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日本を離れると気がつけること

身体に染み込んだ習慣というのは、きっかけがないとその存在にすら気づけない。無色透明な「ぬゑ」のような存在だ。自分の身体を使った無意識での行為の連続。

反対に「決意を新たにすることほど無意味なことはない。」と言われるが、毎度意識して決意しなくても良いくらいにまで「習慣化」することが本質的に重要だということだ。「ぬゑ」の憑依してもらうのが一番だ。

但し、「習慣化」といっても、良いものと悪いものがあるだろう。「ぬゑ」にも良いのと悪いのがいるのだ。

悪い習慣の例は、誰でも直ぐに思いつく。依存性や嗜好性の高い、喫煙、飲酒、ギャンブルなどだ。良くないことは分かっているのだが、あまり強い理由もなくやってしまっている癖もあるだろう。

良い例は、なんだろうか。早寝、早起き、朝ごはん。1日5g以下の減塩生活、腹八分目、適度な運動、倹約・節約、節度のある生活、整理・整頓・清掃・清潔・しつけの「5S活動」、日々の挨拶、こまめな相談・報告。良い例を挙げると、だんだん仕事みたいになって気分が悪くなってきた。考えれば出て来るが、ちょっと無理している感があり、しかも、どれも地味だ。

思いつかないまま、隠れているものもあるだろう。その殆どは、学校生活を通じて、知らず知らずのうちに身につけたものだ。

授業の始まりと終わり時の礼、教室清掃、給食の配膳、食事前後の挨拶、部活動等での校庭整備、といったことだ。

人のモノは盗らない、借りたものはお礼を言って返す、遅れたら謝る、そもそも遅れない様5分前に集合する、約束は守る、当番はさぼらない、信号(交通ルール)は守る、他人には親切にする、困った人がいたら助ける、落とし物は交番に届ける、列の順番は割り込まない、公共の場で周りを不快にさせないように大声を出さない、等々

道徳の時間か…

普段意識していないだけで、自覚している以上に沢山ある。

もちろん、本当に習慣といってよいほど身についているかは、個人差が大きいだろうし、項目にもよる。ただ、これらの習慣は、日本人なら(日本で義務教育を受けたら)、ほぼ無意識で実行出来るレベルにまでなっていることが多い。国民性とか、文化とか、民度(あまり好きな言葉ではないが)などと表現されるものなのだろう。

当然のことながら、海外に行くと、この常識が通じない。ズレる。というか、差が大きいことほど気づける。人間として当たり前という点は共通することが多いのは当然だが、中にはそうとも言い切れないものが含まれる。

いままで当たり前と思っていたことが、そうではないとなった時、大きなショックを受ける。うまく言語化出来ないと、嫌悪感となって感情に現れる。

よくよく考えれば、TPO的に意味のないことでも、守ることが目的化している場合がある。何の為に必要なのか目的を考える習慣がないと、漠然とした規則に縛られていることにすら自分では気づくことが出来なくなる。日本にいると、このあたりの考える習慣が弱くなっていることが分かる。県が得たことを言語化すると、理屈っぽいと批判されることが多いので、結果として、考えない方が生きていく上で楽になるからだ。

長女が留学中に実際にあった話を聞かせてくれた。それは、

公共交通機関の中では携帯電話を使ってしゃべってはいけない

というマナーは、日本限定だった、という件である。もちろん、日本でも、緊急事態なら許されるから、「絶対のルール」とは言い切れないのだが、実際に電車の中で通話をしようとしたら、日本人の大多数は「原則はダメだけれど」と感じるだろう。

悪い例だが、日本の中ではともかく、海外では通用しない習慣がある。それは、電車の中で寝る。レストランなどでカバンを椅子の背に掛けたまま席を離れる、などである。要は、安全すぎて警戒心が弱く、隙だらけなのだ。海外にいくと、カバンは必ず身体の前に掛けるし、移動時や観光地では、小綺麗な恰好をしていること自体がリスクだ。自宅やセキュリティが確りしている場所を除き、周囲への警戒は怠ることは許されない。

個人的には海外にいて警戒を解ける思えるのは、例えば、常夏のタイで、よれよりTシャツを着て、ビーサンと短パン姿でカバンも財布も持たずにいる時くらいだ。

やたらとタイ語で道を聞かれるのに並行するし、足元に気を付けていないと転ぶことになるし、その姿のままで日本に帰ってくると、えらく浮くことにはなるのだが…