見出し画像

連載中国史20 三国時代(2)

魏・呉・蜀の三国は、時に同盟し、時に敵対しながら互いを牽制し合った。魏と呉の結託によって腹心の関羽を殺された蜀の劉備は、呉を攻めるが大敗し、白帝城で病死する。軍師の諸葛亮(孔明)は後継の劉禅を補佐し、丞相として蜀の内政と外交を一手に担うこととなった。一方、魏でも世代交代があり、曹操の死後、息子の曹丕が文帝として即位し、曹操の始めた兵農兼務の屯田制を継承するとともに、九品官人法と呼ばれる制度を創設して有能な人材の官吏登用を進めた。勢力を増す魏に対抗して、呉と蜀は再び同盟し、諸葛亮は227年に出師の表を発して魏との決戦に臨んだが、五丈原の戦いにおいて陣中で病死した。この時、彼は自らの死を伏せて撤退戦の指示を出しており、魏軍がそれに翻弄されたことから、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事成語が生まれたという。

五丈原(4travel.jpより)

最終的に蜀軍を撃退した司馬懿(仲達)は、次第に魏の内部で力を持つようになり、曹氏を抑えて全権を握る。彼の孫の司馬炎は、265年に魏から禅譲を受けて武帝として即位し、晋(西晋)を建国、都を洛陽から長安へと移した。彼は屯田制を廃し、後の均田制の前身となる占田・課田法を創設した。280年に呉を滅ぼして中国を再統一し、三国時代を終結に導いた司馬炎であったが、晩年は政治への興味を失って酒色にふけり、世は再び乱れた。彼の死後、290年には八王の乱、311年には永嘉の乱と立て続けに内乱が起こり、316年に西晋は滅亡する。翌年、江南の建康(呉の時代には建業、のちの南京)を都として司馬睿が東晋を建国。一方、北部では周辺異民族が次々と侵入して、各地に短命王朝が次々と興亡する五胡十六国時代が現出。中国は再び分裂時代に入ったのである。

五胡十六国と東晋(ayataka1031.blogspot.comより)

国際政治における秩序維持モデルのひとつとして、勢力均衡理論と呼ばれるものがある。軍事力を中心とした各国のパワーバランスによって秩序と平和を保つという理論である。諸葛孔明が唱えた三国鼎立構想も、この理論と似たロジックで成り立つものであろう。ただしそれは微妙なバランスの上に成り立つ秩序であって、それが崩れた時には、各国がそれなりの軍事力を蓄えているがゆえに、かえって紛争が頻発し、大きな混乱が起こることになる。3世紀から5世紀にかけての中国の大分裂時代は、勢力均衡による平和の維持がいかに難しいかを如実に示した例であると言えよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?