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オリエント・中東史⑬ ~ササン朝ペルシア~

紀元226年、遊牧イラン人主体であったパルティアを滅ぼし、農耕イラン人を主体としたササン朝ペルシアが建国された。初代の王はアルデシール1世で、首都はパルティアと同じくティグリス川中流域のクテシフォンに置かれた。アルデシールはササン朝がアケメネス朝以来のイランの伝統を正式に継承する王朝であることを知らしめるために、ゾロアスター教を国教化して宗教を核とした求心力の強化を図った。

アケメネス朝ペルシアが西方のギリシアと激しく争ったのと同様に、ササン朝ペルシアは西方のローマ帝国との抗争を繰り返した。2代目の王であるシャープール1世は、260年にエデッサの戦いでローマ帝国軍を破り、軍人皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とした。シャープールは東方にも版図を広げ、インドのクシャーナ朝を圧迫した。また、彼はゾロアスター教にキリスト教や仏教の要素を加えたマニ教に傾倒したが、彼の死後、マニ教は異端とされ、激しく弾圧された。マニ教はゾロアスター教とともに東方に伝わり、中国ではそれぞれ摩尼教・祆教(拝火教)として一定の信者を得たものの、後に中国でも弾圧を受けて衰退した。一方、ゾロアスター教は、現代でもインドのムンバイ(ボンベイ)などを中心に、約10万人の信者を維持しているという。

5世紀に中央アジアに興った遊牧民族のエフタルの侵入を受けて一時は衰退したササン朝であったが、6世紀半ばに即位し、東のトルコ系民族の突厥と組んでエフタルを滅ぼしたホスロー1世によって勢力を盛り返した。ホスローは東西分裂後の東ローマ(ビザンツ)帝国とも戦い、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスとの間で有利な平和条約を結ぶことに成功し、アラビア半島南端のイエメンをも支配下に収めてインドとのアラビア海貿易で大きな利益を上げた。文化面でも、ホスローは首都クテシフォンに医学や哲学の研究機関を設立し、ユスティニアヌス帝の異教徒弾圧を逃れて亡命してきたギリシア人学者の亡命を受け入れ、ギリシアやインドの著作のペルシア語訳を積極的に行った。ゾロアスター教の聖典「アヴェスター」が大成されたのも彼の治世下であった。シリアからは多くの職人を移住させ、金銀細工やガラス器などの優れた作品を中心としたペルシア美術も全盛期を迎えた。ペルシア文化はシルクロードを経て、中国・朝鮮半島・日本にまで伝わり、東アジアにも大きな影響を与えたのである。

6世紀末から7世紀初頭にかけて、ササン朝とビザンツ帝国の抗争が激化し、その難を避けた商人たちがアラビア半島南部のヒジャーズを新たな交通路としたことでメッカやメディナが繁栄し、イスラム教勃興の遠因となった。7世紀のイスラム勢力の台頭は、オリエント・中東地域に激震をもたらし、やがては全世界へと、その影響を急速に拡大させていくことになるのである。

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