやべつたことを、もういつぺんくり反えすことになるのやが……」

 とやはり書類に目を通して、二人に分け、二人へかんたんに説明を加えてから、煙草に火をつけ、ひとふくみして濃い煙を吹くと、ゆつくりした口ぶりで、

 「ぼくの考えでは、人間にはやな、原始時代から現在の資本主義社会まで一貫した生活的本能というようなものがあると思うている。その一つは保守的生活で、いつも安易な現状維持を望んでいる。これはもちろん私有財産制の中から生れたもんやが否定はでけん。否定してもそれが現実やからどうもならん。これがまた平和な生活をのぞむ要求とつながつている。それが政治的に集中されたもんが保守党や。そやからその根は深い。そのため、私有財産制の下では、保守党はなかなか滅びん。ぼくらは、この保守と革新の両政党がまあ弁証法的にや、お互に切磋琢磨して、立派な政党に育成されて、あくまで暴力によらない平和な議会主義(バアリアメンタリズム)で民主的に社会が進歩するよう望んでいるのや。甚だ粗漫な理論で、きみには不満足やろうがまあぼくはぼくなりにそう考えている。まあ一つ、保守党公認の小山庄吉候補が、どんな演説をするか、あしたのばんからきいてくれたまえ」

 音山は、この問題では、彼自身でもかなりなやんでいた。小山庄吉の政治家としての将来についても、深く考えねばならなかつた。しかし前会長吉武三郎代議士の動かない地盤を基礎とすることが有利であると見なければならなかつたし、県の党支部も公認を決定していた。特に経歴のないものは、それが総選挙に初めて立候補する常識であり、現に社会党や共産党から立ちたいものでも、父や、先輩が追放されたり死んだりしているので、その地盤の保守党から立つているものは多い。そういう人の中には比較的良質なのがある。


   4

 やはりなにかと事務長室に出入りするものがあり、音山もその相手にならねばならんので、部屋の空気は始終ざわついている。しかしそのなかで熱心に語つている音山と学生は、雑草の間にまじつた二本の灌木のように感じられた。学生は、音山のいわゆる理論的根拠なるものをじつときいていた。きいてしもうと、

 「階級闘争否定のパァリァメンタリズムですね。平和革命論ですが日本の共産党だつて同じようなこといつているんですから、一応きいておきます。しかしあなたも、薄ぺらなジァナリストや、無学な代議士たちのいつているような十九世紀的イギリスの二大政党対立論者ですか」

 「そういうふうにきこえたかも知れんが、そうやないよ。たとえばやなあ、二十世紀に入つてからでもドイツの社会民主党の社会政策を保守党政府が先手を打つてどんどん実施したな。保守党でもああいう方針でやらせたいな。日本の保守党がやれたら、えらいと思うな」

 「吉田茂は、ビスマークほどえらい政治家ですか」

 「吉田茂に限らん。ぼくは日本にそんな保守党が国民への公約を忠実に遂行する勇気があれば階級闘争を克服して、国は進歩するとぼくは信じている」

 「そうですか、あなたがたにはそう考えられるでしようねえ。その良心は尊重します、わかりました。では大いにやります」

 学生は肩をゆすつた。

 「ありがとう、たのみます。しつかりやつて下さい」

 音山はのび上がつて、再び学生の手を求めた。

 山下はむずかしい話でさつぱりわからないが、二人が握手したんでほつとした。そしてうれしそうに学生の方と音山の方へあたまをさげた。

 「大きに、大きに。これでやつとわいも元気が出たわい」

 そして上着のポケットからのしをつけ、水引きをかけて「祈必勝」と書いた金一封を出した。

 「これ音山はん、小山はん、ほんのわずかやけど、第一回払込みや、あとはぼつぼつやが、しかしいつたらいつでも遠慮なくいうておくなはい。どうぞしつかりたのんます」

 その金一封を音山の卓子の上にのせて、自分は畳に手をついた。

 「いや、これはどうも、ありがとうございます……」

 音山はきまり悪げにあたまへちよつと手をやつた。それからあとしざりして山下と同じように手をついた。小山も、お浜も同じように手をついてていねいに礼をいつた。ともかく五百万円まで出すというのだから、第一回払こみとすれば小切手で百万くらいだろうと、だれも思つた。音山は、

 「実は山下はん、小山君はこんど、立候補しても、どなたにも御援助は受けん申しています」

 とあたまを上げるなりいつた。

 「わいはこんどは音山君に、ひとさんのお力かるのやつたら、立候補せん申しましたんや」

 小山もいつた。山下は意外なことをいうといつたふうに首と手をふつて

 「そんなことあるもんやない。そらあんたこういうことには、だれにしても寄付ウ金集めますやないか。それやないと、金ヱなんぼでもいるさかいな」

 そして部屋の中を、あらためて見まわして、

 「えらい派手な事務所や、ホテル全部借り切りだすかいな」

 「二階だけだすが、席料ははります」

 小山が相手になつている。もう音山は事務室から全部退去を命じたいような顔して、卓子にかぶりついてしまつた。山下はなかなか帰ろうとしない。

 「お師匠はん、こんどはお師匠はん、秋の大会のようなもんやないわい。小山はん落選さしたらお師匠はんの顔丸つぶれや。ハラ切らんならん」

 「ほんまだ、ほんまだ、女のハラ切りや……」

 そういつたお浜の顔には、気の毒なほど不安な色がうかんでいた。そんなことをいうものは、ここでは山下のほかにいなかつたので、お浜は痛いところでも突かれたふうだつた。なにも知らなかつたのか、光子はチラとお浜の顔を見た。お浜はなにか自分が落度でもしているような口調になつて、

 「そやけど山下はん、わてえみたいなもん、ここへ来ても、なにも間に合いまへんがな。どうしてええのやら、ただうろうろして、ひとさんのお邪魔になるだけだすのん……」

 全くお浜は自分の無力をかこつように心細そうだつた。いつも着飾つて、若いお弟子たちの前に美しい女王のようだつたお浜が、紺サージのもん平という意外な身固めして、女中代りにコーヒー運びしているのも、彼女の平常を知つているものには、いじらしい感じだつた。

 「ハハハハ、秋の会はお師匠さんのひとり舞台やつたが、やつぱり餅は餅屋や。初手の見習いや。それでお師匠さんはよろしいがな」

 「それでわてえ賄役引受けてまんのやわ。御飯たき婆さん、なかなかせわしいのうおまんで……」

 と笑つた。仕事に熱中している音山も顔をあげて、

 「いやいや、お浜はんは、そんな事ばかりやない、なかなか働いてくれる。このホテル借れたんもお浜はんの力や」

 「ハハハハ、お師匠はんのその姿、戦争中のようや思つたら賄役やつたのか、ごくろうさんや。一菊もお師匠さん応援するのやさかい、投票日まで、附けぱなしにしておいてくれいうてききよらん。あしたあたりから、もん平はいてやつて来ますで」

 お浜がいうと、小山も音山も驚いた。山下がにやにやして、

 「貞夫くんどうしてつれて来なはらんのや。いまから見習さしとくことや。こんなとこよう見せておくのやで。そのうちやらんならんから」

 「あしたの晩から演説会につれて行こ思うてありますのん……」

 「ああその演説会ですがね、事務長さん、ぼくやらせてくれるのでしようね」

 さつきからしばらくだまつていた学生が、またとつぜんいつた。

 「やつてくれたまえ」

 音山はペンを走らせながら答えた、

 「ぼくは徹底した反戦演説をやりたいんです。帝国主義打倒、天皇制打倒です。いいですか」

 「……」

 音山はだまつていた。



第三章 總選擧寫生帳第二册

   8

 南海ホテルの狭い横路次の大きいコンクリートのごみ箱などのあるくぐり門をはいつて、高塀の内側を裏の方へ二三十メートル行くと、十畳の女中部屋があり、隣りに女中たちの浴室がある。女中は、十二三人おり、ここに住まつている。ある夜ここへドロボウでないドロボウが忍びこんで大さわぎだつた。洋間には英語の達者なボーイが三人ばかりいて通勤である。この女中部屋を借り切つて、女中たちを隣りの徳島屋の一室へ移つてもらい、合法、非合法まぜて、百五六十人の運動員たちの二十日間の食堂にあてることにした。代り代り来るからどうやら間に合つた。浴室のすぐ横に物干場があり、そこへ大きいテントを何枚もはつて、炊事するものが一服するところまでもうけ、釣鐘ほどもある飯たき釜を三つもすえ、ゴタゴタと新しい炊事道具をならべた。菰かぶり二本、米三十俵ばかり積み上げ、ガスと水道から水を引いた大きい料理場へは、魚屋と肉屋が毎日来る。あたりは八百屋のように野菜がほうり出されている。

 「お師匠はん、うちビフテキ焼くのんコックさんより上手ですやろな」

 菊ちやんである。赤がかつたネッカチーフで洋髪をつつみ、白い割烹着の腕までまくり上げて身を固めた甲斐甲斐しいいでたちである。フライパンへ、クッキングでない高級食用バターを泥土のようにぶちこみ、有り合わせのすりこ木で生豆腐のような白い膏が太い縞になつて出ているたくましい肉を打ちなめし、食塩を軽くふつてジュウ、ジュウと音を立てている。それを中身がまだ赤いうちを見はからつて、皿に上げる。手つきは手に入つたもので、舞妓上がりの若手芸者とは思われない。そこには二十人あまりの男女が働いていて、ごつたがえしたが、菊ちやんの姿だけがくつきりと浮き上つていた。

 男はなにかとからこうし、女はそれが気にくわない。しかし菊ちやんは、男は蛇だと思つている。

 「はあ、どこでおぼえたんかしらんが、わてえ感心しているのんやわ。そやけど、バターあんまりぎようさん入れるさかい、バターフライさんやわ」

 そばでポテトウや玉ねぎを大鍋でフライしてたお浜が笑つた。みんな笑つた。お浜も白い割烹着に髪を白手拭でくるんで、二の腕までまくり上げている。菊ちやんと同じビフテキを焼いていた松半旅館のお高はんも、も一人日本でも有名な〝Sのビフテキ〟といわれている店のコックだつた老人もビフテキを焼きながら笑つた。百五六十人前のビフテキは一人で焼けないので三人がかりだつた。しかし老人がいちどに三つのフライパンで、とても上かげんに焼くのにはかなわなかつた。お高はんは、山の湯で音山がビフテキが一番好きでそれからオムレツやフイッシュフライなど好きなものを、音山の指導で焼いていたので、自分で進んで主人にひまをもらつて投票日まで応援することにした。これはもちろん小山の応援であるが、気持のウエイトは音山だつた。菊ちやんは、山の湯に行つてみて、お高はんの音山にたいする気持を玄人らしい敏感さでそれとさとつて、山から下るとSのコックだつた、老人の家にかけつけ、ビフテキの焼き方を習つた。山賢のだんなにお花のつけつぱなしにさせて、ここへ来てハリ切つている。寝るのはお抱えの置屋で、だんながどこからよんでもいそがしいといつていかなかつた。といつて事務長の部屋には決して行かなかつた。お浜がすいをきかせて、音山にビフテキがさめるからとか、熱いコーヒーを持つて行つてやれというと、

 「お師匠はん。そないうちばかりオウさんのところへ行つたら、これや、これや」

 菊ちやんは、人さし指一本でツノをあたまに立てた。音山の細君の光子がいるからだつた。光子は前会長のころからで選挙事務はヴヱテランだつた。

 「菊ちやん、ここでオウさんなていわんほうがええわ」

 ここでお浜はなんども注意した。菊ちやんは、ペロリとベロを出し、肩をすぼめた。

 「あ、また忘れた。そういわんと、うち気分でんの、事務長はんなて口から出て来んのやわ」

 そしてフフフフと笑つた。

 「それなら音山はん、おういいうたやろ。当選祝のお座敷のときまで、たのしみにのこしておくのん」

 「音山はんいうも同んなじや」

 「あんた事務長さんのお部屋へ行つても、奥さんもごいつしよにというたらええやないのん……」

 「いや! コーヒーならええけど、オウさんにうちのビフテキほめてもろうて、ごはんたべはるときだけでもねき(そば)にいてお世話したいのん……」

 お浜は笑いもしなかつた。もちろん経験がある。

 「これこれ、肉の焦げる匂いがするど。そんな焦げ肉、食わしてほめてもらえるかい」

 老コックが笑つた。

 お高はんは始終だまつて手先を働かしていた。お浜は、菊ちやんと公平にお高はんにも行けといつた。しかしかの女は決していかなかつた。音山がおりて来ても、菊ちやんが自分のつくつたものを持つて行くと、お高はんは自分のものはほかの運動員にまわした。お高はんは山からおりて来てまで音山に食べさせたいと思つているし、音山も自分の好みにしつくり合つたお高はんのつくつたものを食いたいらしいが、菊ちやんが音山の顔を見るなり、いきなり元気のいい声で

 「オウさん、ちよつとまつとくれやすや、すぐ焼きたてのあげますさかい……」

 そして顔に血をのぼらせて、一生けん命はりきつてつくつたものをジュウジュウ音のするフライパンごと大事そうに、しかしいそいそとして持つて行つて、

 「うちのつくうたん。味無うおすやろ。うちの焼いたのん焼かた悪かつたら、なんぼでもそういうておくれやす……」

 と、そばにすわつて音山の顔に見とれた目でうれしそうにのぞきこむので、その菊ちやんを感じて、皿の中をみつめ、いそがしそうにナイフを使い、調味台から調味をえらんで、一切り口にほうりこむと、

 「うまい、うまい、えらい。上手になつたもんや。しかしれいによつて、ナイフが切れんな」

 と唇をゆがめて菊ちやんがバターをこつてりと壁土のようになすくうたパンをむしつてほうばり、次ぎの肉の一切りをやはり唇をゆがめて切つている。

「ハハハハ日本の洋食屋は、ナイフの切れんことで、世界で有名や」

 と老人が笑つた。菊ちやんはそれが自分の責任のような顔をして、

 「うち、おとついDデパートへ、舶来のもんすぐ取りよせてくれいうときましたんやが、取りよせたらすぐ持つて行くというてましたのん。また持つて来いしまへん。なんなら、うち大阪のHデパートへ取りに行きます。あこならきつとおますやろう」

 音山は笑つて 

 「それにあおよばん。薄刃庖丁で間に合わしておき」

 菊ちやんは二枚目のパンにバターをなすくりながら、

 「うまい、うまい、上手になつたなあて、うそだすやろう。そないおべんちやらいやはつたて、うちちやんとしつてますがな。ほんまにしいしまへん……」

 たれかさんのつくつたもんやないと、お気に入らんのだすやろ……と、そこまでのどからムラムラとこみあげて来たがグッとのみくだした。音山はそんなこときいていないように肉を切つてほうばり、また肉を切つた。菊ちやんのつぶらな目に、しんわりと涙が光つた。いそいでリンゴをむいて、菊ちやんがコーヒーわかしでわかしておいたコーヒーを、音山好みのブラックですすめた。音山は健康に悪いといつて、あまり熱いものは好まなかつたのでコーヒーのわかし加減もむつかしかつた。リンゴも一切猿のようにいそがしく食つた。こうして音山が食事をするのは、まるで器械が操作でもするようでむだがない。菊ちやんがそばにいられるのは、わずか二十分足らずだつた。その間も音山はほんの一口二口しかものをいわずに、食事が終るとポケットをさぐつて〝光〟を出すと、菊ちやんが自分のライターを鳴らして、音山にさし出した。だまつて火をつけ、プーッと一線吹き出すと、

 「ごつつおさん」

 と立つて、さつさと階上へあがつてしまつた。運動員は、十五六人の長い卓子の前にあぐらをかいて同じもので食事をしていた。お浜とお高はん、手伝に来ている小山の会社の浦上支配人の細君や娘、小山の長女の他家にとついでいる静枝、音山の未婚の末の妹などが世話をし、外に、進んで手伝に来ている音山家の出入りのもの、雇入れた女たちなど二十人あまりが、テントの下で握り飯をつくつている。これは大阪からバス二台を借りて来て(当時は制限がなかつた)候補者と、推せん演説をやる名士や運動員たちをのせてとびまわる人々に食わすものだつた。

 いよいよ運動がはじまると、この炊事場は大中の酒樽、醤油樽、箱のウイスキイ、米俵、薪炭、皮をむいた豚に解体できる牛肉屋の店員をつけたもの、牛肉。片ももなど凄いのもあり、鑵詰、ソーセージ、ベーコン、バター。魚類は大袋や、箱入りのかつお節、魚河岸のように、かつお、ぶり、まぐろがならび、大たいが三宝にのせてはこばれる。すべて〝陣中御見舞〟とある。テントはもうこれ以上は入れられない。置場がないので、十畳の食堂が、二分の一、三分の一になつてしまつた。

運動員はおりて来て、

 「やあ、えらいこつちや。領土侵略や!」

 といつても、顔はうれしそうである。よろこんだお浜は音山に、

 「景気よう表へ積み上げまひようか」

 といつた。音山は笑つて首をふつた。

 「舞いの会やあらへん」

 光子の実父大高尭人より五万円、潔より三万円、光子三万円、山下賢太郎一万円(たつた!)、菊ちやんでさえ(山下に―それといわず出させたものだろう)五千円、松半旅館二万円、同女中一同一万円、お高はん一万円、水産会県連は、小山の演説でもめているのでまだきまらない。ただし、県連理事会は十万円、事務員は一万円だつた。小山、音山に恩のある会員は、いづれ県連からといつて、個人的に物品で持ちこむ。小山の夜学商業の同窓会一万円、クラス会一万円、南海ホテルの主人もだまつていられないので一万円、音山の中学の先輩の主人の長男が五千円、お浜の愛弟子の弥生が母とともに五千円、その他の物品は、小山、音山、お浜の三家の出入商人三家をお得意にしている銀行、商店などである。音山は、どこでもするようにそうした金や物品の寄贈は、れいれいしく金額や物品と名前を書いたはり紙を決してはり出さないし、物品を表に積み上げるようなことはしない。

 「そんなことするもんは、日本人だけや。ぼくのクラスの中国人が神社仏閣に大きい木札にそんなもん書いてあるので笑うていた。ヨーロッパに留学した教授たちにきいてみても、見たことがないというていた。心からの親切でしてくれるのでなくて、ミエにしてくれる人なら、してもらわんでもええ……ぼくは日本人の気持がわからん」

 といつて調子だつた。お浜が小山に、表飾りに反対されたと笑うと小山も笑つて、

 「ほほう、音やんらしいな、それが音やんのええところや。いつも人とはいうことがちごうている。わいでもそうして景気つけたらええ思うているのやが。夜学に会話教えに来よつたイギリス人が、右の手でほどこしたことを、左手に知らすなと、ヱスキリストさまがおつしやつている、いうていた。ハハハハ、音やんヤソ教や」


