原爆判決(原爆裁判) 東京地方裁判所 昭和38年12月7日判決
損害賠償請求併合訴訟事件
東京地方昭和三〇(ワ)第二九一四号
昭和三二(ワ)第四一七七号
昭和三八、一二、七 判決
原告 **** 外四名
被告 国
○主文
1、原告等の請求を棄却する。
2、訴訟費用は原告等の負担とする。
○事実
第一、原告等の申立
1、被告は原告****に対し、金三〇万円及びこれに対する昭和三〇年五月二四日より支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
2、被告は原告****に対し、金二〇万円及びこれに対する昭和三〇年五月二四日より支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
3、被告は原告****に対し、金二〇万円及びこれに対する昭和三〇年五月二四日より支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
4、被告は原告****に対し、金二〇万円及びこれに対する昭和三〇年五月二五日より支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
5、被告は原告*****に対し、金二〇万円及びこれに対する昭和三〇年五月二五日より支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
6、訴訟費用は被告の負担とする。
との判決及び仮執行の宣言を求める。
第二、被告の申立
主文と同趣旨の判決を求める。
第三、請求の原因
一、原子爆弾の投下とその効果
(一) 昭和二〇年八月六日午前八時一五分頃、アメリカ合衆国陸軍航空隊*****大佐の操縦する爆撃機B29は、アメリカ合衆国大統領H・S・トルーマンの命令により、広島市上空においてウラン爆弾と呼ばれる爆弾を投下した。ウラン爆弾は空中でさく裂(注:「さく」に傍点)し、一条の強烈な閃光とともに激しい爆風が起り、広島市内の建物は音をたてて倒壊し、市内は塵埃に包まれて暗黒となり、いたるところ猛火に包まれた。爆心地を中心とする半径約四キロメートル以内にいた人間は、みごもれる婦女も、乳房をふくむ嬰児も全く区別なく、一瞬にして殺害された。それ以外の地域でも爆発の特殊加害力によつて、身体にむごたらしい傷害をうけ、或は傷痕はなくても放射能を浴びて原爆症に罹り、その結果死んでゆく者が十数年後の今日でもなおあとを絶たない。
(二) 広島市に対する爆撃後、三日を経た同月九日午前一一時二分頃、同じく米国陸軍航空隊******少佐の操縦する爆撃機B・29は、長崎市上空においてプルトニウム爆弾と呼ばれる爆弾を投下した。プルトニウム爆弾は空中でさく裂(注:「さく」に傍点)し、直径約七〇メートルの火球を生じ、次の瞬間火球は急速に拡大して地上を叩きつけ、地上の一切の物質を放射性の物質に変えながら白煙となつた。これによつて長崎市においても、広島市におけると同様な破壊と、平和的人民に対する残酷きわまりない殺傷が発生した。
(三) 広島市に投下されたウラン爆弾及び長崎市に投下されたプルトニウム爆弾は、当時世界の人類にその存在も名称も知られていなかつたが、後に原子爆弾と呼ばれて、全世界の人々を恐怖の淵におとしいれた。この原子爆弾は、ウラニウム原子、プルトニウム原子の原子核分裂によつて生ずるエネルギー及びその連鎖反応によつて生じたエネルギーを光、熱、放射線、爆圧等として放出させ、その量及び質の点で人類の想像を絶した破壊力を有するのみならず、直接の破壊を受けないものに対しても熱輻射線によつて火災を発生させ、閃光火傷(火焰火傷とは異る。)をもたらすものである。それは爆心地を中心に半径約四キロメートルにわたつて必然的に無差別殺傷の結果をもたらし、爆風により建物を破壊し、更に放射線による原爆症を発生させて逐次死に到らしめる作用を有する。
(四) 広島市及び長崎市における原子爆弾による災害のうち、当時の死傷者は、別紙第一表のとおりである。しかしながら、原子爆弾投下後の惨状は、よく数字の尽すところではない。人は垂れた皮膚を襤褸として屍の間を彷徨、号泣し、焦熱地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻な様相を呈したのであつた。このように、原子爆弾の加害影響力は、旧来の高性能爆弾に比べて著しく大きく、しかも不必要な苦痛を与えることも甚だしく、その上その投下が無差別爆撃となることも必至であつて、極めて残虐な害敵手段である。
二、国際法による評価
原子爆弾の投下は、当時日本国と交戦国の関係にあつた米国によつてなされた戦闘行為であるが、それは当時の実定国際法(条約及び慣習法)に反する違法な戦闘行為である。
(一)(1) まず、セント・ペテルスブルグ宣言(一八六八年一二月一一日)は、文明国の進歩に伴つてできるだけ戦争の危機は制限されなければならず、戦争における唯一の正当な目的は敵の兵力を弱めることであり、その目的を達するためにはなるべく数多くの人を戦闘の外に置き、そして戦闘外に置かれた人の苦痛を無益に増大したり落命を必然とする兵器の使用はこの目的の範囲を超えるものであつて、このような兵器の使用は人道に反するものとして、締盟国相互が戦争をする場合には、軍隊又は艦隊をして四〇〇グラム以下で爆発性の、又は燃焼性の物をもつて充てた発射物の使用の自由を放棄することを約している。
(2) 次いで、一八九九年に制定されたヘーグ陸戦条規は、陸戦法一般に関する法典であるが、その第二二条において、特に禁止するものとして、毒又は毒を施した兵器の使用、不必要な苦痛を与える兵器、投射物その他の物質の使用を挙げ、第二五条において防守せざる都市の攻撃又は砲撃を禁じ、第二六条において砲撃の際は事前通告を必要とするものとし、また第二七条においては攻撃の目標は軍事目標に限るべきことを規定している。
(3) 第二回ヘーグ平和会議において採択された特殊弾丸(通称ダムダム弾)の使用禁止宣言(一九〇七年)、ジュネーブで採択された毒ガス等の禁止に関する議定書(一九二五年)の解釈からも、同様の結論が生ずる。
(4) そして、一九二三年の空戦法規案第二二条は、普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊し、非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃を禁止している。さらに、第二四条では、空中爆撃は軍事目標に対して行われた場合に限り適法とされ(一、二項)、軍隊の作戦行動の直近地域にない都市、町村、住宅建物に対する爆撃を禁じ、普通人民に対し無差別爆撃の結果となる場合は爆撃を避止すべきものとし(三項)、軍隊の作戦行動の直近地域についても、兵力がきわめて集中し、かつ、普通人民に与える危険と比較してみてもなお爆撃を正当とする場合に限り適法とし(四項)、以上に違反した交戦国は、身体又は財産上の損害について賠償金を支払わねばならないことを規定している(五項)。空戦法規案は実定法とはいえないが、その内容は条理国際法として、あるいは慣習国際法としてその効力を認めることができよう。なお、一九四八年に国際連合総会で採択された集団殺害の防止及び処罰に関する条約は、本件原子爆弾投下の後のものであるけれども、その内容は条理国際法として、それ以前から人類の間に存在するものであつて、それが後になつて明文化されたにすぎない。
(5) これらの戦闘行為に関する国際法は、当時の実定国際法として、原子爆弾についても当然適用されるものである。原子爆弾は新兵器であるからこれらを直ちに適用又は準用することが文理上困難であるとしても、関係条項を含む条文全体の立法精神に従つて、当該条項の適用又は準用をすべきものであつて、前記各条約が原子爆弾の出現によつて事情変更を理由として、その適用を排除され、或は無効になつたものとみるべきではない。仮にこれらの実定国際法がそのまま適用又は準用されないとしても、その精神は自然法ないし条理国際法としての効力を有するものといわなければならない。
(二)(1) 原子爆弾が絶大な破壊力を有し、広島市及び長崎市に対する原子爆弾の投下によつて、現実に爆心地より半径四キロメートルの範囲では、戦闘員であると、非戦闘員であるとを問わず、無差別に殺傷するという結果をもたらしたことは、既に述べたとおりである。原子爆弾のかような効果については、米国において大統領トルーマンをはじめ、その研究及び製造に関係した人々の間では、周知の事実であつた。そして、当時広島市及び長崎市は、日本国の戦力の中心地でもなければ、重要な軍事基地でもなく、また占領に対して抵抗するいわゆる防守地域でもなかつた。従つて、広島市及び長崎市に対する原子爆弾の投下行為は、いわゆる無差別爆撃であつて、ヘーグ陸戦条規第二五条、第二六条、第二七条の明らかに定めているところに違反し、空戦法規案第二二条、第二四条にも違反すること明らかである。
(2) また原子爆弾の加害力による人体に与える苦痛の著しいこと及びその残虐なことは、ヘーグ陸戦条規第二三条で禁止されている毒又は毒を施した兵器の使用よりはなはだしいものがあり、ダムダム弾禁止宣言、毒ガス等の禁止に関する議定書の解釈からも当然違法とされるべきである。
(3) 当時日本国は原子爆弾を有しないことはもちろんであり、その敗戦が必至であることは一般のみるところであつて、それはもはや時期の問題とされていた。従つて、原子爆弾の投下は日本国の戦力破砕の目的に出たものではなくて、日本の官民の闘争心を喪失させるための威嚇手段であつて、米国の防衛手段に出たものでもなければ、また報復の目的に出たものでもない。このことは、当時ジエイムズ・フランク教授を委員長とする七人の科学者から成る原子力の社会的政治的意義に関する委員会が、陸軍長官に対し日本に対する原子爆弾投下に反対する勧告を行つたことからも明らかである。それとともに原子爆弾の研究及び製造計画に関与した六四名の科学者からも、同委員会の報告と同趣旨の請願書が大統領宛に提出されたが、これらの報告及び請願は無視され、原子爆弾は無警告で広島市及び長崎市に投下されたのである。
(三) 被告は、原子爆弾の投下が国際法に違反するかどうか直ちに断定し難いと述べ、その理由として原子兵器の使用について実定国際法が存在しなかつたことを主張し、かつ、ヘーグ陸戦条規等の条約の解釈から導き出せないと主張しているが、国際法の解釈に関する一般的原則として論理解釈は許されるのであるから、被告の主張は理由がない。日本国政府は昭和二〇年八月一〇日スイス政府を通じて米国政府に対し、別紙第三表の抗議文を提出している。被告の現在の見解は交戦国という立場をはなれて客観的にみた結果であるというが、それでは当時の日本国政府は正当な国際法の解釈をしなかつたことになるのであろうか。原告等は、むしろ短時間のうちに国際法の真髄を捉えて世紀に残る大抗議をしたことを、日本国民として名誉にさえ考えているのである。また、被告は戦争においては敵国を屈伏させるまでは、限定された明示の禁止手段以外ならば、いかなる手段でも用いることができるという見解のようであるが、それは死の商人ならぬ死の政治家の言であつて、きわめて遺憾である。
