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選挙、国会論戦に伊之助の生きざまを見る ーーーーーー水谷 修 京都府議会議員 中西伊之助研究会幹事(中西伊之助作家デビュー100年、日本共産党創立100年に際し書く)

献辞

我が郷土 宇治が生んだ草莽の仁

我が郷土が生んだ偉大な作家で社会運動家

あなたの作家デビュ−100年、日本共産党創立100年の年にあたって

あなたの命日に

この駄文を墓前に捧ぐ

2022年9月1日(8月28日脱稿、8月30日校了)

中西伊之助


はじめに

 中西伊之助の生涯は、京都府久世郡槇島村の農家に生まれ、一家が没落していくなか、故郷を飛び出し、アジア各地で民衆と共に生き、日本国内においては労働者、農民、漁民と共に闘った生涯だった。虐げられる民衆に心を寄せ、反戦平和、人権を太く貫く論説と作品を無数に書いた作家でもあった。同時に、戦前2回、戦後4回の選挙に立ち、日本共産党の衆議院議員を2期務めた。衆議院議員任期中に党幹部が分派をつくり武装闘争方針を謳い、事実上「分裂する」不幸な時期に、中西伊之助は、敢然と武装闘争方針に批判を加えた。しかし、徳田球一などが地下に潜りやむなく1952年6月「脱党」した。しかし、共産党が統一を取り戻した1958年「復党」した。同年9月1日心筋梗塞でその多難で豪放な生涯を閉じた。

 そうした経緯もあり、国会議員時代のことについては、ほとんど研究がなされていない。『赤い絨毯』『続・赤い絨毯』『続々・赤い絨毯』の三部作で自身が自伝的に書いている。『赤い絨毯』は、伊之助が後書きで、「大衆に愛される文学」を大衆諸君におくりたい、と書いているが、軽妙な筆致で書かれた楽しい国会小説であり、悪政の暴露本である。ベストセラー小説であっただけに、結構、ネット古書店で売られているので、読んでいただくことをお勧めしたい。

 本稿では、伊之助の政治遍歴を紹介し、これまで先行研究がない国会論戦の特徴について書きたい。会議録というものは、しゃべった言葉がそのまま速記録として文字にされているもので、ある意味「肉声」である。伊之助は持ち前の行動力で、漁民や水産、運輸労働者のなかに深く入り、掴んだ大衆の声と実情を国会論戦で生かした素晴らしいもので、現職政治家の皆様には糧にしていただけるものだと思う。

 我が郷土が生んだ巨人=中西伊之助の国会活動について、共産党の後輩として、書いておくべきが使命だと思いつつ、雑務に塗れ、筆が進まなかった。やっと書くことができた。(NOTEの機能を使うことで、完全原稿で脱稿するでなく、初稿としてアップし、さらに修正・推敲する手法をとった)

台湾にて


1、 手のひらを嘗(な)めて春待つ穴の熊

戦争協力の筆は取らなかった中西伊之助

 1928年3月15日、共産党員の自宅や労農党本部、日本労働組合評議会本部、全日本無産青年同盟本部、無産者新聞社、マルクス書房など約50ヶ所の左翼団体が家宅捜索をうけ、1568人が逮捕され、484人が起訴された「三・一五事件」で日本共産党は壊滅的打撃をうけた。


祝入獄の記念写真


中西伊之助は、堺利彦らとともにの日本大衆党に参加。しかし、その日本大衆党で、幹部が田中首相からの一万円受領したスキャンダルを暴露し、そのことから、堺らとともに除名された。のちに伊之助らは東京無産党を結成し、1930年2月、同党公認で東京6区より衆議院選挙に立候補し落選した。


 多くの無産政党が戦争協力の道をとる中で、加藤勘十、鈴木茂三郎らが、1936年7月3日、反ファッショ統一戦線結成をめざす政治結社「労農無産協議会」(労協)を結成、伊之助はこれに加わった。1937年3月16日、東京市会議員選挙(世田谷区)に労協から出馬するも1369票で落選した。

1936年加藤勘十当選祝い

 1937年12月15日の第一次検挙が446人、1938年2月の第二次検挙が38人、という大規模な弾圧事件「人民戦線事件」において、伊之助も台湾で検挙された。「国体変革」「私有財産否定」を目的とした、として治安維持法で起訴されたのだった。そして伊之助は、懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。

 検挙された後の家族の生活を悲惨だった。伊之助は、いくつかの警察の留置場と巣鴨の東京拘置所に約2年入れられていた。その間の生活を、妻ーとみ子の細腕が支えた。

 三輪盛吉(日本無産党の元東京府議)の妻、千代が大森で芸者の置屋をしていた。とみ子は、その世話で大森の待合「福乃家」の女中になって住み込んだのである。仲居というか、接待係である。働きに働いて伊之助の差入れと、長男、國夫の通学費用を稼いだ。

世田谷から引っ越す時の記念写真

 敗戦までの3、4年間は家を売っては小さな家に住み替え、その差額で生活を凌いだ。戦時中に2回転居し、さいごは湘南海岸近くの片瀬の借家であった。伊之助は売れるはずのない原稿をコツコツと書きためていた。
 伊之助は、戦争下にあっても、反戦・反ファシズムの立場を一貫し、文学報告会などの戦争協力団体には加わらなかった。

 終戦の前年、1944年11月5日(日曜)、時代を見通しつつ、つぎの句を日記に書き付けた。

手のひらを嘗(な)めて春待つ穴の熊

そして終戦の日、伊之助は日記にこう書き記した。

ポツダム宣言受諾の天子の詔勅をラジヲできく。

来るべき  ものが当然来たのである。

時代を知らざるものは悉(ことごと)く亡びる。

 共産党幹部が牢獄から釈放される以前から、伊之助らの手によって、社会運動の萌芽がつくられていたのだった。


2、 伊之助自宅で、日本共産党神奈川県党を再建

 そして終戦。満を持して、伊之助はただちに立ち上がった。
 伊之助は、「人民文化同盟」結成準備会の新聞広告を9月に出した。そして「九月半頃、ごく少数の同志によって最初の結盟ができた」(人民文化同盟本部ニュース)のだった。

 治安維持法による政治犯の釈放と救援運動の再建が急務となった。「解放運動犠牲者救援会」と自由法曹団は、政治犯の釈放を求める運動を始めた。10月4日、占領軍が出した「人権回復指令」以降、機運が一気に高まった。また朝鮮人政治犯釈放委員会も8、9月から活動していた。

 10月10日には、共産党幹部12人や朝鮮人政治犯が釈放される府中刑務所(東京予防拘禁所)前で出迎え、さらに「自由戦士出獄歓迎人民大会」が午後2時から芝区田村町の飛行会館で開催された。人民文化同盟もこれに参加し、代表して伊之助が挨拶した。

 戦後社会運動の幕開けだった。

中西伊之助の妻、とみ子の白布で「人民戦士出獄万才」の横断幕

 大会後、参加者は、飛行会館から占領軍司令部まで、赤旗や太極旗(朝鮮国旗)をかかげてデモ行進した。この隊列の中に「人民戰士出獄万才 人民文化同盟」の横断幕があった。有名な写真であるがこの白布は、伊之助の妻、とみ子の秘蔵の富士絹で、伊之助が勝手に使ったもので「必ず持ち帰るから」との約束もほごにしてしまった。文字は清水一男が徹夜で書いたものだ。

 神奈川の日本共産党再建に伊之助は奔走した。

 10月30日、大原豊、安恵淳、久野真郎、平山三郎、春日正一、内野竹千代、小宮幸造ら、15〜6名が片瀬の伊之助の家に集まり、「人民に訴う」を討論し、集団で日本共産党に入党し、神奈川県党の再建を準備したのだった。この片瀬の家は、戦時中に移り住んだ借家で、現在の藤沢市片瀬四丁目6133である。「神奈川の共産党は片瀬の中西の借家から始まった」のである。

 早速、日本精工に労組をつくり、藤沢生活協同組合を結成、翌年には、隠匿物資摘発運動、商工団体での税務署交渉、などなど、燎原の火のごとく大衆運動がひろがった。そこにはいつも伊之助の姿があったのだった。

 12月中旬には、翌年に行われる衆議院議員選挙神奈川選挙区の予定候補者に伊之助を決定した。

 伊之助は人民文化同盟の機関紙として1945年12月、雑誌『人民戦線』を発行した。『人民戦線』と名付けた理由は「反ファッショ人民戦線を結成して人民の政府を樹立する」ためで、ファシズムを根絶することを任務としたからだった。『人民戦線』は、休刊となる1949年7月まで、約4年間、幅広く著名な論客に論説の場を提供し、戦後民主化運動に大きな役割を果たした。