   9

 南海ホテルの二階の選挙事務所は、どこもごつたがえしているが、ここはそれほどでもなかつた。といつても、百五六十人もいる運動員である。それは音山の指導が科学的に統制されているからだつた。二台の街頭演説バスは選挙区内を甲(推せん)が先に、それから十分ほどして乙(候補者)がまわる。推せんバスは、名士も乗つていて候補者の人物や政見を紹介して聴衆に十分興味を持たすのが役割である。それには多角形なこの候補者のユウモラスな面白味のある一面、それでいて皮肉でしんらつな雄弁家である一面、また、親切な、涙もろい一面あくまでも強い一面、あくまでも正直で、その正直のためにとても強い一面、尾崎行雄が、「正しきを踏んで恐る勿れ」といつたことばを引いて、候補者がそれそつくりの人物であることなど、その一面一面を簡潔に、抜目なく、しかも情味たつぷりに、音山が原稿を書いて、運動員一人一人にその人がやる分を持たせて、代る代るリレー式にやらせる。運動員がくどくどと政見をのべる必要はない、政見は候補者がのべる。推せんは、そういう公約をする候補者の人物を推せんして、こんな候補者を当選させてもらえば、その公約はきつと国会で果たす人物だという説明をする。そういう理想的な候補者は、いまからたつた十分待つてもらえば、きつとここへ来て、政見を十分のべて皆さんにきいていただくからと予告させておく。そして甲乙のバスの間には小型自動車で連絡をとつて、一分もまちがいのないようにする。またその間を宣伝させる。これは聴衆が、

 「なんや、十分やいうて、もう十五分にもなるやないか。それも公約や。そんななんでもない公約が実行でけん候補者、あてにならん」

 とでもいつて、去つてしまわないような音山の用意だつた。音山は、有権者には、政見はもちろん大切だが、もつと大切なことは、候補者の人物を信じさせ、また親しみを感じさせることだと思つた。しかし甲乙のバスには、 

 「海国日本の経済再建は、水産経済の再建から!」

 「日本人は魚食民族。うまい、高い栄養価のある安い魚を、主人にも、主婦にも、父にも、母にも、子供にも、そして女中さんたちにも、一家こぞつて食べさすようないい政治を!」

 「水産会の不正摘発、徹底的革新!」

 そんなことばかりではなかつた。

 「戦争絶対反対!」

 「原子爆弾投下の広島、長崎を見よ! 原子爆弾製造絶対反対!」

 「戦争の放火人はだれか? この犯人をあくまで調査して、アメリカ軍事裁判所に訴え出せ!」

 「戦争に協力した、政党、政治家、学者、小説家、音楽家、其他インテリは、良心に恥じて自発的に退陣せよ!」 

 こんなスローガンを長い白金巾に黒字で太く書いて、黄色いバスの窓の外の、両側にぶらさげてある。街頭の人々は、目を見はつてたまげた。

 「えらいことを書いとるぞ。うん……」

 とうなつた。

 「しかしここに書いとること、みんなほんまのことばつかりや、そらこの通りにちがいない」 

 だれも、そういつて首をふつて感心した。だれ一人これは社会党と同じだ。共産党だ。いや赤だともいわなかつた。社会党がどんなこというのか、共産党がどうなのか、知つているものは全くいなかつたからである。そういえば、候補者でも、もちろんその他の運動員でも、知つてはいない。知つているはずがない。長い戦争中、馬車馬式に働かされて、政治や思想的なものはなに一つ耳には入つていない。そしてその戦争が終つたばかりである。知つているものは音山と音山の秘書と二人、も一人、速成の思想だろうが東北大の麻見だろう。音山の母校から来たばかりのアルバイト学生も知つているだろう。麻見はこの候補者と一しょにのることになつた。明日からいよいよ二台のバスで選挙区をのりまわし華々しく緒戦に入ろうとする前日、南海ホテルの百畳の大広間に集つた、二百人近くの運動員の打ち合せ会議だつた。有給労務者として定員外に、交代で腕章をつけてとび歩けるから、定員の二倍でも三倍でもいいわけである。三交代で、外役、内役、休憩と三組に分けると、とても能率的である。音山はこの三交代制を取つた。有給労務者といつても、日当を目的に来ているものは一人もいなかつた。小山の会社、県連で手の抜けるものである。音山の母校から来たアルバイト学生は悉く雄弁家で、初めここへ来たとき、だれも麻見と同じく、けげんな顔をして、

 「音山はん、保守党かい」

 と、つぶやいた。音山は、甲、乙のバスの乗組員を甲班、乙班に分けて、いづれも三四十人の三交代にして、甲班、乙班に自分の書いた原稿をタイプして打たせて渡した。そして甲班には、その場へ立たせて、リレー式に候補者の人物紹介をやる練習をやらして、みんなを笑わせた。たとえばAが、

 「小山候補は、地区水産会長から、現在は水産会県連会長をやつておりますが、配給される油一合も決してごまかしたことのないのは、全会員でも知らぬものはありません……」

 といつたことをAがも少しくわしくのべると、Bが、

 「それでいて自分は、毎日の昼飯にきつねうどん一ぱいですまして、県連の自動車をつかわずに自転車で丁稚のようにとび歩いています。」

 と受ける。みんなドツと笑う。

 「きつねうどんは、音山君や。音やん、自分のこというている。その丁稚のようにはやめてくれ」

 と小山も笑う。

 「これ以外のこというてはならんのですか」

 若い運動員が手をあげてきく。

 「そうばかりでもないが、まあその範囲や」

 と音山が答えると、麻見が手をあげた。

 「天皇制打倒」

 をやつてもいいかときいたが、ここで音山からわたされた原稿以外にはやつては困ると申しわたされたので、

 「ひどい言論圧迫ですね」

 と片手で原稿を読みながらいつた。

 圧迫じやないよ、統制や」

 「同じことですよ、その統制には強制力が伴いますよ」

 音山は笑つた。

 「どうも法学生は、すぐ公式主義的な法理をやりたがるよ。たしかに統制にはもちろん強制力は伴うが、しかしその統制の目的が、戦時中の軍国主義的なものではなく、民主主義を推進する進歩的なものであるかぎり、服従しなければならんということになるのやな」

 「民主主義的中央集権ですか、あれはぼくどうも矛盾しているように思うな」

 「民主主義とは、放縦ということではないからね」

 麻見が来てからは、麻見は音山の唯一の論敵になつた。

 音山はしかし、いつものぶつきらぼうに似ず、きつとにこにこして麻見を論駁する。麻見は青年らしく生まじめで熱心で笑顔一つしないが、最初自分で考えていたほど音山が反動的でないのに気をよくし、音山のいろいろの言行を見聞しているうちに、尊敬の念さえ生じて来た。

 「そうよく年配の方はいわれますな。うん、そらぼくらにも行きすぎはありましような。総選挙なんて、わからないいつぱん大衆が相手ですからね。ぼくらも考えなければならないですよ、それは……」

 「わからないいつぱん大衆?……、うんまあそう考えてもええが、その大衆がぼくらにはとてもおよばない英知をもつているもんや……」

 「あ、これはぼくの失言だ」 

 麻見はあたまへ手をやつた。次ぎに全選挙区各小地区別事務所の手配に移つた。音山は、こういうことをいいきかせた。全選挙区に小地区別の事務所をなるべく多く設けることはきわめて重要である。この小地区事務所を細かく区分して、その数が多ければ多いだけ、戦闘力が旺盛になる。このころの選挙法には制限がなかつた。そしてこれは経費がかかるので貧乏候補の苦手である。その性格は、その小地区の対立候補者の勢加を駆逐する拠点、各個撃破の基地である。従つてその装備の完全、最大に動員された運動員の活動と宣伝力の充実、が必要である。ここでは、次のような活動を行う。

 一、有利な演説会場を適切な日時にかくとくすること。

 これはその地区での勝敗を決する鍵である。もしその地区が、全選挙区の中でも都会的な地区で有権者の比率の高い場合、各候補者はここへ主力をそそいで殺到する。そしてそこへ事務所や演説会場の数を増し、運動員を盛んに動員し、ビラ、ポスター、宣伝カーやいくつものマイクロホーンで、党と候補者の政見、人物の経歴放送をし、また候補者のラジオ放送の日時を知らせる。といつても比率の低い農山村地帯も重要視しなければならない。小数でも多く集めれば圧倒的になるし、小数の差で破れる。自由党の強いのは農村にジバンがあるからだ。

 二、推せん演説会を全面的精力的に行う。会場に、街頭に、または個人の家に集めた懇談会に大胆に細心にあらゆる活動をする。

 三、対立候補の動勢、活動、人気を刻々調査し、中央事務所に報告する。これは中央事務所に於て時宜にてきした対策を講ずるのに大切である。

 四、小山候補の演説の評判、演説会の傍聴者数、一ぱんの人気、その対立候補との比較等の報告。これも刻々中央事務所にする。ここに集つているものは、その地区から代表者になつて来ているものが、三四十人いた。この小地区事務所を全選挙区に碁石のように配置して十人以上の運動員をおいてオート三輪車、自転車等によつて活動させる。弁士も優秀なのを配置して、絶えず街頭や屋内演説会で宣伝させる。買収以外少しの違反くらい意とせず、大胆不敵にやること。音山は最初運動員にいつていたこととだいぶちがつて来た。

 「地区から来られたかたは、責任を以つて成績をあげて下さい。開票するとすぐわかりますから」 

 と音山は笑つた。質問や音山の応答があつて、打ち合せが終ると折詰と酒が出た。そして小山候補万歳をやつた。音山はだからといつてこの総選挙に自信があるわけではない。いわば当つてくだけろ主義で選挙は科学だなんかいうていても数学だとは思つていない。それに、れいの三バン主義には全く自信がない。小山を前会長のジバンにたよらせることは、ぜんぜん見こみはないし、またたよらせようとはしていない。カバンはどうだ。音山家を背景にすると、いかにも大カバンのように見えるが、中は空つぽも同様だ。寄附金なんてものは小づかい銭だ。それで県連の積立金から、先づちよつと百万円をつまみだした。銀行からの融資百万円、光子からは、表向きの寄附とは別に持参した銀行預金の中から五十万円、自分の手持五十万円。合計三百万円。運動期を三期に分けて、音山の胸算用ざつと次のようなものである。

 第一期 緒戦  (約一週間) 五百万円

 第二期 中盤戦 同前    四百万円

 第三期 終盤戦 同前    六百万円

 合計 千五百万円

 最初中盤戦三百万円としたが、しかし中盤戦で中だるみさせてはならないから、それを四百万円として、ざつと千五百万円の用意が必要だ。カバンの中にこれだけ詰めておかないと不安だ。もちろん買収費なんかビタ一文つかわない。買収したほうが割安かもしれない。音山は、手元にたつた三百万円よりないが、あとはどうにかそのくらいはたいして骨を折らなくても融通がつくと考えている。


   10

 終戦直後第一回の総選挙は全県一区、及公出でずんば、明るい民主主義政治は期待すべからずというのか、それとも没収されたところで、供托金二千円の売名宣伝費はお安いものだと感ずいたのか、出たわ出たわ、全国各都道府県、定員の六倍乃至七倍、甚しいのは十倍近くの壮観である。小山の県では定員六人に、五十三人だつた。だから同じ党で同志打ちも盛んである。ところで自信のあるというものは先づなかろう。候補者も一切が新規蒔直しである。政治に経験のあるヴェテランはほんの少数で、危く追放をのがれたか、それをごまかしたか、もしくは追放者の肩代りくらいなものだつた。あとはだれもかれも盲滅法、まあ一つやつてみようかの程度だが、それでも立つほどの気になつたのには、つかまえどころのあるような、ないような、ジバン、カバン、カンバンのその一つ、または二つをたよりにしている組もあり、たれもかれも皮算用に首をひねつている。これでは音山三之助のいわゆる〝選挙は科学なり〟でやり出したものは一人もなかろう。それにしても、バス二台借り切りの綜合統一宣伝は、たしかに〝科学的〟といえるし、その派手なスタートには、他の候補者のどぎもを抜いた。小山は立候補するからには、だれにも迷惑をかけないと考えている。しかし、どのくらいかかるものかは知らないし、音山もきいてもいうはずはない。たれにききに行くわけにもならない。自分が考えてつくるよりほかになかつた。最初から相手にはしなかつたが山賢の出したのは、五百万と吹いておいて、たつた一万円だ。それで愛児の弔合戦もすさまじい!

 人物をみる明の鋭い音山に山賢がわからぬことはあるまい。これは疑いもなく、音山は山賢を利用して自分に決意させたのである。それにしてもいまとなつてはどうにもならない。音山の知己に感じて、トコトンまでやるよりほかにあるまい。自分の会社の終戦で軍部に納めたばく大な加工食糧品代が不払になり、水産支庁倉庫に保管を依托しておいたものが行衛不明になつて、経営が危くなつたのをやつと切り抜けて、苦しい中に加工した在庫品をつくつたが愛児を殺す気持で半数を、足元を見られている山下海産(社長山下賢太郎)にたたかれて引き取つてもらつた。それでも山賢は割高やと恩にきせた。そして思い切つて工場を担保にして合せて二百五十万つくつた。

 小山はいまから考えると、山賢はそれを見越して、自分に立候補をすすめたのかもわからない。しかし音山はそんな悪らつな企らみまで気がつかなかつたのだろう。音山のような人物は自分の良識は他人も持つていると信じがちである。しかし。音山は山賢が戦争で息子を殺されたので、心からの弔合戦をするつもりでいると信じていたのかもしれない。これはお浜も同じことだろうが、そうなると小山はなにがなんだかわからなくなつてしまつた。しかし音山は叱りつけるようにいつて受け取らなかつた。それでお浜にやろうとするとお浜は笑つて手を振つて

 「貧乏人がそんない気前見せんかてええわ。そんな金あるんやつたら奥さんに鯛子さんにべべでも買うておあげ。ああ鯛子さんには帯も買うたげとくなはい。会のとき、わてえ見たんもようちよつと派手すぎる…」

 「のん気なこといいないな。そんな金やあらへん…」

 お浜は、また色つぽくにつと笑つて、

 「そうだつしやろな、苦労させます。わたしもしますやあれへん、まあわたしだけさしといとくれやすいな……」

 「へへへへ、お弟子さんがきいてたらいかん……」

 お浜の家の長火鉢にさしむかいになつたときだつた。お弟子が舞台の下で稽古を待つていた。小山はお浜のことを考えた。お浜は、子供二人の財産の外に、お浜自身の銀行預金は三百万ほどあるし、それよりずつと多いと思われる衣裳、貴金属の装身具を持つている。有名な大家の彫刻にも凝つたものがあり、一品で質屋でも二三万はすぐ貸すものが多い。証券もそうとうある。十畳の舞台のついた建坪三十数坪の家と、五六百坪の屋敷があり、戦時中、食糧不足のため三反あまり手に入れて、郷里の弟一家を呼びよせ、農作させている。三軒つづきの貸家も三棟ある。だんなの武田文吉がお浜と二人の兄弟、貞夫と文枝にのこしておいたものだつた。だからお浜は、小山より財産があつた、といつてもいい。しかし小山は自分の工場を担保にして金をつくつてもお浜のものには指一本つける考えはなかつた。大恩のある主人の武田にすまないからだつた。けれどお浜は自分の銀行預金をどんどん引き出して、今度の選挙準備に気前よくつかつている。ホテル借用の三十万から公示前の五十人あまりの運動員の食費を、毎日ホテルへ払つていた。一人二百円にしても一日一万円である。それもほんの定食程度で、運動員が夜更けにかえつて来ると、夜食には牛鍋などあつらえてたつと酒を一本づつ出してやつた。世話するホテルの女中たちにも舞踊の師匠らしい派手なところを見せて多分のチップをやる。

 女中は蔭で、

 「お師匠はんは、江戸つ児みたいや」

 といつた。運動員たちは集ると、

 「小山はんの一号どうしたのや。まるで顔見せよらんやないか。二号さんみィ。ぼくらにごつそおしてくれるし、音山はんと同じ〝光〟を毎朝ごくろうさん、ごくろうさんいうて、三つづつくれよる。ぼくあまるのでいつも一つづつうちのおやじやおかあにやるんや」

 「あれではどつちが一号やらわからん」

 「小山はん、二号さんが好きになるはずや」

 そんなこといつて、みんな笑つた。二号にはさんをつけた。

 選挙がはじまると、お浜はぞろりとしたなりをすつきりした割烹着に着かえて三四倍にもなつた運動員の炊事場つくりを一手に引き受けた。ホテルの女中たちの引つ越しも通いの女中頭はじめ若いのまでが、二つ返事で気持よく引受ける。引越し先きの徳島屋でも女中たちをお客扱いにして費用はお浜が二十日分支払つた。ここも二流ではないのでそうとういつた。大工をよんで来ての炊事場の設備一切商店からはこびこませた。炊事道具万端、これも悉く新しいもので安い金ではない。

 そこへ食糧品一式あとでは陣中見舞でどうやら間に合つたが、全員二百人近くの食糧を、先ず一週間分は買いこむ必要がある。これも少なくない金である。

 こうしてお浜はもう銀行預金は半分以上も、引き出してしまつたのかもしれない。

 小山はそれを知つていても、やめろというわけにもいかない。自分ではどうすることもできないから、だらしのないだんなだと自分で苦笑しながら、やるというならやつてもらうよりほかになかつた。だれにしても当選さえすればというばくぜんとした希望をいだいている。小山、お浜、音山さえそうだつた。

 音山の三期間の総予算の見積り千五百万は、ギリギリいつぱいだつた。第一期緒戦六百万の中には緒戦前にどうしても完備しておかねばならぬ、全選挙区内二十数ヶ所の小地区選挙事務所の設備費がある。一ヶ所へ最初十万づつ割り当てるとしても(追加はきつと来る)その半分はなくなつてしまう。いま手元にあるのは、県連銀行利子と合せて三百万だ。どう首をひねつてみても、他にルートはない。大高家の父子の寄贈は過分で、その上申し出られる義理ではない。

 取引銀行は、選挙費用だと思つているので、相手が音山であつてもそこは銀行で十分警戒して三百万の申し込みにたいして、顔を立てる程度の百万だつた。とすると融通のできるところはあとは県連よりほかにない。