三、国内法による評価
原爆投下行為は、以上に述べたように国際法に違反するものであるが、それは同時に国内法にも違反する。
(一) およそ、殺人が不法行為であることは、人類普遍の原理であつて、いかなる国の法律にもとり入れられている。ただ殺人が戦闘行為として行われ、それが国際法上適法な戦闘行為とされた場合には、本来不法行為である殺人がその限りに於て国内法上違法性を阻却され、不法行為責任を免れる余地があるに過ぎない。国際法の適用を受ける行為については、すべて国際法によつて処理され、いかなる場合にも国内法による評価が一切許されないということはあり得ない。原爆投下行為は国際法違反であるから違法性を阻却されず、従つて国内法上不法行為を構成するものである。
(二) この場合、不法行為責任を負うものは、米国及び原爆投下を命じた大統領トルーマンであるが、これらに対して損害賠償を請求するためには、米国連邦地方裁判所に訴を提起しなければならない。ところで、この場合適用される準拠法は、米国国際私法によつて定まるが、不法行為の場合は不法行為地であり、それが二国にまたがる場合は結果発生地の法律が適用されることは疑ない。従つて準拠法は結果発生地である日本法であり、当時の日本法によれば、国家機関構成員が行つた不法行為については、国家は不法行為責任を負うとともに、構成員自らもその責任を免れ得ないことは明らかである。
(三) 被告は統治行為の理論を持ち出して原爆投下行為を司法審査の対象から排除しようと試みている。なるほど宣戦布告行為などは統治行為といえるであろうが、個々の戦闘行為が統治行為となるいわれはない。いわゆる統治行為論は、統治行為が基本的人権と衝突する場合に、司法審査がここに足を踏み入れえないとしたものであることは、その発生史的経過から明らかである。
(四) また被告は英国法の古めかしい国王無答責の理論を持ち出しているが、このような理論が米国に継受されていないことは、米国の独立宣言をみるだけで十分であろう。仮にこの理論が適用の余地があるとしても、これには合理的な制限が付されなければならず、地球を蒸発させ人類の滅亡を可能ならしめるとさえいわれている原子爆弾の使用には、この免責理論が適用されないことは、いうまでもない。本訴は、原爆のもつ恐るべき破壊力を、冷静に正確に真面目に認識するところから、出発しなければならないのである。
四、被害者の損害賠償請求権
(一) 米国の原子爆弾投下行為が国際法に違反することは、前述のとおりであるが、国際法違反の行為については、被害をうけた国家だけでなく、個人もまた国際法上の権利主体として、国際法上損害賠償請求権を有するものである。このことは、日本国との平和条約(以下「対日平和条約」という。)第一九条(a)において、「日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄」すると規定し、日本国民個人の連合国(この場合は米国)に対する権利の存在を前提としていることからも明らかである。
(二) 被告は、原告等の主張する損害賠償請求権は観念的なものであつて実現手段をもたないものであるから権利ではないと主張する。もし被告の主張する考え方が認められるならば、戦時国際法は全面的に否定されることになるのであつて、どれほど使用を禁止されている兵器を用いても、勝てば違法の追求を免れ、国際法を守つていても、敗れれば相手国の違法を追求できないということになり、従つて勝つためには使用を禁止された兵器も使用せざるをえないということを肯定する理論となる。自ら行使の手段を有しない権利は権利でないという被告の理論は、独断以外の何ものでもない。
原告等の権利は日本国によつて行使されるのであつて、民主国家は国民のためにあるのだから、自国の政府がこれを行使することができれば、それで十分であろう。自国の政府が国民のために働かないことを前提として、国際法上の権利を考えねばならないとするのは、あまりにも情ない理論だといわなければならない。
(三) また、被告は原告等の主張する国際法上の請求権が講和条約締結前は法律以前の状態であること、また敗戦国の側から被害者の賠償請求が実現されたことは、歴史上にその例がないこと、などを挙げて、原告等の請求権は存在しないと主張する。しかし、権利はその本質上、抽象的な存在であつて、一国の法規範又は国際法規範の適用によつて存在が確認されるが、その実現は或は武力により、或は経済力により、種々の力関係の支配するところであつて、これによつて権利の存在が左右されるものではない。
五、対日平和条約による請求権の放棄
(一) 対日平和条約第一九条(a)は、「日本国は戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及び日本国民のすべての請求権を放棄し」た旨を定めている。日本国はこの規定によつて米国及びトルーマンに対して有していた国際法上の請求権はもちろんのこと、これらに対する国内法上の請求権もあわせて、放棄してしまつた。その結果、原告等は米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を法律上全く喪失したのである。
(二) 被告は、日本国と日本国民とは人格が異るから、国家が国民個人の請求権を放棄することはできないと主張する。仮に論理上そう考えられる余地があるとしても、対日平和条約第一九条(a)の規定の存在することにより、米国国内においては、条約は通常の法律と完全に同等の効力を有するものであるから、原告等の損害賠償請求権が裁判上認められることはないであらう。またこれにより、米国で訴訟を提起しようとしても、米国国内で弁護士の協力を得難く、米国世論の同調を受け難く、日本国内における協力者を得ることも、はなはだ困難である。従つて、原告の提訴は事実上ほとんど不可能であり、原告等は請求権を喪失したといつてもさしつかえない。
六、請求権の放棄による被告の責任
(一) およそ民主国家においては、政府は国民の権利を最大限に尊重しなければならない義務を負うものである。被告が米国と対日平和条約を締結し、その第一九条(a)の規定に基いて原告等の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことは、違法行為であつて、条約の締結は公権力の行使といつて妨げない。従つて、これによつて請求権を失い損害を被つた原告等に対して、被告は国家賠償法第一条の規定により、原告等に対してその被つた損害を賠償する責任を負うものである。
(二) のみならず、講和条約締結の交渉に当つては、原子爆弾の投下による損害賠償請求権は高く評価されたと考えられ、従つてこの権利は日本国の米国に対する損害賠償の一部に充てられたものと解すべきである。日本国はこの権利を放棄することによつて、平和条約の他の面で利するところがあつたに相違ない。たとえ、明白な表現による外交交渉がなされなかつたとしても、米国の良心、世界人類の良心は必然的にこれを平和条約の差引計算に組み入れたであらうし、それ故にこそ被告は故意にこの請求権を放棄したのである。従つて被告は、原告等の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄することによつて、原告等の私有財産を一方的に公共のために用いたものというべきであつて、日本国憲法第二九条第三項の規定に従い、原告等に対して正当な補償をする義務を負うものである。
(三) 仮に憲法の前記規定によつて直ちに、補償請求権が生ずることなく、しかも、補償に関する法律上の措置がないとの理由で、原告等に、補償請求権がないとしても、原告等は被告に対し同様の内容の損害賠償請求権を有する。すなわち、被告が対日平和条約の締結によつて原告等の有する損害賠償請求権を無償で放棄したにもかかわらず、その補償措置を講ぜず、原告等の権利を侵害している。従つて、これが不法行為を構成することはいうまでもないから、被告は原告等に対して損害を賠償すべき責任がある。
(四) 被告は、仮に対日平和条約第一九条でこれらの請求権が放棄されたとしても、原告等は被告に対し、補償請求権を有しないと主張し、その理由として、まず原告等の請求権が法律以前の抽象的なものであつて、しかも敗戦国側から講和に際して当然放棄されるべき運命にあること、従つてこれが憲法にいう財産権に該当しないこと、憲法第二九条はそれ自体で国民が国に対して具体的な補償請求権を有することを定めたものではなく、収用に関する法令に補償措置を具体的に規定する旨を命じているにすぎないことを挙げている。しかし、請求権の存在については、被告は力関係の主張をしているにすぎず、その存在自体までも左右されるものではない。また補償に関する具体的な法的措置がなされなければ、補償請求権を生じないというのも誤である。なぜならば、私有財産の使用又は収用がなされる以前には、使用又は収用の規定とこれに対する補償措置とを不可分に規定することにより、財産権不可侵の目的を達しうるけれども、対日平和条約第一九条(a)によれば、条約締結と同時に米国に対する賠償に充当され、収用されてしまつたのであるから、収用に関する法律を設ける余地はない。このように、国が一方的に国民の私有財産を公共のために用いておきながら、補償に関する法律がないからといつて、その補償を拒むことができるすれば、没収にも等しく、日本国憲法の基本理念である人権の尊重と相去ることはなはだしい。
(五) また、被告は原子爆弾投下の被害者に対する慰藉の途は他の一般の戦争被害者に対するそれとの権衡からして、国の財政状況等を勘案して決定しなければならないし、この措置を立法上、財政上講ずべきか否かは、法律問題ではなくて政治問題にほかならないから、立法上このような措置のとられない現在では、被告は原告等に対して補償又は賠償をすべき義務はない、と主張する。しかし、これまで述べてきたように、本件は日本及び米国の各国国内法ならびに国際法の基礎のうえに立つものであつて、決して政治問題ではない。
原告等は日本国政府が速かに立法上、財政上の適当な措置を講ずることを希望するものであるが、これはあく迄も、被害者の国に対する権利を確認したうえでされるべきであつて、根拠なき救済とは種類を異にする。原子爆弾による被害が全く人類に対する反逆といわれる最も残虐な被害であることに鑑み、これに対する、補償ないし賠償は第一位に置かるべきであり、現在国の財政はこれを不可能とするものではない。
