連載日本史190 西南戦争(2)
西南戦争では、三万人の西郷軍に対し、陸軍・海軍合わせて六万人の政府軍が動員された。西郷軍は熊本鎮台の司令部のある熊本城を攻め立てたが、司令官の谷干城(たてき)に率いられた鎮台軍の防戦に阻まれ、その間に中央から到着した山県有朋らが率いる援軍との間で、九州各地での死闘が繰り広げられた。最も激戦となったのは熊本・田原坂の戦いである。使用された銃弾は政府軍だけで60,000発に達し、双方の銃弾が空中で激突する「かちあい弾」も見られたという。戦死者は両軍合わせて5,500名を超えた。抜刀での白兵戦も展開され、かつて戊辰戦争を共に戦った旧薩摩藩士どうしが刃を交えることとなった。一ヶ月にわたる激戦の末、政府軍が戦いを制し、ここを天王山として、政府軍の優位はほぼ決定的となった。
西郷軍はその後も半年にわたって各地で抗戦を続けたが、次第に追いつめられ、鹿児島の城山に立て籠もった。政府軍の総攻撃が始まり、将兵たちが次々と倒れる中、西郷は切腹して果てた。討幕維新のカリスマの死は、ひとつの時代の終わりを告げるものであり、西南戦争の終結は士族階級の消滅を意味するものであった。政府軍の勝利を決定づけたのは近代的軍備と組織力であり、西南戦争を契機に、徴兵制による国民皆兵体制の定着が加速したと言える。また、西南戦争への巨額の戦費の支出はインフレと資本集積を呼び込み、経済的にも近代産業資本の形成が加速される一方で、貧富の差が拡大した。
維新の三傑のうち、西郷は西南戦争で自刃、木戸孝允(桂小五郎)も西南戦争中に病死していた。最後に残った大久保利通も、1878年に東京・紀尾井坂にて、士族の残党たちに暗殺された。大久保は西郷が不遇の時代にも彼を支え、共に討幕維新の道のりを歩んできた。かつての盟友と西南戦争で敵対することになった時、大久保の胸に去来する思いはいかほどのものだったろうか。殺害された時、大久保の懐には、生前に西郷から送られた手紙が入っていたという。倒幕から十年。三傑の死は、近代日本の歩みが新たな段階に入ったことを示す象徴でもあった。