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得意不得意と認知パターン

私は耳が悪いらしい。

ただし、毎年の定期健診での聴力検査結果は全く問題ない。

耳が遠い訳ではない。「相手の言っていることを聞き取る力」が、何故だか弱いのだ。

英語のリスニング能力テストとか、はっきりいって壊滅的である。

英語の問題ではなく、英語以前の問題だ。

A → A’ → B

私は1つの話題から、すぐに何かを連想して全く別次元のことを考えてしまう空想壁みたいものがある(らしい)。自分でも気が付かないうちに空想モードに入るので、気が付いた時には手遅れだ。なので、国語(現代文)のテスト結果は、壊滅的になることがある。自分の意見と論旨が合致していて正解になることもないわけではないが、はっきり言って偶然だ。書いてあることを、書いてある通り、最後まで読み切ることが難しいからだ…

国語の点数が、常に高い人が羨ましかった。常にAをAとして読める、同じことを読めが同じ内容が頭に浮かぶなんて、素敵過ぎである(当たり前?)…。私は、毎回違う。同じもの読んでも、毎回内容(自分が思い浮かべること)が変わる。1粒で何回も美味しい体質だ。そう思うことにしたい。というか、そう思わないと救われない。ただ、毎回書いてある通りにしか読めない人は、空想力が弱いのが悩みらしい。無いものねだりは良くないよ。

耳 < 目

私には、当たり前のような気がするのだが、耳よりも目から入ってくる情報の方が認知(飲み込み)が早い。Web会議などで、画面上の説明資料と口頭での説明内容が違っていると、全くといっていいくらい理解出来なくなる。仕方がないので、そっと目を閉じることもある。Web会議なのでバレないが。

何か考え事をしている時に、話し掛けると、最初の反応は注意のアンテナを向けることだけだ。内容を聞き始められるのは、少したってからなので、話の途中から聞き始めることになる。なので、何を言っているいるのかさっぱりということも多い。いまさら話題か何なのかを聞くのは失礼だなと思って聞き出せないまま、適当に相槌を打ちつつ、話に出て来るキーワードから脳みそをフル回転させて話題を推測しようとするのだが、無駄に空回りしただけで、最後まで分からないこともある。会話が終わった時には、疲れ果てていることが多い。

この「聞き取る力の不足」は、家族内の会話ではしょっちょうで、夫婦喧嘩の原因にもなるが、仕事上では大問題のはずだ。気が付いていないだけで、本当は致命的なミスもやらかして来たのかも知れない。おそらく、仕事のキャリア上、「おまえ(=私)は、既に死んでいる」のだ。いまさら、別に、もう過去のことはどうでもいいんだけど。

なお、耳が相対的に弱いからといって、目で入ってきた情報の処理能力が高いかというとそうでもない。集中力の限界があるのか、スマホとかで記事を読もうとすると、物凄い勢いで飛ばし読みをしてしまう。読み終わった時には、何か違うことを考え始めていて、そもそも記事は何が本来の話題だったのか、タイトルすら思い出せないこともある。ある意味、凄い能力なのかも知れない。

目+手 > 耳+口 

結局、目で入ってきた情報を、何か身体を使って再現しないと定着しない。文章なら、音読とか書写とかを通じてでないと、何も頭に残らないのだ。

寺子屋があったくらい昔なら、素読そどくとか、写経とかはしょうが学習法だったと思うが、こういうやり方が、何かを記憶したり理解する上で有効だからだろう。

ただ、目で見たものを書き写す方が得意な人と、耳で聞いたことを人に話しながら理解する方が得意な人がいて、どちらかが極端に強いか弱い、という場合があるらしい。

私は、「目+手」派だ。人の書いた文章を理解するのに、全文コピペして、自分の言葉に書き直して理解するという作業をしたことがある。時間はかかるが、新しい分野に取り組む時には、かなり有効だと思う。ただ、「耳+口」が不得意かと言われると研修講師とかは嫌ではない。但し、相手の言っていることを聞きとる能力が低すぎて、質疑応答への対応が難しいので、あまりやりたくはないが。

昔(アナログ) = 今(デジタル)

デジタル化がこれだけ進んだ今でも、学校では、教師の板書をノートに手で書き写すという授業スタイルが維持され、画面をスクショしたら終わり、にはならない。何かを自分で考えながら、何かを生み出すプロセスを経ないと、本当の意味での理解にはつながらず、身に付かないからだ。

デジタルかアナログかは関係なく、何も自分で考えずに、機械的に写しているだけでは、学習効果は上がらない。手段によって得意不得意があるので、特性を生かす発想が大事だろう。

漢字練習一つとっても、部首を意識したり、用例を調べたりしながら勉強するのと、単純に10回書き写すのとでは効果が全然異なるし、書くだけなら鉛筆とノートの方が、デジタルツールより早いし、余計な手間がかからない。一方、作文する紙の上での清書ばかりに時間を掛けていても、文章力向上にはつながりにくいので、デジタルの力を借りるのが合理的だ。

とりとめもなく書いているうちに、2000字を超えたので、今日はこの辺で。