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バルカン半島史⑭ ~ヘレニズム~

アレクサンドロス大王の東方遠征によってギリシャ文化とオリエント文化が融合し、ヘレニズムと呼ばれる東西の文化融合が起こった。ヘレニズム世界では公用語としてのギリシャ語(コイネー)と国際商業語としてのアラム語が併用され、より広い世界で個人の生き方を探究するコスモポリタニズム(世界市民主義)の思想も育まれた。哲学では、アテネのゼノンを祖とする禁欲主義のストア派と、同じくアテネのエピクロスを祖とする快楽主義のエピクロス派が二大潮流となった。ストア派は、ロゴス(理性)によってパトス(情念)を制してアパティア(不動心)を得ることを理想とし、その思想は英語のstoic(禁欲的)の語源ともなった。一方、エピクロス派は、人間の自然な感覚に基づいた穏やかな快楽(アタラクシア)を肯定し、心の平安を旨とする快楽主義を説いた。両派は、理想とする生き方こそ異なるものの、プラトンやアリストテレスの哲学に比べて、国家を離れた個人の生き方に思索の重心を移している点で、ヘレニズム下でのコスモポリタニズムを示す双璧であると言える。

美術の世界ではミロのヴィーナス・サモトラケのニケ・ラオコーンなど、後世に残る代表的な彫像が生まれている。写実的でありながらも深い精神性の描写を兼ね備えたヘレニズム期の美術作品は、ローマやガンダーラなど東西の文化にも大きな影響を与えた。ガンダーラの仏教美術は時代を下って中国経由で日本にも入り、奈良時代の天平文化にもその影響が色濃く見られる。

ヘレニズム時代の文化の中心地となったのは、アレクサンドロス帝国崩壊後のヘレニズム三国の一つであるプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアであった。初代プトレマイオス1世は各地から学者を招いて大図書館を併設した王立研究所であるムセイオンを創立。これが英語のmuseum(博物館)の語源ともなった。そこからは、幾何学を大成したエウクレイデス(ユークリッド)、理学と力学を極めたアルキメデス、当時は受け入れられなかったものの地球球体説と地動説を唱えたアリスタルコス、精緻な観測をもとに地球の大きさをほぼ正確に計算したエラストテネスなど、多くの著名な学者が輩出された。

前2世紀にはアンティゴノス朝マケドニアがローマとの戦いに敗れて滅亡。続いて前1世紀にはセレウコス朝シリアがローマのポンペイウス軍に敗れて属州となり、ヘレニズム三国で最後まで残ったプトレマイオス朝エジプトも前31年に女王クレオパトラとアントニウスの連合軍がアクティウムの海戦でオクタヴィアヌス率いるローマ軍に敗れて滅亡する。その後、バルカン半島を含めた地中海世界は、強大化するローマ帝国の支配下に入っていくこととなる。

ヘレニズムという呼称は、ギリシャ人の優越意識を反映したヘレネスという自称に由来する言葉であり、ヨーロッパ中心の歴史観のあらわれだとする批判もあるが、この時代のギリシャ文化の東西にわたる広範囲な伝播が各地の文化に刺激を与え、ダイナミックな相互作用を起こしたことは事実である。もちろん文化の伝播は一方向のみのものではなく、インドやオリエントから地中海世界への影響も少なくなかったであろう。アレクサンドロス帝国の成立と崩壊からヘレニズム三国の滅亡に至る約300年に及んだヘレニズム時代は、政治経済面でのグローバル化を背景としながら、その後の世界全体に波及する文化面でのコスモポリタニズムを生んだ、開放的なエネルギーに満ちた時代であったと言えるのである。

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