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連載日本史241 太平洋戦争(5)

1944年7月、サイパン島が陥落すると、そこから飛び立つ米軍のB29爆撃機が直接、日本中の都市に空襲を浴びせ始めた。当初は軍需工場を目標にしていた空襲は、次第に焼夷弾を用いた無差別爆撃に変わり、都市そのものを壊滅させて国民の戦意喪失を狙うものになっていった。本土空襲の激化により、延焼を防ぐための家屋の強制取り壊しや軍需工場の地方疎開が始まり、都市部の学童も農村部へ集団疎開していった。ヨーロッパでも米英軍のノルマンディー上陸作戦が成功し、パリが解放され、戦況は完全に逆転していた。東条内閣は総辞職し、代わって成立した小磯国昭内閣は、本土決戦の準備を進めながら、中国を仲介とした和平工作を試みたが不調に終わった。本土決戦を想定して全国で竹槍訓練が行われた。「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」との記事を載せた新聞は発禁となり、記者は徴兵された。もはや破れかぶれである。

サイパンでの市街戦(Wikipediaより)

10月にはフィリピンのレイテ島に米軍が上陸。レイテ沖海戦で日本軍は戦艦武蔵をはじめとする連合艦隊の主力を失った。片道だけの燃料を積んだ神風特攻隊が米艦に次々と突撃して、多くの若い兵士たちが命を落とした。翌年3月には東京が大空襲に襲われ、一夜にして約10万人が焼死した。名古屋・大坂・神戸も相次いで空襲に見舞われ、被害合計は焼失家屋143万戸、死者20万人、負傷者27万人に達した。一刻も早く和平交渉を進める必要があったが軍部は国体護持・本土決戦を叫び、戦争は継続された。その間にも被害は拡大し、3月末には硫黄島の守備隊が全滅した。

東京大空襲で焦土と化した東京(Wikipediaより)

1945年4月、米軍が沖縄に上陸し、沖縄戦が始まった。日本軍は沖縄を本土防衛の最前線と位置づけ、8万の軍隊と2万の一般市民・学生から成る約10万人の守備隊を編成していた。本土から出撃した戦艦大和は沖縄のはるか手前で撃沈された。沖縄海域に群がる米艦隊に向けて、特攻隊の体当たり攻撃が繰り返されたが、多くの命を空しく散らすばかりであった。

沖縄戦で焼け出された住民(ryukyusimpo.jpより)

2ヶ月にわたる激しい地上戦の末に、米軍は沖縄中部の首里を占領。残存部隊は島の南端に追い詰められた。米軍は火炎放射器を使って大規模な掃討作戦に出た。両軍の死闘に巻き込まれて多数の住民が犠牲になったが、中には日本軍によって壕を追い出されたり、集団自決に追い込まれた住民もいた。ここでも極限状況において、軍は民を守らなかったのである。

沖縄・読谷村の集団自決跡地(kohrinji.la.coocan.jpより)

6月23日、組織的な戦闘は終了した。沖縄県民60万人のうち、12万人以上が死亡したという。県民の5人に1人に及ぶ大きな犠牲を払って、日米戦争最大の地上戦は終結した。

ヤルタ会談での英・米・ソ首脳(www.y-history.netより)

沖縄戦のさなかの5月、ヨーロッパではドイツが無条件降伏し、日本は完全に孤立していた。戦争終結の任を担った鈴木貫太郎内閣はソ連を仲介とした和平工作を進めようとしたが、既に2月にはクリミア半島のヤルタで開かれた米・英・ソの首脳会談でソ連の対日参戦の密約が成立しており、ソ連は動かなかった。しかも軍部は、この期に及んでも本土決戦を主張しており、国内の意見をまとめて降伏にもっていくのは至難の業であった。

鈴木貫太郎(WIkipediaより)

本当は、もっと早くに降伏すべきであった。前年のサイパン島陥落とレイテ沖海戦の大敗で、制空権と制海権は完全に米軍に握られ、もはや回復不可能であった。その時点で降伏しておけば東京大空襲も沖縄戦の被害もなかったはずだ。しかし、軍部の強硬な抵抗もあってタイミングを逸した日本政府は和平交渉で後手後手に回り、結果的に被害を拡大させていくことになる。失敗を失敗として認めない責任回避と非合理的な精神論の横行。それは軍部や政府のみならず、日本全体を覆っていた失敗の本質なのかもしれない。

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