 日本共産党は1945年11月8日に全国協議会を開き「行動綱領」「人民戦線綱領」を決定した。党員であった伊之助がこのことを意識していたのではないだろうか。また、人民戦線という統一戦線の結成が、戦中からの伊之助の悲願でもあった。紺野与次郎に対し伊之助が「君たちはこそこそとまたセクト的な行動をして」と叱責し、紺野が「申し訳ございませんでした」と誤り「一杯やろうじゃないか」と党建設が一つになった、という逸話もある。このように、伊之助はアナ・ボルの垣根をこえた日本共産党への大合流に執着していた。

 戦後いち早く、日本共産党に「合流」し神奈川県党の再建に立ち上がったことは、伊之助にとって当然の帰結だったのだろう。


戦後初の衆院選神奈川全県区で次点、繰り上げ当選

 終戦後最初の国政選挙である第22回衆議院議員総選挙が1946年4月10日投票で実施された。大日本帝国憲法下における最後の帝国議会議員選挙であった。また、女性参政権を獲得した最初の男女普通選挙だった。

 この選挙に、神奈川選挙区(定数12、3名連記制)から、日本共産党公認で立候補した伊之助は3万7461票で13位、次点だった。日本共産党からは143人が立候補したが当選者は、柄沢とし子(北海道1区)、野坂参三(東京1区)、徳田球一(東京2区)、高倉テル(長野全県区)、志賀義雄(大阪1区)の5人にとどまった。

 そして、河野一郎の公職追放にともなって7月6日、伊之助は繰上当選となり、日本共産党は6議席目を獲得した。ついに伊之助が議政壇上で活躍することになったのだった。

 1947年4月25日執行の衆議院選挙では、衆議院神奈川3区(定数5)で9061票にて落選した。しかし、1949年1月23日の衆議院選挙では、神奈川3区(定数5)において3万1491票を獲得し見事当選をはたした。

 国会では水産委員会や運輸委員会に席をおき、戦後の列車転覆事故の原因究明では、レールの摩滅など現場を踏んだ鋭い追及をしている。また、港湾工事が漁民のためのものになっていないことの追及は、今日の巨大港湾工事の批判の先駆とも言える。烈火のごとき「戦後補償打ち切りの反対討論」など、会議録を読むと、伊之助の肉声が聞こえてくる。伊之助はなによりも、現場に足を運び、現場の声をもとに国会議員活動をした。筆者にとって何よりも学ばなければならない議員の基本的姿勢である。

 伊之助の衆議院議員在職中に、徳田球一などが武装闘争方針を掲げ派閥を作って地下に潜り、党が分裂するという不幸が襲った。伊之助はこれを激しく批判し1952年6月「脱党」した。

 「六全協」を経て混乱が収束し日本共産党の統一が回復した1958年7月には、党からの復党の勧めを受け入れ復党した。日本共産党の大同団結を求めていた伊之助の念願が叶ったのだった。小豆島で最後の小説『筑紫野写生帳』を脱稿し、体調を崩して自宅に戻っていた伊之助は、同年9月1日心筋梗塞のため死去した。

『赤い絨毯』で鮮烈に文壇復帰

 衆議院議員をおりた後、国会を風刺した政界小説『赤い絨毯』(1952年12月・日本出版共同株式会社)はベストセラーとなり、好評につき、続編、続々編も刊行された。その風刺の効いた、軽妙な筆致は、伊之助のめざした、労働者が読んで面白い、わかる「大衆文学」としてのひとつの方向だったのではないだろうか。

 『続々赤い絨毯』(1953年7月・日本出版共同株式会社)の巻末の小論「わたしの文学論―――著者への批判に答えてーーー」で次のように述べている。「わたしの念願する芸術性と大衆性の調和」をめざしたいとしたうえで、中谷博早大教授の「大衆のための文学は大衆の心の糧となるものでなくてはならない」「大衆に即しつつ、しかも大衆をリードしなければならぬ。そうでなければその人は大衆のための文学者とはなり得ない。」という話を紹介した上で、「これは大衆雑誌の小説についていつていられるのだが、まことに至言で、そういう作品をつくりたいものである。」と述べている。中西文学のひとつの到達点なのだろう。


3、会議録にみる中西伊之助   現場からの国民の声を国会に

【下の方のページ「4、会議録」に会議録を全文を記載したので、左の目次欄をクリックしていただくと、それぞれの会議録に飛ぶことができる】

①1946,10,06 戦後補償打ち切り法案など反対討論

 7月に繰り上げ当選した伊之助は、戦後インフレで生活苦に喘ぐ国民の怒りを代弁し、烈火のごとき討論をした。
 神奈川県党を再建した伊之助は、支援した日本精工争議(ストライキ闘争)の経験や「湘南隠匿物資摘発闘争」の経験から、国民に寄り添った内容の討論だったと言える。

 「今議会は階級闘争の戦場となった」 (『潮流』1946.10)、「ボス議会」(『法律時報』1946.9・10月号)と当時の国会活動について、論壇でも活躍した。


②1947,03,13 南海震災救援促進決議案への賛成討論


 未曾有の大災害となった南海大地震の救援について、「決議だおれ」にならぬよう政府の対策について実行あるものにするように迫る討論だった。


③1947,03,22 郵便法改正案反対討論

労働組合運動との連携のもとに現場の声を代弁する討論だった。


④1949,04,09 国税徴収方法に関する緊急質問

 伊之助は「湘南税金闘争」で重税差し押さえに抗して農民600人と税務署交渉などを取り組んできた。「税務代理士法違反による不当検挙」について告発する質問であった。「国税徴収方法に関する緊急質問」という名目で発言機会を得て、問題を暴露することを眼目にした質問だった。


⑤1950,04,08 漁業法案反対討論

 伊之助は、衆議院で水産委員会にも所属し、港湾整備が公共事業のための公共事業で、漁民のためのものになっていない事を追及した。今日の国会でも通用する議論である。

 伊之助は、1925年漁民組合委員長に就いている。戦後、神奈川県党を再建した伊之助は湘南での漁民闘争に加わっている。こうした経験と漁民の生声を反映した反対討論だ。
 持ち前の行動力で、漁民や水産関係労働者のなかに深く入り、掴んだ大衆の声と実情を国会に反映したのであろう。そうした経験から晩年、小豆島で病身であったろう伊之助は、残された力を振り絞って書いただろう、小説『公約』(「政界往来」に連載)は漁民闘争と選挙を扱った小説だった。



⑥1950,07,31 列車転覆事故の追及(運輸委員会)

 現場を踏み、関係者から聞きとった、事実をもとに追及している迫真の質問だ。

 列車転覆事故――――現場調査 女性代議士第1号だった柄沢とし子氏の記憶にも鮮明だった。2006年中西伊之助研究会は柄沢とし子さん(当時95歳)を訪問した。その時「運輸委員として列車転覆事件の時は駆けつけました。」と述べておられた。運輸委員だった柄沢とし子と伊之助は、現場を駆けずって鉄道労働者の声を反映した。

なお、『続 赤い絨毯』で美松とき子先生が事故のことについて述べている。(美松とき子は柄沢とし子さんがモデルで準主役)