七、原告等の損害
(一) 原告****は広島被爆当時四七才であつて、広島市**町***番地に家族とともに居住し、小工業を自営していた健康な男子であつたが、被爆により長女***(当時一六才)三男*(当時一二才)次女***(当時一〇才)三女**(当時七才)四女**(当時四才)は爆死し、原告、その妻**(当時四〇才)及び四男**(当時二才)は爆風、熱線及び放射線によつて傷害をうけた。原告は現在右手上膊部にケロイドを残して機能障碍があり、また腹部から左背部にわたつてもケロイドがあり、毎年春暖の時節には化膿し、腎臓及び肝臓にも障害があつて、現在全く職に就くことができない。妻**は全身倦怠感、脱力感、頭痛に悩み、四男**は潜在的原爆症の症状がときどきあらわれる。このような状態のため、一家は収入の途なく、わずかに米国ホノルル在住の原告の実姉から毎月少しづつ送金、送品の援助をうけて、辛うじて生命を保つている。
(二) 原告****は被爆当時広島市**町*丁目***番地に居住し、****株式会社の社員であつた夫とともに健康で幸福な生活を営んでいたところ、爆風、熱線及び放射線により、顔、肩、胸、足にむごたらしい傷害をうけ、ケロイドを残し、現在も身体に疼痛があつて日雇労働も続かず、また夫は容貌の醜さを嫌つて家を出たまま行方不明であるため、生活扶助をうけてはかない日々を送つている。
(三) 原告****は長崎市被爆当時五四才であつて、同市**町*丁目**番地に家族を残し、昭和一九年五月頃より単身*****株式会社本店に勤務のため、東京都*区***町**番地に家族と離れて居住していた。ところが被爆により、妻**(当時四八才)、二女**(当時二二才)、三女**(当時一九才)、四女**(当時一六才)、五女**(当時一四才)の家族全員が爆死し、原告のみが唯一人残されるという人生最悪の悲惨な結果をみるに至つた。
(四) 原告****は広島市被爆当時、同市*町***番地に家族とともに居住していたが、原告は当時妻***とともに山口県**郡**村に松根油製造を営んでいた。そのため被爆により養女***(当時二四才)、その夫**(当時二六才)及びその長男**(当時一才)の三人が爆死し、原告と妻***だけが生き残り、肩書地の親族宅ではかない余生を送つている。
(五) 原告*****は広島市被爆当時一四才で、同市**町*丁目で父母兄弟姉妹とともに健康な生活を営んでいたが、被爆のため爆風による家屋倒壊によつて顔面に傷害をうけ、左腕も負傷し、その傷跡は現在もなお残つている。また同市***の****勤務中の父**(当時五〇才)はその勤務先で、母***(当時四〇才)は隣組の勤労奉仕中、被爆のため爆風、熱線及び放射線によつて傷害をうけ、入院加療も空しく、母は翌二一年七月八日、父も同年一一月二〇日死亡するに至つた。両親をなくした原告ら幼い遺族は、売り食いにその物もなくなり、生活に窮し親族に引きとられ扶養を受け、殊に妹**は養女にゆくなど姉妹も分れ分れの生活をしなければならない悲惨な生活を送つている。
八、損害賠償の請求
(一) ここに原告****は一男四女の爆死によつてうけた悲痛極まる精神的苦痛に対する慰藉料、原告自身の受けた傷害に基く財産的損害及び精神的苦痛の慰藉料のうちより被告に対し金三〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和三〇年五月二四日より支払ずみまで年五分の割合による損害金の支払を請求する。
(二) 原告****は傷害により受けた財産的損害及び名状し難い苦悩による慰藉料の合計額のうち金二〇万円及び前項と同様の損害金の支払を請求する。
(三) 原告****は、妻及び四子の爆死によつて被つた悲痛極る精神的苦痛に対する慰藉料のうち金二〇万円及び第一項と同様の損害金の支払を請求する。
(四) 原告****は家族の爆死によつて被つた悲痛極る精神的苦痛に対する慰藉料のうち金二〇万円及びこれに対する、本件訴状送達の翌日である昭和三〇年五月二五日より支払ずみまで年五分の割合による損害金の支払を請求する。
(五) 原告*****は傷害によつてうけた財産的損害及び苦悩による慰藉料ならびに父母の死亡による精神的苦痛に対する慰藉料のうち金二〇万円及び前項と同様の損害金の支払を請求する。
第四、 被告の答弁
一、原子爆弾の投下とその効果
原告等の主張するとおり、広島市及び長崎市に対して米国陸軍爆撃機により、いわゆる原子爆弾が投下され、そのさく裂(注:「さく」に傍点)の結果多数の人々を殺傷したことは認めるが、昭和二三年五月の経済安定本部の調査によれば、軍関係者を除く死傷者の数は別紙第二表のとおりである。
二、国際法による評価
原子爆弾の投下は、必ずしも国際法違反であるとは断定し難い。
(一) 原子核分裂によるエネルギーを利用する害敵手段である原子兵器は、第二次世界大戦の後半に発明されたもので、それが広島市及び長崎市に対して使用されるまでは、世界人類によつてまだ一般に知られていなかつた。従つて、当時原子兵器による害敵手段を禁止し、又は許容することを明言した条約はなく、またこの新兵器についての国際慣習法は全くなかつたから、原子兵器に関する実定国際法は存在しなかつたというべきであり、実定国際法違反という問題は起りえない。原告等の挙げるヘーグ陸戦条規その他の条約は、本来原子兵器をその対象とするものではないから、これらの趣旨を拡大解釈することもできない。また空戦法規案及び集団殺害の防止及び処罰に関する条約は、原子爆弾投下当時いずれも条約として成立していないから、実定法としてその存在を認めることができず、これを国際法の法源とすることはできない。
(二) 従つて、原子爆弾投下が国際法に違反するか否かの問題は戦時国際法の法理に照して決定さるべきものである。由来戦争は国際法の見地からみれば、国家がその敵国を降すため、すなわち敵国をして自己の意思の前に屈服させ、自国の提案する条件を容れて和を乞う決意をさせるため、必要と認められるあらゆる手段を行使することを認められた状態である。この手段として第一に考えられることは、敵国の兵力の撃破であるけれども、敵国の戦闘継続の源泉である経済力を破壊することも、また敵国国民の間に敗北主義を醸成することも、敵国の屈服を早めるために効果があり、これらの目的を達するために必要な手段が行使される。国際法上交戦国は中世以来、時代に即した国際慣習及び条約によつて一定の制約をうけつつも、戦争という特殊目的達成のため、害敵手段選択の自由を原則として認められてきた。
広島市及び長崎市に対して投下された原子爆弾は、破壊力においてまことに巨大であつて、その被害のはなはだしかつたことはまさに有史以来のものであり、そのため非戦闘員たる日本国民に多数死傷の結果を生じたことは誠に痛恨事とする次第である。しかしながら、広島市及び長崎市に原子爆弾の投下されたことを直接の契機として、日本国はそれ以上の抵抗をやめ、ポツダム宣言を受諾することになり、かくして連合国の意図する日本の無条件降伏の目的が達成され、第二次世界大戦は終結をみるに至つたのである。このように原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによつて生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をもたらした。かような事情を客観的にみれば、広島長崎両市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を下し難い。のみならず、その後も核兵器使用禁止の国際的協約はまだ成立するに至つていないから、戦時害敵手段としての原子爆弾使用の是非については、にわかに断定することはできないと考える。
(三) なお、日本政府は、原子爆弾の投下に対して、昭和二〇年八月一〇日スイス政府を通じて米国政府に対して、即時原子兵器の使用を中止すべきことを厳重に要求した公文を発し、その公文の内容は原告等の主張されるとおりである。しかし、これは当時交戦国として新型爆弾の使用が国際法の原則及び人道の根本原則に反するものであることを主張したのであつて、交戦国という立場をはなれて客観的にみるならば、必ずしもそう断定することはできない。
三、国内法による評価
原爆投下行為については、国際法による評価を受けることは別として、国内法による評価を受けるものではない。
(一) 戦争は主権国家間の利益紛争の解決手段であつて、国家は自国ないし自国民の利益のために戦争に従事する。従つて、かような戦争を構成する個々の行為の適法性はもつぱら国際法によつて評価され、違法とされる行為の責任は講和条約により当事者間で合意解決されるべきであつて、当事国がこれについて国内法により直接相手国民に対して損害賠償の責に任ずるものではない。
(二) 米国内法においては、司法権の限界として重要な政治権力の行使については、裁判所はその審査を拒否し、行政府の判断に委ねるべきものとしている。米国大統領トルーマンが原爆を使用したのは、戦争に勝利をおさめるため、その軍事的効果と政治的効果とをねらつたものであつて、裁判所がこれについて違法の判断をする限りではない。これはいわゆる統治行為理論の当然の帰結である。
(三) 仮に原爆投下行為について米国国内法の適用があるとしても、米国では当時英国法における国王の無答責の原則と同様な国家免責の法理があり、連邦や州の公務員が公務執行中に私人に対して不法行為をしても、被害者は連邦、州及びその公務員に対して損害賠償を請求する権利を認められていなかつた。
(四) また、原告等の主張するように、米国国際私法により日本法の不法行為が適用される余地もない。牴触法の観点からすれば、国家は事件の性質上外国法の適用が自国の利益に反するときは、その適用を拒むのが原則である。従つて、法廷地法である米国法において国家及び公務員が責任を負わない以上、その範囲において法廷地法が累積的に適用されることは、牴触法上認められる原則である。
四、被害者の損害賠償請求権
原告等の米国に対する損害賠償請求権は、原子爆弾の投下が国際法違反といい難いことから、当然にこれを否定すべきであるが、仮に原告等のいうような前提をとつても、原告等は損害賠償請求権を有することにはならない。
(一) 原子爆弾投下によつて生じた被害について、損害を賠償しなければならないのは米国であるが、米国に対し損害賠償を請求しうる地位にあるものは、日本国であつて、原告等個人ではない。何となれば、個人は原則として国際法上の主体となりえないし、また一部の学説が説くように、時として個人が国際法上の主体となることがあるにしても、それは条約そのほかの国際法にその趣旨の規定があるとか、個人に国際司法裁判所に対する出訴権が認められた場合に限られる。 従つて、一般的に戦争に関する国際法規にそのような規定もなく、またいかなる個人も国際司法裁判所へ出訴権を認められていない現在では、原告等に国際法上の権利として損害賠償請求権の発生するいわれはない。このような国際法違反の場合には、被害者の属する国が加害国に対して損害賠償請求権を行使することになるのであるが、この場合の請求権は、国が被害者個人に代つて行うのではなく、被害者の属する国自体が自らの立場でするものであつて、その結果として賠償をえても、これを被害者に分配するかどうか、またその分配額をいくらにするか等は、その国が独自に決定するのである。
