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インドシナ半島史⑭ ~ラタナコーシン朝~

1782年、アユタヤ朝の再興を掲げ、チャクリ(ラーマ1世)がバンコクを首都として新王朝を創始した。現在まで続くラタナコーシン朝(チャクリ朝・バンコク朝)の始まりである。チャオプラヤ川流域のシャム(タイ)全土を支配下に置いたラタナコーシン朝は、19世紀以降、東からのフランス、西からのイギリスによるインドシナ半島植民地化の圧力にさらされながら、少しずつ近代化を進めていった。

1855年、国王ラーマ4世は英国との通商条約であるボーリング条約を締結し欧米との自由貿易への道を開いた。これは当時の日本と欧米列強の間で結ばれた通商条約と同様、欧米有利の不平等条約ではあったが、その下でラーマ4世は多くの外国人顧問を受け入れ、産業の近代化を図った。まずは国力の充実を図らなければ、欧米列強には太刀打ちできないと考えたのである。このあたり、同時期の日本の開国・近代化政策と軌を一にしている。次のラーマ5世(チュラロンコン)も前王の路線を継承しながら、さらなる近代化を積極的に進めた。王は若い頃に英国人女性アンナを家庭教師として英語と世界情勢を学び、即位後は近代法・教育制度・交通・郵便制度の整備などに力を注いだ。また、外交面ではイギリスとフランスの植民地獲得競争を逆手にとり、両国の間でバランスを保つことによって独立を維持した。王とアンナの交流は後に映画「王様と私」に描かれ、ラーマ5世は独立を保った名君として、現在に至るまでタイ国民からの敬愛を受けている。

1904年、イギリス・フランス両国は英仏協商を締結し、チャオプラヤ川の東側をフランス、西側をイギリスの勢力圏とすることを確認した。シャム(タイ)は両国の緩衝地帯となったのである。

ラーマ4世の在位期間は、明治天皇のそれとほぼ重なる。近代化の過程において、日本とタイの間には共通点が非常に多い。一方で、20世紀に入って、日本が日露戦争の戦勝後、急激に対外膨張や軍国主義に手を染めていくのに対し、タイは独自の近代化を進めていく。そこには、四方を海に囲まれた海洋国家と、複雑な勢力分布の変遷を経てきた半島国家という、歴史的かつ地政学的な両国の違いも微妙に影響しているように思われるのだ。

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