 幸い音山個人と取引銀行がちがつているので、もう百万引き出した。これで四百万だつた。二期三期の追加はそのとき勝負だが、さしずめ二百万はどうするか。

 新しく買いこんだ大金庫が景気よく床の間にでんと据えてある。中にある小切手帳は次々とむしられていくし、札束は片隅で痩せていく。そこへ小山が三百万持つて来た。前に音山もお浜も受取らなかつた五十万も合せて三百万である。小山はこのくらいで全選挙間のまかないが追つつくものだと考えていた。もしそんな小山に、千五百万はどうしてもいるとでもきかせたら、きもをつぶして、それこそどこかへ姿をかくすだろう。周知のようにすぐ追つかけて行われた参議院の選挙は、一落二当だといわれていた。一千万では落選、二千万で当選したということである。これは全国区のことらしいが地方区でも、衆議院の選挙区でも、それぐらいつかつたものはいくらもあつた。だから音山のプランは決して無鉄砲ではないばかりか、むしろ妥当だといつてよかつた。というよりそれは音山の坊ちやんらしい、目的のためには金を金とも思わない性格からだつた。

 「このバッジは高いバッジだ……」

 といつて自分のバッジを指さきでなでて嘆息した議員があつた。しかし、音山は安月給の銀行員が、大金を大金と考えていないようなものである。丁稚上りの小山との感覚の食いちがいは、いつもそこにあつた。定置網一基でも、五六千万円はかかる。それが何基もあり、台風にでもさらわれるとすぐ代りができる。そんな網元の長男は、子供のときからそのくらいな金はすぐ手にはいるものだと考えている。理事長になつてからも、会員たちに人気のあるのは、そんな大きさで、あくせくしないからである。定置網一基の三分の一くらいの金で、小山のような人物が政治家になつてくれたら、安いものである。さしずめ融通をつけておけばあとはなんとでもなると思つている。いままででも、その通りやつて来た。

 「ぼくがあないいうておいたのに作つたんかいな。もうこの上の心配いらんで……」

 打合せ会は三時ごろ散会した。ホテルの二階の音山の一人いる事務長の室へ小山がはいつて来てその三百万の小切手を出したときである。音山はしかし煙草を吹かしてけむい顔をしているが、そればかりでなく眉根にちよつと不安そうな色をうかべて、

 「庄ちやん、これどうしてつくつたのや……」

 「うんまあ、そんなこときかんほうがええ……」

 それを音山がきいても、いう小山ではない。そして悠々と煙草を吹かしている。音山が軽く、

 「あんまり無理しいなや」

 「三やんこそ、あんまり無理してくれると困る。僕は代議士にならしてもらうからええが、きみはえんの下の力持ちや。やたらに金つこうて、あとはアッパッパや」

 童顔の二皮目に愛嬌をうかべてにやつと笑つた。しかし小山にもどこかに不安な色がただよつていた。

 「いや、僕のほうはらくな融通や、庄やんのは……」

 「苦しい工面やいうのんやろ。融通と工面は変りはない。わいは少しでも自分のものを持つている。三やんは無産党や。ハハハハさあ行こ……」

 そしてなにかたいへんなことに気がついたふうで、

 「そやけどな、これからわいもきみも一と月県連まるでおるすや。太田君や佐々木君らの諸君にようたのんどいたが、間近まで一と月分だけ余計に働いて、あとのもんの仕事しよいようにしておいてやらんと……」

 そのころはまだ夜の演説会だつた。

 と立とうとしたので、音山は小山の出した卓上の小切手をひろつて、

 「そんなら小山君きよう小地区の責任者に金持たしてかえしたので、まあ二本だけ預かつとく。もうこれからきみこれ以上決して金つくることいらんで。決してやで。わかつたな……」

 音山は念を押して二百万に書き換えるよう小切手を押しかえした。

 「あとの一本は、きみもなにかと小づかいいるやろ、持つていい」

 「それはこないだきみにいうたやないか、小づかいくらいきみに心配してもらわんでもええのや」

 その小切手は小山も押しかえした。音山はふと気がついたように、

 「うん、ぼくいおういおう思うていたのやが、お浜はん。あんまり金つこうてもろうてはいかん。きみよういうて……」

 「………」

 小山はなんと返事をしていいかわからなかつたので、ちよつとだまつていたが、

 「いうてもきかんやろ」

 と笑つた。

 「うん、そらお浜はんの気性、ぼくも知つているし、気持もわかるがともかく女やからあんまりつかわしてはいかん」

 「わいもそう思うのやが、子供が可愛のやろ。僕が代議士なんてごめんやいうたら、貞夫が可愛いないやろいいよつた。女は誰よりも子供や、ハハハハ」

 「うん、それできみをいまから政治家にしておきたいのやとぼくも思うのやが、しかし世間では、きみが代議士になりたいために、色仕かけでお浜はんから金を引き出したように思われては不愉快や。まあ痩せても枯れても、きみや僕がいるのやからな」

 小山はいやな顔をした。

 「きみはええところに気がついた。そんなこと聞くと、ぼく立候補するのはやめとうなつた……」

 音山は笑つて、

 「またそんなことをいう。困つた男や。なにもいま誰もそんなこというているもんはない。そやから金、あんまりつかわしたらいかんいうことや」

 「さあ、これは困つたことになつたもんや。叱つてみても、ぬかに釘や。どうするかい。やつぱり立候補やめるよりほかにあるまい」

 「庄やん、きみの考え方はいつも単純でいかん。きみが立候補したのは、そんなところに問題があつたのやなかろう?」

 「………」

 「まあええ、一つの確かな目標を目がけてまい進するのには、つまらんことでわき見をしてはいかん。それこそ馬車馬や、何も考えずにギヤラップ出すのや」

 「ハハハハ、その馬車馬にわき見をさしたのは、だれや」

 音山は笑つた。そして

 「これから県連へ行くのやろうが、やめとき。それもわき見や。おたがいに会長や理事長をフツとばすつもりでやつたことや、ほつとき。きみや僕がおらんかて、県連のしごとがでけんような県連は人物払底やない」

 「いつものきみの持論や、まるでわいら余計もんのようや。フツとばすまでは余計もんでもポストにいるのや」

 夜の演説会まではほんの二三時間だのにそれでも小山は腕時計を見ながら出て行つた。


   11

 小山候補のバスは中小企業経営の軽工業地帯から、そこに働く人々の寮、住宅街、その人々を得意とするマーケット、小売商店街、それから遠く広々とした青い農村から農村、山村から山村を、えんえんとした峻険なS字状の狭い山路をのぼつていく。一つ運転を狂わせば千丈の谷にころげ込む。そこを小きざみに、このへんのバスの運転になれた老練な運転手をとくに雇つて、五万分の地図に従いながら、どんな小さい部落でもしらみつぶしにたどつて行つた。

 黄バスは、両側のボデーに太くスローガンの書いた幾筋もの大金巾をブラさげ、屋上には大櫓をつくつて、その三分の二の前後、左右に、「自由党公認衆議院議員候補者、小山庄吉」と、濃紺地に白地で抜いた楷書のペンキ塗りの大看板をかけ、後部三分の一に、演壇を設け、マイクロホーンが後部と、前部に大きい口を開いて、マンモスのように吼え続けている。

 立会演説会もなく、またトラックも全く利用されていない時代の最初の総選挙である。他の候補者は高々ハイヤアに候補者の外に一二人のつて自分の演説会場をまわつている程度だつたので、小山の候補のバスは到るところで人々を驚かした。小山自身も音山の型破りな運動振りには、今さら舌をまいた。

 選挙事務所は海岸地帯にあつたし、またこの地帯も決して軽視しなかつた。奥地へはいるときでも、事務所を出発するとすぐ国鉄の駅だつた。朝のラッシュアワーでごつたがえしである。だからのんきに演説などきいてはいないのだが、朝、バスの出て行くとき音山はきつとやらせた。

 「なんでもええ、小山候補ここに在り。と有権者に小山候補の存在を知らせればええのや」

 そんな調子だつた。小山はなるほどと思うが、だからといつて全く経験のない街頭演説とはどんなものか、どういうことをいえばいいのか、まさか、

 「わたくしは自由党公認、衆議院議員候補者小山庄吉でございます……」

 とばかりくり返してはいられないだろう。それに今度新しく出馬したものは、街頭演説なんぞまだいちどもした経験のあるものはない。小山は街頭演説なんてものは、夜店のバナナのたたき売りか、落語のガマの膏売りくらいなものだと考えていたので、音山にやれといわれて、人の出ざかりの駅頭に、しかもバスの屋根の上に立たされたからたまらない。候補者の目標になるようにと胸に大きい造花の白菊の花をさし、白地に「自由党公認……」以下、大看板と同じ文字の書いた厚地の白布を左腋へ大綬章のようにさげさせられた。こうなると、どうも生れたときからの小山庄吉ではなく、衣裳をつけてお芝居をさせられる犬か猿が高い舞台につき出されたようなものだつた。県連総会であいさつしているのとまるで呼吸がちがう! 最初は立つている脚がわくわくした。冷汗が腋の下からたらたら流れるのがわかる。なんだ、いくじがないぞと口惜しかつたが、こういうときはどういうものか、肉体が心のままになつてくれない。双方はなればなれになつて、自分というものが心だけのものになつてしまつたようだ。

 駅前を見下したが、波の立つている海原を見ているようだつた。だれでも顔をあげて、おかしなふうしたやつが高いところに立つて、脚をわくわくさせているが、屋上の狂人だろうかと笑つているような気がした。

 音山、光子、お浜、貞夫、菊ちやん、お高はん、山賢、その他内勤の運動員までが事務所からぞろぞろ送つて出て来て、自分の皮切り演説を聞こうとして待つていることはわかつているが、どこにいるのかまるでわからない。ポケットにはともかく演説原稿を入れてあるが、それを出してみたつて、ここで悠々と読んで、しやべれるかどうかもわからないから出してもしかたがない。

 あれだけくりかえして練習したのだが、ここへ立つたとたん、あたまがすらりと白紙になつてしまつた。しかしだまつてもいられない。

 音山の秘書の上田が、乙班のバス隊長になつてのりこんでいて、小山候補の紹介役にあたつている。万事なれたもので、マイクの前に立つて、落ちついた、すらすらした口調で、

 「皆さん、ただいまから、自由党公認衆議院議員候補者、小山庄吉の政見発表演説をいたします。おいそがしくはございましようが、どうかしばらく御静聴をおねがいいたします……」

 小山は、その「小山庄吉の政見発表……」という声が、ぐつと総身に煮湯がまわつたような気がして、汗が流れた。「政見」というようなことばは、自分となんの関係もないもので、だれかえらい政治家が総理大臣にでもなつて、国会かどこかで大演説をする場合にそういうのではないかと思われた。まだ魚屋の丁稚でいたころ、総理大臣の大隈重信が、来阪したさい大阪駅頭で、押しかけた群衆に向つて大演説をしたというので、たいへんな評判だつた。「政見」とはそんなときに用いることばだろう。いつたいおれに政見演説なんてやれるがらではない。音山の原稿にはその政見演説は書かれてあつたが、こんなところへ立つてやれそうにもない。

 上田はそう紹介すると、さつと身を引いて、小山にさつそくマイクの前に立つようにうながすようだつた。ふと、音山やお浜は、下で手に汗を握つておれを見上げているだろうと思つた。小山はふらふらと無我夢中で、マイクの前に出た。

 小山は、自分のからだがどこにあるのかわからなかつた。しかし声は自分の声だとわかつた。やけに大きい声だ。

 「皆さんわたくしは、ただいま御紹介にあづかりました、自由党公認衆議院議員候補者、小山庄吉でございます……」

 そのまた「衆議院議員」というマイクの声がゴシックの大活字のように耳にがんと響いて、そのすぐ下の

 「小山庄吉」という自分の名がみすぼらしくてしつくり胸に来ない。その下に自分の名を出すと、どうしてもおかしくなつて、次の文句がのどにつまつてしまう。するとその虚をつくように、

 「そんなこと、わざわざいわんでもええ。その大看板に四方八方にデカデカ書き出しているやないか!」

 とやじるものがある。これは悪意であることは、小山にもわかつた。

 「それがあいさつや。妨害するとたたきこむぞ。だまつてきけ!」

 音山の鋭い声だということが、これも小山にわかつた。やじつたやつは、計画的にやるらしいときいていた県連のボス派の妨害の手先きになつたやつだろう。

 小山はそう思うと、グッと強い反感がこみあがつて来た。いままでの屋内の演説会では、小山のきびしい気魄にのまれてグウの音も出なかつたやつどもが、屋内でないこんな街頭だと初つぱなからやりやがつた。それは自分がおどおどしているからだろうと、小山は気がついた。なにくそ、やつてやるぞ……

 「皆さん!」

 小山はマイクの前で、憤るような大きい声を出した。そしてこぶしを握つて振りまわした。

 「皆さん! 国民の皆さんが戦争のために苦しめられて、食うや食わずでいるさい、高級の魚をぜいたくな客ばかいる料理店、旅館、待合に横流しして、無茶な、不当な、ボロイ大もうけをしていたやつは、いつたいどいつや!」

 「そうや、そうや、しつかりやれ」

 その元気な声援と共に、ドッと拍手がわいた。小山は目がさめたように脚下の駅前の人々がはつきり見えた。駅へかけつける人も、いそがしそうに足早やに、前にある電車にとびのろうとしている人も、小山が頭上から〝破れ金のような〟声でどなりつけたので、びつくりしてふり仰いだ。急ぐものは小山の顔を見ただけで、手をたたきながら、行つてしまつた。前に屋内の会場できいた人であろう。

 貨物列車、急行列車がけたたましく気笛を鳴し、耳をろうするばかりの響きを立ててかけ来り走り去る。その中で、小山の鋭い声がその雑音と対決するようにつんざいて耳にはつきりはいつたので、だれもかれも思わず立ちどまつた。

 「皆さん、そればかりではない。そんなことはまだ小さいことや。この戦時中、国民の皆さんから血の出るような、血税を非道にしぼりあげた国の予算を、大臣、大将がぜいたく三まいに料理屋待合で湯水のようにつこうていたのは、皆さんもようごぞんじのはずや。

 そんな勝手なまねをしておきながら国民の皆さんには、イヤ滅私奉公やとか、イヤ一億一心やとかいいくさつて、皆さんをダマクラかしていよつた。そして日本が無茶苦茶に負けて、こういうふうに全国が焦土になつてしもうて、食うもんも着るもんもないようになり、国民の中にはどんどん餓死するものがあるというのに、皆さんの税金でこうた、ぼう大な軍需品はどうなつたんや。みんな大臣、大将、代議士、官僚、民間の政治大ボス、大金持や各省の役人、出先役人がみんな横領してしまいよつた。軍馬まで盗んでしまいよつた。それでいま隠退蔵物資やいうて、どこでもかしこでも大さわぎしとるが、数十億(当時)といわれる軍需品がだれのふところに流れこんだのやらさつぱりわからん。それは警察や検事局まで毒がまわつてるからや。げんに私の仕事の水産関係でも、五六千万円もする網や舟が、みんなどこかへ行つてしもうた。

 国民の皆さん、これはみな皆さんの税金や!

 「そうや! そうや!」

 「息子を殺されて、夫を殺されて、泣きの涙でいる戦争をええことにして、大ドロボウをして大金を取りこむとは、なんというど畜生や! 私を衆議院にやつてもろうたら、こんな不正な政治は絶対にやらせません」

 「ようし、わかつた、入れてやるぞ!」

 ドウッと拍手が文字通り、といつていゝほど怒濤のように小山の脚下でわき立つた。小山は県連会長としてやつていた演説のときのような自信をすつかりとりかえした。こうなると、小山の雄弁は、目まいがするような急流になつてほとばしり出る。小山はしつかり聴衆を自分のものにしてしまつた。朝のラッシュアワーの人々さえ、広場にひとかたまりになつてきいてるものが多かつた。おれは少しもやましくないぞ! といつた小山の気魄が、聴衆の胸を強く打つたのであろう。

 心配して下で聞いていた音山も、お浜も、涙の出るほどうれしかつた。

 「皆さん、おいそがしいところを御静聴ありがとうございました…」

 これだけは、音山の書いた原稿通りだつた。小山がそう結ぶとすぐそばにいる運動員たちは、音山の教えたリレー式に、

 「皆さん、ありがとうございました。小山庄吉! 小山庄吉の名をお忘れなく……」

 「……来る五月十六日の投票日には、あなたの清き御一票を、小山庄吉にいただけますようにお願いいたします!」 

 「ようし、きつと入れてやるどう!」

 そんな声がつづくと興奮した麻見が双手を高くあげた。

 「アメリカ帝国主義断乎打倒! 日本勤労者階級万歳!」

 きいているものは面くらつた。なんのことだかわからない。しかしパチパチと手を鳴らしたものが一人ある。にこにこしている音山だつたので、小山は苦笑した。

 小山が屋根から降りて来ると、音山とお浜はバスに飛びのつた。音山は小山の手を握つて、うれしそうに振つた。

 「大でき! 大でき! すべり出しは満点や……」

 「やあ、きみがうまいところでひとこと強う打ちこんでくれたんで、わいグッと来たんや。それからずるずるしやべり出せたんや。大け、大け……」

 小山の目には涙が光つた。

 そばから麻見が

 「音山さん、学校の弁論部できたえてられるから、ヤジは堂に入つたもんだ」

 お浜は、あふれて来る涙を指先きではじいた。ふと気がつくと、バスが走つている。そして

 「小山庄吉、小山庄吉、来る五月十六日の投票日には小山庄吉にあなたの清き御一票をいただかして下さい!」

 屋上の前後についたマイクロホーンから大きい連呼がきこえる。バスを見て、通行人や店の者が手を振つている。小旗を立てたれんらくの自動車が、バスを見ると道路を横切つてついて来た。

 「上田バス司令官、分秒もまちがえんな」

 音山が腕時計を見た。

 「この様子なら音山はん、小山当選しますやろか……」

 お浜だつた。音山は笑つた。

 「そんな楽観は大禁物や。こんな人気なてちよつともあてにならん。こんなもんでよろこんでいたら、大当外れや。総選挙てそんなもんや。落選させてはならん思うて、死物狂いで全力を出すことや」

 小山をはじめ、そこにいるもの五六人にもきかすように音山はいつた。

 バスは、松林の間に紅白の梅の咲きみだれた畷の広い鋪装道路を走つていた。片側の翡翠色の静かな海に、ぽつりと一つ、小さい白帆がうかんでいた。



第三章 総選擧寫生帳第三册

   12

  小山庄吉候補の政見発表演説会がはじまつてから間もなく、運動員が二三人音山の事務長室にあわただしくかけこんで来た。音山は提出書類を一通りすましたので、光子とお浜にやらせている毎日支出する選挙費用の附込をしらべたり、注意したりしているところだつた。