(二) 仮に何らかの理由で、原告等に損害賠償請求権が生ずるとしても、この請求権は到底実現の見込のない観念的なものといわなければならない。すなわち、この請求権は国際法上のものであるから、その実現には、まず外交交渉に依りそれで話し合いがつかなければ国際司法裁判所へ出訴するという方法を講ずべきであるが、国民個人としては外交交渉の権能はなく、国際司法裁判所への出訴権もないから、それは権利として実行さるべき手段もないし、その可能性も備えていないものといわなければならない。従つて、かゝる権利があるとしても、それは講和条約において相手国がこれを承認し、具体的なとりきめがなされてはじめて現実の問題となるのであつて、それはむしろ講和条約そのものに由来する権利というべきであり、講和条約で具体的とりきめがされない間は、法律以前の状態である。しかも古来敗戦国より戦勝国に対して、戦勝国の国際法違反の行為から生じた損害について賠償を要求し、またそれが実現されたことは歴史上例がない。戦勝国といえども講和条約によつて敗戦国から一定金額ないし一定役務の賠償をうけるほか、その余の請求は一切行わないことが、古くからの国際慣例となつている。従つて仮に原告等の主張する請求権があつたとしても、講和条約とともに当然消滅すべき運命にあつたものといわなくてはならない。
五、対日平和条約による請求権の放棄
対日平和条約第一九条(a)の規定によつて、日本国はその国民個人の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことにはならない。
(一) 国家が個人の国際法上の賠償請求権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利を国家が外国との合意によつて放棄できることは疑ないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異るから、国家が外国との条約によつてどういう約束をしようと、それによつて直接これに影響は及ばない。
(二) 従つて対日平和条約第一九条(a)にいう「日本国民の権利」は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。日本はその国民が連合国及び連合国民に対し請求権を行使することを禁止するために、必要な立法的、行政的措置をとることを相手国との間で約束することは可能である。しかし、イタリアほか五ケ国との平和条約に規定されているような請求権の消滅条項及びこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民自身の請求権はこれによつて消滅しない。従つて、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日平和条約により放棄されたものではないから、何ら原告等が権利を侵害されたことにはならない。
六、請求権の放棄による被告の責任
(一) 被告は国家賠償法による損害賠償を負う義務はない。もともと原告等の請求権は権利たるに値せず、敗戦国の側から講和に際して当然放棄さるべき宿命にあつたから対日平和条約の締結は何ら権利の侵害とはならない。のみならず、たとえ平和条約の内容が国内法体系からみてこれにそぐわないものがあるとしても、条約そのものを違法とすることはできない。敗戦国にとつて講和条約が憲法上の禁止条項に牴触し、又は憲法上適法な手続がとりえないため、条約を締結することができないとすれば、講和を行うことができなくなり、その結果戦争の遂行能力あるかぎり最後まで戦わなくてはならなくなる。従つて、講和条約については、たとえ違憲の疑があるとしても、革命の場合と同様、一つの既成事実として裁判所その他の国家機関はこれを認めなければならないとされ、あるいは国家非常の観念から、戦時にあつては条約締結権は憲法に拘束されないとされ、あるいはまた国際法優位論を適用して講和条約が憲法上の諸権力に対して一つの優先力をもつものとされてきた。対日平和条約に際しても、敗戦国日本の立場は、これと異るところはない。対日平和条約は、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした日本国がその独立を回復するために、「強制されて欲した」国際的合意であるから、その内容において日本国憲法の保護する国民の権利に消長をきたす条項が規定されているとしても、これを目して違法なものと断ずることはできない。
(二) 仮に原告等にその主張するとおりの請求権があり、それが対日平和条約第一九条(a)の規定により放棄されたとしても、憲法第二九条の規定に基いて補償請求権が生ずるものではない。憲法第二九条は国民に直ちに具体的な補償請求権を与えるものではなく、国民が国に対して具体的補償請求権を有するのは、当該事項に関する法令により、具体的な規定が設けられてはじめて可能となる。いい換えれば、憲法は国が公共のために私有財産を使用し、又は収用する場合には、これに対する補償措置を具体的に規定すべきことを命じているにすぎないのであつて、憲法が直ちに国民に対して具体的請求権を与えるわけのものではない。従つて、法令が補償措置を設けずに私有財産を使用し、収用しうることを定めた場合に、その法令が違憲として無効とされることはあつても使用、収用をうけた国民の側からは、直ちに憲法の規定に基いて、国に損失補償を請求することは許されない。本件においても、原告等が条約と憲法とに基いて、直ちに補償を請求することは許されないと考える。
(三) 今次の戦争において、世界人類の経験しなかつた原子爆弾のさく裂のもとにおかれた人達に対して、被告は深甚の同情を惜しむものではないが、これらの人達に対する慰藉の途は、他の一般戦争被害者に対するそれとの均衡や、国家の財政状況等を勘案して、決定しなければならない。かような措置を立法上、財政上講ずべきか否かは、法律問題ではなくて政治問題である。
このことは国家が外交保護権を行使して、相手国より賠償金をえた場合でも同様であつて、それを被害者に分配するかどうか、また分配するとしてもその方法如何については、国家が独自に決定してよいのである。それは国内政治の問題、又は立法の問題とはなり得ても、被害者が当然に賠償請求権を取得するものではない。従つて、立法上かかる措置のとられていない現在においては、被告は原告等に対し補償又は賠償をする義務はないし、またそれを講じていないからといつて、これを直ちに民法上の不法行為とすることはできない。
七、原告等の損害
原告等の被害状況及びこれによつて被つた損害については知らない。
証拠(省略)
○理由
一、 原子爆弾の投下とその効果
(一) 次の事実は、当事者間に争がない。
昭和二〇年八月六日午前八時一五分頃、米国陸軍航空隊*****大佐の操縦する爆撃機B29が、米国大統領H・S・トルーマンの命令により広島市上空でウラン爆弾を投下し、同月九日午前一一時二分頃、米国陸軍航空隊******少佐の操縦する爆撃機B29が、トルーマンの命令により長崎市上空でプルトニウム爆弾を投下した。これらの爆弾(以下「原子爆弾」という。)は空中でさく(注:「さく」に傍点)裂し、閃光とともに激しい爆風が起り、広島市においても、長崎市においても、市内のほとんどの建物は倒壊し、同時にいたるところで火災が発生し、爆心地から半径約四キロメートルの範囲内に居た人々は老若男女の区別なく一瞬にして殺害された。そして、それ以外の地域にいた人々も、あるいは閃光によつて皮膚に火傷を負い、あるいは放射線を浴びていわゆる原爆症に罹つたものが多数に及び、軍関係者を除いて広島市においては少くとも死者七万人以上、負傷者五万人以上、長崎市においては死者二万人以上、負傷者四万人以上を出すに至つた。
(二) それでは原子爆弾の爆発とはいかなるものか。この点については、理論上も疑問の余地なく解明されているし、多くの実験の結果もあり、これらは科学者の手によつて何人も容易に利用できる資料にまとめられている。そこで以下サミユエル・グラストン「核兵器の効果」(米国原子力委員会刊行)(邦訳「原子力ハンドブツク爆弾篇」)によつて、簡単にその原理を述べる。
ウラン235又はプルトニウム239の原子核内に自由な中性子が入ると、その原子核が二つに分裂するが、その際多量のエネルギーが放出される。そして同時に、その核分裂反応によつて二個以上の中性子が放出され、この放出された中性子は次のウラン235又はプルトニウム239の原子核内に入り、その核分裂反応を起す。この二回目の核分裂によつて放出された中性子は同じようにして次の反応を起し、原子核が多量にあるならば、核分裂反応は連鎖的に生じてゆく。その際放出された中性子の一部は外に逃げ出したり、核分裂でない原子核反応で失われたりするが、その損失はウラン235又はプルトニウム239の量を増すことによつてまた周囲に反射体を置いて中性子を反射させることによつて、相対的に減らすことができるので、ウラン235又はプルトニウム239の量を臨界量以上にすることによつて核分裂反応は連鎖的に発生しエネルギーが蓄積されて、ついに爆発が生ずる。爆発に至るまでの時間は極めて短時間であり、その際放出されるエネルギーは莫大なものであつて、一ポンドのウラン235又はプルトニウム239が完全に核分裂を起すと、一秒よりもはるかに短い時間内にTNT爆弾九、〇〇〇トンの爆発に相当するエネルギーが発生する。広島、長崎に投下された原子爆弾は、TNT爆弾二〇、〇〇〇トンと同量のエネルギーを放出するものであつたが、現在ではメガトン級の発生エネルギーをもつはるかに強力な兵器が出現している。
(三) 次に、原子爆弾の爆発によつて生ずる効果を、前記著書に従つて略述する。
第一の効果は爆風によるものである。原子爆弾が空中で爆発すると、直ちに非常な高温、高圧のガスより成る火の玉が生じ、周囲の空気をまきこみながら上昇する。火の玉からは直ちに高温高圧の空気の波(衝撃波)が外側に押し出され、急速に四方にひろがり、地表に達すると、地上の建物その他の建造物をあたかも地震と台風とが同時に発生したのと同様な状態で破壊し去る。その影響の及ぼす範囲も広汎であつて、長崎では爆心地より一・四マイル以内の家屋は瓦壊し、一・六マイル以内でもかなりひどい損害を受け、一・七マイルの地点でも屋根や壁に損傷を受けた。