4、中西伊之助国会論戦の主要な会議録

以下、国会会議録から

①1946,10,06 戦後補償打ち切り法案など反対討論


衆 - 本会議 - 53 号 昭和21年10月06日
中西伊之助君 私は日本共産黨を代表致しまして、戰時補償特別措置法案外八案に對する反對の理由を申上げます
〔發言する者あり〕
○議長(山崎猛君) 靜肅に──靜肅に
○中西伊之助君(續) 此の九法案の中で、其の根幹と目すべき戰時補償の打切りに關する法案、財産税法案、此の所謂表裏一體の法案に付きまして、甚だ簡單に其の理由を申述べて見たいと思ひます
先づ戰時補償打切りの問題でありまするが、是は擬制資本の整理だと言つて居ります、無論其の通りである、此の擬制資本と云ふ言葉に付きましては、果して是が適語であるか否かと云ふことには問題があるのでありますが、通常さうした用語を用ひられて居りまするから、所謂擬制資本と私は申して置きます、此の擬制資本は即ち名目上の、詰り空資本、紙幣資本でありまして、決して現實的の生産資本ではありませぬ、此の生産資本でないもの──私は甚だ疑問と言ふよりも、寧ろ政府のさうした方針に對する多くの矛盾、欺瞞と云ふものを感ずるのであります、擬制資本と云ふものの本質は、もう説明するまでもありませぬが、さうしたものを以て現實的な生産資本に摺替へつつあると申しますのは、此の擬制資本の整備に依りまして、現實の生産資本に從事して居る所の勞働者、勤勞階級を整理しなければならない、之を馘首しなければならないと云ふ此の政府の態度、又さうしたことを口實にして、現に盛んに勞働者を街頭に放り出して居るのは、我々が甚だ不思議に感ずる所であります、是は此の擬制資本を整理すると云ふ口實の下に、現實の勞働者を馘首する手段に用ひられて居る、是が我々の本案に絶對反對を致します重大な理由であります
 申すまでもなく終戰後に於きまして、皆さんが御承知の通り、多數の現實の生産資本の破壞に依りまして、多くの勞働者、勤勞者階級が解傭をされました、さうして殘る必要な部分が、現在まで其の現實の生産資本の下で生産をして居るのであります、所が資本家階級の代辯者であります所の日本經濟新聞は、之に對してどう云ふことを申して居るかと申しますと、即ち八月十三日、補償打切りと補償打切り論者の責任と題しまして、補償打切りが異常に困難なる仕事であり、隨てそこに幾多の矛盾撞著を免れない性質のものであることは、初めから分り切つて居ることであつたと云ふことを言つて居る、其の代表的なものは大量失業の發生である、隨て補償打切りに依つて失業者の發生が或る程度已むを得ないとすれば、補償打切りを主張した者は、失業の發生に對しても當然責任を執るべきである、打切りを主張した政府と、言論界其の他の避くべからざる責任であると云ふことを申して居ります、所が只今も申しました通り、それは嘘である、現實に此の生産に從事して居る即ち工場或は機械、器具、原料品と云ふものが現存して居るのである、それに從事して居る所の勞働者を首切る必要はないのであります、所がなぜ然らばさう云ふ口實の下に馘首をしたか、馘首の理由を捏造したかと申しますると、是は終戰後に、皆さんも御承知の通り勞働運動が勃興致しまして、勞働組合を勞働者が結成致しまして、二倍、三倍──是は食へないから仕方がないのであります、二倍、三倍の要求を致しまして、現在使はれて居る所の勞働者と云ふものは、高率賃金であります、此の高率賃金の勞働者を馘首して、「アジア」的の低賃金に依つて傭ひ入れなければならないと云ふ、利潤追求の資本家階級の隱謀であると、私は斷言して憚らないのであります
 更に我々が不思議なことは、即ち現に放置されて居る所の、千四百億圓に達する國債であります、是は大體戰時利得と見て宜いのでありますが、斯うしたものを整理しないで、而も資本家階級、金持階級に對して、年額七千萬圓と云ふ巨額な配當をして居るのであります、所が一例を採りますと、僅かに二億圓の整理をする爲に、即ち國鐵從業員十三萬、其の家族五十萬を飢餓に追込むと云ふふやうな、苛酷、冷酷な處置を執つて居るのであります、私は、勞働者階級に對する斯くの如き整理に對して、石橋財政、石橋藏相は呪はれて宜いと考へて居ります
 次に財産税でありまするが、此の財産税に付ては、一年程前に我々は、財産税を課けると云ふことを頻りに宣傳されて居た、それで資本家階級は顏色蒼然となつたのでありまするが、一體網を掛けるぞ、網を掛けるぞと言つて漁師が魚の前で威した場合に、是は逃げて行くのが當り前である、逃げないやつは盲の魚である、さう云ふやうな方法を執つて、前内閣が千億と云ふ計畫を立てたに拘らず、現内閣は、「インフレ」に依つて價格が約十倍の昴騰をして居る際に、僅かに四百三十五億に過ぎない、殆ど其の二十分の一位なものを、財産税であるぞと云ふ大きな看板を掲げて、如何にもそこに社會的正義があるが如く、欺瞞的な法案を今出したのであります、是は無論此の「インフレ」に依つて、其の内に又資本家階級の方へ還つて行く、即ち是は電氣仕掛で再び還つて行くことは申すまでもないのであります、是は賢明なる皆さんが能く御承知であらうと存じて居ります、殊に委員長報告にあります通り、此の税金は第二封鎖で支拂つて宜いと云ふことでありますが、それが税金となつて現はれて參りますと、是は「インフレ」を増長するに過ぎないのであります、斯うした二十分の一の財産税を課けて、而も是が何か社會政策の如く、或は社會正義の如く、或は富の再分配の如く申して居りまするやうな、斯うした欺瞞的な法案に對しては、我々は絶對に反對せざるを得ないのであります、斯うした法案に依りまして、政府は資本家階級を背後から掩護して居ります、街頭に於きましては現に爭議が起つて居ります、さうして無産階級は、斯うした政府からと資本家からとの挾撃を受けて、今や血みどろの鬪ひを鬪つて居ります、我々は斯うした反動的内閣に絶對に反對すると同時に、さうした法案を葬るものであります。


②1947,03,13 南海震災救援促進決議案への賛成討論

第92回帝国議会 衆議院 本会議 第17号 昭和22年3月13日
○寺尾豊君 私はただいま上程をされました、各黨共同提案によりまする南海震災救援促進決議案につき、提出者一向を代表いたしまして、その提案理由を御説明申しげたいと存じます。まず決議文を朗讀いたします。
  南海震災救援促進決議
  昨年十二月二十一日の未ぞ有の震災による南海地方の慘害は、正に言語に絶するものがある。罹災地域における民生の安定、産業施設の復興等を圖るに當つては、南海地方における公共事業計畫を樹立しその發展を目標として不斷の考慮を拂うべきである。
 よつてこの際政府は、右震災地方の復興にあらゆる手段を盡し、罹災同胞救援のため必要なる期間繼續的措置を講ずべきである。
  衆議院は、茲に院議を以て政府に對し南海震災地方不斷の救援のため積極的にこれが對策の實施を促すものである。
  右決議する。

