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連載中国史35 元(1)

1206年、モンゴル高原の諸部族を統合したテムジンがクリルタイ(部族長会議)でハン(遊牧民族の王)の位に就き、チンギス・ハン(太祖)と名乗った。その後150年にわたってユーラシア大陸を席巻することになる大モンゴル帝国の誕生である。 1206年、モンゴル高原の諸部族を統合したテムジンがクリルタイ(部族長会議)でハン(遊牧民族の王)の位に就き、チンギス・ハン(太祖)と名乗った。その後150年にわたってユーラシア大陸を席巻することになる大モンゴル帝国の誕生である。 

1206年、モンゴル高原の諸部族を統合したテムジンがクリルタイ(部族長会議)でハン(遊牧民族の王)の位に就き、チンギス・ハン(太祖)と名乗った。その後150年にわたってユーラシア大陸を席巻することになる大モンゴル帝国の誕生である。

チンギス・ハン騎馬立像(montosame.mnより)

遊牧民族であるモンゴル族は、抜群の機動力を持つ騎馬軍団を持っていた。当時の騎馬は最強・最速の乗り物である。彼らは長い射程距離を持つ強力な弓を使いこなし、外国からも投石機や火器などの優れた兵器を積極的に導入した。彼らのリーダーとなったチンギス・ハンは統率力に優れ、集団戦法を駆使して東西へと勢力圏を広げていった。東では金の領土を侵略し、西では中央アジアのホラズム・シャー朝を滅ぼし、東西貿易路の要所を手中に収めたのである。さらに1127年には西夏を攻略したが、その陣中で彼は没した。

モンゴル帝国の版図拡大(「世界の歴史まっぷ」より)

後を継いだオゴタイ・ハン(太宗)は1234年に金を滅ぼし、翌年にはカラコルムに首都を置いた。続いて翌年にはバトゥを将とした西征軍を派遣し、ヨーロッパへと乗り出す。1240年にはロシアの前身であるキエフ公国を支配下に置き、1241年にはワールシュタット(リーグニッツ)の戦いでドイツ騎士団とポーランドの連合軍を破った。「ワールシュタット」とはドイツ語で「死体の山」を意味する。刃向かう者に対してのモンゴル軍の殺戮は残虐を極め、東欧を恐怖に陥れたバトゥ西征軍はオーストリアのウィーン近くにまで迫ったが、オゴタイ・ハンの急死により撤退した。オゴタイが死ななければ、欧州全土までがモンゴル帝国の支配に服していたかもしれない。それほどまでに、モンゴル帝国の軍事力の脅威は圧倒的であった。

歴史上、巨大な版図を支配した大帝国に共通する要素として強大な軍事力が挙げられるが、モンゴル帝国のそれは特に卓越していた。騎馬を中心とした兵力自体の強さもさることながら、敵の弱点を十分に分析して計画を練る情報力や作戦力も群を抜いていたという。オゴタイの時代には、首都カラコルムから帝国全土にジャムチと呼ばれる駅伝制が敷かれ、情報網の整備が更に進んだ。また、早くから東西の交易路を押さえたことで、強大な軍事力を支える経済力も持ち得た。征服された側から見れば、その恐怖はたまったものではなかっただろうが、モンゴル帝国の台頭によって、東西の交流が一気に進んだ面も否めないのである。
 

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