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連載中国史43 清(2)

17世紀後半から18世紀にかけて、清王朝の全盛期を現出したのは、康煕・雍正・乾隆の三帝である。特に康煕帝(聖祖)は幼少で即位して以来、60年以上にわたって君臨し、清の勢力範囲を拡大するとともに内政にも力を注ぎ、文化面でも現代に至るまで漢字書の基礎となってきた「康煕字典」を編纂し、西欧文化も積極的に学び、税制改革にも着手した。万機親政を目指した康煕帝は、あらゆる分野に通暁しようと努め、山のような決裁文書の全てに目を通して自ら裁決を行ったという。恐るべきバイタリティーである。

清の版図拡大(「世界の歴史まっぷ」より)

1673年に南部で起こった呉三桂らによる三藩の乱を鎮圧し、1689年には長年にわたって台湾を拠点に清朝への抵抗を続けていた鄭成功一族をも降伏させた康煕帝は1689年にロシアとネルチンスク条約を結んでシベリア国境を画定させた。ここにおいて台湾と満州が正式に清の直轄地となったわけである。さらに1697年にはモンゴルのハルハ部、1720年にはチベットを服属させ、理藩院を通じて間接統治を行う藩部に組み込んだ。康煕帝の後を継いだ雍正帝は1724年に内陸の青海部(ワラ)を藩部に組み込み、1727年にはロシアとキャフタ条約を結んでモンゴル国境を画定させた。更に後継の乾隆帝(高宗)が1758年にジュンガル部を平定、東トルキスタンの回部とともに藩部として新疆と呼んだ。ハルハ部は後に独立してモンゴル人民共和国(現モンゴル国)となったが、その他の藩部は自治区として現在も中国の一部となっている。すなわち、この時代に現代中国の領土は概ね確定したのである。

清の税制改革(qizlet.comより)

康煕帝が晩年に取り組んだ税制改革は、明末に成立した人頭税と地税の一本化による一条鞭法を更に簡素化し、人頭税を廃止してその分を地税に繰り込む地丁銀制と呼ばれるものであった。これは雍正帝の時代に全国に広まり、日本銀やメキシコ銀の流入とともに、納税方法も銀納が主流となった。人頭税の廃止は思わぬ影響をもたらした。この時代に中国の人口が急増したのである。これはトウモロコシやサツマイモの栽培拡大に伴って食糧事情が好転したこともあるが、人頭税を逃れるための戸籍隠しが消滅したことによって登録上の人口と実際の人口との差が少なくなったという面も大きい。計算してみると、税制改革以前には一億人以上もの戸籍隠しが行われていたことになる。脱税恐るべし、である。

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