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連載日本史110 戦国時代(1)

応仁の乱以降、室町幕府の求心力は著しく低下し、各地の有力大名の自立への動きが加速した。主君を倒して権力を握る下剋上の風潮も激しくなった。京都では1493年、細川政元が十代将軍義植(よしたね)を廃して義澄を擁立するクーデター(明応の政変)を起こした。同じ頃、関東では、下級武士から身を起こした北条早雲(伊勢新九郎)が堀越公方足利茶々丸を追放して伊豆を奪い、続いて小田原城に拠点を置いて相模を平定した。戦国時代の始期については諸説あるが、この時期、つまり十五世紀末には、各地に戦国大名が割拠する時代が始まっていたとみていいだろう。

明応の政変関係系図(bushojapan.comより)

いわゆる戦国大名は、従来の守護大名とは、いくつかの点で異なっていた。守護大名は幕府の任命を受け、中央政府に大きく依存し、自身は京にとどまって領地には守護代を設置するのが基本であった。一方、戦国大名は幕府の権威を必要とせず、自らの領国にとどまり、幕府の定めた法とは別に、分国法と呼ばれる独自の法体系を打ち立て、独立した地方統治を行う。戦国大名たちは国人や地侍を家臣化し、上級家臣を寄親(よりおや)、下級家臣を寄子(よりこ)として、独自の家臣団を組織していった。

守護大名と戦国大名(「世界の歴史まっぷ」より)

守護大名は半済や守護請などの制度によって荘園を侵食しながら勢力を伸ばしたが、逆に言えばそれは旧来の荘園に寄生した存在であったとも言える。しかし戦国大名たちは旧来の荘園システムそのものを破壊した。彼らは領国内で独自の指出検地(さしだしけんち)を実施し、自らの領地を直接支配した。治水や灌漑、鉱山開発などの土木事業にも乗り出し、座や関所を廃止して自由な商取引の場である楽市を設置するなど、独自の経済政策をとる大名も現れた。日本各地で独立国が次々と生まれたようなものである。十六世紀に入るとますますその傾向は激しくなり、幕府は存在感を失っていった。

16世紀半ばの戦国大名の分布(benesse.jpより)

日本史上、応仁の乱から戦国時代にわたる百年間は、中央政権が最も弱体化し、有名無実化した時代である。室町幕府の求心力の低下は、後継者争いや政権内の主導権争いを延々と繰り返した結果ではあるが、そうした争いは他の時代にも起こっていたはずである。たとえば平安時代の藤原政権や江戸時代の徳川政権にも、後継者争いや主導権争いは少なからずあった。だが、それで中央政権が崩壊して群雄割拠の戦国時代が始まるなどという事態には至らなかった。それではなぜ、室町幕府だけが急速に自己崩壊を起こしたのだろう?

それは権力争いの存在自体ではなく、その解決方法の問題ではないかと思うのである。藤原氏や徳川氏は、政権内部での権力闘争を裏工作やら根回しやら政略結婚やらの権謀術数を駆使して解決していた。それらは汚い手口ではあるが、ある意味、必要悪であったとも言える。それに対して足利政権は、問題解決の手段として、安易に武力に頼りすぎたのではないだろうか。武力での解決は、権謀術数による解決に比べて単純明快なイメージがあるが、実際にはその逆で、武力が武力を呼んで収拾がつかなくなり、混乱に拍車がかかって問題がより複雑化するのが世の常である。何より権謀術数が政権周辺で完結するのに対し、武力抗争は一般民衆をも巻き添えにするという点で、社会的影響の大きさは桁違いだ。室町幕府の自己崩壊は、安易な武力依存のツケが回ってきた結果であったと考えられるのである。




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