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連載中国史30 五代十国

唐を滅ぼした節度使の朱全忠は907年に後梁を建国したが、突厥系の節度使である李克用はこれを認めず、さらに契丹族の耶律阿保機はモンゴル高原に遼を建国し、華北では三勢力の争いが繰り広げられた。923年には後梁が滅び、李氏一族の建てた後唐がそれにとって代わるが、やがてはそれも同じ突厥系の後晋に滅ぼされることとなる。混乱に乗じた遼は北部の燕雲十六州を手に入れ、華北は非漢民族による権力争奪の地となった。

五代十国(「世界の歴史まっぷ」より)

一方、江南地方を中心に、十国に及ぶ地方政権が次々と興亡した。広州の南漢、江南の楚・閩・呉・呉越・南唐、内陸の前蜀・後蜀・荊南、華北の北漢の十国である。これに華北の節度使を中心とした軍事政権である後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五王朝を加えたものを五代十国と呼ぶ。979年、宋によって中国が再統一されるまでの70年あまりの間に、十五もの王朝が乱立したのだ。

五代十国の興亡(コトバンクより)

五代十国のほとんどが、国名にかつての王朝名を戴いているのが興味深い。民族的に言っても、歴史的に言っても、連続性のないはずの政権が、かつての王朝名を冠した国名を名乗るのは、自らの正統性を主張したいという欲求のあらわれだろう。それだけ政権基盤が脆弱であったとも言える。そうした混乱の中から台頭し、再び中国を統一に導いた宋王朝は、前代の大唐帝国とは対照的な性格を持った政権であった。

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