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連載日本史150 田沼時代(2)

1782年から五年にわたって続いた天明の大飢饉では、数万人に及ぶ餓死者が出た。東北の冷害に加えて、浅間山の噴火による火山灰の降下が関東一円の農作物に影響したためである。田沼時代の重商政策のために農業政策や救荒対策が相対的に手薄になっていたのも被害に拍車をかけた。日本民俗学の祖といわれる菅江真澄の記録によると、東北の村々では死体が重なり合って道を塞ぎ、人々は死者の人肉まで食べて飢えをしのいだという。

空腹のあまり人肉を食らう人もいたといわれる天明の大飢饉(Wikipediaより)

一揆や打ちこわしが各地で起こり、治安は急速に悪化した。田沼政治への批判は日に日に強くなり、1784年には意次の長男で若年寄に昇進していた意知が、旗本の佐野政言に刺殺されるという事件が起こった。佐野は切腹となったが、庶民は佐野を「世直し大明神」ともてはやした。1786年、将軍家治の死去とともに意次は失脚、二年後に失意のうちに世を去ることになる。小姓から老中まで異例の出世を遂げた敏腕政治家の、寂しい末路であった。

田沼時代の概略(「世界の歴史まっぷ」より)

金権政治家として評判の良くない意次であるが、農本経済に限界を感じ、商業振興による経済の近代化を図った意次の政策の方向性そのものは間違ってはいなかったと思われる。ただ、社会全体がそこまで成熟しておらず、賄賂の横行を許してしまった上に、未曽有の天災による社会不安に対応しきれなかったという不運もあり、結果的に失政に終わってしまったということだ。老中としての評判は散々だった意次だが、地元の相良藩では優れた殖産興業政策を行った名君として評価されている。藩政にとどまっていれば、有能な藩主として生涯を終えることもできたかもしれない。そう考えると気の毒にも思えるが、国政を預かる責任はそれだけ重いということか。

旧相良藩(静岡県)牧之原に建つ田沼意次像(tokyo-np.co.jpより)

意次はエレキテル(発電機)で有名な発明家の平賀源内とも親交があったという。杉田玄白や前野良沢が「解体新書」を著したのも田沼時代である。工藤平助の「赤蝦夷風説考」は、意次の蝦夷地探索事業の契機となった。良くも悪くも綱紀の緩んだ田沼時代には、それなりに自由の風が吹いていたのである。

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