 「なんやあわてて」

 音山がちよつと顔を上げていつた。光子とお浜は目をみはつた。

 「事務長さん、だれかがビラやポスターを引きはがしていますよ」

 「なんや、ビラやポスターを、小山候補のをか……」

 書類からその方へ顔を向けた音山は、眉をひそめた。

 「はい、それで警察へとどけに行きました」

 「とどけてもあかんやろう」

 音山は、警察は知らん顔しているだろうと思つていた。

 「どうしましよう、そんなら……」

 「きみらで監視にまわるよりほかにない。卑怯なやつや。ポスター盗んだりはがしたりするなんて、そんなことすれば、こつちはきつと当選するのや」

 音山は皮肉に笑つた。そこへまた一人かけこんで来た。

 「事務長さん、たいへんです!」

 と顔色を変えて唇をふるわせている。

 「きようはどうしたんや。なにがたいへんや。」

 それでも音山は、二人のつけこんだノートの合計を検算している。

 S町の角でビラをはがしているものを見つけたから、こつちの運動員の川口がつかまえようとして取つ組んだら、匕首で腕を刺された。それですぐ病院へつれて行つた。近くの派出所の巡査はわざと犯人を逃がしてしまつたという。

 「うん、そらそうやろう」

 音山はきびしい顔色でうなづいた。

 「あれまあ、どないしまひよう……」

 お浜は泣き出しそうな顔をした。

 「よし、ぼくが行つてやる」

 音山は立ち上つて、階下へかけ降りた。運動員もこれについて降りた。

 「みなさん、あぶないから、悪いやつに逆らわんように、よう気ィつけておくれやすや。ほんまに無茶んもんがいるのやな」

 そう叫びながら、お浜も階下へついて行つた。光子も心配らしい様子でお浜のあとを追おうとしたが、あんまり大勢行つてはかえつて事を大きくするからと、出て行く人を引きとめるつもりで表側の運動員の集つているところに行つてみたが、一人もいなかつた。

 ホテルの主人が静かに上がつて来た。

 「奥さん、みなさん、一度にどつと出て行かれたが、なんぞおましたん?」

 主人はホテルを貸したのを今になつて後悔しているようだと、光子はその顔色で思つた。他の候補者や他党、水産業者などから、ホテルを貸したので苦情がひんぴんと来ている。中にはアメリカに反対するようなことをいう大学生もいるからMPに報告して、ホテルの営業停止をさせてやるとか、いろんないやがらせをいうものもあり、脅迫状のような、薄気味の悪いものもあつた。主人はうつかり貸してしまつて、とんでもないことだと後悔した。しかしことわる口実でもないかぎり、今となつてはどうにもならない。

 お浜は自分のたのんだ、主人の長男の細君の弥生の母からそのことをきかされて、音山に話したことがあつた。音山はそのとき心配することはいらんといつていたが、ホテルの中でなくても血を見るようなことが起つたら、ことわる口実にされるかもしれない。光子は、困つたことになつたと思つた。

 「いえ、ビラのはがれたものがあるいうて、みんなでしらべに行たんやそうです」

 「ビラがはがれた? 雨だすか。だれか故意にはがしたんだすか」

 主人は首をひねつた。自分のところへも苦情や脅迫状が来ているし、小山候補があんまり強いことをいうので、一部には人気はあるが、各方面からはたいへんきらわれているときいていた。光子はさあらぬてえで、

 「どちらですか、わたくし、よくぞんじませんのですが……」

 「音山はんも行かれましたかな」

 主人は雨や風ではがれたんじやなかろうといつた口ぶりだつた。

 光子はだまつて軽くうなづいたきり立つていた。

 そこへ山下海産の山下賢太郎が、ひよつくり上つて来た。主人は階下へ去つた。

 「奥さん、今日は……いつも賑かやが、きようはどうしたのや、だれもいませんな。しかし下の炊事場はテンテコまいや。菊公汗かいてビフテキ焼きよる。わいに一枚焼いて食わせいうたら、あんたに食わせるようなビフテキやあらへん、食いたかつたらSへ行きなはいぬかしくさる。ハハハハ」

 それでも山下はいい気持で、にやにやしている。

 光子は苦笑した。

 「山下はんどうぞこちらへおはいり下さい」

 光子はそういつて、裏側の事務長室の方へ引きかえした。山下はなにかしやべりしやべりのそのそ後をついて来て、あたりをきよときよと見まわしながら、

 「奥さん、なんでこないだれもおりまへんのや」

 光子はしかたなく、

 「だれや、小山はんのビラ破つたもんがあるそうで、みんな出て行きました」

 「小山はんのビラはがした、性むない……ああ、そうだすか」

 山下はちぐはぐなことをいつて、妙にうなずくような返事をした。そうして間をおいて、

 「実はな奥さん、えらそうやけど、小山さんのためやさかい、わい音山はんに御注意しようと思うて来ましたん」

 「………」

 「そら音山はんはえらい人やけどな、なんというてもまだ若いさかい、それにあたまええさかい、やりすぎるいう人がおりますわいな」

 「どうぞ山下はん、あちらでお話しきかしとくれやす」

 光子は廊下を急ぎ足になつた。部屋へはいると、山下に座蒲団をすすめてすぐ電話で帳場へ山下のコーヒーとケーキをあつらえた。

 音山の卓上には、ひろげた書類の上にパーカーがほうり出してたり、煙草の吸殻が灰皿のそとにこぼれていた。光子はそれをきれいに掃除してていねいに整理した。山下は座布団を半分ほど尻に敷いて、ふところから二十本入りのバットを出して吹かしはじめた。そうしていやにいいにくそうな口ぶりでいつた。

 「わいな奥さん、小山はんの演説、どこへでも行てきいてまわつたんやが、わいにはなにもわからんけど、あら少し無茶や。みんなそういうとる。そら戦争で大もうけたもんは悪いが、それは後で悪いと気がついたんや。なにも悪いことして金もうけしよ思いまへん、うちの継男かて殺されたんや。そら戦争さしたやつは罪があるが、もうけたものに罪はあらへん。小山はんの演説きいていると、わいもあたま痛うなるんや」

 「………」

 光子はおかしかつた。お浜の話をきくと、山下は息子が戦死したんで、息子の弔合戦をしてくれと小山の立候補にたいへんのり気になつて、三百万とか五百万とか出すといつたそうである。それがこのあいだ一万円持つて来た。小山は演説で戦争中、不正な利欲をむさぼつたものを攻撃している。それはつまり戦争というものを攻撃してその罪悪をあばくことになるのだが、山下は自分のことを攻撃されているようにとつている。一万円持つて来たのはどういう気持かわからないが、そのときは小山の演説をきいてからというのか、それとも菊ちやんにきかすつもりかなにかで山の湯でうつかりダボラを吹いたので、知らぬ顔もできないからというのか、光子にはこの山下という人物がまるでわからなかつた。

 「音山にそういうときます」

 光子はしかたがないので、やつとそれだけいつた。

 「いや、あの小山はんの元気なら、音山はんがなにいうてもきかんやろ。代議士に当選するよりも、あんなこというてまわりたいのやろ、小山はんならそんなもんや」

 と山下は笑つた。そこへお浜と運動員が二三人ついてかえつて来た。お浜は興奮している。顔が蒼ざめて、目は悲しそうにうるんで、唇をかんでいる。いつも明るくて、ことに選挙以来とても晴々として活動していたのに、きようはとても心痛している。

 「病院へ行つて来ましてん、ほんまにひどいことして……」

 といつて、ぱつと目に涙がしみ出して光つた。しかしそばに山下がいるので、それからちよつとためらつていた。山下はきよとんとして、

 「病院? お師匠はん、だれか病気したんだすか」

 「いえ、若いひとがバスで足をすべらしたんがな」

 「おお、そらいかん。若いもんは元気がええさかい、ひどうはなかつたのか」

 「へえ、まあたいしたことあれしめへんけどな……」

 もちろんお浜は、そうでもない顔色だつた。

 「それでお師匠はん、お見舞かいな」

 「へえ、そうだす」

 「お師匠はんもこれでなかなか心配やな」

 「いいえ、わてえな役に立たしめへん、なにからなにまで音山はんや奥さんに御苦労かけます」

 「それはそうやろうがお師匠はんも金入りや。たいていのことやないわい」

 山下は首をふつて感じ入つている。そして山の湯で約束したのは自分でないようにけろりとしている。お浜も小山のいつたことが当つたと思つておかしかつた。が、小山がいうように、金のない小山に立候補させたのは、在庫品をたたんだのたつたとも考えられなかつた。そんな悪らつな人物でもなさそうに思つているお浜は小山に、 

 「山下はん、なんぼなんでも……」

 お浜が山下に口を切つた責任もある。

 「それでもわいに恩に着せて、話にならんたたき方しよつた。足もと見とんね。そら商売はそうでないといかん」

 小山は気にもとめていなかつた。東北から来た学生は、山下から電報が来たので学友に先方へ着いたらすぐ送るからといつて借りて来た特急の汽車賃は、山下がだまつているので困るとこぼしていた。音山がその汽車賃を出してやつて、小づかい銭を与えた。

 光子はさつきからの様子をききたかつたが、山下がいるのでだまつていた。

 「奥さん、すぐ来ます。べつに心配いれしまへん。山下はん、ちよつと失礼します」

 お浜が炊事場の方へ降りて行くと、山下ものこのこお浜について降りて来た。光子はホテルからハイヤアをよんでもらつて病院へかけつけた。

 炊事場は夕食の支度でごつたがえしだつた。さつきの事件で運動員はだれもいない。山下が二階の階段を、子供でもあるようにうなりながら、のしりのしりと降りて、やれやれといつた顔でそこへ突つ立つと、

 「あ、また来た!」

 と白いコック姿の菊ちやんがあきれたようにながめて、神経的に半顔を引き釣らせ、いつものイイをする。

 「ほんまにここになに用あるのん? 助平! いそがしいとき邪魔になる。気色の悪いじぼたや!」

 山下はにやにやと、いかにもたのしそうに笑つている。その甘つたるい絵に見たことも、また類型にもない見事な表情の顔だつた。そばにいるものは、笑いを咬み殺してうつむいた。山下ほどのけちんぼが高い花代をつけつぱなしにして菊ちやんに人中でもナイフを振りまわすような口の利きかたをされても、それがかえつて快感をそそるという男の性的心理は常態でないが、それがおよそ山下ほどの年ごろのものの、若い女にたいする常態の心理だつた。といつても、そういう場合、性交などとてもあつさりして、ただ花やかな青春の人生を〝鑑賞〟している人が多い。ところで山下はそうではなかつた。女はただ性器だつた。近ごろは、菊ちやんが音山に心を寄せていることを菊ちやん自らはつきりいうが、山下は笑つていて、ますます菊ちやんにつきまとうのだつた。菊ちやんの反撥や抵抗は、菊ちやんの意志を押しのけて、山下が兇器を持つた強盗のようにはいつて来る、その兇器は金だ。山下はそこの駒下駄をつつかけて、菊ちやんのそばへ寄り犬がからだをS字にくねらせて、しつぽを振るような声で、

 「どうや、洋食上手になつたかいな。手つき、なかなかええで」

 「ふん、かもて(かまつて)いらん、煮油あたまから浴せますえ!」

 ピリリッと呼子笛が鳴つたようだつた。

 「ハハハ、こわいお嬢さんや」

 「うち、冗談いうているのやあらしめへんで!」

 お浜は、そんなことをきびしい声で叫ぶようにいつている菊ちやんの真蒼な顔を見てびつくりした。菊ちやんがやにわにそのおお鍋をひつつかんで、山下のあたまへたたきつけた! あッ、お浜は菊ちやんに一足とびにとびついた。とびつかれた菊ちやんは、あの湯の宿の廊下で抱きついて泣いたときのようにお浜に抱きついて泣いた。ほかの人々はたまげてしまつた。まるでなんのことやらわからなかつた。お浜は自分の魂の旧宅にとびこんだのである。半玉から一本にしてくれた武田文吉に、お浜は菊ちやんが山下をきらつているように、武田がきらいだつた。武田を殺して自分も死のうとしたことがある。その真昼の幻影におびやかされたのだつた。二人の生活の抱き合いである。


   13

 音山は運動員の報告でとび出して、すぐ川口のはいつた病院へかけつけた。上膊をやられていたが医者は生命に別条ないというので、すぐ現場へ行つてみた。二人が格闘したところに、土がふみにじられて、血痕が点々としている。腕を刺されても川口は相手をはなさなかつた。しかし、ポスターやビラをはがしにまわつていたのは二人だつたので、も一人が加勢して逃げてしまつたと、見ていた人が交々いつた。巡査にすぐ知らせたが、のそのそやつて来たので、加害者はつかまらなかつた。と、みんな巡査の態度に不満だつた。

 「あんなことでは、警察も心細い」

 「いや、小山はん落せいうて、金もろうているのかもわからん」

 「ではこつちは、川口君一人で行つたのか」

 音山は運動員にきいた。

 「そうです。川口君の友人が、あこで小山はんのポスターはがしているもんあるいうてくれたんで走つて行つたんやそうです」

 音山はすぐ近くの派出所へ行つて、前にかけていた巡査に、

 「いまそこで格闘して傷を受けたものがありますが、あんたがたは下手人を逮捕してくれなかつたんですか」

 音山の落ちついた口調の底に、憤りのほのほが赤くもえていた。巡査が傷つけたような気がした。

 「はあ、報告を受けたのはずつとあとやつたので、逃がしてしもうたらしいですな」

 と、人ごとのようにいつた。そして運動員の腕章をじろりとながめながらすましていた。

 「らしいですなとはおかしいやありませんか」

 「いや、わたしは交代したばかりです」

 「交代したからつて責任がないとはいえないでしよ。警察は全体として、国民に責任がありますよ」

 音山は皮肉に微笑すると、音山について来た運動員は、突つこむように、

 「いや、それはちがうやろ、そばに見ていた人が、すぐここへ届けたが、犯人の逃げたころに、ぼつぼつ歩いて来た、それが、あの巡査やとあんたのことを指しました」

 「いうてましたて、きみそんなこというものがあつたら、ここへつれて来たまえ怪しからん!」

 巡査は、こわい目をして運動員をにらみつけた。

 「………」

 運動員がぐつと詰つてだまつてしまうと、音山はうなづいて、そばの椅子を引寄せて腰をかけた。そして落ちついた口調で、

 「よろしい、きみらはそういうていればそれで職務上に責任を問われるようなことはあるまい。しかし国の法を行うものは、万人が見ていかにも公平やとなつとくさせてこそ権威がある。そうして民衆がきみらを信頼してこそ、きみらも安んじてその職務を行うことがでけるのや。きみがいま、そんなこというたもんをここへつれて来いというたな。いかにもそれで、逃げは打てる。しかしきみらの前で、きみらの職務怠慢や不公平な行動を堂々と証言する勇気のある民衆がいるとは、きみ自身も考えていないにちがいない。いや、そんな勇気のあるものもいるやろう。としても、その事件があつてからもう一時間あまりもたつている。山のような見物人がいても、いつまでもいるはずがない。きみらはいつも交通妨害やいうて追い払うやろ。そんなことをなにもかもわきまえているきみらが、いまうちの運動員がだまつてしまつたので、へこましたつもりでいたら大きなまちがいや。きみらは職務上に手心を加えるための盲点をちやんと心得ている。えらいもんやが、しかしそれを民衆はよう知つているのや。そこからきみへの不信が生ずる。民衆に信を失つたきみらが正しい職務が行えるもんやない。失礼やが僕のいうことがきみらに解るかどうか知らんが、民衆の第一線に立つているきみらに、ぜひ解つてもらいたいのや」

 「あんたは、どういう人ですか、小山はんの運働やつてる人ですか」

 「どういう人でもええ。ぼくは民衆の一人や」

 中から一人の若い巡査が出て来た。

 「その民衆の一人が、警察官にお談義をきかすのですか。そんな資格がありますか」

 音山は笑つた。

 「資格とは恐れ入つたな。お談義やない。民衆の一人として、きみらにたいする希望をのべているのに資格がいるのかいな」

 そして一だんと高い声で、

 「ぼくのいうことがわからんならわからんでええが、ともかく目下総選挙中や。検印のあるポスターをはがしてまわるような悪質な選挙妨害者をタイムリイに検挙するようにしてくれたまえ」

 それから音山は選挙事務所の角をまがると、すぐそこにある警察本署へ寄つて署長に会つた。本署は総選挙中なので、どこかざわついていて、巡査の出入りも多かつた。MPの将校下士なども一室にいる。しばらく別室で待たされたが署長室から呼びに来た。署長は若い大学出らしい豊頬で白面の学生つぽい顔に金ピカの制服だが、いい体格なので堂々としている。なかなか社交的な態度で、

 「やあ、お待たせしました。オツキユパイド・ジヤパン(占領下の日本)でね。署長室もオツキユパイされてしまつて、こんな室にいるんですよ、ハハハハ」

 内務省あたりから最近やつて来たものらしい。甚だほがらかだ。

 「音山さんは小山さんの事務長さんですか、ごくろうさんです。小山さんのバスには学生が沢山のつていますね。署員がきつと音山さんの後輩だろうといつていましたが、京大はどうも左翼が強い学校で、あんまりやりすぎないようにおねがいします。小山さんがこの駅前で最初の皮切り演説をされたとき、だれか学生がアメリカ帝国主義打倒とやつたそうですね。ハハハハ、学生は元気がよくていいが、MPばかりでなくオツキユペーシヨンがいますから、もし耳にはいると、われわれに風当りが強くなりますから、一度、音山さんにお目にかかつてお願いするつもりでいたんですよ」

 煙草をぽかぽか吹かして盛んにオッキュパイを連発する。来意もきかないでしやべりつづけるが、音山はまるで注意をされるために呼び出されたようなもので苦笑をくりかえした

 「ぼく署長さんに抗議に来たんですが……」

 音山は、にやりとしていつた。

 「ほう、抗議けつこうです。今は一切がレジスタンスの時代ですよ。日本はあらゆる層で一応レジスタンスしないと建て直りませんな。どんな抗議ですか。御遠慮なくおつしやつて下さい。警察官も戦争中国民に全く信を失つていますからね」