 舊臘二十一日未明、南海地區一帶を襲いました大震災、これは古來稀有の強震でありまして、その被害は、中部、近畿、中國、四國、九州など、本邦西部全地域にわたつており、人畜、建造物、諸施設などに甚大なる損害を與えたのであります。すなわち被害をこうむりましたところの府縣は、長野、岐阜、靜岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山、鳥取、島根、岡山、廣島、山口、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、長崎、熊本、大分、宮崎の實に二十五府縣に及んでおりまして、直接損害をこうむつた罹災者は、總数二十三萬餘の厖大なる數に上つておるのであります。
 その内譯を見ますと、死者は各府縣を通じまして一千三百五十四名に及び、負傷者は三千八百七名、行方不明百十三名、合計五千二百七十四名に達しております。家屋の倒壞三萬五千二百六十三戸、浸水家屋二萬八千八百七十九戸、流失千四百五十一戸、燒失二千五百九十八戸、船舶流失二千三百四十九隻、田畑の流失、浸水は六千七百十八町歩、道路、橋梁、堤防の損壞二千三百二十箇所以上、その他全被害地域にわたる鹽田、生活必需物資、鐵道、電信電話等の損傷は、おびただしい額に上つておるのであります。
 このうち特に甚大な被害をこうむりましたのは、和歌山縣、徳島縣、香川縣及び高知縣でありまして、高知縣のごときは、死者及び負傷者において全總數の半ばを占め、倒壞、浸水、流失家屋二萬二百九十八戸という大損害をこうむつたのであります。その有形、無形の損害は、優に百億を突破するのでありますが、これを當面直ちに復舊を要します道路、堤防等の應急施設の費用だけにいたしましても、十數億に達する見込みでありまして、その災害の復興は容易ならぬものがあるのであります。
 かかる大震災は、南海地方では九十餘年前の安政の大地震以來のものであり、近くは關東大震災や三陸、近畿地區大地震をはるかに凌ぐものでありまして、被害地區の廣汎にしてその震度の強烈なる、いずれも從來に比を見ないものであります。殊に今次地震の震源地が、潮岬南西百キロの海底であり、しかも滿潮時に近く發生しましたために、非常なる高潮となつて、二メートルから四、五メートルを越ゆる大津波が、伊豆附近より九州にわたるきわめて廣い範圍に來襲いたしまして、ますますその被害を大きくしたのであります。和歌山縣串本町、新宮市、徳島縣淺川村、香月縣坂出港、高知縣、中村町、宇佐町、野根町のごときは、ほとんど全滅の慘状を呈しております。
 私は、震災直後本院より慰問團員としまして、四國方面の罹災地をつぶさに視察慰問いたしたのでありますが、被害の豫想以上に大きいのに驚いたのであります。宇佐、野見、須崎三漁港のごときは、一瞬にして、數百戸に上る家屋と、漁民の生命と、多數の船舶を流失し、灣内は、家や家財道具や犧牲者、木材等の漂流物により全海面を埋め盡し、その慘状實に目をおおわしむるものがありました。また地震により地殻に一大變動を與え、四国東南端附近は一メートル餘の隆起をいたしまして、遠洋漁業の基地として、水産資源獲得に多大の貢獻をしております室戸、室戸岬の兩港のごときは、その隆起のために港が淺くなりまして、百トン級の漁船の出入さえも不可能になり、まつたく使用ができなくなつたのであります。當面最も重要なる遠洋漁業に大頓挫を來しましたことは、まことに憂慮すべきことであります。また西部地方は逆に一メートルあまり沈下いたしまして、高知市下町一帶のごときは、浸水はなはだしく、四千五百餘戸に甚大なる被害を與え、さらに水魔は、各地の住宅のみならず、田畑數千町歩を襲い、未だに一面の泥海と化しておる状態でありまして、食糧問題の上からも一大脅威を受けるに至つているのであります。しかもこれらの復舊には簡易なる急場凌ぎの處置を施して、一時押えをなしつつあるに過ぎませんので、刻々迫つてまいります雨期をひかえ、急速に根本的な工事施設をいたしません限り、水害による再度の慘事發生を見ることは明らかであります。これらのことにつきましても政府は速やかに周密なる計畫を立て、恒久的な復興に努力すべきであると存ずるのであります。
 敗戦の創痍未だ癒えざるのとき、かくも厖大なる物的人的資源を瞬時にして失いましたことは、復興途上にあるわが國として、まことに痛恨の極みであると言わなければなりません。この不慮の天災により生命を失われました多數の同胞、及びその遺家族、竝びに大きな被害を受けられましたところの罹災者各位に對しましては、眞に同情の念にたえざるものがあります。
 私は今囘の大震災につきまして特に留意すべき重要な點があると存じます。それは大部分の罹災者が、空襲の被害を受け、敗戰の痛苦をなめつつ辛うじて起ち上り、その燒けはてた廢墟の上にみずからの生計を築くために、ようやく再建の一歩を踏み出した途端に、この震害をこうむつたのであります。いかに天災とはいいながら、その試錬のあまりにも慘烈なる、實に從來の震災などに比べものにならない深刻さをもつているのであります。私どもは戰死者の遺族、戰災者及び海外引揚者等の援護救濟に努力を盡してまいりましたが、これと同時に今囘の南海大震災の罹災者に對しましても、これまでと同樣に、否、それにも増して、ぜひとも温かい救援の手を差延べなければならないと存じます。今南海地方の罹災者たちは、戦災に續く大震災により、心身ともに大きな痛手を受けながら、懸命の力を揮つてその復興に再び起ち上ろうといたしております。この涙ぐましい努力にできるだけの力を貸し、これを押し上げ助けていくことこそ、國家の務めであり、同胞愛に燃える全國民の情であると存ずるのであります。
 既に政府におきましては、震災各府縣の罹災者救濟のために應急の措置をとられ、また緊急諸施設のための經費を豫算に計上せられておりますので、その努力は一應諒といたしまするが、あまりにも小額なるをはなはだ遺憾に存ずるのであります。殊に復舊に要しまする諾物資は、非常に缺乏をいたしております。從つて價格は高騰しており、これに伴いまするところの諸經費も、またはなはだしい値上りをいたしております。ゆえにこの程度の豫算ではまことに心細いのでありまして、所期の復舊をなしますることは、とうてい不可能であると存じます。よつて政府はこの際思い切つて豫算を増額し、その應急救援と並行して、根本的な復興對策に全力を盡されんことを切に希望いたすものであります。
 次に私は、今囘の震災に際しまして寄せられましたところの、連合軍の間髪を入れざる適切なる救援の處置に對し、罹災者一同を代表しまして、心からなる感謝の意を表するものであります。(拍手)すなわち地震直後の交通、通信の壞滅に瀕しましたときに、飛行機をもつて僻地の罹災者に食糧を投下し、あるいは艦艇を派して、衣料、藥品その他貴重なる救恤物資を搬送し、あるいは軍用車をもつて避難民を輸送するなど、絶大なる御援助に、各地罹災民はひとしく感激のほかなかつたのであります。また御名代として、閑院、竹田兩宮殿下の罹災地の御慰問を初め、救濟に對し寢食を忘れて挺身されました官民各位の熱烈なる同胞愛に對しましても、衷心より感謝の言葉を申し述べたいと思います。
 最後に科學者各位におかれましても、地震の科學的分析を徹底的に行い、世界の地震國をもつて任じまするわが國といたしまして、本研究に全力を傾注せられ、極力被害を最小限度に防止し得るごとく、不斷の御努力をお願いするものでございます。
 以上、提案の趣旨を御説明申し上げました。何とぞこの趣旨を諒とせられ、本決議案に御贊成を賜はらんことを切望いたします。(拍手)

○議長(山崎猛君) 中西伊之助君
 〔中西伊之助君登壇〕
○中西伊之助君 日本共産黨は、ただいま上程中でありまする決議案に、滿腹の贊意を表するものであります。(拍手)
 今度の震災につきましては、關東震災に比すべき慘状であつたということであります。その犧牲になられた方に對しましては、日本共産黨といたしまして、深く弔意を表する次第であります。
 皆樣も御承知の通り、こうした決議案は、議會においてたびたび通過しております。しかしその後の經過、すなわちその決議を實踐するということになりますと、一向われわれ首肯し得ないのであります。ただ決議倒れということになつていることは、皆樣もおそらく御承知であらうと存じます。今後やはりそういうことを續けてはならない。政府當局は、民主主義時代と申しましても、やはり官僚主義を清算し切れない。繁文縟禮を續けて、タイムリーにそうした救濟をするということに對しては、ほとんど無能力であります。議會はこれに對して全面的に政府を鞭撻し、今度のこの意義ある決議を、直ちに最も有効適切に實行せしめたいと存じます。これをもつて贊成の辭といたします。(拍手)


③1947,03,22 郵便法改正案反対討論

第92回帝国議会 衆議院 本会議 第23号 昭和22年3月22日
○議長(山崎猛君) 中西伊之助君。
 〔中西伊之助君登壇〕

○中西伊之助君 私は日本共産黨を代表いたしまして、ただいま上程中の新聞紙法の一部を改正する法律案‥‥‥(「新聞紙じやない、郵便料金」と呼ぶ者あり)郵便法の一部を改正する法律案に反對するものであります。
 ただいまの反對と贊成の討論を拜聽いたしましたが、また委員會における政府の答辯というものも聽きました。それによりますると、今度の高率の税金の引上げは、主として遞信從業員の人件費にあるというお説であります。あるいはそうかもしれない。ところが私どもが從來經驗しておりまするところによりますると、一體勤勞階級の生活を改善するために、資本家もしくは自治團體または國家が、その勞働條件なり、その他を改善するにあたつて申しますことは、たとえば遞信從業員の要求通り引上げた場合には、郵便料を引上げなければならないというのが、いつもの理由であります。今囘のこの郵便法の一部を改正する法律につきましても、案のごとくそういうことを口實にしております。はたしてそうであるか。われわれ、勤勞者階級の利益を代表して考えまするときに、それは眞實であるか。
 政府なり、資本家は常に利潤を――これは政府でも、現在の國家は資本家國でありまして、利潤を追求しております。利潤をそれなりにして、その水準を下げないで――公共團體もそうである。その他の資本家經營もそうでありまするが、利潤を一定の水準――今までもうけてきたところの水準を下げないで、これを永續せしめるために、もし賃金を與えるならば、その利潤の中から控除しなければならない。
 そういう建前に立ちまするがために、この賃金の引上げ、待遇條件の引上げに對しては、他にその負擔をかけなければならぬという結果になつてくるのであります。
 (「遞信に利潤なんかないよ」と呼ぶ者あり)結論までお聽きなさい。たとえば、これにむろん關連したことでありまするが、自治團體でありまする東京のただいまの交通局、電氣局の状態を見てみますると、かつてこれは大正七、八年ごろでありまするが、大體年額五千萬圓の利益を上げていた。
 ところが當時從業員が食うに食えない。外出するのに着物がない。制服を着てどこへでも行つた。あるいは自分の子供がげたを買うことができないために、はだしで歩いていたというように、電氣局の從業員の生活状態というものは悲慘であつた。それに對して年額八百五十萬圓の豫算を計上するところの待遇改善を提出したのでありまするが、五千萬圓の利益をもつておりまするから、八百五十萬圓はその五分の一以下である。それくらいの待遇改善をすることは當然であるにかかわらず、この利潤をいつまでも繼續して、東京市を食いものにするところのボスどもが、すべてこの利潤を食つておりますがために、こいつを自然東京市民に負擔せしめる。すなわち電車賃の値上げということをやるのである。
 電氣事業のごときもそうである。今度の電産の諸君の要求もそうである。あるいは全遞の諸君の要求もそうである。すべて國家なり、自治團體なり、もしくは資本家と申すものは、そうした方法でもつて、何か大衆に負擔をさせることによつて、勤勞階級との間を疎隔して、これをもつて、食うに困つて餓死に瀕しておるような勞働者の生活改善の叫びが、全國に翕然と上ると、これは共産黨の煽動だというデマを飛ばすのであります。今度のゼネストでも、やりもしないゼネストを理由に、郵便料金を上げなければならぬという、べらぼうなことは、世界的にないことである。
 殊に今後のこの負擔につきましても、私は友黨の社會黨の諸君が反對の理由を申しましたから、もうくどく申し上げませんが、要するにこれはあるいは公債利子の打切りからでも、これくらいな經費は出るのであります。あるいは財産税――かつての實に不徹底な財産税、これをもつと嚴正に取立てれば、これくらいの豫算は何でもないのである。あるいはまた新圓の課税――あぶく錢をもうけておるところの新圓階級には、むしろ石橋財政は保護政策をとつておる。そうしてそれに便乘して選擧戰を戰おう。そんなずるい、狡猾な態度をとつております。
 現に何億圓かの新圓をもつて、新株をぐんぐん買いつつあるところの新圓階級がある。舊財閥は解體されたと言いますが、しかし一時地下に潛つた。次に勃興しつつあるものは新圓階級、いわゆる新財閥であります。こういう階級に對して、ほとんど放任政策、むしろ保護政策をとつておる。このためにインフレを増大することは申すまでもないことであるにもかかわらず、こういう新圓階級を放置して、しかも十五錢から五十錢、三十錢から一圓二十錢というところの高率の郵便料を、一般勤勞大衆から取上げようとしているのであります。
 今度この厖大豫算につきましても、勤勞階級にほとんど六割近くの負擔をさしておる。一部の有産階級はその四割、もしくは三割五分に過ぎない。これははつきりした統計があがつておる。こうゆうふうなことをいたしまして、現内閣のこの保守反動政權は、常に大衆に負擔を轉嫁することによつて、有産階級を保護しておるものであります。ためにこうした法律案に對しては、わが日本共産黨は、絶對に反對であるということを宣明いたしまして、私の討論を終ることにいたします。(拍手)