第二の効果は熱線によるものである。原子爆弾の空中爆発によつて火の玉がつくられると、高温の熱と光から成る熱線を放射しはじめる。熱線は可視光線、赤外線のみならず、紫外線をも含み、光と同じ速度で地表に達すると、地上の燃え易い物には火災を発生させ、人の皮膚に火傷を起させ、状況によつては人を死に導く。広島と長崎とでは、死亡者の二〇ないし三〇パーセントは火傷によるものと推定され、長崎では爆心地より二・五マイル離れた地点で熱線による火傷が記録されている。
通常の高性能爆弾(TNT爆弾)の効果が主として爆風による破壊であるのに対して、原子爆弾は熱線による火災ないし火傷の効果をあわせもつ点において、兵器としての特異性を有する。
第三の、そして最も特異な効果は、初期核放射線と残留核放射能によるものである。原子爆弾の爆発後一分以内に放射される放射線は、中性子、ガンマ線、アルフア粒子及びベータ粒子より成り、初期核放射線と呼ばれる。そのうちガンマ線と中性子とは長距離の飛程を有し、これが人体に当るとその細胞を破壊し又は損傷を加え、放射線障害を生ぜしめて原子病(原爆症)を発生させる。原子病は人間の全身を衰弱させ、数時間後ないし数週間後に人を死亡させる病気であつて、幸にして生命をとりとめてもその回復には長期間を必要とする。その他放射線の照射によつて、白血病、白内障、子供の発育不良等を生じさせ、その他身体の諸器官に種々の有害な影響を与え、遺伝的にも悪影響を生じさせる。
次に爆発してから一分以後に、主として爆弾の残片から放射される放射線は、残留核放射線と呼ばれるが、これらの残片は微粒となつて大気中に広く拡がり、水滴に附着して放射性の雨を降らせ、或いはいわゆる死の灰となつて地上に舞いおりる。この放射線の人体に及ぼす効果は、ほゞ初期核放射線と同様である。
(四) このように、原子爆弾は、広島、長崎に投下された小規模のものであつても、わずか一発の爆弾によつて、二〇、〇〇〇トンのTNT爆弾に相当するエネルギーを放出し、その爆風による破壊力と殺傷効果は、従来の爆弾とはとうてい比較にならぬほどの著るしいものがある。しかも、爆風による破壊力は、原子爆弾の性能の一部(エネルギーの約五〇%)に過ぎないものであつて、熱線(エネルギーの約三五%)による焼夷効果と殺傷効果はTNT爆弾に見られない特異なものがあり、広島と長崎とにおける死亡者の二〇パーセントないし三〇パーセントが火傷によるものとされる点にその強烈な力を知ることができる。しかしながら、それにもましてわれわれに恐怖の念を起させるのは、原子爆弾によつて生ずる放射線ないし放射能であつて、それによつて起る原子病、白血病その他各様の身体障害の恐ろしさは、既にわれわれが見聞しているところである。
このように破壊力、殺傷力において、従来の兵器よりはるかに大きいだけでなく、人体に種々の苦痛ないし悪影響をもたらす点において、原子爆弾は従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器であるといわなければならない。
二、 国際法による評価
(一) このような性質と効果を具有する原子爆弾が、いわゆる核兵器として、国際法上許される兵器であるかどうかは、国際法上重要なそして極めて困難な問題であることに疑いはない。しかしながら、本件においては、米国が広島市及び長崎市へ原子爆弾を投下した行為が、当時の実定国際法によつて違法とされるかどうかが争点なのであるから、この点に限局して考察すればそれで十分である。
(二) まず、前記原子爆弾投下行為が実定国際法上いかなる評価をうけるかを判断する前提として、一九世紀後半より近代諸国家間において、戦争、とりわけ、戦闘行為に関して、どのような国際法が存在したか、という点から考察を始める。
本件に関係のあるものを、年代順に列挙すれば、次のとおりである。
一八六八年 四〇〇グラム以下の炸裂弾及び焼夷弾の禁止に関するセント・ペテルスブルグ宣言
一八九九年 第一次ヘーグ平和会議において成立した陸戦の法規及び慣例に関する条約、ならびにその付属書である陸戦の法規慣例に関する規則(いわゆる陸戦条規)。
炸裂性の弾丸に関する宣言(いわゆるダムダム弾禁止宣言)。
空中の気球から投下される投射物に関する宣言(いわゆる空爆禁止宣言)。
窒息性又は有毒性のガスを撒布する投射物に関する宣言(いわゆる毒ガス禁止宣言)。
一九〇七年 第二次ヘーグ平和会議で成立した陸戦の法規及び慣例に関する条約(第一回ヘーグ平和会議の同名の条約を補修したもの。)
空爆禁止宣言。
一九二二年 潜水艦及び毒ガスに関する五国条約。
一九二三年 空戦に関する規則案(空戦法規案)。
一九二五年 窒息性、毒性又はその他のガス及び細菌学的戦争方法を戦争に使用することを禁止する議定書(毒ガス等の禁止に関する議定書)。
(三) 以上に掲げた諸法規をみると、第二次大戦中に出現した新兵器である原子爆弾の投下について、直接には何の規定も設けていない。
被告はこの点をとらえて、原子爆弾の使用については、当時それを禁止する慣習国際法規も条約も存在しないし、国際法規で明らかに禁止していないから、この意味で実定国際法違反の問題は起り得ないと主張する。
もとより、国際法が禁止していないかぎり、新兵器の使用が合法であることは当然である。しかしながら、そこにいう禁止とは、直接禁止する旨の明文のある場合だけを指すものではなく、既存の国際法規(慣習国際法と条約)の解釈及び類推適用からして、当然禁止されているとみられる場合を含むと考えられる。さらに、それらの実定国際法規の基礎となつている国際法の諸原則に照してみて、これに反するものと認められる場合をも含むと解さなければならない。けだし、国際法の解釈も、国内法におけると同様に、単に文理解釈だけに限定されるいわれはないからである。(安井郁、田畑茂二郎、高野雄一の各鑑定参照)
(四) また新兵器は常に国際法の規律の対象とはならないという議論もあるが、これについても前同様十分な根拠がない。文明国の慣例に反し、国際法の諸原則に反するものは、たとえ法規に明文がなくても、禁止されるべきことは当然であつて、たゞ成文法規に何ら規定もなく、そして国際法の原則にも違反しない場合に、新兵器は適法な交戦手段として、これを利用しうるにすぎないのである。
これに対して、新兵器の発明及びその使用については常に各方面から多くの反対があるにもかかわらず、間もなく、進歩した兵器の一つとされ、その使用を禁ずることが全く無意味となり、文明の進歩とともにむしろ有効な害敵手段とされるに至つているのが歴史上の示すところであつて、原子爆弾もまたこの例にもれない、と論ずる者がある。過去において新兵器の出現に際し、さまざまの利害関係から反対が唱えられたにもかかわらず、あるいは国際法が未発達の状態にあつたがために、あるいは敵国人や異教徒に対して敵がい心が強かつたために、あるいは一般兵器の進歩が漸進的であつたがために、その後文明の進歩と科学技術の発達によつて適法とされるに至つた事例のあることは、まさに否定することができない。しかし、常にそうであつたといえないことは、前記のダムダム弾、毒ガスの使用を禁止する条約の存在を想起すれば明らかである。従つて単に新兵器であるというだけで適法なものとすることはできず、やはり実定国際法上の検討にさらされる必要のあることは当然である。
(五) そこで次に、原子爆弾の投下行為について、これに関連する当時の実定国際法規を検討してみる。
まず、原子爆弾の投下行為は、軍用航空機による戦闘行為としての爆撃であるから、それが従来認められている空襲に関する法規によつて是認されるかどうかが問題となる。
空襲に関して一般的な条約は成立していないが、国際法上戦闘行為について一般に承認されている慣習法によれば、陸軍による砲撃については、防守都市と無防守都市とを区別し、また海軍による砲撃については、防守地域と無防守地域とを区別している。そして防守都市・防守地域に対しては無差別砲撃が許されているが、無防守都市・無防守地域においては戦闘員及び軍事施設(軍事目標)に対してのみ砲撃が許され、非戦闘員及び非軍事施設(非軍事目標)に対する砲撃は許されず、これに反すれば当然違法な戦闘行為となるとされている。(田畑茂二郎の鑑定参照)。この原則は、ヘーグ陸戦規則第二五条で、「防守サレサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。」と規定し、一九〇七年のヘーグ平和会議で採択された「戦時海軍力をもつてする砲撃に関する条約」では、その第一条において、「防守セラレサル港、都市、村落、住宅又ハ建物ハ、海軍力ヲ以テ之ヲ砲撃スルコトヲ得ス。(以下略)」と規定し、第二条において「右禁止中ニハ、軍事上ノ工作物、陸海軍建設物、兵器又ハ軍用材料ノ貯蔵所、敵ノ艦隊又ハ軍隊ノ用ニ供セラルヘキ工場及設備並港内ニ在ル軍艦ヲ包含セサルモノトス。(以下略)」と規定していることからみて明らかである。
(六) ところで空戦に関しては「空戦に関する規則案」があり、第二四条において「1、空中爆撃は、軍事的目標、すなわち、その破壊又は毀損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるような目標に対して行われたかぎり、適法とする。2、右の爆撃はもつぱら次の目標、すなわち軍隊、軍事工作物、軍事建設物又は軍事貯蔵所、兵器弾薬又は明らかに軍需品の製造に従事する工場であつて重要で公知の中枢を構成するもの、軍事上の目的に使用される交通線又は運輸線に対して行われた場合にかぎり適法とする。陸上軍隊の作戦行動の直近地域でない都市、町村、住宅又は建物の爆撃は禁止する。3、第二項に掲げた目標が普通人民に対して無差別の爆撃をなすのでなければ爆撃することができない位置にある場合には、航空機は爆撃を避止することが必要である。4、陸上軍隊の作戦行動の直近地域においては、都市、町村、住宅又は建物の爆撃は、兵力の集中が重大であつて、爆撃により普通人民に与える危険を考慮してもなお爆撃を正当とするのに充分であると推定する理由がある場合にかぎり適法とする。(以下略)」と規定し、また第二二条では「普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊し若くは毀損し、又は非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は、禁止する。」と規定している。すなわち、この空戦法規案は、まず無益な爆撃を禁止し、軍事目標主義を規定するとともに、陸上軍隊の作戦行動の直近地域とそうでない地域とを区別して、前者に対しては無差別爆撃を認めるが、後者に対しては軍事目標の爆撃のみを許すものとしている。これらの規定は、陸軍及び海軍による砲撃の場合と比較して、厳格にすぎるような表現がとられているが、その意味するところは、防守都市(地域)と無防守都市(地域)の区別と同様であると考えられている。ところで、空戦法規案はまだ条約として発効していないから、これを直ちに実定法ということはできないとはいえ、国際法学者の間では空戦に関して権威のあるものと評価されており、この法規の趣旨を軍隊の行動の規範としている国もあり、基本的な規定はすべて当時の国際法規及び慣例に一貫して従つている。それ故、そこに規定されている無防守都市に対する無差別爆撃の禁止、軍事目標の原則は、それが陸戦及び海戦における原則と共通している点からみても、これを慣習国際法であるといつて妨げないであろう。なお、陸戦、海戦、空戦の区別は、戦闘の行われる場所とその目的によつてなされるのであるから、地上都市に対する爆撃については、それが陸上であるということから、陸戦に関する法規が類推適用されるという議論も、十分に成立し得ると考える。
