連載中国史31 宋(1)
960年、五代最後の王朝である後周の皇帝世宗が急逝した後を受けて、節度使出身の趙匡胤が太祖となり、宋を建国した。彼は節度使を解体し、皇帝直属の禁軍を強化するとともに、皇帝自身が試験官となる殿試を科挙に加え、皇帝に忠誠を誓う文人官僚による中央集権の文治政治を目指したのである。それは唐帝国が辺境防備のために軍事力を強化したことによって節度使たちが勢力を伸ばし、結果的に中央政府を崩壊させるに至った経緯を十分に理解していたからであろう。自身も節度使であった太祖は、そのことを肌で実感していたに違いない。
太祖の後継として帝位に就いた太宗は、979年に十国最後の国となった北漢を滅ぼし、唐王朝滅亡以来七十余年ぶりに中国を統一した。初期から盛期に至るまでの唐が門閥貴族と均田農民を軸とした律令制を国家運営の要としていたのに対し、宋では貨幣経済の浸透を前提として唐代末期の両税法を継承し、文人官僚である士大夫層と佃戸(でんこ)・形勢戸(けいせいこ)を政治経済の軸とした。佃戸とは小作人、形勢戸とは新興地主層を指す言葉であり、いずれも大土地私有の拡大に伴って急増したものである。すなわち宋は経済の現実に立脚した政治方針を採ったと言えよう。
軍事力を背景として東アジアに覇を唱えた唐とは異なり、宋は対外的には和平条約で国境を維持し、内向きの外交政策をとった。1004年には澶淵の盟で遼との和議を結び、1044年には慶暦の和約で西夏との和議を成立させた。西夏とは、中央アジアにおいてチベット系のタングート族が建てた国である。宋は遼とは兄弟の関係、西夏とは君臣の関係を結び、名目上はいずれも自国を上位に置いたが、実質的には両国に毎年、銀や絹や茶を送って和平を保っていた。つまりは平和を金で買っていたわけだ。
宋の政治体制を見ていると、どことなく現代の日本に通じるところがあるような気がしてくる。国際都市長安を首都に擁し、強大な軍事力でユーラシア大陸の覇者となった大唐帝国に比べると、宋は帝国と呼ばれるような覇権こそ持たなかったが、その経済力と文化力は、唐とは異なる方向での先進性を示していた。一方で、膨大な数の官吏や行政機構を維持するための費用や、遼・西夏への多額の歳賜によって、国家財政は次第に悪化していった。この辺りの事情も、どうも他人事とは思えないのである。