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連載中国史22 南北朝時代

439年、北魏の太武帝が華北を統一し、494年には孝文帝が洛陽に遷都した。もともと遊牧騎馬民族であった鮮卑は、北魏建国までの過程で定住農耕生活になじんではいたが、孝文帝は更に急激に漢化政策を進めた。六世紀に入って北魏は東魏と西魏に分裂し、まもなく東魏は北斉に、西魏は北周に滅ぼされることになる。北魏による華北統一から北周の滅亡に至るまでの150年の間、華北に拠点を置いた王朝を総称して北朝と呼ぶ。

魏晋南北朝時代の王朝の変遷(histrace.comより)

一方、江南では、東晋の後を受けて、宋・斉・梁・陳の諸王朝が次々と興亡した。これらを総称して南朝と呼ぶ。また、建業(建康、後の南京)に都を置き、江南を拠点とした呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六つの王朝を総称して六朝と呼ぶこともある。

雲崗石窟(Wikipediaより)

三世紀から六世紀末までの、いわゆる魏晋南北朝時代は、政治的には分裂の時代であったが、文化的には、南北それぞれの特色があらわれた爛熟の時代であった。北朝では質実剛健な気風の下、西方からの影響を受けた仏教文化が花開いた。仏図澄(ぶっとちょう)や鳩摩羅什(くまらじゅう)による布教活動や仏典の漢訳を経て北朝では鎮護国家を旨とした仏教思想が広まり、敦煌・雲崗・竜門の三大石窟寺院が作られた。また、後漢末の五斗米道を源流とする道教は、寇謙之(こうけんし)によって大成され、泰山を総本山として神仙思想を広めた。

女史箴図(Wikipediaより)

南朝では、優美で華麗な六朝文化が花開いた。詩文では田園詩人の陶潜(陶淵明)が「帰去来辞」や「桃花源記」を表し、謝礼運の山水詩や昭明太子の「文選(もんぜん)」などとともに、多くの文人に愛誦された。絵画では画聖と呼ばれた顧豈之(こがいし)が「女史箴図」を残し、書道では王義之(おうぎし)が楷書・行書・草書を芸術の域にまで高めた。また求法のためにインドへ渡った法顕が記した「仏国記」は西方浄土への憧れをかきたて、南朝の仏教文化は北朝とは対照的に優雅で貴族的な趣のものとなった。貴族の間では老荘思想に基づく超俗的な哲学論議である清談が流行し、竹林の七賢と呼ばれる清談家たちが理想視され伝説化した。不安定な社会を背景として超俗的なものへの憧れが広まったのである。

王義之の書(Wikipediaより)

魏晋南北朝時代は政治的には不安定な分裂時代であったが、だからこそ各々の地方色豊かな文化の爛熟がもたらされたのだとも言える。一方、経済面では南朝による江南の開発が進み、政治制度では北朝で均田制が開始されるなど、新たな統一国家の建設に向けての準備も進みつつあった。581年に北周の外戚である楊堅(文帝)が建国した隋が、589年には南朝最後の王朝である陳を滅ぼし、370年ぶりに中華全土の統一を果たす。それは新たな帝国の時代の幕開けでもあった。

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