 音山は先手を打たれた感じだが小気味のいい青年署長だと思つた。それで一通り事件のいきさつをのべると、

 「うん、それあいかん」

 といつて、すぐ卓上のベルボタンを押えた。音山は、

 「どうも、警察官が不良をさけているのか、それともなにか理由でもあるんでしようか」

 「司法主任を呼んできいてみます。まだわたしの方へは報告を受けていませんが、それあいかん。わたしからいうとおかしいが、警察も旧態依然ですな」

 しかし音山は、この若い署長が、その旧態依然の中で、どんなことができるのだろうと思つた。署長はつづけて、

 「古いものは、どんどん切りすてるべきですよ。その努力がわれわれに要請されるんです。なによりも音山さん、政界の革新が先決問題ですな。わたくしは戦時中、学校を出ると、すぐ下つ端役人でとても苦しんで来ましたが、いわゆる官僚は、軍部に不平不満でいながらサーベルの力に便乗して不正なことばかりやる。国会でもすつかり軍部にオッキュパイドされてしまつてグウの音が出ないじやありませんか。然し終戦になると、革新だなんだと叫んでいる代議士が、戦争中は東条英樹論を書いたり、東条の軍事予算を礼讃していたりした連中ですからあきれますよね」

 まるでこれはおよそ警察署長などという役人とは遠い存在である。さすがの音山も顔まけのてえだつた。これも時代の体臭であろうし、こういうところからも革新の芽が吹かねばならない。ところでこんな人物が、実は、かえつて、油断がならないのである。そこへ、署長のおやじくらいな、肩章に筋一本と星一つの司法主任がのつそりとはいつて来た。ブラシのような胡麻塩ひげを生やして、竹の皮の草履みたいな顔色をしている。

 「署長どの、なにか御用ですか」 

 と、音山を底冷たい、薄気味の悪い凄味のある目でじろりと横にらみした。人を見れば泥棒と思えという目つきである。

 「きみィ、この方は、小山候補の事務長の音山さんだが……」

 と署長は紹介して、 

 「小山さんのポスターはがしたもんと、小山さんの運動員の……音山さん、その被害者、なんといいましたかな」

 「川口明です」

 「うん、その川口明の上膊部を匕首で刺して、全治二週間の重傷を負わして逃走したというが、きみ、報告を受けたかね」

 「いえまだ、なんにも……」

 と、とぼけた顔である。

 「まだ受けんかね」

 「はい」

 「T派出所だというが、きみ、なんにも報告受けんかね。電話でもなにか報告がありそうなもんだがね。被害者はS病院に入院したというんだぜ」

 署長は、じれつたそうである。主任は落ちついたもので、

 「すぐしらべてみます。なにしろ選挙違反の件数が今度はどうしたのかとても多いので、どこの署も留置場はぎつしりです。手が全くまわらんのです。」

 「どうもそうらしいな、民主国会だ、民主政治の総選挙だとかいつてみても、これでは旧態依然だね。音山さん、ポスターやビラの違反も警察では十分取締りますが、今度は悪質の買収がひどいので、その方へ主力をそそいでますので、主任のいうようにそつちの方へ手がまわりかねているんですよ。甚だ申しわけないことですが、さつそく取りしらべることにしますから少し御猶予をおねがいします」

 そういつて司法主任をかばつて、その方へ

 「きみ、T派出所へすぐ電話してよく調査するようにしてくれたまえ」

 「承知しました」

 この古狸の老警部補は、ついこのあいだ警察にはいつて来た若殿様に舌の先きでものをいつているようにうなずいて、またのつそり出て行こうとするので、音山が追つかけるように、

 「主任さん、ポスターやビラをはがすのは警察の方ではたいした違反でないかも知らんが、候補者にとつてはたいへんな打撃だから厳重に取締つてもらいたいのや」

 「承知しました」

 ちよつと振りむいて、ほんのごあいさつのような感じで、主任は出て行つた。音山はそうとう意気ごんで来たが、この喧嘩の相手の署長に煙にまかれるし、主任には巧妙に逃げられてしまつた。警察にはあまり来たこともないが、警察というものは、浅草の雷門の仁王みたいなもんで、いかにもいかめしいが、一向役に立たないものだと思つた。


   14

 音山が警察から帰つてくると、党県支部から、速達内容証明郵便で、小山候補の除名を通告して来た。音山は事務長室でその通告を見て、いよいよ来たなと思つた。警告なるものは二度も来ているので音山は、だいたい予期していたことだつた。理由は、党の政策に反するというのである。それは明らかだと音山は思つた。その日演説会を終つた小山が夜の十二時ごろ事務所にかえつて来て、自分の部屋にしている表二階の一間でお浜の持つてきた、生卵とコーヒー、果物などに手をつけようとしていると待つていた音山がはいつて来た。

 「庄やんお疲れ……来たぞ、来たぞ」

 「ふうん、だれがかいな」

 「人やあらへん」

 にやりとしながら音山は、党からの通告書を見せた。それが大きい文字で半罫紙に書いてある。小山は頤を引いて読んで、フフンと笑つて音山にかえそうとすると、受取らず、

 「紙屑籠にでも入れとき」

 「音山はん、除名でも選挙やれますのん?」

 お浜は心配そうである。

 「やれるところでない、その方がよつぽどやりよいわ」

 と、音山は笑つた。

 「今までなに一つ党のお世話になつているわけやない。公認料取られただけや。除名で公認料ふみたおしか」

 小山は笑つた。お浜が、

 「除名いうたら破門のことだつしやろ」

 「そら同じや」

 「そんならきつと当選しまつせすえ」

 お浜が自信ありげにいうと、小山がお浜の顔をながめて、

 「そらどういうわけかいな」

 「家元から破門しられはつたお師匠はんが、別派をたてはるときつと同情しられてお弟子さんが、前よりずつとたんとになりますのん」

 「こいつはよかつた」

 音山が手をたたいて、

 「こつちは、その別派や」 

 と、笑つた。

 「お浜、うまいこと言う。そらお師匠はんよりもえらい弟子がもつと新しい工夫して別派立てたんや」

 そんなこといつていると、

 「万歳!」 

 「万歳!」

 階下の食堂で夜食を食つていた二台のバス組の喚声が上つた。

 「やつとる、やつとる」

 二人はまた笑つた。そこへ階下のバス組は東北学生の麻見が先頭に立つて、とびこむようにはいつて来た。

 「ブラボウ! 小山!」 

 「小山候補除名万歳!」

 ワーッと双手を上げて叫んだ。みんな一ぱいきげんである。

 「きみたち、あんまり騒いではホテルでびつくりする。もう十一時や。お客も泊つてる」

 「ハハハハ……」

 小山がいつものようにダブル目をぐるぐるまわして大声で笑つた。

 「ここ追い出されるぞ」

 と音山がいうと、

 「ええワ、テントはつてやろうかい、ええ陽気になつた。桜も咲いた。花見選挙や」

 小山はのんきなものである。そこへ光子がはいつて来た。音山が青年たちに、

 「きみもう寝たまえよ、あしたはいつもより早う起きして、バスの自由党公認抹殺や」

 「愉快、愉快! 今からやろう、今晩は愉快で眠られやしない」

 麻見がいつて、そこへでんとあぐらをかいている。きのうまでの彼ではない。解放されたように尖鋭な目が明るくかがやいている。

 音山は笑い顔で、

 「麻見君、きよう警察へ行つたら、署長がアメリカ帝国主義打倒はやめてくれ、現在はアメリカのオッキユパイド・ジャパンだというていたぞ」

 「そら反動はそういいます」

 と麻見はすましたものである。みんな笑う。音山も笑つて

 「現実だよ、それは」

 「その現実を打破するには、そういうスローガンを堂々と合法的に壇上で叫んで、大衆の支持を受ける必要があります。それでグングン押して行くのでなければ、ヱマンシイペーテッド・ジャパンにはできないと思います。われわれの日本は、なにも罪のない日本人を原子爆弾で数十万人を殺したアメリカ帝国主義打倒を絶叫します!」

 麻見の全身から火を吹いた。

 「そうだ!」

 といいたそうな表情のアルバイト学生も、先輩の前では遠慮していた。うなづいた音山は、手に持つていた火のつけたばかりの煙草を灰皿にのせて、教師のように説いた。

 「うん、それは全くそのとおりや。しかしわれわれには、そこまで行くための多くの複雑な幾段階もの過程があるのや。川は一足とびには渡れん。川を渡るには橋が必要や。資材や技師や、また多くの労力もいる。いまわれわれはその準備をしているのや。これは決して妥協やない。いや妥協も必要や。こないだもきみにいうたが、政治運動は思想運動やない。一歩一歩現実という大地に足をつけて開拓して行くのやから、ときには妥協も必要になる。あせつては失敗する。急がばまわれ瀬田の橋や。理想は高いところに持つても、足元を忘れてはいかん」

 音山の煙草がすうつと線香のように煙を上げている。みんなはしいんとしてきいていた。

 「わかりました。あしたからは、もつと猛烈なやつをやつてやろうとはり切つていたんだけれど、そんならアメリカ帝国主義打倒はやめます。除名の好機が利用できないのは残念だ」

 といかにも口惜しそうにいつたので、みんな笑つた。

 「さあ諸君、すぐ寝たまえ、あすは出発前までにバスの看板やポスター塗り替えや」

 「いやみんなで今晩中にやります。正しいことをいうのがいけないなんて、反動の正体をばくろしてやがる。あんな政党の公認は不名誉です。一刻も早く抹殺しましよう!」

 麻見がいうと、運動員はみんな拍手で迎えて、口々に叫んだ。

 「異議なし!」

 「異議なし!」

 音山が

 「もう十二時近くやで」

 運動員は

 「十二時でも一時でも、徹夜でもええペンキやたたき起して引つぱつて来ます」

 「断固がんばります!」

 「なあにあのくらいなペンキ字なら、ぼくも書きます」

 「よし、そんならやつてくれ」

 「どう書き直すんですか」

 「自由党公認候補をとつて、無所属候補とするのやが、僕も行く」

 音山は階下を降りようとしたが、小山がついて来そうなので、

 「候補者は寝るのや、お浜はん、早うあつちへつれて行き、来たらいかんぞ」

 と大きく手を振つた。小山は一度腰を上げたが、音山がそういうとまたそこへすわつてしまつた。お浜はあとからついて降りて、

 「ほんまに皆さん、ごくろうさんだす」と大きな声でいつた。

 「ハハハハ、ややこしいこつちや奥さん」

 小山はおとにのこつている光子にいつて笑つた。そうして大きいあくびをした。



第三章 総選擧寫生帳第四册

  15

 運動員がみんな階下に降りてしまつたので、小山がひとり、ぼんやりしていると、光子がお茶など入れてやつて、

 「お疲れでしよう。おやすみになつたらどうです」

 「いや、みんなはたらいているのに、わいだけ寝られまへんわいな。徹夜くらいなんでもないが、またあんたのだんなはんに叱られるのん、こわいさかいな」

 光子は笑つた。そこえお浜が上つて来た。

 「音山はん、早うあんた寝させいうてはります。さあ、あつちへおいでやす」

 「あほいうな、下でみんなが働いているのに候補者いうても、わい一人先きに寝られるかい。もうこうなつたら、徹夜でも夜明しでも毎晩やつて、やつてやつてやりまくるのんや。ハハハハ」

 れいによつてのん気で、それでいて、弓づるのようにピーンと弾力が感じられた。

 「そんならここで、ちやんとそうしてすわつているのん」

 お浜は笑つた。

 「御遠慮いりまへんわ、候補者は疲れますからおやすみになつて下さい」

 また光子はいつた。そこへ下から、音山はじめ、運動員たちがドカドカとかけ上つて来た。うしろに五六人のキャメラを肩にかけた新聞記者がついている。小山の知つている顔ばかりで、ここの各社の通信員である。

 「小山はん、とうとうやられましたな。やられるのやないか思うていたんや。ええよ、ええよ、うんと書いてやる」

 先きに立つているのがいつた。音山の後輩である。

 「よう、これはこれは、皆さんお揃いで夜中ごくろうさん」

 小山は愛想よくいつた。そしていつもの二皮目をぐるぐるまわして、

 「いやあ、やりようた、やりよつた。わい少し活気がない思つて、親切にえらい大け活入れてくれようた。ハハハハ」

 一人が、

 「活気がありすぎたんやないんですか」

 みんな笑つた。するとまた一人が

 「さあ一つ、先きに事務長の音山はんのご意見からきかせて下さい」

 みんな鉛筆と原稿用紙を持つて音山をとりかこんだ。音山はうれしそうに、

 「うん、こいつは宣伝百パーセントやから、よう考えて効果的に書いてもらわんならん。ちよつと五分ばかり待つて下さい、原稿書きます。候補者にもなにかしやべらせてもらえますか」

 「さすが音山はん、抜目ない。宣伝のヴヱテランや」

 「もちろん、小山はんのご意見もきかせてもらいます」

 「そんなら、小山君のは、候補者の声明の形式で発表させて下さい」

 「それでけつこうです。一つ立派な声明書を発表して下さい」

 と大きくうなづいたのは、やはり音山の後輩だつた。

 「ではちよつと失礼します。ほんの五分から十分くらいまで待つて下さい」

 音山は光子もつれて小山と一しよに、事務長室へ行つた。お浜は運動員たち二三人と階下へ降りて、ビールや鑵詰めなどを炊事場からはこびこんで来た。お浜はすぐ、なれた手つきで、ビールをみんなについでまわり、

 「夜中でなにもお肴でけまへんので、失礼やけど……」

 「奥さん、供応になります」

 そういつて笑いながら、だれもが泡立つビールをうまそうにのんだ。昼は小山候補の運動員の負傷事件があり、その原稿をやつと本社に送ると、すぐまた除名問題が持ち上つたので、みんな一日かけまわつていた。

 「これは除名した方が負けや。奥さん、小山候補は県民にたいへん同情されてますよ。運動員に暴力を加えて怪我させた上、除名したりしたつてね、自由党が暴力をふるつたように思つとる、ハハハハ」

 一人の運動員がいうと、他の一人が、

 「近ごろはどつちにしても暴力を振つた方が負けや」

 「みんな戦争にコリとるからな」

 「小山はん、だいぶ票をかせぐな」

 お浜は、

 「そうだすやろか、わたしこんなことあると落選やないかと思うて心配していましたん」

 「いや有権者は同情しますから、こんなことがあつた方が有利になりますよ」

 「そうだすか、そんならうれしいけど……」

 やはりお浜は心配そうである。

 そこへ運動員が、六十近い、着流しの和服姿のあまりいいなりでない老人をつれて来た。運動員たちがバスの模様替えで働いているところへ通りかかつて、今ごろなにをしているのかときくから、小山候補が自由党から除名されるのでいままでの肩書を削つて書き直しているのだと答えると、さつそく財布を出して、これ少いけど、小山候補の運働費につかつてくれといつて、これをくれたと、運動員は手に握つている百円札一枚見せた。通信員は一せいに通信員らしい目つきになつて老人を見つめた。

 「おじさんはどこの人です」

 「なに御商売です」

 「小山候補の演説きいたんですか」

 通信員たちは口々にきいた。しかしきよとんとしてだまつている。

 「この方々は、どういう人たちだ、小山はんはおいでやないかいな……」

 老人は運動員にきいた。今ごろ鑵詰を切つてビールをのんでいるのが、へんに思われたのであろう。

 「新聞社の人たちです。小山はんはすぐ来ます」

 と前からいる運動員は答えた。老人はうなづいて、

 「ああそうか、それはそれはこないにおそいのにごくろうさんや。運動員を怪我さしたり、除名したりして、どうぞ小山はんのこと、よう書いてやつて下さい。おたのみ申します」

 とあたまを下げて、それから通信員の顔を見まわして、

 「わいは小山はんの演説、どこでもききに行きましたが、あんなまちがいのないこというひとあらへん、あんな、ほんまのこという候補者一人もあらへん。わいは小山はんいう人は、それは立派な人や思うてます。それに小山はんのビラやポスターはがしたり、運動員に暴力を加えたり、あげ句の果ては除名したりする。自由党は悪党だす。ほんまに吉田はんは悪党の大将だす」

 とまた暴力や除名をくりかえした。

 「おつさんはなにする人です」

 「わいかいな、わいは畳屋や」

 顔は百姓のように焼けているが、職人に似合わず目が知的で顔が引きしまっている。

 「どこに住んでいるのです。名前なんといいます」

 「そんなこと、新聞に書いてもろたらかなわん」

 「新聞には書きませんよ」

 「あんた方は、書かんというのが手や。そういうというてデカデカ書きよる。そらあたりまえや、書くのが商売や、書かなんだらめしの食い上げや」みんな笑つた。

 「小山はん、まだ見えんかいな」

 「もうすぐ来ます。おつさん御親切にありがとうおま。どうぞまあ一ぱい」

 お浜はビールをついだ。

 「はあ、大け……百円持つて来てビールごつつおになつたら小山はん損する」老人はふところから財布を出してまた百円出した。お浜はその金を一度いただいて見せてかえした。

 「お金もうけつこうだ。おつさんの御親切で十分だすわ」

 鑵詰のかにを小皿へ取つてまたビールをついでやつた。

 「せつかくやから、ねんさんごつつおになります。」

 「ああうまい、小山はんによばれたビールの味は、また格別や」

 とうれしそうに目をかがやかしてコップを下に置き、ちよつと考え、

 「これはうつかりとえらいことしたわい。これはしもうたことしたど」と首をふつて、

 「ねえさん、こんなことしてもろたら供応になるのんやろ……」

 みんな笑つた。

 「おつさん、大丈夫、夜中だすがな、ここにはこわい人一人もいやへん、ゆつくりのんどくなはれ」

 お浜がいつて、またついでやつた。

 「大け、大け、そらそうやろがもうけつこうや。しかしこれまあ、別ぴんさんのお酌で、小山はんにごつつおさんになるのんや、ああええ気持や。……」

 そしてにつこりと、

 「味はまた格別や、」

 と同じようなことをくりかえして、

 「小山はんまだかいな、演説会にまわつてはるのんかいな」

 そして二人がかえつて来た。

 「やあ、お待たせしました」

 と音山がいつた。

 「おお小山はん……」

 老人がなつかしげに見上げた。

 「……」

 小山は見知らぬ老人に、目をぱちくりさせている。お浜が説明すると、小山はよろこんで、いきなり老人の手を握りしめてしまつた。音山が、

 「いやみなさんに持つてかえつてもらうために談話と声明二通づつ書かしています。すぐです。さあのんで下さい」

 といつて、人々についでやつた。小山が、

 「お浜、ビールもつと持つて来い。それにウイスキイ、Sの十二年の方持つて来て、蟹鑵ももつと、それにベーコン、ソウセージ。つくり(刺味)はビールに生臭い。そうや、うにがええ。なんでもビールにええもんを見つくろいではこんで」