④1949,04,09 国税徴収方法に関する緊急質問


第5回国会 衆議院 本会議 第15号 昭和24年4月9日
○議長(幣原喜重郎君) 次は國税徴收方法に関する緊急質問を許可いたします。中西伊之助君。
   〔中西伊之助君登壇〕
○中西伊之助君 私は、日本共産党を代表いたしまして、國税徴收方法に関する緊急質問を吉田首相、大藏大臣及び法務総裁にいたしたいと思います。この問題は、今二十三年度の確定、更正決定の國税が強力に徴收されているのであります。その中で、そうした不当なる大衆課税を押しつけられたところの國民大衆は、今塗炭の苦しみをしております。私は、これは單に共産党のみの問題ではなく、その他の各党の同僚諸君も十分に御関心を持たれ、しかもわれわれと意見はおそらく一致することと存じます。
 質問の條項といたしまして、時間がございませんので、ほんのアウト・ラインにすぎないのでありまするが、第一に、吉田総理大臣に対して反税という意義を聞いてみたいと思うのであります。最近考査委員会が國会に設置せられましたが、その提案者の説明の中には、盛んに反税という言葉が入つております。また、昨日新聞記者に会見された吉田首相は、やはり共産党の反税闘爭ということを盛んに力説しておられる。
 反税とはどういう意味であるか。おそらくこれは、字義の上で解釈いたしますれば税金に反対するという意味のごとくとられるのであります。しかしながら、今この不当なる更正決定に対して異議を申請し、再審査を要求しているところの民衆、納税者は、断じて納税に反対しているのではないのであります。不当なる課税に対して反対しているのである。(拍手)それを、いかにも共産党を中心とするところの、この國民の悩みを取上げて闘つているところの政党に対して、反税闘爭をしている、すなわち國民の義務を怠つて——憲法の條章に從つてわれわれは納税の義務を有することはあたりまえである。ところが、不当なる課税に対しては断固反対しなくてはならないのでありまするが、しかしこれに対して、税金に全面的に反対しているかのごときデマを飛ばしつつあるということは、実に不都合千万であると思うのであります。(拍手)そのために、特に多数をたのんで考査委員会のごとき委員会を通過せしめた反民主主義的なる吉田内閣を、われわれはあくまでも糾彈せざるを得ないのであります。(拍手)
 第二に、はなはだしい違法あるいは不当もしくは残忍冷酷なる徴税方法をとつて、実に人道を無視し、民主主義を無視し、人情を無視し、あらゆる惡辣手段を用いて差押え、あるいは税金を取立てておりますが、しかしながら、私はそうした末端の税務官吏にのみ攻撃をもつて行くものではない。そうした不当なるところの大衆課税を課せられ、それをどうしても執行しなければならないという氣の毒なる税務官吏諸君に対しては、滿腔の同情を惜しまないものであります。しかしながら、一方そうした不法なるところの税金の取立てに対しては、われわれは断々固として反対せざるを得ないのであります。その一例として申し上げましよう。
 民自党の諸君もここにおいでになりますが、あなた方の大阪市会では、民自党さえも適正課税をしなければならないということを超党派で決議をしております。(「あたりまえじやないか」と呼ぶ者あり)われわれはそれを叫んでいるのである。このことを言つているのである。反税ではないのである。
 まずこの確定、更正決定に対して異議を申立てる、すなわち再審査を要求いたしますと、この再審査証書はどこに行つているかと申しますと、末端の税務署のひきだしに入り込んでいて、これを決して再審査しない。そして督促状を盛んに発して、おいて最後には差押えをする。これに対して、むろん末端の税務署を不信として、その上級機関であるところの地方財務局に要求するのでありますが、この納税者の権利を蹂躪し、その末端の税務署において、たな上げにしてしまつている。はなはだしいのに至りますと、警察署へそういうものを持つて行く。何のために持つて行くのか。すなわち税務代理士法違反であります。後に述べますが、税務代理士法違反という不当なる彈圧を加え、そのために、警察へそういうふうなものを持つて行く。むろん憲法違反であります。税務法の違反でもあるのであります。
 しかも、その申請再調査をし次第、その間に実に不都合千万なることには、日歩二十銭の高利をとるのであります。遅滞利子をとる。あなた方はやはり納税者の一人で、その有権者の中に悩んでいる人がたくさんあるのでありますが、われわれのこの主張に対して、何人が反対することができますか。日歩二十銭——政府はいつごろから高利貸になつたのでありますか。(拍手)こういうふうにして日歩二十銭をとるために、何万という万台になりますと、二十銭の日歩は莫大なものである。でありますから、更正決定をし、審査をして少しぐらい減額されても、この日歩のためにその方が多くなるという事態がたくさんある。これは要するに審査を拒否するものである。罰金である。苛酷なるところの税の徴收法をやつている。すなわち吉田内閣はそういう苛酷なことをやつているということについて、大藏大臣はいかにその責任を感ずるのでありますか。これに対して税法の改正をしないかどうかということを答えてもらいたい。(拍手)
 さらに税務代理士法の違反ということでありまするが、この税務代理士というものを数の上から申しますと、ほとんど納税人口二万五、六千人に対して一人しかいない。これは数がちやんと上つてあるまするが、ひとつこれを答弁してもらいたい。一体税務代理士が全國に何人おるか。農村の方に参りますると、あの更正決定に対するところの申告という文書を見ますると。繁文縟礼で、お百姓なんかわからない。われわれだつてわからない。そういうものを税務署から押し付ける。これはどこに何を書いてよいのかわからない。そういう場合に、税務代理士がいなかの方でどこにおるのかわからないという場合に、その土地の物知り、あるいは政党、あるいはその他の人に、これはどういうふうに書いてやるものかというくらいのことを尋ねるのは、あたりまえのことである。当然である。おそらく民自党の諸君も、こういうことを頼まれておられるに違いない。しかるに、それが税務代理士法違反とは何であるか。大阪のごときは、檢事はめちやくちやなことを言つておる。要するに、もう時間がありませんから省略いたしまするが、二万五千人に一人ぐらいしか税務代理士はいない。でありますから、これを何とかだれかに頼んで読んでもらつて、事務を処理してもらうということは、これはむしろ日本人の人情として当然であります。
 また最近の税務署は、一人々々で來い、團体はいかぬと言う。ところが個人でありまするが、近ごろ税務署に参りますると、五十人、百人という納税者が押しかけて來ておる。そこで、税務官吏が一人々々に会見する。そうすると、二、三十分から一時間くらいかかる。百五十人から二百人が毎日押しかけて來る。あるいは、むろん商工業者もありまするし、農民もありまするが、その人たちは仕事ができないので、二日も三日もやつて來ておる。しまいには、電車賃が高いから歩いて來ておる人がある。

