連載中国史42 清(1)
ヌルハチが太祖となって1616年に建国した女真族(満州族)の王朝である後金は、後継の太宗ホンタイジの時代に清と改称。1644年の明の滅亡時には三代目の順治帝(世祖)が帝位に就いていた。山海関を越えて北京に入城した清軍は李自成を追い落とし、順治帝は改めて北京を清王朝の首都とした。清は満州族の風習である辮髪(べんぱつ)を漢人にも強制し、反体制的な書物の著者を弾圧したり発禁処分にするなど、力による威圧政策を行ったが、一方で中央官庁において満州人と漢人を同人数採用する満漢偶数官制や、儒学の振興・科挙の重視・大規模な編纂事業を通じた知識人の優遇など、漢民族にも配慮した懐柔政策でバランスをとった。政治体制では基本的に明の統治機構の大部分を受け継いだが、藩部を統括する理藩院などの新たな機関も設けられた。
清が漢人に対して威圧政策と懐柔政策を組み合わせて統治に腐心したのは、何と言ってもその人口比によるところが大きい。漢民族は現代中国においても人口の九割以上を占める圧倒的多数民族である。一方、清王朝の支配民族である女真族(満州族)は当時の人口比においても圧倒的少数に過ぎない。八旗兵による強力な軍事力で中国全土の制圧には成功したものの、その統治の維持には多数民族である漢人の協力が必要不可欠だったのである。
中華料理に満漢全席というメニューがある。山海の珍味を集め、満州族と漢族の料理の粋を尽くしたもので、全てを食べ尽くすには三日かかるという壮大かつ豪華な献立である。これは清王朝の乾隆帝の時代に始まったものだというが、その名称やコンセプト自体が、当時の統治体制の在り方を反映していると言える。
考えてみれば、南宋以降、清の滅亡までの約800年の間で、漢民族が中国全土を統治していたのは明王朝時代の200年余りだけである。南宋時代に北部を支配した金はツングース系の女真族、南宋を滅ぼしてユーラシア一帯を支配した元はモンゴル族、そして清は女真族(満州族)の王朝である。いわば少数民族による多数支配の時代の方が圧倒的に長かったのだ。多文化共生が謳われている現代の中国では、国内に各民族の自治区が存在し、少数民族の文化が尊重されているという建前にはなっているが、実際には政府は民族意識の高まりには神経を尖らせ、過剰なほどの思想介入や統制を行っているようだ。そこには少数民族による長い支配を経て培われた歴史的な恐怖心が伏流しているのではないかとも感じられるのである。
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