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ローマ・イタリア史㉔ ~大航海時代~

15世紀末から16世紀にかけての中東地域におけるオスマン帝国の隆盛は、ヨーロッパの商人たちにとっては東方貿易の障壁となった。肉食中心の西欧の食生活には保存料や調味料として欠かせない東南アジア産の香辛料を手に入れるため、オスマン帝国の勢力下にある東地中海を経由しない航路の開拓が求められたのだ。まずポルトガルが口火を切り、バルトロメウ=ディアスによるアフリカ南端の喜望峰到達、バスコ=ダ=ガマによるインドのカリカット到達を経て、インド洋航路が開拓された。ライバルのスペインはコロンブスの大西洋横断を機に、新大陸での植民地建設に着手した。俗に言う大航海時代の始まりである。

コロンブスは北イタリアのジェノヴァの出身だったが、スペイン王室に雇われる形で船を得て海を渡った。1492年にイベリア半島のイスラム勢力最後の拠点であるグラナダを陥落させ、レコンキスタ(国土回復運動)を完了させたスペインは、国王専制の絶対王政を敷き、アメリカ大陸の先住民文化を壊滅させるほどの露骨な侵略政策に出たのである。冒険家コロンブスは結果として、その露払いの役柄を演じることになってしまった。彼が生まれ故郷のジェノヴァではなく、スペインに身を寄せたことは、貿易ルートの中心が地中海から大西洋へ移りつつあったことを象徴していると言える。

貿易ルートの変動は、商業革命と呼ばれるほどの経済面での地殻変動をヨーロッパにもたらした。最も打撃を受けたのは、地中海貿易で富を築いてきた北イタリアの諸都市である。当初はポルトガルやスペイン、次に主権国家としての体制を整えたオランダやイギリスが台頭すると、フィレンツェのメディチ家や南ドイツのフッガー家などの銀行家が没落し、17世紀に入るとオランダやイギリスが設立した東方貿易の国策結社である東インド会社が東方貿易の主導権を握るとともに、アフリカやアメリカ新大陸での植民地争奪戦も激化した。ルネサンス時代に文化面でヨーロッパをリードしたイタリア諸都市は、こうした大変動に対抗するだけの力を持ち得なかったのである。

宗教対立と各国の利害が絡んで泥沼化した三十年戦争が終結し、1648年にウェストファリア条約が締結されると、ヨーロッパは主権国家体制の確立へと向かう。そうした時代の流れを受けて、西ローマ帝国崩壊以来、千年以上にわたる分裂状態にあったイタリア半島統一への機運が徐々に盛り上がってゆく。しかしそれは、周辺諸国のさまざまな思惑による介入もあって、一筋縄ではいかない紆余曲折の道程となった。全イタリアの統一までには、なお二百年以上の歳月が必要となるのである。

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