○議長(幣原喜重郎君) 中西君、時間が來ましたから簡單に願います。
○中西伊之助君(続) 簡單にやります。——そうしたことに対して大藏大臣の責任を聞きたい、なんとこれに対してお答えになるか。何もかも税務代理士法違反といつて檢挙をされるところの法務総裁にもお答えを願いたい。そうした、実際上われわれ國民大衆の利益を裏切り、人権を蹂躪し、あらゆる残虐な暴圧法をこの國税徴收の手段の上に加えられておるということは、われわれが断じて許し得ないところであります。どうぞ、そういう点について明確なる御答弁を願いたいと存じます。(拍手)
    〔政府委員中野武雄君登壇〕
○政府委員(中野武雄君) 大藏大臣はただいま予算会議に行つておりますので、政務次官がかわりまして答弁いたします。
 更正決定につきましては、政府の方針といたしましては、眞に入るところの所得に対しては税金を課するのでありますが、不当なる課税は絶対いたしません。將來も收入の適正をはかつて、その上に公正なる税金を徴收する考えであります。
 その次に審査請求については、この審査請求について小さい数字のあやまちだとか、あるいはその重複だとかは、すぐさま変更をいたし決定いたしますが、審査の請求ということに相なりますと、個人の收入については相当あらゆる方面を研究せねば相ならぬので、つい幾分なりとも延長いたしますが、現在の税務署といたしまして、この人員では、とうていすぐさまできませんが、なるべく早く解決いたします。そして税務代理士については、資格のある人にはどしどしと出て來てやつて應対しますが、資格のない人にはこれに應ずることはできません。(拍手)
   〔國務大臣殖田俊吉君登壇〕
○國務大臣(殖田俊吉君) 中西さんの御質問にお答えいたします。税務代理士法に申しまする税務の相談に應ずることを業とすると申しまするのは、これを反復継続するということをもつて足るのでありまして、あえて営利でやるということを必要としないのであります。從つて、この税務代理士法に違反します場合には、やむを得ず檢挙をいたしておるのであります。

⑤1950,04,08 漁業法案反対討論


第7回国会 衆議院 本会議 第35号 昭和25年4月8日

○石原圓吉君 ただいま議題となりました漁港法案につきまして、その提案の理由並びに要旨を御説明申上げます。
 まず本法案提案の理由並びに本委員会における起草の経過につきまして申し上げます。
 わが国漁業の歴史を見ますと、おもに魚をとることと、新しい漁場を開拓して漁場を拡張することの二点に国の施策が向けられておつたのでありまして、そのために、漁船の研究及びこの助成には、かなりの力が注がれていたのであります。戦争によりまして漁船は大半を減少し、かつまた漁船の状況につきましても種々の変遷を来したのでありますが、漁船は急速に再建造せられて戦前の水準に達したばかりではなく、型も漸次大きくなり、従つて設備も科学化せられて参つたのであります。しかるに、漁船の基地でありかつ漁業の策源地であるわが国の漁港の設備の実情を見ますに、非常に不十分でありまして、国民生活の安定と国民経済の発展に大きな役割を果たしつつある水産業の発達をはかるためにはまことに遺憾であつたのであります。従つて、これをすみやかに整備し、かつその適正なる維持、管理をすることが必然的に重要となつて来たわけであります。
 第一国会以来の全国漁民の熱望にこたえるため、またわが国が世界第一の水産国である立場から漁港設備の根本策を樹立するため、本委員会におきましては、過去約一箇年半にわたりまして調査研究をして参つたのであります。本委員会は、すみやかにこれが立法措置の必要を認め、昨年十二月二十二日会議を開き、全員一致をもつて漁港法案を起草すべきことを決定し、爾来、漁港に関する小委員会において愼重審議をなし、三月三十一日、同小委員会案を決定いたしたのであります。次いで、四月三日の委員会において本委員会成案の決定を見ましたので、本法案を提出いたした次第であります。
 次に本法案の内容の大要につきまして御説明を申し上げます。第一に、本法案の目的は、漁港を整備し、その維持、管理を適正にして、水産業の発達をはかり、国民生活の安定と国民経済の発達に奇與せんとするものであることを明確にいたし、また漁港の施設を基本施設並びに機能施設の二種とし、かつその内容を具体的に規定したのであります。
 第二は漁港の指定であります。従来われわれが常識的に漁港として考えておりましたもののほかに、なお漁港として将来施設を要すべきものが相当ありますので、農林大臣は、漁港審議会の議を経て、かつ関係都道府県知事の意見を徴して、名称、種類及び区域を定め、次に述べるような漁港の指定を行うことといたしたのであります。すなわち漁港は、その利用範囲によりまして、これを第一種、第二種、第三種及び第四種漁港と四種類にいたしました。第一種漁港とは、市町村または水産業協同組合の区域をもつぱら利用範囲としているものでありまして、第二種漁港と申しますのは、第一種漁港よりも広く、第三種漁港よりも狭い範囲の利用を目標としているものであります。すなわち、おおむね都道府県及びその地方程度を利用の範囲としているものであります。第三種漁港は、その利用範囲が全国的なものであります。第四種漁港とは、離島その他の地にあつて、漁場の開発または漁船の避難上特に必要な地域の避難港的な意味の漁港であります。
 第三は、漁港に関する重要事項を調査審議するために漁港審議会を置きまして、漁港に関する事項について関係行政官庁に対して意見を提出することができることとし、委員の数は九人として、うち一人は水産庁長官で、他の八人は漁港に関する知識と経験及び漁港修築の技術運営並びに漁業に関する知識と経験のある者の中から内閣総理大臣が両院の同意を得て任命し、任期は三年といたしたのであります。
 第四は漁港の修築でありますが、農林大臣は漁港審議会の意見を徴し、その意見を採択して漁港整備計画を決定し、さらに閣議の決定を経て国会に提出し承諾を受け、内閣は国の財政の許す範囲内において予算を計上しなければならないこととしたのであります。しかして、事業の旅行者は国または地方公共団体及び水産業協同組合とし、国以外のものが基本施設を修築する場合には、その要する費用のうち、北海道におきましては、第一種、第二種及び第三種漁港は百分の六十、第四種漁港は百分の八十でありますが、その他の地域におきましては、第一種と第二種漁港に百分の四十、第三種漁港は百分の五十、第四種漁港は百分の七十五または百分の六十を国が負担することとし、かつ国以外のものの行う機能施設についても、予算の範囲内でその費用の一部を国で補助することができることにいたしたのであります。第五は、漁港の維持管理について万全を期するため、地方公共団体または水産業協同組合を管理者に指定して、漁港管理計画及び漁港管理規定に従つて同時に維持管理をなすこととし、かつ地元漁民の互選及び地方公共団体の推薦する委員をもつて漁港管理会を設け、漁港の維持管理に関する重要事項を調査審議させることとしましたのであります。
 以上が本法案の要旨であります。
 本案は、四月一日及び四月三日の二日にわたり、本委員会において慎重審議をしまして討論にはいり、日本共産党中西伊之助君より原案一部修正の意見があり、民主党林好次君より、国の支出増額を希望して賛成する旨の意見述べられ、さらに自由党川村善八郎君より委員会原案賛成があつて、続いて原案の決定について採決を行いましたところ、多数をもつて原案通り委員会成案の決定を見たのであります。よつて提出方法につきましては、本案を委員会提出の法律案として議員に提出することに全員の賛成を得て決定したのであります。
 要するに、この法案の成立により漸次漁港が完備されましたあかつきには、少々の荒天にも出港が可能となりまして、全国の漁民が安心して漁業にいそしむこととなり、必然的に漁業能率を増進し、著しき増産が予想されるのであります。以上の次第でありますから、何とぞ御審議の上すみやかに御賛成あらんことを切に希望する次第であります。なお本案の詳細につきましては委員会会議録によつて御承知をお願いいたします。
 これをもつて、提案の理由並びに要旨の御説明といたします。(拍手)