 「はい、そうや、ウイスキイがよかつたわ、ほかのも見つくろうて来ます」

 といつて立つと運動員三人がついて行つた。

 「あんまりごつつおいりまへんで、選挙違反や」

 一人の通信員が笑つた。

 「ハハハハ、あんたがたにもえらい目さしますわいな、ごくろうさんや。いづれゆつくりと慰労会してのんでもらいます」

 小山がいうと、音山が、

 「あんた方になんぼ供応しても大丈夫や、慰労することはこつちの勝手やからな」という。

 「ハハハハ、法の盲点や」

 一人がいつたので、みんな笑つた。

 小山がいいつけた通り、お浜は運動員三人と、また二ダースくらいのビールやSウイスキイ、肴は大盆二つに一ぱい、ごたごたとはこんで来た。一人の通信員はチラと腕時計を見て、

 「締切、まだ大丈夫やが、音山はん、まだでけまへんか」

 「いや、もうでけてます」

 「ちよつと計画的な感があるな」 

 またみんな笑つた。音山が、

 「どういたしまして、とんでもない」

 「音山はんは、そんなことする人やない。ぼくもう少しハッタリやりなはいというて、ひどく叱られたんや」後輩が弁護した。

 「どうか知らん、音山はん、なかなか政治家やから油断ならん」

 一人がいつたので、またみんな笑つた。

 「ともかく、こういう機会をキャッチして、巧みに宣伝することや。音山はん、ちやんと呼吸をのみこんでいる。われわれもこれは総選挙中の二大ビックニュースやから、大々的に書くことになります」

 「病院にいる川口君は、あす朝退院して繃帯のままでとびまわる。殺されてもええといつていましたよ。小山はんの運動員は、みんないのちがけやから感心や」

 「音山君が一粒よりで集めて優秀な指導しているんやからな」

 小山がいうと、

 「いや選挙はなんというても候補者の人望や、それでないと運動員は働かん。人望というよりも、信仰やな。金をあてにして来たもんは、かえつて妨害になる」と音山がいつた。

 「それで音山はん、形勢はどうです」

 「いや、それはあんた方がようわかつているはずや。われわれは自分のこと、ええ悪いなてまるでわからん、選挙てそんなもんや」

 「それはわれわれでも同じことですよ。新聞で下馬評をやつても、新聞記者のカンみたいなもので、当るも八卦、当らぬも八卦や」

 「いや、小山はん、きつと当選します」と、だしぬけに老人がいつた。

 そこへ光子が、原稿を持つてはいつて来た。

 「お待たせしてすみません」

 そうして二通づつ、通信員たちにくばつた。

 みんな目を通していると、音山が、

 「御質問ありませんか。」ときいて

 「書くだけは書きましたがもちろん、あんた方で取捨は自由にやつて下さい」 

 「うん、これはうまいとこ突つこみましたな。うん、これはええ」

 と首をふつてうなづいているものもある。

 「ほかはこれでええと思いますが、ここんとこ、大臣、大将、官僚、大会社重役等が大軍需品を隠退蔵して、私腹を肥やし云々は、少し独断のように思いますが……」

 と一人がいうと、他の一人が、

 「一がいに独断とはいえないだろう。ぼくはそのころ東京の学校にいてその通りやつたんを現に見ているのや」

 また一人が、

 「小山候補は、これよりもつとひどいこといつているのやから、これでよかろう」

 「自由党はそれで耳が痛いから除名したんや」

 それでみんなまた笑つた。

 「では写真を一枚……下の運動員の方も上つてもらつて、景気よく撮りましよう」

 一人がかけ降りると、すぐドッと上つて来た。その人達を立たせて、前に小山、音山、光子、それだけでは少し淋しいので運動員三四人座らせて、みんなが万歳と双手を上げているところを、通信員たちは、あつちこつちからキャメラを向けた。お浜と老人ははいらなかつた。

 通信員は引き上げた。

 音山が、

 「さあ諸君、ごくろうやつた。これのんでぐつすりひと眠りしてくれたまえ。もうでけたやろ」

 「もうちよつとです」と上田がいう。

 「それは朝でええ、おいバス隊長、鼻の先きに白ペンキがついているぞ」みんな笑つた。

 「電灯が暗かつたので」

 「みんな手を拭て来たまえ」

 運動員が降りて行くと、老人が待つていたように口を切つた。

 「小山はん、これからしつかりやつとくれなはい、きつと当選します」 

 「ありがとう、ありがとう、しかし当選はむつかしおす。しつかりやりますが」

 「いや、だれでも、小山はんはわいたちの味方やさかい、きつと当選さすいうてます。わいは畳屋だすが、仲間内をみんなまわります。それから大工や左官、屋根屋、植木屋を小口から走つてまわります。まあここだけの話やけどな」

 「いや、おつさん、それはありがとう。おつさんのような人がいてくれるのは、わいには百万力や」

 小山は、ビールをついで、あたまを下げた。老人は手をふつて、

 「いやもういらん」

 お浜は涙ぐんで、

 「ほんまにありがたいわ。さあ、あがつとくれやす」

 「わいは僅かな金で買収しられて、悪い政治やられたら、一文おしみの百知らずということあるが、そやのうて、一文もろうて百文とられるんやと、わいいうてまわります。小山はんの演説、わいは追わいてまわつてきいたんやが、なかなかええこといやはるけど、そこを一つ小山はんも、みんなによういうて教えてやつとくれやす……」

 音山は、ぽんと膝をたたいた。

 「なるほど、すつかり肝心なことを忘れていた。おつさん、ありがとう! ありがとう!」

 音山は老人の骨ばつたごつい手を握つて振つた。

 「わい、小山はんにそう演説してほしいのだ。あいつら、みんなアホウやさかい、わずか三円や五円(当時)で買収されよるが、五千円も一万円もの無茶苦茶な高い税金かけられて差押えくうて、ありもせん家の道具公売されよる。こんなアホなやつばかりやよつて、わいは畳屋でなんにも知れへんけど、そのくらいのことわかります」

 「わかりました、おつさん、なかなか、あたまええ、ほんまにわい、肝心なこと忘れていた。ありがとう、ありがとう、お礼申します」

 「なんの、ありがとうもお礼もいるもんやない。それはわいら国民の方からいうことや。しかしわいらのようなもんのいうこと、おこりもせんとようきいておくれやした。どうぞおたのみします。お疲れのところをいつまでもお邪魔してすみませんでした……」

 老人はかえつて行つた。

 小山候補が自由党から除名されたという記事が、翌朝の有力な各新聞の本紙にも地方版にものつた。ことに地方版にはトップニュースとして大活字でデカデカと報じられて、前夜うつした写真が大きく出ている。その中には、党側と候補者側のいい分がならべられてあつた。

 自由党県支部幹事長、H氏談

 党は小山庄吉氏を、故代議士吉武三郎前水産会県連会長の後継者と認めて公認したのですが、甚だ遺憾なことには、小山氏の発表されている政見は党の政策に反し、党是にもとるところが多いので、再三警告したのであるが、何等反省の誠意が認められませんので、甚だお気の毒とは存じますが、やむなく今回の党の決定となつたのであります。

 それにたいして、小山候補の選挙事務長音山氏談としてのつていた

 党の小山候補除名の理由には絶対に承服できない。小山候補の政見が党の政策に反するものというが、驚くべき誤つた見解である。現に吉田自由党総裁は総理大臣として盛んに政界、官界の綱紀粛正を叫んでいるではないか。小山候補はその吉田総裁の趣旨、従つて党の方針に従つてその政見を発表している。それがどうして党の政策に反するのか。甚だ奇怪であります。このことは小山候補の政見発表演説をきいていただいたらよくわかると思います。どうか有権者の方々が小山候補の演説会に御来聴下さつて公正なる御審判をおねがいいたしたいと存じます―

 その次ぎに小山候補の声明書がのつていた。

 声明

 不肖わたくしは今回自由党公認衆議院議員候補者として出馬いたしました。しかるところ、突然わたくしの政見が党の政策に反するという理由で党より党籍除名の通告を受けました。わたくしは全くその理由を了解するに苦しむものであります。わたくしの久しい間従事しております水産業界では、戦争中、食糧不足を利用して統制に違反し、大会社重役、富豪、高級諸官僚を常得意とする料理屋、待合は申すに及ばず、その人々の家庭にまでぜいたくな優秀品をヤミ流しにして暴利をむさぼるばかりではありません、終戦後のインフレに乗じて思う存分の巨利を博しております。そのために額に汗して働いている勤労者の皆さんの統制品は、あふられて品質が粗悪なものでも価格がとても割高になつて低額収入の方たちは、それさえ買えないのであります。一方にまた、国民の血税であがなつた終戦当時の莫大なる軍需品は、どこへ行つてしまつたのでしよう。いうまでもなく、その当時の大臣、大将、上下諸官僚がどこかへ隠退蔵してしまいましたのです。もちろんそれを金に代えて不当に私腹を肥やしたのです。わたくしはこの事実を国民の皆さんに訴え、こういう悪い政治は再び絶対にさせてはならぬと信じましたので、今回立候補したゆえんであります。そして毎夜そのことを国民の方々に訴えております。それがなぜ悪いのでしよう。それが悪いということになりますと、党は正しい、善い政治をしてはならないということになるではありませんか。もし政府与党の政策がそうでありとするならば、吉田内閣は怪しからん悪政の府だと申しても決して過言ではないと信じます。何卒有権者の方の公平なる御判断をおねがい申します―

 この声明は、小山候補に同情があつまつているので、新聞紙の多くは、ほとんどその全文をのせた。両方とも音山が書いたのだつた。早朝、掲載紙数百枚が自動車で各所の販売店へとびまわつた運動員で小山の事務所に買い集められた。それに昨日、小山のポスターやビラをはがしたものと格闘して刺された運動員の川口清の白い繃帯をした病院での写真と記事が、除名の記事につづいてのつていた。川口の談として通信員がいつていたように、「あしたの朝から断じてやる。殺されてもやる」といつて、盛んな意気を示していた。

 だからその日の地方版は、小山候補の記事で一ぱいだつた。

 「万歳!」「万歳!」

 若い運動員たちは、事務室を新聞紙で真白くしてうれしそうに叫びつづけた。

 終戦後の日本は過去のあらゆる権威が批判を受けて、新しい権威が生れつつある。それをはつきり認識しているものは少数である。多くは、ただばくぜんとしてそんな感じをいだいているにすぎない。戦争中歓呼で送られた兵士たちが見る蔭もない姿で復員して来た。その姿を見て、だれがそうさせたかは、政治をまるで知らない青年でもはつきりわかる。戦時中、学校の先生や、えらい軍人、政治家、学者たちのいいきかせたことはみんなうそだつた。だから青年は、〝おとなの世界〟にたいし、抜くことのできない不信の情熱をいだいている。まして小山候補の事務所にあつまつて来た青年たちは、最早反動の象徴のような七十何歳の吉田茂のつくつた自由党に新鮮な感情を感じられるはずがない。その統制でない統制が息苦しい。小鳥のように大空をとびまわりたいのが青年である。そしてあくことのない、逞ましい欲望からあらゆる新しいものが生れる。この勤労青年の運動が吉田茂には、〝不逞のやから〟に感じられた。自由党から解放された青年たちが喜んで騒ぐのにふしぎはなかつた。

 その夜、演説から小山が南海ホテルにかえつて来ると、顔を曇らせたお浜があわてて出て来て、

 「あんた、また困つたことがでけたん」

 「なんや、困つたことばかりようつづくな」

 「…………」

 「そんな顔してだまつていることない、また喧嘩かいな」

 「そんならまだええけれど……」

 「喧嘩より悪いことてなんや、かくすことない」

 「ここの御主人がこのホテル空けてくれというのんや。困りましたわ」

 「ふうん、べつに困つたことやあらへん。出てやつたらええがな。家主がいうことや、しかたない。前金かえしてもろうたら、高い座敷料で費用出る。いよいよテントで花見選挙や」

 「あんた、のんきやな、女中さん向こへ行つてもろうたり、炊事場やなにかでこれまでお金たんと入つているのん」

 音山がはいつて来た。

 「お浜はん、そんなこと心配いらん。出えいうても出て行くところないのや。なにいうても動かなんだらええのや。ちやんと高い席料払うて契約がしてある。選挙中はテコでも動かん、暴力でも動かん。断じて動かん!」

 と強く首を振ると、小山はハハハハ……と笑つた。



第三章 総選挙写生帳第五冊

   16

 終盤戦に入つたころ、小山候補の金庫は空つぽだつた。つまりこの一週間の予算六百万円は全く金策ができないのだつた。前二期は、途中で妨害されてその妨害に反撥して一層宣伝を強化したので意外の費用がかかつたし、婦人新生活同盟県連会やその他、青年文化団体などの同情的な応援があつて、それにもそうとうの費用がかかり予算がすつかり狂つてしまつた。もともと、金は最初からないのである。そういうことにかけては強引に押していく音山はすでに一千万円近くの才覚をした。音山でなければできないことだつた。しかし音山は終盤戦こそまだそれくらいの運動資金がほしいのである。最初は六百万円と予算を組んだが慾をいえばもう二三百万円もあれば申分ない。音山はそのために方々をかけずりまわつた。山賢はこつちで相手にしなかつた。お浜はそれに気がついたので手持の有価証券を全部手放して二百万円つくつて、音山が手を振つて受取らないのに、むりに押しつけた。県連の積立金からまた二百万。するとどうやら六百万円はできた。まだあと一二百万なら大丈夫できると見こみがついた。できなかつたら積立金からもう百万円つまみ出そう。

 「さあラストヘビイや!」

 音山はじつとりと心に汗をかいて自動車から降りると事務室にはいつていつた。そうしてやつと安心したようにどつかりと回転椅子に腰かけてプーッと煙草を天井に吹き上げた。夕方で、夜間演説に出る前の一休みに夕食を食いにかえつていた小山は、そつと音山に寄り添つて、

 「音やん、むりせんといてや、あとがこまるで……」

 音山が金策にとびまわつているらしいのでいつた。

 「きみはそんな心配などいらんというているやないか、かぜひかんようにして、ラストヘビイ出すのや」

 ポカポカ煙を吹かしながら小山の方もむかずにいつた。

 いつもの通りである。そして

 「当選さえすれば、なんとでもなる。いまもたもたしていたらあかん。吉武はいつもそれで勝つていたのや。背水の陣や」

 「選挙いうものは、えらいもんやな、まるでばくちや」

 小山はそこに突つ立つて

 「そのつもりでいたらええ、きみみたいなこというて負けばくちになつたらどうする」

 「おどかされる。早よめし食うて行こ」

 と小山は逃げるように食堂の方へ降りて行つた。

 「あなたもごはんは」

 そばで音山に教えられた通り、法定費用につじづま合す報告書をつくつていた光子がいつた。光子もまた五十万円出している。

 「大高君もお父さんに話してくれて、自分と二人で百万円出してくれた」

 音山は食事に行こうともしないで卓上に足をのばして、煙草を吹かしている。よほど疲れたようである。

 「まあそれはよかつたわ」

 「おれのおやじと来たら、あれはヂウそつくりやな」

 「おいでやしたん?」

 音山は笑つて

 「だめや思つたけど行つて見たんやがケンもホロホロや」

 「お父さまとあなたの仲がようならんとむりやわ、お父さまかつてあなたのおいいやすような方やあらしまへんわ」

 「おやじは、ぼくのような亭主を持つてようだまつてしんぼうしているいうて、きみに同情しているのやからな。ハハハハ」

 「そんなことあらへまへんけど、そのうちわたくしお父さまにおわびしたい思うていますの」

 「そんなことしてみても、また衝突するさ、どうせぼくとおやじは、ものの考え方がちごうているからね。平行する二線や」

 「でもお母さまがお可哀相ですわ」

 「そらそうやが、どうにもならん運命や。いかん、いかん飯食いに行こ。大高君がどこかでごつそうするいうたけど、かえつて来たんや」

 音山が行こうとすると、小山が上つて来た。丁稚の飯は早い。

音山は卓上の手金庫から千円束五つ出して、

 「今晩は奥地やから向うで泊る方がええ、あの区にあした十万円持たせてやるから、しつかりがんばつてくれいうというて」

 小山はそれに手を出さず首をふつて、

 「もうええ、ぼくらはかえつて来る。そう金つかわんことや。もうあと一週間やないか、ぼくにいれてくれる人はきまつているやろ」

 「それがまちがいや。入れる人は、投票日になつてひよいとだれに入れてやろうという気になるのやから前日までがんばるのや。ここまで来てわずかな金でからだむりしたらいかん。泊つといで」

 小山は笑いながら手を出して、

 「事務長はんのいうこときこ」

 その奥地は農産地帯の炭焼、木こり、段々畑の南京豆や麦しか作れない零細農ばかりの村々で、S字になつた危い山道を登つて行つた。ハンドルを取りそこのうと、深い谷底にころがりこむ。それでも百畳ばかりの集会場があつた。ここへはバスで来られないのでハイヤアだつた。会場に近づくと、窓の外には、小山候補の演説会のビラがどこもかしこもべたべたはりつけてあるのが目についた。それにまだメガホンでこんばんの演説会をふれて歩く声がする。

 「まだやっとる!」

 小山はうれしそうだつた。

 会場の装備は、その地区の運動員たちが実によくやつていた。柔道の道場のような畳座敷だが正面に卓子と椅子があつてそれが演壇である。その背後の壁には長い白金巾にずらりとスローガンの書いたものがはりつけてある。バスのボディにはつたスローガンとはまた変つたものもある。

 「国民の幸福な生活は保守反動党の政治に依つては望めない、断固保守反動政党粉砕!」

 「国民に幸福な生活を公約する小山候補を除名した吉田自由党断固打倒」

 「清きあなたの御一票は純真無垢な小山候補へ!」

 その他の有名な応援弁士の名も出ている。

 スローガンの上には日本の国旗が交叉されているし、卓子の片側には台の上に赤い西洋花がきれいな花瓶に生けられていた。天井には万国旗が飾られている。はいつて来たものは、

 「いよう、天長節みたいなきれいな会場やなあ……」

 と目をみはつてあたりを見まわしてよろこぶ。音山は政見発表のような固苦しい演説にはこうして傍聴者の気持を和やかにする、他の候補者がやつていないことで小山候補の印象づけるのだ。費用は僅かなものだといつた。

 小山がついたころは、黒いスーツ姿の婦人生活改善運動同盟県連会長の山北竹子女史の応援演説中だつた。会場はいつぱいで、うしろの方は立つているし、場外まであふれている。自転車が広場に押し合つていて、百燭光が村々の大きい立札がよく見える。遠くの村からやつて来たものであろうが、運動員の宣伝がよく行き届いて他村から来ることを予想したものか、そんな立札まで用意していたのである。こんな山の上の村でこれはたいへんな人気だと小山は思つたが、その人気がアテにならぬと音山はいう。それが小山にはさびしかつた。


