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連載日本史157 天保の改革(2)

享保・寛政の改革を手本とした忠邦は人材の登用も積極的に行った。アヘン戦争で中国が敗北したのは軍備の近代化に遅れをとったからだという分析に基づき、近代西洋砲術を学んだ高島秋帆を長崎から江戸に招いて実射訓練を行ったり、報徳思想で有名な農政家の二宮尊徳を幕臣に抜擢したりもしている。一方で意に沿わない人材は遠ざけ、厳格な風紀統制に反対意見を述べた南町奉行の矢部定謙を罷免して腹心の鳥居耀蔵を後任に据えている。結局、鳥居の行った貨幣改鋳や棄捐令などの政策でかえって経済が混乱し、忠邦の失脚を早める要因となった。耳の痛い諫言を聞き入れる度量が、指導者には必要とされるという好例だろう。

二宮尊徳(Wikipediaより)

遠山の金さんのモデルとなった北町奉行の遠山景元も、厳しい統制令に異を唱えたひとりである。彼が後世の時代劇の主人公になるほどに人気を博したのは、彼自身にカリスマ的な魅力があったからというわけではなく、忠邦の政治に対する庶民の反感がそこに反映したからにすぎない。それは、庶民の強い反感を買うようであれば改革は成功しないという教訓を物語ってもいるようだ。

晩年の遠山景元(Wikipediaより)

忠邦失脚の直接的な原因となったのは上知令(あげちれい)の失敗であった。江戸・大坂周辺の大名領・旗本領を幕府の直轄領にしようとしたのである。これは大名・旗本のみならず現地在住の百姓たちからも大きな反対に遭い、忠邦は命令の撤回を余儀なくされた。大御所時代の末期に将軍家斉が強行しようとした川越・庄内・長岡藩の三方領地替えも、百姓たちの反対一揆によって幕府は命令の撤回に追い込まれている。百姓たちの組織的な抵抗力が高まるのと反比例するように幕府の権威はますます低下していったのである。

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