○副議長(岩本信行君) 討論の通告があります。順次これを許します。中西伊之助君。
    〔中西伊之助君登壇〕
○中西伊之助君
 私は、日本共産党を代表いたまして、ただいま議題となつております漁港法案に遺憾ながら反対の意思を表示するものであります。(「委員会では賛成しておるではないか」と呼ぶ者あり)それにつきましては、当時修正意見を出したのであります。委員長も報告されたのでお聞きになつたと思うのでありますが、修正意見がいれられれば、むろん委員長に報告の通り賛成するのであります。いれられなければ反対するのは当然なことである。これは、むろん議事法をおわきまえになつておる皆さんは御承知のことだと思います。
 そこで漁港法については、これは漁民大衆が非常に待望しております。水産委員の者にもいろいろと要求がありまして、これは漁民大衆諸君の要望であります。ところが、この法案といたしますと、これは勤労漁民がパンを求めているのに石をもつてするものであります。(「漁民は魚を求めている」と呼ぶ者あり)こういう内容を持つ漁港法案に対して反対せざるを得ないのであります。その反対理由を簡單に申し上げます。
 法案の第一章の総則でありますが、この中に施設が規定されております。この施設でありますが、基本施設と、それから機能施設——これは委員会でありませんから大づかみで申し上げます。この機構を見ますと、実に厖大な施設をしてもいいことになつている。一々申し上げませんが、読んでみますと、漁業用通信施設、これは必要でありますが、しかしながら、さらに陸上無線電信、陸上無線電話及び気象信号所、それから漁船船員の厚生施設、宿泊所、浴場、診療所及び漁船船員ホール、いろいろな施設がここにあります。おそらくこういう施設も必要でありますが、しかしこの場合何よりも必要なことは、キテイ台風その他でますます破壊されているところの沿岸の零細漁民の防波的な施設が最も必要であります。そういうこと以外に厖大なる施設がここに載つておりますが、第一種、第二種、第三種、第四種というふうに漁港の範囲はきめておりますが、この施設については何ら法の規定がないのであります。どこへ持つて行つてもこれを用いることができる。この上に鉄道、軌道、道路、橋梁というふうな施設がここに規定してありますが、しからばこの施設は、第一種あるいは第二種その他によつて、これは国の費用も出すのでありますから嚴重に法に規定されていなければならぬはずであるにもかかわらず、これはどこへ持つて行つてもいいということに法の解釈がなる。これはこの法案がある意図を含むものではないかということをわれわれは考えるのであります。その実例といたしまして、私は具体的に申します。これは横須賀の付近の——場所を申し上げてもいいのでありますが、金沢八景に、最近大きなスケールを持つた漁港が建設されるような計画をしております。ところが漁民たちの話を聞いてみると、何だ、こんなところに漁港をつくる必要がどこにあるのだ、おれたちは利用も何もできないじやないか——ところが、土地は漸次買收計画を立てて、すなわちここに規定しておりますような施設をほうふつせしめるような施設をしている。私ども学生時代からよく知つておりますが、その一帶は、潜水艇もしくは水雷艇——今水雷艇というのはないそうでありますが、そうしたものの基地であつた。漁民さえ驚くような厖大なる漁港を、こんな所になぜつくるかというふうな疑問を持つ。おれたち、こんなところに漁港をつくつてもらつたつて一向間に合わない、こういうことを言つておるにもかかわらず、ここに大きなスケールで、ちようどここに規定しておりますような計画をしておることは、どういうことを意味するものであるか、皆さんの御想像にかたくないと思うのであります。諸君はそれを視察に行かれればよくわかる。
 次にこの漁港の指定でありまするが、これは表裏一体をなしておる農林大臣が、審議会の規定によつて意見をいれる、あるいは議を経るということがあります。しかしながら、むろん審議会というものがいいかげんなものであることは、あとで御説明申し上げますがこういうふうにして、農林大臣がかつて気ままにその場所を、すなわち漁港を選定することができる。
 日本は歴史的に見ましても、海から、あるいは植民地的、あるいは侵略的な勢力が入つて来たのであります。明治維新以来——以前もそうでありますが、日本の国土を希求する侵略者は、いつも海から来ている。この歴史的事実をわれわれはよく考えなければならぬと思う。すなわち、海はわれわれの独立を守るところの関門である。この関門が一高級官僚の手によつて自由気ままに指定される。
 そうして、この審議会というものは形式的になりますが、これはどういうものか。総理大臣が任命する、こういうことになつておる。そこにこの資格らしいものがはなはだ抽象的に書いてありますが、そういうふうなことは、任命する際に、そんな資格がなくても、あつたということにすれば、もう今まで自由党内閣や官僚はやつておることでありますから、一向こういう法律にこだわる必要がないのであります。
 そういたしますと、問題はこういうことになつて来る。そういう官僚機構ができたのは、皆さんが御承知の通り、電力がそうである。電力に国会の審議権はない。電力の機構がそうである。見返り資金はどうであるか。こういうことにして、官僚の独裁、すなわち東條がやつたような、国会を無視して、そうして一部の官僚機構をつくり上げて、それが独裁的な政治をやるということがこの漁港法案の中にも現われている。(「ないよ」と呼ぶ者あり)こういうことが、あなた方は鈍感でおわかりにならないかもわからない。
 さらにこの修築費でありまするが、この中には——大体において国庫負担とすべきものだと私は考えるのでありますが、国以外のものはどうこうということを書いております。国以外のものとは、都道府県のことであり、あるいは公共団体もしくは事業団体であろうというのでありますが、これをはつきり規定する必要がある。さらに多くにわれわれの疑問とするところがありまするが、こうした審議会の委員を選挙するにも、ただ指名でやつた任命であつてはならない。すなわち、ここに零細漁民の、働く漁民の意思が反映して、その利害がついていなければならぬのでありますが、この審議会と申しますものには、漁民の団体あるいは零細漁民、そうたものの意思が全然反映していない。こういうことは、この法案が官僚的本質を持つておるのでありまして、何ら民主化されていない。農地改革の農地法でありますが、あの農地法も同様であつて、この漁港法一つをとつてみても、何ら民主的なものを持つていない。働く漁民の利益が代表されていない。でありますから、私どもは、漁民がおそらく待望しているであろうところのこの漁港法、これは重ねて申しますが、漁民が切にこれを希望しているにも関わらず、この機構であれば、かえつて日本を戰争に導くところの軍事基地を強化する以外の何ものでもないのでありまして、われわれは、そういう観点から、この法案には全面的に反対するものであります。今後、われわれの修正意見、すなわちこれが漁民の利益を中心に、漁民の意思を尊重するものであれば、何どきでも賛成をいたしまするが——現に漁民がこれを待望しておるのでありますから、共産党はいたずらに反対するものではありませんが、大衆諸君——理由があるから反対する。すなわち、これを軍事基地化し、現にそういう事実がある限りしかたがない。反対せざるを得ない。いたずらに絶対に反対するものではない。もしこの法案が真に漁民の利益を代表するものであつて、その内容が公正にできておるならば賛成するにやぶさかでないのでありますが、不幸にして委員会でその修正案がいれられないために、これに対して反対の意見を申し上げるものであります。(拍手)

⑥1950,07,31 列車転覆事故の追及(運輸委員会)

