ミュージカル『太平洋序曲』は帝国主義と加害の連鎖と「歴史」のお話。

※ネタバレを含みます

日生劇場で上演中、『太平洋序曲』を見てきた。
キャストが実力派揃いで、ソンドハイムの難解な曲たちをしっかり歌いこなせる布陣なので、それだけでもかなり見応え・聞き応えがあり、楽しめた。美しくミニマルな舞台美術も本当によくできていて、さすがのソンドハイム楽曲と不思議な雰囲気とで普段とは肌触りの違う観劇体験だった。

総じて、めちゃくちゃ良かったです。作品としては個人的にかなり好きな部類に入る。オチがゾワゾワ来る。
でも、内容としては、初見では完全に捉えきれるような作品ではなく、すごく難解ではあります。実際、マチネを見て深夜近くまで考え続けてやっとちょっと腑に落ちたくらいの感じです(今ここ)。

これは帝国主義批判であり、その帝国主義にはアメリカ帝国主義(や西洋諸国前半の帝国主義)だけでなく、日本の帝国主義も含まれているのが個人的に拍手ポイント。帝国主義「だけ」の批判ではないとも思うけど。これ今の日本で上演されるの、かなり意義があるのでは…?最後がちょっと、うん、っていうのは後で言及する。
加害の連鎖と「歴史」という概念についてのお話だった。事前知識ゼロで行ったので、「こういう話なんだ?!!!!!?!?!?!?」という驚きはあった。新鮮に楽しめて良かった。

完全なる風刺であり皮肉であるのが面白いし、この作品を理解する上で1番の肝。
"Pacific Overtures" というタイトル自体が皮肉で、「太平洋序曲」だけでなく「平和的な外交」という意味がある。銃口を日本に向けた状態での「平和的な」外交だが。という皮肉が込められている。

まず、歴史認識の恣意性に言及しているのがとても好き。
「歴史とは?」というメタ的なところに突いているのが面白い。

「狂言回し」は一見物語(歴史)の外部に存在して第三者視点として物語を伝えているのかと思いきや急に物語の内部に入ってきてむしろ歴史を大きく動かす存在とまでなる、あの怖さ。一瞬にして「今まで我々が見てきたのは…なんだったの??」と問い直させられる怖さ。「信頼できないナレーター」という存在、最高かよ……………………….
物語を進行していると思っていた狂言回しがむしろこの物語によって影響されそれ故に生まれた存在であるという、こと、そういうこと。

この歴史認識の恣意性や信頼のなさっていうところはテーマとしてしっかり存在していたと思う。「Someone in a Tree」 がガッツリこれについて歌ったものなので。武藤寛さんと染谷洸太さんと谷口あかりさんの激うま歌がガッツリ一曲分聴けるという最高さはさておき、おもしろおかしく(やっぱり大変にアイロニカルに)歴史って言っても、実際何が起きたかなんて誰にわかる?って言っている曲で、うまくできてるな〜と感じた。(関係ないが『ハミルトン』の 「The Room Where It Happens」 に似てるな〜と思った)

最初見た後すぐの時には最初の博物館?美術館?の設定がよく分からずいまいち活かされてないのでは?と思ったが、これはその「歴史」という概念に対するメタ的な視点としての枠組みだったのかもしれない。博物館や美術館は「歴史」を保存し後世に伝える役割を持つものであるが、そこで伝えられるものは完全に客観的な事実であると言い切れるのだろうか?という疑問を呈しているのかもしれない。
「狂言回し」がその案内人?的な立ち位置であるのもまたその「歴史」を語る者は誰なのか?「歴史」ってなんなのだろうか?という疑問を呈しているのだろう。

また、明治天皇という名前をはっきり出して、こういう描き方ができるのは日本ではできないだろうなとは感じた。こういうところに「アメリカ人が描いた日本についてのミュージカル」を感じた。良い意味で!
「Next」についてはまたさらに言及するけど、「Next」を歌うのが狂言回し(明治天皇)というのも恐怖というか辛辣というか皮肉に満ちている。
狂気すら感じる猛烈さで「次へ、次へ、」と突き進む日本を導き、まるで功績のようにポジティブにそれを語る「天皇」だが彼の言っていることはポジティブとは限らないというかむしろネガティブであるという怖さ。

一番最初のナンバーの 「The Advantages of Floating in the Middle of the Sea」も皮肉に満ちていて、オリエンタリズム批判も若干入ってる?とも感じた。今から考えるとここからすでに狂言回しの信頼性のなさは薄々感じるな… まあ元々信頼はしてないんだけどね… 

