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連載日本史267 派閥抗争

1972年、連続政権としては歴代最長を記録した佐藤栄作首相が退陣を表明し自民党内での激しい後継者争いが起こった。総裁選挙では各派閥の長である田中角栄・福田赳夫・大平正芳・三木武夫の4名が立候補。いずれも過半数に達せず、田中と福田の決選投票となった。決選投票では大平派・三木派に加えて中曽根康弘の率いる中曽根派の支持も得た田中が、「角福戦争」と呼ばれた激しい選挙戦を制して総裁に選出された。

福田赳夫と田中角栄(news-postseven.comより)

大学卒の肩書きを持たず、叩き上げの知識・経験と豊富な人脈・資金力、衆議院時代に100本以上の議員立法を成立させた粘り強い実行力で首相の座に上り詰めた田中は「コンピューターつきブルドーザー」「今太閤」の異名をとり、特に道路・港湾・空港等の建設事業に強力な影響力を持っていた。総理就任前から「日本列島改造論」を掲げ、高速道路・新幹線・連絡橋などの高速交通網の建設促進を通じて地方の工業化を強力に推進するという田中の政策は、彼の地元である新潟をはじめ、各地の建設業界から熱い支持を受けた。公共事業を通じて地方に人と金と仕事を呼び込むという利権誘導型の政治スタイルが急速に拡大したのである。

日本列島改造論を反映した道路計画図(第二次全国総合開発計画より)

総理就任後、田中首相が最初に手がけた外交政策が、日中国交正常化であった。1971年には国連における中国の代表権が台湾の中華民国政府から大陸の中華人民共和国へと移行しており、72年には米国のニクソン大統領が北京を訪問して中華人民共和国を承認する意向を見せていた。田中首相は持ち前の行動力で自ら北京を訪問し、周恩来首相や毛沢東主席と会談。総理就任後、わずか2ヶ月で日中国交回復を成し遂げたのである。

日中国交正常化当時の田中角栄と周恩来(www.asahi.comより)

田中内閣は開発至上政策が招いた地価高騰によるインフレと自らの金脈問題によって2年あまりで総辞職したが、田中角栄自身はその後も派閥の首領として政界に強い影響力を保った。田中首相に代わって政権の座についた三木武夫首相は政界浄化を唱え、1976年に田中前首相が米国ロッキード社からの収賄容疑で逮捕されると、徹底した真相究明の姿勢を見せた。ところが党内の田中派を中心とする勢力から激しい反発を受け、総選挙での敗北もあって総辞職に至ったのである。続いて福田赳夫首相が内閣を組織したが、2年後の自民党総裁選で破れ、大平正芳首相に総理の座を明け渡した。背後にはやはり派閥の力学があったとされる。

自民党の派閥の主な系譜(www.sankei.comより)

自民党の派閥抗争は、金権政治や利権誘導の温床となり、野党をはじめ各方面からの批判を受けたが、自民党が長期安定政権を保ったのは、派閥争いがあったからこそだという見方もある。派閥同士の競争が政策論争を活性化させ、長期政権においても政権運営に緊張感を持続させる役割を果たしたというのだ。確かにそういう一面はあるかもしれない。私怨による個人攻撃の類は慎むべきだが、互いの批判を建設的な議論に昇華することができるなら、組織内の派閥争いには一定の意義があると思われる。少なくとも常に一枚岩の不自然な組織よりは、ある程度の内輪揉めがあった方が人間の組織としては自然な形なのではないかと思うのである。


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