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「悟りの境地」がある(その7) / 真我と自我


【第一の自己】と【第二の自己】
  【自我】 と 【真我】

 自分の中には、外的世界に向かう【第一の自己】と内在する【第二の自己】の二人がいる。私は外的世界や対人関係の影響を受けて限定される【第一の自己】から離れ、解放された『無限の空間』に意識を転移して、【第二の自己】としての自由自在を確保したいと思う。ただし、それはかなり難しいことである。知らないうちに、他者の想念や自分の【心】に支配されることがある。
 【第一の自己】は自己愛に基づいて、自己の生存を優先的に確保し、他者との相対的な人間関係を処理するために生じた【自我】である。彼は信仰を持っていないし、隣人を愛していない。普通、人間が【私】と思っているのは【第一の自己】である。
 彼は「善と悪の二元論」に基づいて物事を【分別】して、自分に都合の善いものを【善】とし、自分に都合の悪いものを【悪】として裁いて、あつれきを起こすことがある。そのあつれきが自己の内面でも起きることが問題である。ただし、それは自作自演のドラマであるから、止めようと思えば、止めることができる。
 【第二の自己】は、真の信仰を持っており、無償の愛と慈悲の心に満ち溢れている存在である。なぜかと言うと、彼は無客体の【単独者】だからである。無客体の意味は、主体だけが『分離のない全体性 / ひとつの心』として存在していることである。宇宙万物は自分の心が創り出したものなのだ。全ては自分自身であり、全ては自分の意識の中に在るので、格別の努力なしで、何もしなくても、全てを愛しているのである。【第二の自己】の勢力がもっと強くなれば、世界はもっと平和になり、人類は【理想の世界 / 仏国土】で幸せに生きることができるようになるだろう。
 私は【第二の自己】のことを【仏のこころ】、あるいは【アートマン】と呼んでいるが、彼は中継点であり、垂直方向に【至高の実在  /  ブラフマン】と直結している。人間が誤解しているのは、【第一の自己】が努力や修行によって、いつかは【第二の自己】になれると考えていることである。その考え方は根本的に間違っているので、訂正してもらわねばならない。【第一の自己】はどこまで行っても、いかなることがあろうとも、【第二の自己】にはなれないのである。
 そのような真実を見極めたうえで、【第二の自己(真我) 】が主人となり、【第一の自己(自我) 】を召使いとして使いこなすべきである。【第一の自己】は無知で粗雑で迷走するので、主人である【第二の自己】が彼をコントロールする必要がある。そうすることによって、我々は純粋な【真我】として【悟りの境地】に入ることができるのだ。それが『ブラフマンとの合一』、すなわち【ヨーガ】であり、釈尊の【成道】である。
 そのように判断する根拠は、原始仏典『スッタニパータ』に書かれている「私はブラフマンになった者である。私は己れの【自我と煩悩と論争と思考の軍勢】を撃破し、あらゆる敵を降伏させて、何ものも恐れることなしに喜んでいる」という釈尊の言葉である(第561項)。(注:本日12月8日は、釈尊が【仏】としての悟りを完成された「成道記念日」なので、この論文を作成しました)

(哲学者 水山昭雄)



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