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連載中国史49 清(8)

1884年、インドシナ半島への勢力拡大を狙うフランスと、ベトナムの宗主権を主張する清との間で、清仏戦争が起こった。敗れた清は翌年の天津条約でベトナムの宗主権を放棄。二年後には仏領インドシナ連邦が成立し、かつて中国の影響下にあったインドシナ一帯は、フランスの植民地となった。1894年には朝鮮での勢力争いによる日清戦争が勃発。ここでも清は敗れ、清国全権の李鴻章は翌年の下関条約で朝鮮の宗主権を放棄し、多額の賠償金に加えて、台湾・澎湖諸島・遼東半島を日本へ割譲した。大陸での日本の勢力拡大を警戒するロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって遼東半島は返還されたが、これ以降、列強による中国分割は加速化することになる。

列強の中国分割(「世界の歴史まっぷ」より)

二つの戦争に敗れたことで「中体西用」に基づく洋務運動の失敗が明らかになった。1895年、光緒帝(徳宗)のもとで、康有為や梁啓超らを中心とした変法自強運動が起こる。近代化には政治体制の変革が不可欠だと考えた彼らは、日本の明治維新をモデルとした立憲君主制の樹立を目指した。しかし、急激な改革に対して、政府内の保守派から激しい反発が起こり、1898年、宮廷内の陰の実力者であった西太后(光緒帝の実母)らによるクーデターによって変法派は追放された。いわゆる戊戌の政変である。

義和団事件(北清事変)に出兵した連合軍(「世界の歴史まっぷ」より)

浅田次郎氏の傑作小説「蒼穹の昴」では、変法自強運動から戊戌の政変に至る関係者たちの葛藤が活写されている。明治維新のような急激な近代化を実行するには、中国はあまりに大きすぎたのだ。列強の中国分割に反発した義和団が「扶清滅洋」を掲げて1900年に挙兵し、清朝もそれを支持して列強に宣戦布告したが、日本とロシアを中心とした八ヶ国連合軍にあえなく敗れ、列強の中国侵略は更に進んだ。ロシアは旅順・大連を中心とした東北部、ドイツは山東半島と膠州湾、イギリスは威海衛・九龍半島・長江流域、フランスは広州湾を中心とした広東・広西・雲南地方、日本は福建省と満州南部にそれぞれ勢力を拡大した。乗り遅れた米国は国務長官ジョン・ヘイによる門戸開放・機会均等・領土保全の三原則を唱えたが、それは中国のためというよりも、自らの権益を主張するためのものであったと言える。中でも、満州(中国東北部)を巡る日本とロシアの軋轢は激しさを増し、一触即発の状況に陥りつつあった。20世紀初頭、中国を舞台にした帝国主義列強の剥き出しのエゴイズムは最高潮に達したのである。

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