連載日本史244 占領政策(2)
経済の民主化における二本柱は、財閥解体と農地改革である。三井・三菱などの大財閥は、持株会社を通して、関連企業グループをコンツェルンとして組織支配し、市場を独占していた。それが日本の軍国主義の経済的基盤となっているとみたGHQは、日本政府にその徹底した解体を要求したのである。1946年には持株会社整理委員会が発足し、持株会社の解体、財閥家族の企業支配の排除、持株所有の分散化が進められた。翌年には過度経済力集中排除法により、大企業の分割が行われた。1947年には独占禁止法も公布された。
財閥解体は日本の軍事力を支えていた経済力の無力化を図ったものであったが、同時に市場での自由競争を促進し、産業の民主化を実現する狙いもあった。富の独占が国内市場の停滞を招き、対外膨張への誘因となっていたわけで、そこにメスを入れて国内市場を活性化させる必要があったのだ。そして財閥と並んで富の独占の象徴となっていたのが、農村における寄生地主制であった。
1945年12月に幣原喜重郎内閣のもとで発案された第一次農地改革は、農地調整法の改正によって不在地主の農地所有を禁止し、在村地主の農地所有にも制限を加えるものであったが、農地の譲渡方式を地主と小作人の協議によるものとし、既得権益層に配慮した不徹底なものだったので、GHQに受け入れられなかった。翌年10月の吉田茂内閣のもとでの第二次農地改革はGHQ主導で進められ、地主の土地を国家が強制的に買い上げて小作者へ売り渡すという形になった。地主の農地所有面積も更に厳しく制限され農村における所有と労働の一体化が進められた結果、多くの小作農が自作農として自立した。
財閥解体にせよ、農地改革にせよ、本来は日本政府がリーダーシップをとって進めるべきだった政策である。財閥による市場の独占と、寄生地主による農地支配が、日本経済を硬直化させ、貧富の格差を拡大させる要因であることは、以前からわかっていたはずなのだ。だが、実際に改革を進めようとすると、既得権益層からの強い反発を受けるのも世の常なのである。結果的に活路を外に見出さざるを得ず、対外侵略に走った面は否めない。「満蒙は日本の生命線」という軍部が掲げたスローガンは、優先的に取り組むべき国内の問題から目を背けて対外膨張を図る姿勢を如実に示していたと言えよう。
戦争による大きな犠牲を払った上に、敗戦と占領という強烈な外圧によらなければ本質的な改革が進まなかったのは歯がゆい限りだが、それでも復興への活力は、焼け跡から湧き上がりつつあった。食糧をはじめとする極端な物資の欠乏、インフレの急激な進行、海外からの引き揚げや復員による人口膨張に伴う失業者の急増など、多くの問題を抱えながら、第一次ベビーブームが起こった。食うや食わずの状況下で出生率が跳ね上がるのは、極限状況でこそ理性では割り切れない根源的な生への欲求が昂揚するという事実の表れであるような気がするのである。
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