(七) それでは、防守都市と無防守都市との区別は何か。一般に、防守都市とは地上兵力による占領の企図に対し抵抗しつつある都市をいうのであつて、単に防衛施設や軍隊が存在しても、戦場から遠く離れ、敵の占領の危険が迫つていない都市は、これを無差別に砲撃しなければならない軍事的必要はないから、防守都市ということはできず、この場合は軍事目標に対する砲爆撃が許されるにすぎない。これに反して、敵の占領の企図に対して抵抗する都市に対しては、軍事目標と非軍事目標とを区別する攻撃では、軍事上の効果が少く、所期の目的を達することができないから、軍事上の必要上無差別砲撃がみとめられているのである。このように、無防守都市に対しては無差別爆撃は許されず、ただ軍事目標の爆撃しか許されないのが従来一般に認められた空襲に関する国際法上の原則であるということができる。(田畑茂二郎、高野雄一の鑑定参照)
もちろん、軍事目標を爆撃するに際して、それに伴つて非軍事目標が破壊されたり、非戦闘員が殺傷されることは当然予想されうることであり、それが軍事目標に対する爆撃に伴うやむをえない結果である場合は、違法ではない。しかしながら、無防守都市において非軍事目標を直接対象とした爆撃や、軍事目標と非軍事目標の区別をせずに行う爆撃(いわゆる盲目爆撃)は、前記の原則に照し許されないものということになる。(田畑茂二郎の鑑定参照。)
ところで、原子爆弾の加害力と破壊力の著しいことは、既に述べたとおりであつて、広島、長崎に投下された小規模のものであつても、従来のTNT爆弾二〇、〇〇〇トンに相当するエネルギーを放出する。このような破壊力をもつ原子爆弾が一度爆発すれば、軍事目標と非軍事目標との区別はおろか、中程度の規模の都市の一つが全滅するとほぼ同様の結果となること明らかである。従つて防守都市に対してはともかく、無防守都市に対する原子爆弾の投下行為は、盲目爆撃と同視すべきものであつて、当時の国際法に違反する戦闘行為であるといわなければならない。
(八) 広島市及び長崎市が当時地上兵力による占領の企図に対して抵抗していた都市でないことは、公知の事実である。また両市とも空襲に対して高射砲などで防衛され、軍事施設があつたからといつて、敵の占領の危険が迫つていない都市である以上、防守都市に該当しないことは、既に述べたところから明かである。さらに両市に軍隊、軍事施設、軍需工場等いわゆる軍事目標があつたにせよ、広島市には約三三万人の一般市民が、長崎市には約二七万人の一般市民がその住居を構えていたことは明らかである。従つて、原子爆弾による爆撃が仮に軍事目標のみをその攻撃の目的としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目爆撃と同様な結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である。
(九) 以上の結論に対しては、当時の戦争はいわゆる総力戦であつて、戦闘員と非戦闘員との区別、軍事目標と非軍事目標との区別が困難であること、第二次世界大戦では必ずしも軍事目標主義がそのまま貫かれなかつたことを理由とする反対論がある。
軍事目標の概念は、前記諸条約により、種々の表現によつて規定されているが、その内容は必ずしも固定したものではなく、時代の変化に伴つて変遷し、総力戦の形態のもとではその範囲が次第に広まつてゆくことは否定し難い。しかし、それだからといつて、軍事目標と非軍事目標との区別が全くなくなつたということはできない。例えば、学校、教会、寺院、神社、病院、民家は、いかに総力戦の下でも、軍事目標とはいえないであろう。もし総力戦という概念を、交戦国に属するすべての人民は戦闘員に等しく、またすべての生産手段は害敵手段であるというように理解するならば、相手国のすべての人民と物件を破壊する必要が生じ、従つて、軍事目標と非軍事目標の区別などは無意味となる。しかし、近時に至つて、総力戦ということが唱えられたのは、戦争の勝敗が単に軍隊や兵器だけによつて決るのではなくて、交戦国におけるその他の要因、すなわちエネルギー源、原料、工業生産力、食糧、貿易等の主として経済的な要因や、人口、労働力等の人的要因が戦争方法と戦力を大きく規制する事実を指摘する趣旨であつて、前記のような漠然とした意味で唱えられているものではないし、また実際にそのような事態が生じた例もない。従つて総力戦であるからといつて、直ちに軍事目標と非軍事目標の区別がなくなつたというのは誤りである。(田畑茂二郎、高野雄一の鑑定参照。)
(一〇) 第二次大戦中、比較的狭い地域に軍需工場や軍事施設が集中していて、空襲に対する防禦設備も極めて強固であつた地域に対しては、個々の軍事目標を確認して攻撃することが不可能であつたため、軍事目標の集中している地域全体に対して爆撃が行われたことがあり、これを適法なものとする説もある。
このような爆撃は目標区域爆撃と呼ばれ、軍事的利益又はその必要が大きいのに比べて、非軍事目標の破壊の割合が小さいので、たとえ軍事目標主義の枠からはみ出ていても、これを合法視する余地がないとはいえないであろう。しかしながら、広島、長崎市がこのような軍事目標が集中している地域といえないことは明らかであるから、これについて目標区域爆撃の法理を適用することはできない。
(一一) のみならず、広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下は、戦争に際して不要な苦痛を与えるもの非人道的なものは、害敵の手段として禁止される、という国際法上の原則にも違反すると考えられる。(田畑茂二郎の鑑定参照。)
この点を論ずる場合、原子爆弾がその性能の非人道性において従来の兵器と異る特質を有するから当然に許されない、というような安易な類推が許されないことはいうまでもない。なぜならば、戦争に関する国際法は、人道的感情によつてのみ成立しているのではなく、軍事的必要性有効性と人道的感情との双方を基礎とし、その二つの要素の調和の上に成立しているからである。この点について学説は、その典型として一八六八年のセント・ペテルスブルグ宣言において爆発性の投射物、燃焼物又は発火性の物質を充填した投射物で、重量四〇〇グラム以下のものを使用することを禁止した規定を挙げ、その理由として次のように説明する。すなわち、このような投射物は小さいため、将兵一人の殺傷程度の力しかないが、それならば普通の銃弾でこと足りるのであつて、それ以上に何の利益もないのに非人道的な物を敢て使用する必要がなく、その反面、非人道的な結果が大きくとも、軍事的効果が著しければ、それは必ずしも国際法上禁止されるものとはならないとしている。
この意味で問題になるのは、原子爆弾の投下がヘーグ陸戦規則第二三条aで禁止している「毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト」に該当するかどうか、一八九九年の「窒息セシムヘキ瓦斯又ハ有毒質ノ瓦斯ヲ撒布スルヲ唯一ノ目的トスル投射物ノ使用ハ各自ニ禁止スル宣言」、一九二五年の「窒息性、有毒又はその他のガス、細菌学的戦争方法を戦争に使用することを禁止する議定書」の各禁止規定に該当するかどうかである。これについては、毒、毒ガス、細菌等と原子爆弾との差異をめぐつて、国際法学者の間にもまだ定説がない。しかしながら、セント・ペテルスブルグ宣言は「(前略)既ニ戦闘外ニ置カレタル人ノ苦痛ヲ無益ニ増大シ又ハソノ落命ヲ必然的ニスル兵器ノ使用ハコノ目的ノ範囲ヲ超ユルコトヲ惟ヒ、此ノ如キ兵器ノ使用ハ此ノ如クシテ人道ニ反スルコトヲ惟ヒ(後略)」と宣べ、ヘーグ陸戦規則第二三条eでは、「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物又ハ其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」を禁止していることからみて、毒、毒ガス、細菌以外にも、少くともそれと同等或はそれ以上の苦痛を与える害敵手段は、国際法上その使用を禁止されているとみて差支えあるまい。原子爆弾の破壊力は巨大であるが、それが当時において果して軍事上適切な効果のあるものかどうか、またその必要があつたかどうかは疑わしいし、広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下により、多数の市民の生命が失われ、生き残つた者でも、放射線の影響により一八年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実である。この意味において、原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといつても過言ではなく、このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反しているということができよう。
三、 国内法による評価
以上詳細に述べたように、広島長崎両市に対する原子爆弾の投下行為は、国際法に違反するものであるが、それは同時に日米両国の国内法違反になるかどうかが次に問題となる。
(一) まず、我が国についてみれば、原子爆弾の投下された当時における大日本帝国憲法は、国際法が国内法においていかなる効力を有するかについて、明文の規定をもたなかつた。しかし、慣習国際法は国内においても効力をもつとされており、条約も公布によつて国内法としての効力を有すると解されていた。従つて、原子爆弾投下行為が国際法違反である以上、国内法においても不法行為であると解する余地は十分考えられる。
(二) また、米国においては合衆国憲法第六条第二項により条約は国の最高の法としての効力をもつことが明らかであつて、慣習国際法についても、それは国法の一部であるとされている(田畑茂二郎の鑑定参照)。そうだとすれば、国際法違反の行為は、同時に国内法違反となる可能性が十分あり得ると考えられる。