   17

 山北竹子女史に代つて、小山候補が演壇に立つた。破れるような拍手である。もうすつかり板について昂奮して鋭いこともいわなければ、とちりもしない。悠々と落ちついて穏健に条理をつくしてじゆんじゆんと説くという演説ぶりである。選挙になれている大物の風格ができてきた。演説をきくと、除名などによつて有名になつている候補者なので、こんな立派な人物を自由党はなぜ除名したのかとふしぎな目で見るのが多かつた。

 「皆さんが、こないに沢山来てもらえたのは、みな私に同情して下さつたのやとぞんじまして心からお礼申します……」

 といつた調子の座談的でとてもやわらかである。

 「自由党は、わたしを除名しましたが、堂々たる大政党のことやからそこにはまあ自由党の申し分があるのやろうと思いますから、決して自由党を恨みません。それどころか、こうして皆さんのご同情が集つたのは、わたしにはたいへんなプラスになりました」

 あのしんらつな声明書とは打つて変つたことばである。うしろにぶらさがつたスローガンとは似てもにつかぬことなので聴衆は意外だつた。きつと猛烈に自由党を攻撃するだろうと思つていたのにそうでなかつた。その奥ゆかしい人柄が聴衆に好感を持たれた。もともとあの声明書は音山が書いたもので音山の声明書である。

 「そんなこと皆さんにゆうては悪いが、日本中でお魚がいちばん口にはいらないのは、こうした農村、山村の方々です。わたしのしらべたところによりますと、本県の消費量の〇・八パーセントという低いところですからひどいものです。それもこのへんに配給される魚といえば舌を刺すような塩魚か、汗かいている竹わのようなもんや。それがまた運賃がかかるのでべらぼうに高いからなかなか現金出して買えんのや。木こりをして炭を焼き、材木を切り出すような重労働をして、まるで栄養分のあるたん白質は口にはいらん。これでは皆さんの健康が取れんのは明かなことです。

 私はこんどの選挙でも皆さんもごぞんじでしようがここからもつと奥の三木という営林署の木材切り出し場に行きました。木こりさんが三百人も働いています。妻帯者もいますが、その人たちの住居は営林署の建てたもんですが、まるで豚小屋か監獄部屋や。畳の代りにぼろぼろの茣蓙がひいてあります。魚の配給は月に一回か配給のない月もあるそうです。なぜかというと割高の品は配給でも取らんのやそうです。そのわけは営林署の役人と結托しているボスが一切の食糧品の配給所を経営していて、労働者の賃金から天引きするそうやが、割高の魚は口銭がないからやそうです。野菜でも、八百屋が店に出せんものを安う買うて、それを高う売りつけるのやそうです。そやから賃金はみなボスに天引されて、散髪代もないそうです。

 皆さん、これは山村一帯の一例ですが失礼やが、皆さんもこれとあまり変らぬ生活をしていられるのではないかと思います。わたしは工場地帯もすつかりまわりましたが、どこにもこんな生活している人はありません。自分で育てた豚も、鶏も卵も自分はたべずに、みんな都会に売らんと生活がたたん。そやから農村地帯は結核の巣やといわれています。都会も結核はひどいのですが、人口の比率からいうて、まるで比較にならんほど農山村の結核は多いのです。こうして皆さんや家族の人は、映画一つ見ることもできず、おいしい魚一切たべることもでけず、どんどん老衰して死んで行かれるのです。…… 

 それに引きかえて、都会の大金持は、自分ではなんにもせずに宮殿のようなところに住み、毎日美食にあき、美酒に酔い、美人をもてあそんだり、妾を何人も持つて暮しています。皆さん、この世の中はそれでもええんでしようか、これは皆さんによう考えてもらいます。皆さんの中には、それは大金持は甲斐性があるさかいや、大金持をうらむより、自分が働いて大金持になればええという方もあるかもしれませんが、今の世の中であなた方のように夜の目も寝ずに働いても暮しの苦しい人たちが、そんな金がたまりますか?

 そら金をためてる人があります。たとえばええ月給もろうて、月に一万円貯金するとしても年に十二万円、十年で百二十万、三十年で三百六十万、利子が五割ついてても五百四十万、一千万の半分です。しかしそれだけでは今の世の中で大金持の生活はでけません。本県にも一代で何億という財産をつくつて、いま申したようなぜいたくな暮しをしている人もあります。それではその人たちは正直に働いて、一代のうちにそれだけの貯金をしたのでしようか、まじめに働いていてそんな何億という貯金ができるはずはありません。それはもちろん戦争中や終戦時のどさくさまぎれに火事ドロをやつたもんです。これは今にはじまつたことでなく、明治維新以来、日清日露の戦争で、いまの大金持はこうして金をもうけたからです。その実例はなんぼでもありますがここでは申しません。

 皆さん、こうした不正はどうしてできるのでしようか、それは政治が悪いからです。国民からしぼり上げた税金を、なんやかんやと理くつをつけて一部の実業家にみんなやつてしもうからです。ばかを見ているのは、地道に働いている国民です。こんな不正な政治がいつまでもつづくかぎり、皆さんのお口にはおいしい魚の一切もはいらんのです。そこを皆さんはよう考えて下さい。

 それではどうしたらええのでしよう。もちろんこれから、今の政治を正直に働く人のためにするように、皆さんが心を合せてやつておもらいすることです。つまりこの政治の舞台の照明を、大金持の方から働く人々の方へまわすようにすることです。それはあなた方の持つていられるその清い一票によつてきつとええ政治がでけます。皆さんがわたくしを国会に送つていただいたらきつとええ政治をやつて見せます」

 漁師が苦労して取つた魚を網元が利益を独占して昔は水産会(魚市場)に出すと、ここで仲買人たちがまたひどい中間搾取をして町の魚屋に売り渡すが、魚屋がまたもうける。これでは魚を取るものと食うものがたまらん。この双方を直結する機関が必要だ。それから水産業界の刷新を主張する段になると急に熱弁雄弁になつて、拍手がつづく。

 そして小山は最後にこういうことをつけ加えた。

 「いまの選挙は大金をばらまいて買収するものがきつと当選する、つまりいまの政治は買収政治です。こんな候補者が当選すると、選挙でつこうた大金を取りもどそうと思うて、こんどは自分が大資本家に買収されたり、汚職をやつて国民の税金を盗み取ります。こんなことをいつまでもくりかえしているから、政治はいつまでもようならんのです。これは国民にも大きい責任があります。生活が苦しい苦しいとぼやいてますが、その苦しい原因は自分がつくつているのです。早い話が、一票三百円で買収されるとして税金を一万円高こうしられたらどうなります。いやその通りやられているのです。ここにいられる皆さんは決してそうではありませんが、多くの国民はみなそうやと思います。皆さんはそんな人たちによういいきかしてもらいたいのです……」

 これは事務室へ来た支持者の老人の受売だつた。しかしみんなは感心してきいていた。

 演説会が終ると、どつと聴衆が会場外にあふれ出す。運動員は、会場内の壇上や、出て行く聴衆に場外までついて出て、

 「どうぞ小山庄吉にあなたの清きご一票をおねがいします」

 「来る四月十日の投票日には小山庄吉、小山庄吉の名をお忘れなく……」

 などと呼びかけている。場外の広場は自分の自転車を手早く抜き出して、さつさと走り出すものが、狭い道路に長々とつづいている。その片側を小山のハイヤアが抜いて行く。ここでも同乗者の上田や麻見が窓を明けつぱなしにして

 「どうぞよろしくおねがいします」

 「どうぞ小山庄吉を国会へ送つて下さい」

 とくりかえしている

 自転車の列を抜き取つてしまうと、四月初めではあるが山上の寒い夜風の吹きこむ窓を閉めて、みんながほつとする。小山が、

 「やれやれ、代議士にしてもらえるかどうかも分からんのに、あたまをさげておねがいします、おねがいしますや。これあまるで投票乞食や。落選でもしてみい、ええ恥さらしや」

 と不安らしくぐちまじりにいう。音山から人気というものはあてにならないと聞かされている上田もだまつている。

 「なぜ人気はあてにならんのかい、おかしいな」

 麻見もやはり同じことを考えていた。

 「それはただ人物に興味を持つて来るだけで、新聞にでも出るとなをさらや」

 と上田がいう。麻見がじれつたそうに、

 「まるでキネマ女優でも見に来るようだね」

 「この様子では、政見によつてえらび出すようになるのは、前途遼遠や」

 上田が歎息する。

 「どうだ、その政見だけで堂々とやつたら」

 麻見が力むと、上田が笑つて、

 「落選疑いなしや。ほかの候補者で涙こぼして、たのみます拝みますやから、みなそつちの方へ入れよる」

 「ぼくは選挙なんか初めてだが、ばかばかしいのであきれたよ。小山さんのいわれる通り、これで落選したらそれこそいい恥さらしだ。しかしこんなに人気があるのに落選はしないと思うな。ぼくはどうもわからん」

 麻見は首をかしげる。

 「それが当てにならんというのやからわけがわからん」 

 小山は大きいため息をついた。そして落選したときのことを考えると、ぞうつと肌に粟が立つ。音山はどんなむりをして金をつくつているかは小山にわかつていた。お浜のことも気がついていた。お浜はもう残つているのは家屋敷と貸家と五反の畑だけだつた。だから小山だけが知らぬ顔もしていられなかつた。工場を二番抵当、漁船もまた一隻、虎の子のようにしている定置網も手放してしもうと思つた。目の前が暗くなつた。三人はしばらくだまつていた。

 「こんばんかえつたら、みんなでいっぱいやろうかい……」

 小山はポツリとそんなことをいつた。

 「かえつたら一時ごろになるでしよ」

 上田がいつた。

 窓ガラスに雨の粒が光つた。

 「おや、降つて来やがつたな、あしたは雨か聴衆は出て来ないぞ」

 麻見がいうと、上田が、

 「もうあと二日や、意地が悪いなあ、投票日に雨が降ると買収されたもんしか投票に来んそうやなあ」

 「そうかなあ、あきれたもんだな、今晩小山さんがいわれたように二百円か三百円もらつて、いつまで貧乏していれあいいんだ!」

 麻見は吐きだすようにいつた。

 「麻見君が戦争反対演説をやつても一向反響がないやろ、また戦争やれば金もうけがでけると思つているのやで」

 「ばかの底が知れんよ、ずるずるになつて死にたいんだろう」

 小山が窓をのぞいて、

 「雨がひどなつて来たな、高い峠越えてかえつて行つた人は、雨に会うているやろう、気の毒や」


   18

 小山候補の事務所では二十一年四月十日の臨時第二十二国会の投票日の前日まで精力的な運動をやつて、運を天に任せるといつた気持とともに、みんなほつとした。といつてだれにしてもやはり心配である。ほつとあくびはしても、期せずして事務所にあつまつて来る。そして定員六名に六十八人の候補者の激戦であるが、みんなでその当落をやかましく論議している。といつても選挙運動のヴェテラン音山の意見が標準になる。それはこうだ。││

 最高点。川口久三。自由党の川口は県会議長を二期もつとめ、前代議士である。著書もあり、財産もある。人物も円満で、一時的な人気でない人気がある。年も五十代、政治家として円熟しているし、貫禄もあり、清廉だ。最高は動かぬ。

 第二位、久世三郎。自由党の学者といつていい。ドイツに留学して著書もあり、専門学校長、その他の経歴があり、前代議士で、川口より当選回数が多い。川口と最高点を争うだろう。

 第三位、中村栄(無所属)東大出の新人である。本県に新聞社をつくつたり、大新聞者の重役になつたりしてよく県民に知られている、当選だろう。

 第四位、村松三四郎、戦時中に食糧品でウンともうけた。こんどは派手にバラまくだろう。先つ当選組と見ていい。

 第五位、大田吉助(自由)漁業会社長で底力のある財産家として音山家に匹敵する。うんとつかうにちがいない。金で当選圏に入る候補者だ。

 第六位、中北京一(社会党)京大出身唯一の革新陣営、この人も織物でうんともうけている。この陣営から全県で散票を集めると、きつと一人は当選する。

 これでおしまい。あとの六十二人はまあ落選と覚悟すべきだが、ダークホースというやつがある。そこで第五位、第六位を六十四人が争うことになるが、小山はダークホースで、五位か六位できつと当選する。

 音山は第六位までを、事務長室の大きい黒板に書いて説明した。小山はじめ、お浜、その他来ている運動員は、しゆんとしてしまつた。小山は、音山がきつと当選するといつてみても気やすめだろうと思つた。

 「心細いことをいいよる。六人はまちがいなく当選やいう。なるほどその六人から見るとわいは人物も経歴も比較にならん、そやから音やん、はつきり落選と引導わたしといてえな。あきらめるわ。わいのような魚屋の丁稚が代議士になてなれんいうのをやれやれいうて……」

 と、そこまでいうと小山はハハハハとほがらかに笑つて、

 「いまごろそんなぐちいうやつは阿保の骨頂や」

 「そやからきつと当選するいうてるやないか」

 音山はまじめである。

 「当選するいうても、ほんまにできるかいな。その当選する六人を、きみが説明するのをきてると、一々もつともや」

 「それわやで、一応だれでもそう観測するのが選挙の常識や。ぼくの観測は新聞記者的で一向当てにならんが、八卦と同じや、当ることもあるが当らぬこともある」

 小山は笑つて、

 「ふふん、当らなんだら、高い見料やとあきらめたらええがな」

 「当選するからあきらめんでもええ」

 「きみのいうことは、いつもその通りやが、わいにはなにがなんやらわからんわい」

 さつきから心配でだまり切つていたお浜は、急に活き活きした顔になつて、

 「音山はんのいわはること、わてにはようわかりますえ。きつと当選するとおつしやつたら、きつと当選しますえ。あんた当選したらどうおしやす?」

 「どうおしやすいうたかて、どうもおしやさへんわい。しかしまあ当選したら夢みたいな気がするやろ。そやかて狂人にならんさかい、安心してくれ、しかし落選したらどうやわからんで」

 みんな笑つた。そしてみんなはじつとうつむいてしまつた。小山のいうことが冗談と思えなかつたからである。なにか重苦しいものが、みんなの気持の上にそぞろ冷たく掩いかぶさつていた。学校をすてて遠くから応援にかけつけて来たり、暴力に傷つけられてたたかつて来た、その熱意が落選という屈辱で酬いられるのだつた。。

 「今晩は前祝に、みんなでこれからどこかへ行て、わツといいまひよ、わてえがおあいそ持ちますさかい」

 お浜はそういうみんなの間にはりつめている憂鬱から抜け出させたい心ずかいだつた。それに気がついている音山は首を横にふつた。

 「お浜はん、そんなむだずかいいらん。すぐにあしたのばんは当選祝いで大いにやろう。また今晩はここの広間で、のこつている酒や肴で慰労会やろう。諸君はようやつてくれた」

 「そうや、慰労会がええ、皆さん、ほんまにご苦労さんやつた。お礼申します。ほんまに心からやつてもろうた。冗談はいいましたが勝敗は兵家の常や、ぼくは落選しても少しもうらみはない。ありがとうござりました……」

 小山はみんなの前に手をついて、低くあたまを下げた。そして畳の上に大粒の涙をこぼした。お浜も涙をすすつて同じように畳に両手をつき

 「ほんまに皆さん、ようやつておくれやした、厚くお礼申します」

 といつて、ハンカチーフを出して顔を掩うてしまつた。

 「なんやまるで落選したみたいや、今晩はお通夜やないで、蓋を明けてみたらわかることや。そのまえにそんな取越し苦労することあらへん、そらその気持はようわかるが……」

 音山はあきれ顔でいつたが、心の中ではむりはないと思つた。この二人は物質的に大きい犠牲を払つて、背水の陣を敷いている。そればまつたく経験のないことであれば、しぜん沈むことになる。音山にしてからが、当選すると断言しても、実はどうだかわかつたものでないのはもちろんで、みんなと同じ気持もある。選挙は科学だなんていつてみても、やはり水ものである。どんな選挙のヴェテランでも予想が外れて意外に驚くことがある。もし小山が落選したらと思うと、音山も胸が苦しくなつて来た。一切の責任は自分にあるのだから。

 「さあ慰労会や、慰労会や、陽気にやろう。まだ早い、お師匠はんもお菊ちやんも箱持つて来なさい。光子、きみも今晩はお師匠はんの糸で長唄でもやり」

 「まあ、えらいことになつたわ」

 お浜は泣いて赤くなつた顔を手早くコンパクトを出して直して、それでも晴々しく立ち上つた。

 「菊ちやん、うちへ行て箱二つばかり持つて来て、わてお酒のお支度しますさかい」

 光子も若い運動員も支度に立つた。

 「はい、お師匠はんのと、あとは」

 泣いた菊ちやんもお浜と同じような顔をしているが、音山と同席するのがうれしそうで、菊ちやんもすぐコンパクトで直して、

 「どれでもええ」

 「鼓も持つて来まひようか」

 お浜が笑つて、

 「そんなものいれしめへん、ここ旅館だすがな」

 「どこでやつてもあんまり派手なことやめ」

 小山はみんなが急に浮調子になつたので、それにそぐわぬ自分の気持だつた。どう音山にいわれても、やつぱりやり切れない気持でいつぱいだつた。人間の気持は気持である。理づめでどういわれても、それで納得することなどできなかつた。感情を理性で整理することは、だれにしても困難なことである。


   19

 投票日はいい天気だつた。小学校や公会堂などの投票所から一定の距離までビラやポスターは悉くはがさなければならなかつた。若い運動員たちが朝早くから出ていつた。音山、小山、お浜などがそろつて投票に行つた。音山は、

 「それ、あこにも、ここにも……」

 というふうに目でしらせた。

 「あれなにしているのや」

 投票人の通る道筋の角、隅々の人目につかないところに四五人くらいがかたまつて買収したものが投票に行くかどうか見はりをしている。そういう見はりが、投票所を中心に放射状になつて、あらゆる陰のあるところにさあらぬてえで狼のように目を光らせていた。小山はそれを音山からきくと、ぐいと胸を抉られるような気持になつた。

