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バルカン半島史⑲ ~オスマン帝国の隆盛~

16世紀初頭、セリム1世の時代にオスマン帝国は勢力を拡大した。1514年にはイランから侵攻してきたサファーヴィー朝を撃破し、1517年にはエジプトのマムルーク朝を打倒して、イスラムの聖地メッカとメディナの保護権を得た。後継のスレイマン1世の時代にはハンガリー軍を破り、1529年にはオーストリアの首都ウィーンを包囲するまでに至った。ウィーン征服は成らず、西方への侵攻はそこで止まったが、地中海方面では1522年のロドス島征服から更に海洋進出を拡大し、1538年にはプレヴェザの海戦で神聖ローマ帝国・ローマ教皇・ベネチアの連合艦隊を破って制海権を得た。東方でもサファーヴィー朝を圧迫して領土を拡げ、ペルシア湾からインド洋へ触手を伸ばす。こうしてスレイマン1世は、スルタン専制国家としてのオスマン帝国の全盛期を現出させたのである。

オスマン帝国のウィーン包囲を退けた神聖ローマ皇帝カール5世に対し、スレイマン1世はカール5世と対立関係にあったフランスのフランソワ1世と結んで、再びヨーロッパへの進出をもくろんだ。この時にスルタンからの恩恵としてフランスに貿易特権を与えたことが、後にカピチュレーションと呼ばれる、領事裁判権も含めた通商特権へとつながってゆき、西欧列強が東方への植民地拡大に乗りだす口実のひとつとなるのだが、飛ぶ鳥を落とす勢いであった当時のオスマン帝国にとしては、そのような将来の心配など思いもしなかったことだろう。

次代のセリム2世がキプロス島を占領して東地中海全域を支配下に置いたことに対して危機感を強めたスペイン王フェリペ2世(カール5世の長男)は、ローマ教皇とベネチアに働きかけて連合艦隊を結成し、オスマン海軍に決戦を挑んだ。1571年、レパントの海戦である。スペインの無敵艦隊の活躍によって撃退されたオスマン軍は、一時は制海権を失ったが、その後、チュニスやアルジェリアに進出して制海権を取り戻している。結局、1453年のコンスタンティノープル陥落以降のオスマン帝国によるバルカン半島と東地中海の支配は、その後も200年以上にわたって続くことになるのである。

オスマン帝国が長期にわたって広域支配を為し得たのはスルタン専制の下での強大な軍事力が基礎にあったのはもちろんだが、他方で「柔らかい専制」とも呼ばれた被征服民への宗教的・文化的側面における寛容政策が功を奏したのも大きな要因と言えるだろう。オスマン帝国は公用語を持たなかった。被征服地の住民たちは、征服者の言語を強制されることがなかった。イスラム教徒はアラビア語・トルコ語、キリスト教徒はギリシャ語・アルメニア語などを用い、文化教養の面ではペルシャ語、通商面ではギリシャ語が幅を利かせていたという。スルタンの支配に服して納税の義務を果たせば、生活文化における干渉は比較的緩やかであったと言えよう。

こうしたオスマン帝国の長期支配の在り方を見るにつけ、比較せずにはいられないのが大日本帝国の植民地政策である。征服地の住民に日本語の使用を強制し、現地語の使用を禁止し、創氏改名で日本風の氏名を名乗らせ、国家神道で宗教的儀礼の強制を行った。政治・経済面だけならまだしも、人々の生活に馴染んだ文化を無理矢理奪い取って入れ替えようとしても、うまくいかないのは自明のことだろう。「大東亜共栄圏」という大義を掲げた日本の植民地政策が短期間で水泡と化したのももっともなことだと思うのである。

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