第8回国会 衆議院 運輸委員会 第9号 昭和25年7月31日
○中西委員 昨日貨車が二十五台、東海道線で転覆したという事実が新聞に出ておりますが、あれはどういう原因でありますか。
○石井説明員 昨日午前九時四十二分でございますか、東海道線の茅ヶ崎、平塚間におきまして、貨物列車が脱線転覆して、上下線を支障いたしまして、旅客並びに貨物輸送に支障を及ぼしたことは、まことに申訳ないと思つておるのでありますが、この脱線の原因につきましては、まだ調査中でございまして、はつきりしたことを申し上げられないのでございますが、ただいまのところでは、やはり何か従事員の過失ということでなくて、技術上の原因ではなかろうか、こう認められておるようであります。正確にわかつておりませんので、ひとつこの程度で御了承いただきたいと思います。
○中西委員 この原因は今わからない、まだ調査中のようでありますが、今度は共産党員がやつたというようなことは新聞に出ておりませんが、大体新聞記事を見ましても、レールが磨滅していたということが事実のようでありますが、そういうような点はお認めになりませんか。
○石井説明員 ただいま申し上げました通り、いろいろ推測の説が出ておりまして、新聞記者諸君は非常に敏腕を誇る関係から、推測記事を取上げてお書きになるようでありますが、これが原因であるということは、正確にはわかつておりませんので、ひとつただいまの御質問に対する御答弁は御容赦を願いたいと思います。
○中西委員 昨日転覆したのにまだ原因がわからないのは、相当怠慢だろうと思いますが、そういう原因がわからない限り、ことにこうした交通の頻繁な線では、今になつても原因がわからないというふうな、実にあいまいな当局の態度は、われわれに不安の感じを起させるのでありますが、磨滅をしていたというふうな記事がありますが、それは否定されますかどうですか。
○石井説明員 私は現地を見たわけでもありませんし、また本来の技術の方の関係官でもありませんので、その点のお答えはいたしかねます。ただいま、今になつても原因がわからないのは怠慢であるというようなお話でありましたが、かような事故が起きましたときには、結局一應その現場を開通させることに主力を注いで、輸送の道の回復を第一義といたしまして、事故の原因につきましては、それぞれ故意あるいは過失のありました際には、責任者を出して相当の処分をし、あるいは刑事上の責任も負わなければならない問題もありますので、やはりわかりにくいところはわかりにくいので、愼重に調査いたすことは止むを得ないと思います。もちろん早くわかつて、それに対する対策ができ得るような事故でありますれば、すぐお答え申し上げられると思うのでありますが、たとえば従事員の過失、あるいに列車妨害であるというようなことがはつきりわかつておりますれば、即座に原因を御披露申し上げられるのでありますが、昨日のような場合は、どうしても技術上の問題であるようでありまして、いろいろの運転上の問題あるいはレールの状況、いろいろの点から研究いたさなければ結論が出ないのではないか、かように存じております。
○中西委員 これもやはり新聞記事なんですが、空車を二台連結していた、それで急カーヴであつたというようなことでございます。そうするとわれわれしろうとでも、これはレールが磨滅していたというふうな感じもするのでありますが、もうすでにあの線路は非常に老朽していたということはわれわれも認めておるのです。運輸省は人件費は盛んに削減されておるようでありますが、物件費は一向削減されていないというのが、今までの予算のようであります。こういう点で人を減らして、そうして物件費でもつてレールをぐんぐんと新しくするということは、われわれ国民の不安を非常に除去するわけなのでありますが、一体レールの使用期間というものはどのくらいに算定されておるのですか。その点をお聞きしたいと思います。
○石井説明員 レールの使用期間についてのお話でありますが、レールはたとえば本線とか側線とか、あるいは同じ本線にいたしましても、東海道本線というようなきわめて高速度で走る列車区間、あるいは支線のごとき速度の低い、軽い列車の走る区間等によつて、おのおのその性能を異にいたしております。従いましてレールをとりかえますのも、一定の許容された磨耗限度を越えます場合はもちろんとりかえますが、何年使うということでとりかえるわけではないのであります。平均してどのくらいでとりかえるかということについては、線区とレールの大きさと、その線区を走つておりますスピード、回数によつて違いますので、具体的な数字を取寄せてお答えしなければなりません。今日すぐわかりかねる問題であります。
○中西委員 それは今の御説明の通りだろうと思いますが、最も交通の頻繁な東海道線のごときは、現在のレールでは使用に耐えないような感じもするのでありますが、当局のお考えはどうですか。それで完全だ、りつぱなものだというふうにお考えになつておりますか。
○石井説明員 戰争中資材入手に相当難儀いたしましたために、施設の荒廃したことは事実でありますが、終戰後の経済情勢に応じまして、着々そのとりかえを促進いたしておりますので、今日では御承知のように特急も復活いたしまして、さらにできますならば次の時刻改正におきましては、特急の運転時間も戰前と同じような状態にまで高めたい、かような計画をしております。もちろん多数の生命を預かつております。列車を高速度で運転いたすわけでありますから、当然レールの修理の観点から十分に検討を加えられて、そういう計画をいたしておることと思います。そういう点から見ますと、一分のすきもなくりつぱだというふうにほめることはどうかと思いますが、少くとも安心の行くだけの保安度は持つておる、かように存じております。またこの保安度を確保するだけの必要な法的措置も、今後運輸省としては考えて参りたい、かように存じております。
○中西委員 私たちが常に考えておることは、鉄道は特急をつくつたり、スピード・アツプを盛んにやるが、そういう計画を立てるごとに、レールは確かだろうかというような不安が非常にあるのでありますが、これは希望ですけれども、今後その点を十分に注意をして、新しいレールになるべくとりかえるようにしていただきたい。物件費は、これはもうやむを得ないことでありまして、その方は予算の上では削減されていないにかかわらず、ああした脱線、それから新聞では磨滅、老廃したということをいわれております。当局ははつきりそれを重視しないようでありますけれども、事実はその通りだと思う。だからスピード・アツプすることはけつこうだけれども、レールをしつかりやつてもらわないと、われわれは安心して汽車に乗れないという結果になると思います。この点希望的ですが、お願いを申し上げたい。




中西伊之助の選挙、政党歴など(資料的に記述)

1887.02.08 京都府久世郡槇島村(現・宇治市槇島町)に誕生

1905.09.05 日比谷焼き打ち事件に参加し、検束留置される

1906.02.04 日本社会党結成大会を傍聴(神田錦輝館)する

1907.02.19 日本社会党第2回大会に参加する

1912.    『平壌日々新聞』記者

       藤田組を攻撃する記事を書き信用毀損罪で懲役4ヶ月の実刑判決を受ける

1919.   このころ売文社の堺利彦のところに出入りし社会主義理論を学ぶ

1919.09.03 日本交通労働組合創立総会で理事長に選出される

1920.   市電の争議の全線罷業を指導。治安警察法違反の容疑で検挙される

1922.02.10長編小説『赭土に芽ぐむもの』発行

1922.03.03 京都で開かれた全国水平社創立大会に出席

1923.03.26 入獄3ケ月

1923.09.01 関東大地震

1925     「日本漁民組合」を設立し中央執行委員長に(選挙公報に記載)

1925.11   農民自治会を渋谷定輔らと結成し、反都市、反政治を強調した『自治農民』を発刊

1928     農民自治会を除名され「農民組合全国評議会」を結成

1928 張作霖爆殺事件

1928.12.20 日本大衆党の結成に参加した

1929.3.15 山本宣治凶刀に倒れる

1929.12.25 幹部が田中首相から1万円受領したスキャンダルを暴露し、堺利彦とともに日本大衆党を除名され、東京無産党の結成に参加した

1930.02.20 第17回総選挙に東京無産党公認で東京6区から立候補し落選した

1931.9.18 柳条湖事件

1934.2.10     『満州』出版

1935.1          『軍閥』出版

1936.6.17 福上トミと結婚

1936.7.3  加藤勘十、鈴木茂三郎らが、「労農無産協議会」(労協)を結成。これに参加した

1936.02.20 第19回総選挙で加藤勘十候補と黒田寿男候補の応援弁士。両候補とも当選した

1937.02.21 日本無産党の結成に参加し、常任委員になる

1937.3.16 東京市会議員選挙(世田谷区)に労協から立候補し、1369票で落選した

1937.11        『台湾見聞録』出版

1937.12.15 第1次人民戦線事件台湾で逮捕され、検挙される

                    約2年、留置所と東京拘置所に留置される

1937.12.22 日本無産党に解散命令

1941.3.10 治安維持法全面改悪

1941.12.8 真珠湾に攻撃し米国とも戦争へ
1045.9.7 アジア・太平洋戦争、ポツダム宣言を日本が受諾し終結した

1945.09   人民文化同盟準備会を結成。同年12月には機関誌『人民戦線』を発行

1945.10.10 「出獄戦士歓迎人民大会」に妻の白布で歓迎横断幕つくり参加し、

1945.10.30藤沢市片瀬の自宅で神奈川地区共産者グループ懇親会

1945.11.14 自宅で日本共産党神奈川地方党会議

1945.12.17 中西を衆議院候補者に決定

1946.04.10 戦後初の第22回衆議院議員選挙(神奈川区定数12、制限連記投票・3名連記)で次点落選(37,461票)

1946.06.21 河野一郎の公職追放により、衆議院議員に繰り上げ当選

1947.04.25 第23回衆議院議員選挙(神奈川3区定数5)に立候補し、落選

1948.03.15 出生地の槇島村を訪れる

1949.01.23 第24回衆議院議員選挙(神奈川3区定数5)で当選 共産党は35名当選

        衆議院水産委員に選任

1949.12.13 衆議院水産委員会で理事に選任される

1950.10.28 衆議院運輸委員委員に選任される

1952.05.31 日本共産党からの「脱党」を声明

1952.8.28  解散で議席を失う

1952.12   『赤い絨毯』出版

1953.04   『続・赤い絨毯』出版

1953.04.24 第3回参議院議員選挙に全国区から無所属で立候補し、落選。

1953.07   『続々・赤い絨毯』出版

1957. 「政界往来」4月号〜8月号に『公約』連載

1957.12 『筑紫野写生帳』出版

1958.07  日本共産党の第7回大会で「51年綱領」廃棄され、復党

1958.09.01 午前9時25分に心筋障害のため鎌倉市市民病院にて死去。岩間正男が弔問。

1958.09.05 午後1時から藤沢市医師会館にて追悼会。主催は日本共産党神奈川県中部地区委員会


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