 「これでは勝てんな」

 と思わず音山に絶望的なつぶやきをした。そして

 「あいつらは、もうちやんと得票を握つているのやろう。きみは選挙は科学やいうが、あいつらこそ科学的や、こつちは盲滅法に演説ブッてまわつていただけや……」

 小山は、がつかりしてしまつた。そういえばその通りである。保守党は投票前、すでに買収によつて、各町村に正確な票数をちやんと握つている。

 音山はそのことに精通しているだけに流石に何もいえなかつたが、

 「いや、その買収もあてにならんのや、金もろうても好きな人に入れよる」

 「ほんまに心配なこつちやなあ……」とお浜もつぶやいた。

 開票日が来た。

 激励電報や手紙、ハガキなどが、べつたり壁にはりつけた事務所では、主なものが集つてラジオ放送、全区の運動者からの電話や、投票所まわりをして報告するものを集計して、みんな緊張し切つていた。午後七時ごろまでには、だいたい当落の票が出る。しかしそのころは午前十一時すぎだつたので、ほんのわずかな数しか出なかつた。

 畳二畳敷くらいな表をつくつて、壁にかけ、刻々報告される各候補者の得票を書き入れる。そのころは小山の票はほんのちよつぴりで、十五六位だつた。どんどん出ているのは、やはり音山のいつた有力候補である。小山は首をふつて、

 「出んな、これでは落選確実というところや……」

 とつぶやいて、ため息をついた。

 「ほんまにこれなら落選だすな……」

 お浜もため息をついた。音山は笑つた。

 「いまごろからわかるもんか、いま出ているのは市部の票で、それも中間報告や。庄やんの票は中部地帯の労働者町から奥地の農村地帯や。そこでうんとはいる」

 といつた。

 「それでも有権者は市部が大部分やから、市部で取れなんだらあかんやろ」小山も少し選挙知識ができていた。

 「そらしろうと考えや。この地図見いな、全県で中部から農山村地帯が三分の二もある。市部の有権者がどのくらい多いかて、三分の二の地帯の有権者にはかなわん、まあ見ていい。その地帯の開票はおそなるから、庄やんの票は三四時からどんどん上つて来て、最高点になるぞ」

 「それほんまだすやろか、そんならうれしいけれど!」

 お浜は小娘のようにからだをゆすつた。

 「あほう、三やんが元気つけているのや」と小山がいう。音山が、

 「ただから元気つけてみても、落選したら恨まれるだけや。ぼくそんな無責任な出たらめいわん」

 「出たらめいわんというてみても、責任持つて当選するともいえんやろ」

 「庄やん、きみ日ごろ、大悟徹底した禅宗坊主みたいやが、どうや、そんな気で落ちついたら……。候補者になると、人ががらりと変つたようやな」

 音山は責任を持つて当選するともいえないので、そういつた。小山はハハハハと、いつものほがらかな笑いを取りもどした。

 午後三四時ころになると果してじりじりと十位に近ずいて来た。が間もなく、二十位以下に落ちる。とまたもとの十五六位になつたりする。しかし当選圏内からはほど遠い。

 「これはどうしても落選や」

 と小山はまたため息をつく、小山よりずつと音山を信じているお浜もまた不安らしい顔になつて、

 「大丈夫やいうたら大丈夫や。いまやつと市部の方が終りかけているところや。ともかく初陣ばかりの候補六十人あまりの中で、いま十位近くまでせり上つて来た候補者は前途有望や。ぼくの観測では、この中できつと小山君は当選圏へ割りこんで行く。そんなものが一二人はきつとある。これがダークホースや。まあもう二三時間や」

 音山は地区からかかつて来た電話に受話器を耳に押しつけて、

 「うん、うん、ほう、凄く出たな。へえ、最高点、それで何票や、ちよつと待つてくれよ」音山は黒板に、チヨークを押しつけて、

 「さあいうてくれ何票や、……うん三千六百四十五……ようはいつたな。それ何時現在や? うん、四時十五分……ありがとう、ありがとう、ハハハハ、まだわからん」

 受話器をガチャンとかけて、

 「庄やん、H区は、現在きみが最高点やそうやぞ。そやからこんなりで出ていくときみが最高点になりそうや。ハハハハ……」

 音山は新しく煙草をつけて冗談のように笑つた。

 「ああ、あのぼくのポスター一枚のこらずはがしよつたH地区か」

 小山もお浜もやつと愁眉を開いた顔色だつた。あつちの地区からもこつちの地区からも、だいたい当選圏内の報告が来る。形勢は有望だ。午後五時近くだつた。それから刻々にラジオの全県各候補の得票数の綜合放送がある。これだ大勢がだいたい定まつたと思われたが〝当確〟という候補者定員六位までには、小山の名は、はいつてはいなかつた。そしてもうこれ以上、たいして大きい票は出ないだろうと思われた。あとは農山村地帯だから……

 小山やお浜はもちろん、音山までがすつかりくさつてしまつた。しかし音山はふしぎそうに首をひねつて腕時計を見、

 「こんなはずはない……いや、まだわからん。まだ開票が終つてないところのほうが多い」

 音山はそういつてみたが、小山には音山に自信のある顔色とは見えなかつた。こうなつてみると、小山はもうひとこともいわなかつた。そうしてきわめて冷静になることができた。自分よりむしろ音山やお浜が気の毒だつた。音山のいう大悟徹底した禅坊主のようになつていた。こんな場合に追いつめられると、あつさりとあきらめて、新しい飛躍を夢見るのだつた。

 ラジオ放送はまだつづいた。地区からの報告は十五のうち八区より来ていない。のこつている遠隔の七区からやつと次々に来るようになつた。そこでは小山は最高点とか第二位とかで開票が終つたという。

 「うん、これで盛りかえしたぞ!」

 音山は急に元気づいた。ラジオ放送は今までの六位までの人の名が消るものができて小山の名が六位あたりにひよつこり現われた。音山が小山の票数を読み上げて六位だというと、

 「わアッ」

 とこそにいた十人あまりの運動員は手をたたいた。小山やお浜は、耳を疑うようにぽかんとしている。

 「それ見いい、小山候補は中間の工場地帯か奥地の農山村地帯でうんとはいるのや。まだ五時半や。これからまだまだどんどんはいるぞ」

 音山は当然のことのようにいつた。

 ラジオは小山候補を六位から五位に、四位にして〝当確〟と折紙をつけた。居合わせた運動員は、こおどりして歓声を上げた。散つていた運動員も続々と引き上げてきて、万才を叫ぶ。忽ち広い事務所は、よろこびの坩堝になつてわきかえつた。お浜は泣いている。小山はやはりぽかんとしていた。

 ラジオは、小山候補をそれなりでほつとかなかつた。音山は手早く放送される票数をメモしていたが、

 「これは最高点まで行くぞ!」

 と叫んだ。しかしその時は三位になつていた。

 七時すぎになつて、当選者の名と得票が放送された。小山候補はそのとき第二位になつていた。

 万才の声が、大きい南海ホテルをゆるがした。小山とお浜は双方から音山の手を握つて泣いている。菊ちやんがお座敷着でかけつけて、お浜にすがりついて泣いた。新聞記者がどつと押しかけた。畳屋の老人が先頭に立つて、畳職組合からだといつて、職人たちが一斗樽と大鯛をかつぎこんだ。続々とお祝に来る人々が押しかけた。お浜のお弟子たちが、一組、二組とやつて来た。武骨な男の中へ朱や紫を流したようだつた。祝電がしきりに来た。麻見がそれを読み上げるたびに、万才が叫ばれた。ホテル前に集つて、明々と照らす大電灯の下で当選者の票を見ていた大勢の人は、八万六千数百票を取つた小山庄吉に目を丸くした。そして万才を叫ぶものもあつた。(総選挙篇終) 





編集後記 ※印刷製本にあたって、2005年に書いた文章

 中西伊之助研究会幹事 水谷修

 『公約』は、『赤い絨毯』『続赤い絨毯』『続々赤い絨毯』の三部作、『春扉を叩く』、『筑紫野写生帳』とならぶ、中西伊之助の晩年の長篇作品である。『公約』は「政界往来(政界往来社発行・斉藤敏雄—編集人)」に1956年12月号から1957年8月号まで9回にわたり連載された。遺作である『筑紫野写生帳』が1957年11月脱稿であるから、『公約』もまた中西が筆をおく直前の作品と言える。

 文学に門外漢の私がこの編集に取り組んだのは、晩年の作品の中でも『赤い絨毯』三部作とならぶ秀作だと思ったからである。とにかく読みやすい「大衆文学」作品である。

 しかも単行本にはなっていないので世間の目に触れる事ができない作品である。ぜひとも世に出したいと思ったのが編集の動機である。そして、このたび中西伊之助没50年(2008年9月1日)、生誕120年(2007年2月7日)を前に、「中西伊之助研究会」として印刷することにしたものである。

 本作品は雑誌の連載小説として掲載されたものであり、誤字と思われる箇所も多く、第1章の「9」が二回ある。第3章は「4」の次が「8」にとんでいる。「小山庄吉」が「幸吉」になっていたり、「庄やん」が「幸やん」になっている箇所がいくつもある、など、推敲や校正が十分になされていない未完の作品だと私は思っている。今回は出版にまではいたらなかったが、近い将来、単行本として出版したいと密かに考えている。

 中西伊之助は『続赤い絨毯』の巻末の小論「わたしの文学論—著者への批判に答えてー」で「わたしの念願する芸術性と大衆性の調和」をめざしたいとしたうえで「大衆のための文学は、大衆全体の心の糧となるものでなくてはならない。」と述べている。中西のめざすものがそこにあったように思うし、そうした思いで執筆したのが『公約』ではないだろうか。

 日本共産党の衆議院議員(神奈川選出、二期)であった中西伊之助は、衆議院で水産委員会にも所属し、港湾整備が公共事業のための公共事業で、漁民のためのものになっていない事の追及した。今日の国会でも通用する議論である。おそらく、持ち前の行動力で、漁民や水産関係労働者のなかに深く入り、掴んだ大衆の声と実情を国会に反映したのであろう。そうした経験に裏打ちされた作品が『公約』であろう。私は中西伊之助の出生地である宇治市で市議会議員をしているが、現場を踏まえた中西の議員活動に学びたい。

 中西伊之助は1946年4月10日の戦後初の衆議院議員選挙(神奈川全県区、定数12、3名連記制)で日本共産党公認で立候補し37461票を獲得するも次点で落選した。しかし、河野一郎の公職追放にともない7月6日繰り上げ当選した。1947年4月25日、衆議院神奈川3区(定数5)で9061票で落選したが、1949年1月23日、衆議院神奈川3区(定数5)で31491票で当選した。(中西は1952年5月極左冒険主義の路線に反対し離党。1958年7月に党の統一と極左主義の撤廃がなされ、復党した。)

 『公約』は選挙戦をあつかった作品であるが、緊迫した選挙戦の場面は迫力があり、スリリングでもある。「選挙もの」としても、小林多喜二の『東倶知安行』や、今日の小説である真保裕一の『ダイスをころがせ!』や関口哲平の『選挙参謀』と比べても秀作と思う。こんなジャンル違いの比較はおかしいであろうが中西がめざした「大衆性」という基準であれば、こんな比較でも良いのではないだろうか。

 旧字でどうしても活字がないもの、例えば「蒋」などは置き換えた。また、底本にあったルビについても私の作業能力の無さにより、つけることができなかった。さらに校正ミスも残されているかもしれないが、まずは印刷することにした。私の実務力の低さに起因する問題であり、申し訳なく思っている。

 印刷にご同意いただいた中西國夫さん、資料を整理・提供いただいた秦重雄さん、入力作業をしていただいた志村由香さんに心から感謝申し上げたい。

 最後に、1950年4月の衆議院本会議での漁業法案に反対する中西伊之助の討論を紹介したい。私には、この会議録に、ユーモアにとんだ、かつ、迫真の伊之助の肉声が聴こえてくる。

                  (2006年5月18日)




1950(昭和二五)

衆議院本会議での漁港法案反対討論


中西伊之助君 私は、日本共産党を代表いたまして、ただいま議題となつております漁港法案に遺憾ながら反対の意思を表示するものであります。(「委員会では賛成しておるではないか」と呼ぶ者あり)それにつきましては、当時修正意見を出したのであります。委員長も報告されたのでお聞きになつたと思うのでありますが、修正意見がいれられれば、むろん委員長に報告の通り賛成するのであります。いれられなければ反対するのは当然なことである。これは、むろん議事法をおわきまえになつておる皆さんは御承知のことだと思います。

 そこで漁港法については、これは漁民大衆が非常に待望しております。水産委員の者にもいろいろと要求がありまして、これは漁民大衆諸君の要望であります。ところが、この法案といたしますと、これは勤労漁民がパンを求めているのに石をもつてするものであります。(「漁民は魚を求めている」と呼ぶ者あり)こういう内容を持つ漁港法案に対して反対せざるを得ないのであります。その反対理由を簡單に申し上げます。

 法案の第一章の総則でありますが、この中に施設が規定されております。この施設でありますが、基本施設と、それから機能施設、これは委員会でありませんから大づがみで申し上げます。この機構を見ますと、実に厖大な施設をしてもいいことになつている。一々申し上げませんが、読んでみますと、漁業用通信施設、これは必要でありますが、しかしながら、さらに陸上無線電信、陸上無線電話及び気象信号所、それから漁船船員の厚生施設、宿泊所、浴場、診療所及び漁船船員ホール、いろいろな施設がここにあります。おそらくこういう施設も必要でありますが、しかしこの場合何よりも必要なことは、キテイ台風その他でますます破壊されているところの沿岸の零細漁民の防波的な施設が最も必要であります。そういうこと以外に厖大なる施設がここに載つておりますが、第一種、第二種、第三種、第四種というふうに漁港の範囲はきめておりますが、この施設については何ら法の規定がないのであります。どこへ持つて行つてもこれを用いることができる。この上に鉄道、軌道、道路、橋築というふうな施設がここに規定してありますが、しからばこの施設は、第一種あるいは第二種その他によつて、これは国の費用も出すのでありますから嚴重に法に規定されていかなければならぬはずであるにもかかわらず、これはどこへ持つて行つてもいいということに法の解釈がなる。これはこの法案がある意図を含むものではないかということをわれわれは考えるのであります。その実例といたしまして、私は具体的に申します。これは横須賀の付近の場所を申し上げてもいいのでありますが、金沢八景に、最近大きなスケールを持つた漁港が建設されるような計画をしております。ところが漁民たちの話を聞いてみると、何だ、こんなところに漁港をつくる必要がどこにあるのだ、おれたちは利用も何もできないじやないか。ところが、土地は漸次買收計画を立てて、すなわちここに規定しておりますような施設をほうふつせしめるような施設をしている。私ども学生時代からよく知つておりますが、その一帶は、潜水艇もしくは水雷艇、今水電艇というのはないそうでありますが、そうしたものの基地であつた。漁民さえ驚くような厖大なる漁港を、こんな所になぜつくるかというふうな疑問を持つ。おれたち、こんなところに漁港をつくつてもらつたつて一向間に合わない、こういうことを言つておるにもかかわらず、ここに大きなスケールで、ちようどここに規定しておりますような計画をしておることは、どういうことを意味するものであるか、皆さんの御想像にかたくないと思うのであります。諸君はそれを警察に行かれればよくわかる。

 次にこの漁港の指定でありまするが、これは表裏一体をなしておる農林大臣が、審議会の規定によつて意見をいれる、あるいは議を経るということがあります。しかしながら、むろん審議会というものがいいかげんなものであることは、あとで御説明申し上げますがこういうふうにして、農林大臣がかつて気ままにその場所を、すなわち漁港を選定することができる。

 日本は歴史的に見ましても、海から、あるいは植民地的、あるいは侵略的な勢力が入つて来たのであります。明治維新以来、以前もそうでありますが、日本の国土を希求する侵略者は、いつも海から来ている。この歴史的事実をわれわれはよく考えなければならぬと思う。すなわち、海はわれわれ独立を守るところの関門である。この関門が一高級官僚の手によつて自由気ままに指定される。

 そうして、この審議会というものは形式的になりますが、これはどういうものか。総理大臣が任命する、こういうことになつておる。そこにこの資格らしいものがはなはだ抽象的に書いてありますが、そういうふうなことは、任命する際に、そんな資格がなくても、あつたということにすれば、もう今まで自由党内閣や官僚はやつておることでありますから、一向こういう法律にこだわる必要がないのであります。

 そういたしますと、問題はこういうことになつて来る。そういう官僚機構ができたのは、皆さんが御承知の通り、電力がそうである。電力に国会の審議権はない。電力の機構がそうである。見返り資金はどうであるか。こういうことにして、官僚の独裁、すなわち東條がやつたような、国会を無視して、そうして一部の官僚機構をつくり上げて、それが独裁的な政治をやるということがこの漁港法案の中にも現われている。(「ないよ」と呼ぶ者あり)こういうことが、あなた方は鈍感でおわかりにならないかもわからない。

 さらにこの修築費でありまするが、この中には、大体において国庫負担とすべきものだと私は考えるのでありますが、国以外のものはどうこうということを書いております。国以外のものとは、都道府県のことであり、あるいは公共団体もしくは事業団体であろうというのでありますが、これをはつきり規定する必要がある。さらに多くにわれわれの疑問とするところがありまするが、こうした審議会の委員を選挙するにも、ただ指名でやつた任命であつてはならない。すなわち、ここに零細漁民の、働く漁民の意思が反映して、その利害がついていなければならぬのでありますが、この審議会と申しますものには、漁民の団体あるいは零細漁民、そうたものの意思が全然反映していない。こういうことは、この法案が官僚的本質を持つておるのでありまして、何ら民主化されていない。農地改革の農地法でありますが、あの農地法も同様であつて、この漁港法一つをとつてみても、何ら民主的なものを持つていない。働く漁民の利益が代表されていない。でありますから、私どもは、漁民がおそらく待望しているであろうところのこの漁港法、これは重ねて申しますが、漁民が切にこれを希望しているにも関わらず、この機構であれば、かえつて日本を戰争に導くところの軍事基地を強化する以外の何ものでもないのでありまして、われわれは、そういう観点から、この法案には全面的に反対するものであります。今後、われわれの修正意見、すなわちこれが漁民の利益を中心に、漁民の意思を尊重するものであれば、何どきでも賛成をいたしまするが、現に漁民がこれを待望しておるのでありますから、共産党はいたずらに反対するものではありませんが、大衆諸君、理由があるから反対する。すなわち、これを軍事基地化し、現にそういう事実がある限りしかたがない。反対せざるを得ない。いたずらに絶対に反対するものではない。もしこの法案が翼に漁民の利益を代表するものであつて、その内容が公正できておるならば賛成するにやぶさかでないのでありますが、不幸にして委員会でその修正案がいれられないために、これに対して反対の意見を申し上げるものであります。(拍手)



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