(三) しかしながら、原子爆弾投下行為が日米両国の国内法に違反するかどうかをこれ以上抽象的に考察することは、余り意味がない。なぜならば、国内法違反の行為があるということと、その違反の責任を何人かに負わせることができるか、その責任を追求するためにどの裁判所に訴を提起することができるかということは、切り離して考えなければならない別個の問題である。そしてこれらの点を考察してはじめて問題は具体的に解決されるからである。この点については、後に国際法違反行為に対する責任についてこれを論ずる際に、あわせて触れることとする。
四、 被害者の損害賠償請求権
、
(一) 交戦国が国際法上違法な戦闘行為によつて相手国に損害を加えた場合には、その損害を相手国に対して賠償しなければならないことは、国際法上確立された原則である。
広島市及び長崎市に対する原子爆弾の投下は、米国陸軍航空機によつて行われた正規の戦闘行為であり、それによつて日本国が損害を被つたことは公知の事実であるから、日本国が国際法上米国に対して損害賠償請求権を有することは、いうまでもない。
しかしながら、このような場合において、その行為を命令した者は個人としてその責任を負うものではなく、従つて、原子爆弾の投下を命じた米国大統領トルーマンに対しては、国際法上損害賠償を請求することができないと解される。けだし、国家機関として行つた行為に対しては、国家が直接に責任を負わなければならず、その地位にあつた者は、個人責任を負わないとするのが国際法上の原則であるからである。
(二) それでは、国際法上の違法な行為によつて損害を受けた個人は、加害国に対して国際法上に基く損害賠償請求権を有するであろうか。
この点を論ずるには、まず、個人も当然に国際法上の権利主体となりうるか、という問題を考察しなければならない。国際法における伝統的な考え方は、国際法が国家間の関係を規律する法であるからとか、国際法が国家間の合意に基いて成立するものであるからとかいう理由のもとに、国際法上の権利主体を国家に限定している。しかしながら、国際法が従来主として国家間の関係を規律していたというところから、当然に個人が国際法上の権利主体とならないという結論は出てこないし、また、国際法定立の主体は、必ずしも国際法上の権利主体とは関係がない。また、国際法は国内的に必ずしも効力をもつとは限らないから、個人は権利主体とならないという見解もあるが、国際法が国内で効力をもたないときでも、国際法が個人に主体性を承認することは理論上可能であるから、この考え方も妥当ではない。このように、国際法の本質を論じてみても、それによつて当然に国際法上の権利主体が国家に限定されるという結論は出て来るものではない。
(三) それでは、逆に個人は常に国際法上の権利主体となりうるか。個人の国際法上の主体性は、国際法(主として条約)が個人の権利義務に関して規定している場合に、はじめて問題となるのであるが、この場合、国際法学説として、国際法上個人の権利義務が規定されていれば、それだけで個人に国際法上の権利義務が生ずるとする考え方と、個人がその名において国際法上権利を主張し、義務を追求される可能性がなければ国際法上の権利義務が生じたとはいえないとする考え方とが対立している。
この対立は、国際法主体、ひいては法主体性一般に関する理解の仕方の相違によつて生ずるものであるが、一般的にいつて、ある者に権利主体又は法主体性が認められるということは、その者の名において権利を追求し、義務を負わされる可能性をもつことを意味するのである。従つて、国際法上の権利主体が認められるためには、やはり国際法上自己の名において権利を主張しうるとともに、義務を負わされる可能性がなければならない、と解すべきであろう。従つてこういう点からみれば、後者の考え方が正当である。
そこでこのような意味で個人の国際法上の主体性を認めた条約を調べてみると、個人の出訴権を直接認めた例としては、一九〇七年ヘーグ平和会議で採択された国際捕獲審検所設置に関する条約、同年中米五ケ国間で締結された中米司法裁判所設置に関する条約及び第一次世界大戦後のヴエルサイユ条約その他の講和条約(サン・ジエルマン条約、トリアノン条約、ローザンヌ条約、ヌイ条約)の各経済条項を挙げることができる。
国際捕獲審検所設置に関する条約は批准されず、実定国際法とはならなかつたし、またそれが国内捕獲審検所の検定に対する不服申立の機関であるという意味からも特殊なものである。また、中米司法裁判所設置に関する条約は中米五ケ国間で約一〇年間行われたにすぎないから、いずれもここで一般的な問題の考察の対象とすることは、不適当であろう。
これに反して、ヴエルサイユ条約その他の講和条約は第一次大戦当事国の国民の財産上の権利関係についてその訴訟を取り扱うため、混合仲裁裁判所を設定する旨規定した。そして例えばヴエルサイユ条約によれば、同盟及び連合国の国民はドイツ政府の行つた戦時非常措置又は移転措置の適用によつて、ドイツ領土内にあつたその財産、権利又は利益に関して受けた損害について、ドイツ政府を相手として直接に損害賠償請求の訴を混合仲裁裁判所に提起することが認められ、しかも自国の政府の意思とは全く関係なしに、自己の名において混合仲裁裁判所に訴を提起することができるとされた。従つて、この場合には、個人の国際法上の権利主体を認められたということができる。
そこで、この例によつて、個人が一般的に国際法上の主体性を認められたとの議論もあるが、この議論は正しいとはいえない。なぜならば、この場合、損害賠償の対象となるのはドイツ政府のとつた戦時非常措置又は移転措置の適用によつてドイツ領土内にあつた財産、権利又は利益に関する損害に限られるのであつて、ドイツの戦争遂行から生じた一切の損害を被うものではないし、またこの損害賠償請求権は同盟及び連合国の国民に限られ、戦敗国の国民には出訴権が認められていないからである。しかも、混合仲裁裁判所は個々の戦勝国とドイツとの間に一つづつ設置される臨時特設の裁判所である。そして最も重要なことは、これらがすべて前記のとおり具体的な条約によつて規定され、これを基礎としているということである。従つて、これを根拠として個人の国際法上の権利主体が一般的に認められ、これを国際法上主張する手続が保障されたというにはまだ不十分である。やはり、前記混合仲裁裁判所の例にみられるように、具体的に条約によつて承認された場合に限り、はじめて国際法上の権利主体となると解するのが相当である。
(四) 原告は、個人の権利はその本国政府によつて行使されるから国際法上個人が請求権を有するという趣旨の主張をしている。しかしながら、その趣旨が国家はその国民のために、その代理人として、国民の名において国際法上権利を行使するというのであれば、国際法上そのような先例はないし、またこれを是認すべき国際法上の根拠は何もない。
もつとも、国家がその国民のために国家の名において相手国に対し、国民の被つた損害の賠償を請求することは、国際法によつて認められている。これは、周知のとおり、外交的保護と呼ばれているものであるが、外交的保護は国家自身の外交的保護権に基く行為であつて、これによつて個人の請求そのものが提出されるのではなく、損害賠償請求は国家自身の請求として提出されるのである。そして外交的保護権を行使するかどうかは、国家が自らの判断により決定し、しかも自らの名において行使するのであつて、国民を代理するわけではない。この現象をボーチヤード等は「個人の請求権の国家の請求権への没入」と呼んでいる。この場合に、国家はいかなる形で、如何なる内容の要求をするか、それをどういう風に解決するかについて、全く国民から干渉されないのであり、請求する賠償の額も国民の被つた損害をそのまま提出するものとは限らないし、またこれによつて得た賠償をどのように分配するかも国家がその意思によつて自由に決定し得るのである。従つて、この場合、個人が国際法上の権利主体であると考える余地はないといわなければならない。
(五) 以上述べたきたところでわかるように、国際法上違法な戦闘行為によつて被害を受けた個人は、前記のような例外の場合を除いて一般に国際法上その損害賠償を請求する途はない。従つて、残るところは交戦国の一方又は双方の国内裁判所に救済を求めることが可能かどうかということに帰する。しかしながら、日本国の国内裁判所による救済は、これを求めることができない。なぜならば、被害者は相手国を被告として、本件でいえば原告等は米国を被告として、わが国の裁判所に訴を提起することになるが、国家が他の国家の民事裁判権に服しないことは国際法上確立した原則であり、わが国においてもこの原則を承認している(大審院昭和三年(ク)第二一八号同年一二月二八日決定民集第七巻一一二八頁)からである。
(六) それでは、米国の国内裁判所による救済が認められるであろうか。
これについては、米国の国内裁判所に裁判権があるかどうか、原告等が外国人として出訴権を認められているかどうか等の手続法上の問題と、実体法上の問題とを検討しなければならないが、実体法上の問題について結論をいえば、米国の国内法においては、原告等は米国及び大統領トルーマンに対して不法行為に基く責任を問うことができないのである。
すなわち、米国国内法においては一九世紀以来一貫して、いわゆる主権免責の法理が適用されてきた。これは英国における「国王は悪をなしえない」の原則と同様に、国家はその公務員が職務を遂行するに当つて犯した不法行為について賠償責任を負わないという原則である。この主権免責の法理は必要によつて課せられた政策に基くものといわれ、或は全国民が不法行為をするということはおかしいと説明され、或は国家が行うことは適法でなければならないと説かれ、判例及び学説によつて、さまざまな理由付けが試みられている。そして主権免責の法理は、国家のみならず、大統領を含めて国家の最高執行機関にも適用され、これらの者がその職務を遂行するに当つて犯した不法行為については個人としてその責任を負わないものとされているのである。「国王は悪をなし得ない」という英国の法理がそのまま米国に継受されなかつたことは、原告等の主張するとおりであつて、これとほぼ同様の理論である主権免責の法理が何故米国において適用されるに至つたか、その経過はよくわからないといわれている。しかしながら、米国において主権免責の理論が一般的に通用していたことは、否定する余地が全くないのであつて、原告等の主張するように、原子爆弾がその破壊力においていかに強大であるにもせよ、この理論を破砕し去つたとはとうてい考えられないのである。
第二次世界大戦後、米国は一九四六年八月に連邦不法行為請求権法を制定し、不法行為に関する国家の賠償責任を認めるに至つた。しかしながら、なお広汎な例外を設けており、国家の行政機関が裁量的職務を遂行した場合には国家は責任を負わないし、陸海軍の戦闘行為についてもその責任を負わないと定め、更に外国において生じた請求権を除外しているのである。
