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連載日本史206 韓国併合

日露戦争直後の1906年、第2次日韓協約(乙巳条約)が締結され、韓国の外交権は日本に接収されることになった。名目上は独立国家でありながら、韓国は日本の保護国と位置づけられたのである。併せて統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に就任した。日本の統治に不満を抱いた高宗は、1907年にオランダ・ハーグで開かれていた万国平和会議に密使を送り、日韓協約は不当だと諸国に訴えた。しかしながら協約は当時の帝国主義国における国際関係では合法であり、しかも日本は事前に、桂・タフト協定や第二次日英同盟協約などで、韓国支配について英米の合意をとりつけており、この訴えは無効とされた。高宗は退位し、改めて第三次日韓協約が結ばれ、今度は内政権が統監府に接収され、続いて韓国軍隊解散の詔勅も出された。ここにおいて韓国は実質的に日本の植民地と化したのである。

韓国統監府(Wikipediaより)

日本の支配に対して、韓国各地で抵抗運動(義兵運動)が起こった。運動は全土に拡大したが、日本は国策会社として東洋拓殖株式会社(東拓)を設立し、本格的な植民地経営に乗り出した。韓国を併合して日本の領土とすべきだという主張も日増しに強くなっていった。伊藤は当初は併合に反対していたが、桂太郎や小村寿太郎ら併合推進派の勢いに次第に押されていく。そんな中、1909年に満州のハルビン駅で、韓国の民族運動家である安重根に伊藤が暗殺されるという事件が起こる。これが結局、併合への動きを加速させることとなった。

安重根(Wikipediaより)

1910年8月、厳戒態勢の漢城(京城・ソウル)で、韓国併合条約が調印された。これにより、韓国は大日本帝国の領土の一部となり、大韓帝国政府と統監府は廃止され、かわって朝鮮総督府が設置された。初代総督は寺内正毅。寺内は徹底した武断政治で朝鮮統治に臨み、軍事警察と普通警察を一体化させた憲兵警察制度で抵抗運動を弾圧し、言論・集会の自由は完全に抹殺された。土地調査事業では所有権の明確化によって税収を確保するとともに、農民から没収した土地を東拓に払い下げて利益を吸い上げた。結果として産業の近代化が進み、それによって朝鮮側にも利益があったという側面もないわけではないが、それはあくまで副次的な要素であり、植民地としての朝鮮統治の基本理念は常に「日本ファースト」だったのだ。

韓国併合関連年表(www.jcp.or.jpより)

韓国併合後の翌年の1911年、小村寿太郎外相のもとで日米新通商航海条約が調印され日本は念願の関税自主権の完全回復を成し遂げた。それは不平等条約に苦しんだ日本が欧米と対等の地位を手に入れるために奮闘した成果ではあったが、同様の苦しみをアジア諸国に強いる矛盾を示すものでもあった。

抗日運動に決起した義兵たち(WIKIMEDIA COMMONSより)

伊藤博文を暗殺した安重根は、韓国では抗日運動の英雄として「義士」と称えられているが、日本政府は殺人犯、あるいはテロリストとみなしている。どちらの見方が妥当かは、立場によって異なるだろう。ただ、韓国併合までの経緯を眺めてみると、暗殺に至った動機は理解できる。しかし一方で、暗殺は手段として間違っていると言わざるを得ないし、実際に伊藤の暗殺が韓国併合を加速させてしまったという側面も否めない。いずれにせよ、韓国併合以降の日朝関係の負の連鎖は、殺された伊藤にとっても、死刑に処せられた安重根にとっても、決して望んではいなかった展開であったはずなのだ。

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