連載日本史147 享保の改革(1)
1716年、徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)のひとつである紀伊藩主であった徳川吉宗が八代将軍に就任した。元禄時代以降の貨幣経済の浸透と商品作物の生産拡大により、相対的に米の価格は低下し、幕府や藩の財政は危機的状況にあった。大名にまで貸付を行う富裕商人が台頭する一方で、貧富の差が拡大し、農村では百姓の階層化が進み、都市では貧民が大量に生まれていた。吉宗は生産力向上のための新田開発と財政再建のための年貢増徴を主軸とした諸改革を断行した。いわゆる享保の改革である。
武蔵野新田はじめ、吉宗の代に開発された新田は多い。新田開発には水利が欠かせないため、多くの用水路が掘削された。また税収の安定を図るため、年貢の徴収方式を収穫高に応じた検見法から定額固定の定免法に切り替え、税率も四公六民から五公五民へと引き上げた。さらに時限立法として、各藩から石高に応じた上納米(上げ米)の拠出を求め、一方で質素倹約を唱えて不要な出費を抑え、金銭貸借訴訟を受け付けない相対済まし令を出して行政のスリム化を図るなど、財政改革の王道である歳入増加と支出削減に努めた。改革後には幕領の年貢収納高は江戸時代最高の百八十万石を記録し、吉宗は「米将軍」と呼ばれたのである。
もちろん急激な改革は副作用を生む。定免法は豊作の時には良いが、凶作になると農民はたまったものではない。1732年に蝗害(イナゴの大量襲来)による享保飢饉が起こった時には、各地で一揆や打ちこわしが発生している。吉宗は農学者の青木昆陽を登用し、救荒作物としての甘藷(サツマイモ)の栽培を勧めたり、薬用の朝鮮人参や灯火用の櫨(はぜ)などの商品作物の栽培も奨励した。米だけに頼る経済は頭打ちになりつつあったのだ。
農村への貨幣経済の浸透は百姓の階層分化をもたらした。本百姓の石高を見ると、十七世紀半ばには五石~二十石の中農が七割近くを占め、五石以下の小農は十五パーセント、五十石以上の大地主は五パーセントにすぎなかったのが、享保期には中農の比率が五割を切り、小農が四割を超え、大農・大地主が一割に迫っている。地主たちは、田畑を小作人に貸して小作料を取り立てた。田畑を失った百姓たちは小作人になるか、年季奉公や日用稼ぎに従事することになり、村方騒動と呼ばれる村内抗争が激化した。零細農民の中には、都市に流入して下層民となり、狭い棟割長屋に住んで日雇い仕事で生計を立てる者も少なくなかった。享保の改革は財政の立て直しと幕政の安定には寄与したが、こうした社会の変化への対応は不十分であったと言わざるをえない。
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