してみれば、以上に述べた理由だけからしても、米国国内法に基き米国及び大統領トルーマンに対して不法行為に基く損害賠償責任を問うことはできないというほかはない。この結論は、原子爆弾投下当時に出訴しようと、連邦不法行為請求権法の制定後に出訴しようと差異がないことは、自明の理である。
(七) 以上において個人が国際法上の請求権を日米両国の国内裁判所において訴求する場合に関して検討を加えたが、個人が日米両国の国内法上不法行為が成立するとして日米両国の国内裁判所に損害賠償請求の訴を提起する場合にも、前記の議論はそのまゝあてはまるであろう。従つて、こゝにあえて繰返す必要もないが、国内法上の請求権についても、日米両国の国内裁判所のいずれにおいてもその救済を求めることはできないという結論になるわけである。
五、 対日平和条約における請求権の放棄
(一) 本訴に関する結論の過半は、既に述べてきたところから自ら導き出されるであろう。しかしながら、まだ問題のすべてが終つているわけではない。なぜならば、日本国と米国との間の戦争状態から生じた権利義務が両国間の条約でどのように処理されているか、ことに個人の国際法上の請求権が条約上どのように規定されているかは、なお検討を必要とするからである。
(二) 一九五一年九月八日サンフランシスコ市において調印され、一九五二年四月二八日より効力を生じた、連合国と日本国との平和条約(「対日平和条約」)第一九条(a)は、「日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、かつこの条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。」と規定している。
この条項で放棄された「日本国の請求権」が条約及び慣習国際法に基いて日本国の有する一切の請求権を意味することは明らかであろう。従つて、例えば、違法な戦闘行為によつて日本国に生じた損害賠償請求権などは、当然この中に含まれる。
(三) それでは、放棄された「日本国民の請求権」とは、いかなるものを指すのであろうか。
被告は、日本国と日本国民とでは法主体が異るから、日本国がその国民の権利を放棄することはできず、従つてそこで放棄されているのは日本国の外交的保護権にすぎないと主張する。
しかし、この考え方は正しくない。外交的保護権は、既に述べたように、国家の固有の権利である。従つて、第一九条(a)でいえば、「日本国の請求権」の中に含まれるものである。のみならず、一般的な表現として、「日本国民の請求権」とは実体的な権利であると考えられるのに反して、外交的保護権とは、自国民の相手国に対するその国の国内法上の権利を伴つて発動する例が多いとはいえ、あくまでも手続的な権利であると考えられるからである。
(四) また、国家は、法主体として別個の存在である国民の請求権を放棄することはできない、という考え方がある。そこにいう国民の請求権が国際法上の権利を指すものとすれば、まさにそのとおりであろう。しかし、国家が自国民の国内法上の請求権を放棄することは、可能であるといわなければならない。というのは、国家はその統治権の作用により、国内法上の一定の手続により、国民の権利義務について設定、変更、廃止することができるから、かような関係にある国民の権利を、国家が相手国に対して放棄することを約束することは、事の当否はともかくとして、法理論としては可能だからである。このことは、対日平和条約第一四条(a)2(1)で、日本国が連合国内にある日本国民の財産(いわゆる在外財産)を連合国が処分する権利をもつことを承認していることからも明らかである。そしてこの場合に放棄の対象とされるのは、国民の国内法上の権利であることは容易に理解できるであろう。
(五) そうすると、第一九条(a)で放棄された「日本国民の請求権」は、日本国民の連合国及び連合国民に対する、日本国及び連合国における国内法上の請求権と解するのが自然であろう。安井郁、田畑茂二郎、高野雄一の各鑑定も、これが日本国民自体の権利であることについては結論が一致している。そして、日本国政府においても、これが国民の権利であると考えていたことは、昭和二六年(一九五一年)一〇月一七日衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における政府委員西村熊雄(当時の外務省条約局長)が、対日平和条約の逐条説明で、その趣旨の説明をしていることからも明らかである。
(六) 原告等は、「日本国民の請求権」の中には個人の国際法上の請求権も含まれている、と主張する。
しかし、前にも述べたように、個人の国際法上の請求権は条約によつて規定され、かつ国際的に出訴権その他個人がその名においてこれを主張することのできる手続的保障が存在してはじめて認められるのであるが、対日平和条約ではもちろんこのような手続的保障を認めてはいない。のみならず、原告等の主張するように、日本国民の国際法上の請求権がこの中に含まれているものと解するとすれば、この条約によつて、はじめて日本国民の国際法上の損害賠償請求権が認められ、それと同時にこれが放棄されたということにならざるをえない。しかしながら、条約でこのような特別なテクニツクを用いたものと考えるのはまことに不自然であるし、またこのようなテクニツクを用いる必要は全然ないのである。けだし、対日平和条約以前に、条約の規定をまたず当然に、個人に国際法上損害賠償請求権が認められた例はないからである。従つて、対日平和条約は日本国民個人の国際法上の損害賠償請求権を認めたものではなく、従つてまた、それを放棄の対象としたわけでもないのであつて、対日平和条約第一九条(a)で放棄されたのは、日本国民の日本国及び連合国における国内法上の請求権であるということになる。
六 請求権の放棄による被告の責任
(一) 原告等は、被告が対日平和条約第一九条(a)によつて原告等が米国及びトルーマンに対して有する国際法上及び国内法上の損害賠償請求権を放棄したことによつて、これを喪失したと主張する。
しかしながら、国際法上の請求権が前記条項において放棄の対象とならなかつたことは、さきに述べたとおりであり、放棄の対象とされた国内法上の請求権もその存在を認め難いことは、既に説明したとおりである。さすれば、原告等は喪失すべき権利をもたないわけであつて、従つて法律上これによる被告の責任を問う由もないことになる。
(二) 人類の歴史始まつて以来の大規模、かつ強力な破壊力をもつ原子爆弾の投下によつて損害を被つた国民に対して、心から同情の念を抱かない者はないであろう。戦争を全く廃止するか少くとも最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである。
けれども、不幸にして戦争が発生した場合には、いずれの国もなるべく被害を少くし、その国民を保護する必要があることはいうまでもない。このように考えてくれば、戦争災害に対しては当然に結果責任に基く国家補償の問題が生ずるであろう。現に本件に関係するものとしては「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは、とうてい原子爆弾による被害者に対する救済、救援にならないことは、明らかである。国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不幸な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。
しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果さなければならない職責である。しかも、そういう手続によつてこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであつて、そこに立法及び立法に基く行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。
七、 結び
以上の理由により、原告等の本訴請求はその余の点について判断するまでもなく失当であるから棄却を免れない。よつて、訴訟費用について民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 古関敏正 三淵嘉子 高桑昭)
別紙
(第一表)
被害地被害前の人口死傷者広島市四一三、八八九人死者二六〇、〇〇〇人行方不明六、七三八人重傷五一、〇一二人軽傷一〇五、五四三人計四二三、二九三人 長崎市二八〇、五四二人死者七三、八八四人傷者七六、七九六人計一五〇、六八〇人
(第二表)
被害地被害前の人口死傷者
広島市
三三六、四八三人(昭和一九、人口)
死者七八、一五〇人傷者五一、四〇八人
長崎市
二七〇、〇六三人(昭和一九、人口)
死者二三、七五三人傷者四一、八四七人
(第三表)
国際法規を無視せる惨虐の新型爆弾
帝国、米政府へ抗議提出
去る六日広島市に対して行はれたB29による新型爆弾の攻撃に関し帝国政府は十日左の如き抗議をスイス政府を通じ米国政府に提出すると共に同様の趣旨を赤十字国際委員会にも説明するよう在スイス加瀬公使に対し訓令を発した。
[米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文]
本日六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり
広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非ず、本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況よりみるも未だ見ざる惨虐なるものと言うべきなり、抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与うべき兵器、投射物其の他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三条(ホ)号に明定せらるゝところなり、米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、而して今や新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪状なり帝国政府は自からの名においてかつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す
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