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バルカン半島史㉓ ~バルカン戦争~

19世紀末、ビスマルクの仕組んだベルリン条約による勢力均衡の国際情勢下で各国は潜在的な不満を抱えながらも表面的な小康状態を保っていた。しかし、ビスマルクの後援者であったドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が死去し、新皇帝ヴィルヘルム2世が即位すると状況は大きく変わる。新皇帝は宰相のビスマルクと激しく対立し、1890年にビスマルクは辞表を提出。実質的な罷免であった。海外植民地の拡大には消極的であったビスマルクとは対照的に、ヴィルヘルム2世は帝国主義政策を強力に推進して軍備を拡張。バルカン半島や中東にも触手を伸ばしてベルリン・ビザンチウム(イスタンブール)・バグダッドを結ぶ鉄道敷設計画、いわゆる3B政策を打ち出して列強の植民地拡大競争に加わったのである。これは特にカイロ・ケープタウン・カルカッタを結ぶ英国の3C政策との激しい対立を生み、バルカン半島を含むヨーロッパから西アジア全体にかけての軍事的緊張を強めていくことになるのである。

20世紀に入って1908年、オスマン帝国で立憲政治を掲げた青年トルコ革命が起こると、その混乱に乗じてオーストリア・ハンガリー帝国が一方的にボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言した。これは以前からくすぶっていた当該地域のスラブ系住民の民族意識に火をつけ、周辺のセルビア・モンテネグロなどのスラブ系諸国からの激しい反発を招いた。1912年、パン・スラブ主義を標榜するロシアの支援の下でセルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャは、オスマン帝国(トルコ)からの更なる領土奪回を目指してバルカン同盟を結成。パン・ゲルマン主義を掲げてバルカン進出をもくろむドイツとオーストリアに対しても予防線を張った。同年、オスマン帝国支配下のアルバニアの独立を巡って第一次バルカン戦争が勃発。バルカン同盟がオスマン帝国に勝利し、オスマン帝国はイスタンブールを除くバルカン半島の領土を全て失った。この戦争によってアルバニアは独立を達成したものの、アルバニア系住民の多いコソヴォ州がセルビアの領土となり、ブルガリアの領土拡張に他のバルカン諸国が不満を抱き、マケドニアの分割領有を巡ってセルビア・ブルガリア・ギリシャの三国が対立するなど、勝利したバルカン諸国間の軋轢はかえって強まった。オスマン帝国という重しが外れたことで、火薬庫の蓋が開いたのだ。

1913年、ブルガリアがギリシャとセルビアに侵攻。第二次バルカン戦争が始まった。モンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国がセルビア・ギリシャを支援し、孤立したブルガリアは敗北してブカレスト講和条約で大幅な領土縮小を余儀なくされた。かつての同盟国であったバルカン諸国に対して不満を抱くブルガリアは今度はドイツ・オーストリアに接近する。敵の敵は味方、というわけだ。二度にわたるバルカン戦争は対立の解消にはつながらず、かえって事態を複雑化させ、国際関係を悪化させただけであったと言えよう。そして翌年、ボスニアの首都サライェヴォで、セルビア民族主義過激派の青年が放った凶弾が、オーストリア皇太子夫妻の命を奪った。第一次世界大戦の始まりである。

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