日本共産党創立100年。当時の宇治での民衆運動をおもう

城南争議、農民運動の広がり

恐慌・戦争・飢饉と圧政のもとで、農村では重い小作料で耕作農民をしめつける半封建的な地主制度が支配し、多くの自作農が没落していった。
宇治では寄生地主が、ほぼ全ての農地を所有するような状況になっていった。伏見の「細川はん」は、他人の土地を通らず宇治〜伏見を行き来できたほどだった。
第一次世界大戦(世界戦争)後には、圧政に抗する労働運動と農民運動が大きな広がりを見せた。宇治町で1921年農村争議が起きた。「かねて町内の小作農百数十名は農事奨励を看板に実行組合を組織していたが、十月、地主に対し年貢米四割減を要求した。山本町長は調停に奔走し、十一月半ば頃二割減で妥結(宇治市史4巻362)」するという成果をあげたのだった。
 こうした農民運動のなかで22年11月、日本農民組合(日農)の支部が綴喜郡で組織されると急速に府内に広がった。25年には府内4000名を超える組織になった。綴喜986人、相楽660人、久世964人と、とりわけ山城地方は多くの組合員を擁したのだった。
 そうした背景のもと、26年、歴史的大勝利をおさめた城南争議は特筆すべきものだ。
 「26年6月30日、1500人の組合員は美豆、佐山両村におしかけ、百数十人の警官隊と乱闘のあげく地主側の田植え強行を阻止した。この結果、組合側は30数名が検挙され、うち24名が起訴された。この弾圧にあっても農民の結束は崩れず、結局10月になって、25年度の小作料3割3分減、以後5年間2割減。立入禁止田は全部小作人に返すという農民側に圧倒的に有利な条件で解決をみた。(宇治市史4巻363〜364)」のだった。
 この城南争議の勝利が先駆けとなり「耕作権」確立を求める農民運動が全国に広がったのだった。

山本宣治の当選―――宇治で第1位の得票

22年7月日本共産党が創立し、京都においても23年1月、党を立ち上げたが創立直後には、第一次弾圧を受け解党、再結成と困難に直面した。
28年2月、衆議院京都2区で山本宣治(日本共産党推薦)が当選した。その時の宇治地区の得票は宇治町602票(54%)、槇島村82票(33%)、宇治村312票(32%)、大久保村91票(27%)などだった。現在の宇治市域での得票が1160票(37%)で得票第1位だったが、このことが当選に大きな役割を果たした。
当時の選挙は官憲の妨害がひどかった。演説会会場に臨監(警察官)が立会い、「弁士中止」はもちろん、弁士退場も逮捕もできた時代だ。投票日前々日の莵道小学校の山宣演説会では応援弁士22人全員が中止を命じられ、そのほとんどが逮捕された。こうした弾圧化の選挙での勝利だった。
「普選」といえど25歳以上の男子にのみ選挙権があったに過ぎない選挙での勝利だった。
旅館花屋敷の主人で、莵道小学校卒業生(1899年卒)であり、生物学者であったこと、山宣の人柄と地元要素も大きかったが、加えて官憲の弾圧に抗して立ち上がった民衆の農村争議や無産運動など闘いが根底にあったのだろう。

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