見出し画像

連載日本史221 大正デモクラシー(2)

日本の社会主義運動は1907年の日本社会党解散から1910年の大逆事件を経て冬の時代を迎えていたが、ロシア革命の勃発を機に運動の再建が図られた。普通選挙運動が盛り上がり、第1回メーデーが開催された1920年、山川均らを中心に日本社会主義同盟が結成されたが、発足後すぐに激しい弾圧を受け、翌年には解散に至った。1922年には堺利彦らが非合法組織としての日本共産党(第一次共産党)を結成したが、これも二年で解散に至っている。

堺利彦(Wikipediaより)

女性解放運動では、1920年に平塚らいてう・市川房枝らが新婦人協会を設立した。彼女らの尽力で二年後には治安警察法の一部が改正され、女性が政治演説会に参加できるようになった。それまでは演説会への参加すら認められていなかったのだ。一方、伊藤野枝・山川菊栄らは1922年に女性社会主義者の団体である赤瀾会を結成したが、弾圧を受けて一年足らずで消滅した。1924年には市川房枝らが、新婦人協会解散の後を受けて婦人参政権獲得期成同盟会を結成し、婦人参政権運動を指導した。

新婦人協会の総会で活動方針を説明する市川房江(jaa2100.orgより)

部落解放運動では、1922年に西光万吉らが全国水平社を創設した。維新後に出された解放令により、形の上では身分制度は消滅したが、実際には被差別部落民への差別は根強く残り、就職や結婚をはじめ、社会生活全般に影響を及ぼしていたのだ。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」のフレーズで有名な水平社宣言は、日本初の人権宣言ともいわれる。だが、水平社の進めた部落解放運動も、社会主義運動の中での階級闘争理論の影響を受け、運動内での路線対立が生じるようになる。

水平社宣言(中日新聞Webより)

百家争鳴の社会運動が盛り上がりを見せた大正中期は、近代日本社会の発展を象徴する時代であったが、同時に、帝国主義植民地政策の自己目的化、資本主義の浸透に伴う格差拡大、根強く残る差別意識など、近代日本の抱える矛盾が臨界点に達しつつあった時代でもあった。それが歪んだ形で噴出する契機となったのが大正末期、1923年9月に発生した未曽有の災害である関東大震災である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?