最後の「Next」という曲が作品の肝であると思うのだが、ここでは明治から現代まで数分で飛び、「その後」の日本を観客に伝えている。

日本はアメリカ(西洋)による強引な開国を引き受け(すぎ)て、今度は自らが隣国を侵略し、たとえ暴力的な方法であっても、悲惨なことを引き起こしても、自らの行為を顧みずに「次へ、次へ、」と突き進んでいく日本の怖さをアイロニカルに描いている(はず)の曲だと思うのだが、個人的にここはよりアイロニカルである必要はあったと思う。出なければ完全に真逆の意味で捉える人も出てくる気がする。
「昔はあんなだったけど、発展して、発展し続けてる日本スゴイ!」というポジティブな評価ではなく、あそこは恐怖を感じるべき部分だったと思うが、それ、本当に伝わってる???と疑問に思ってしまった。
特に今の日本では歴史修正主義的な人たちが政権を持っているため、そうなりかねないという怖さを感じてしまった。

さらに言うと、明治から現代にかけて日本が行ったことについての言及がもっと欲しかったかもしれない。ここで第二次世界大戦をはじめとする現代までの歴史における日本の加害者性について問い直していたら今の日本で上演する意義がすごく大いに感じられたと思う。
もちろん、言及はあったが、結構あっさりと過ぎてしまった印象がある。

『太平洋序曲』はアメリカ人の描いた、日本人から見た日本の話、という大変ややこしいもので、しかも日本のプロダクションは日本人が実際演じているし観客は主に日本人というさらにややこしい状況なのだが、これは単なるアメリカ人である制作者たちによる一方的な日本批判ではなくて、「そのような道に日本を突き進ませたのは誰なのか?」というかなり自覚的な視点が入ってるのには驚いたし感心した。
だからこそ、よりはっきりとここで言わんとしていることが表されていたらな〜と思いました。何をどうしたら正解なのかは分からないが。
少なくとも、あの「Next」の映像は「一体何を見せられてる????」という感覚になったのは否めなくて、あれはどういう意味だったのだろうとひたすら考えているが答えは出ません。

追記: パンフレットの訂正用紙を見ました。読売新聞提供の写真を当初は使うつもりが使わなくなったって、Nextの映像なのだろうけど。本来はより踏み込んだ描写のはずだったのでは?と思ってしまう。原爆とか太平洋戦争とか色々ろもっと映像を利用するつもりだった気がする。それを使わなくなったのが著作権の問題なのか単なる演出的な判断なのか、日本への忖度なのか…… 忖度な気がどうしてもしてしまうのだが、もしそうならこの国は本当に終わってるし、一観客として残念でならない。

また、「加害」の恣意性という点にしっかり突いているのは歴史を扱う作品としては評価できると感じた。これは「Next」にも現れているし、「Pretty Lady」あたりの一連の流れもそうですね。アメリカ人水兵が日本人女性を襲い、それに対して日本人が逆上して殺す、というところも「じゃあ加害者は誰ですか?」って聞かれても答えは出ない。
(追記: さらに、このPretty Lady では水兵は少女を芸者と間違えてあの行動に出たのだが、これは明らかにあの芸者たちのWelcome to Kanagawaから流れを汲んでいて、さらにその加害の発端のわからなさを表していると思う。)
開国を余儀なくさせられ西洋文化を取り入れたが故に日本はアジア諸国に侵略し、「加害者」となったのなら結局悪いのは西洋諸国なのでは?と聞かれてもそうではないし、歴史ってそう簡単に白黒分けられないし被害者・加害者に分類できないし、全てのものは影響を及ぼしあって連鎖して起こるものであって何が発端なのかなんて誰も言えないわけだ。

この姿勢が貫かれていて、むしろ主張としてはっきりとしていたのはすごく良かった。

追記: Pretty Lady と開国ソング(Please Hello)は明らかにパラレルになってると思うんですが、それを際立たせるために将軍に女性を起用したのだろうと思います。侵略される側が女性なのは、帝国主義ー家父長制の切っても切れない関係を示唆してるのでは?

難解ではあるが、すごく見応えがあり、個人的にこういう噛めば噛むほど味が出る、みたいな作品が大好きなので結構好きでした。

ちなみに、私が見たWキャストは
狂言回し:山本耕史
香山弥左衛門:廣瀬友祐
ジョン万次郎:ウエンツ瑛士
(敬称略)
でした。

キャストは言うまでもなく全員素晴らしかったです。
できれば見に行ってみてください。これもまたいろんな人の解釈を聞いてみたい作品です。

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