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ローマ・イタリア史㉒ ~宗教改革~

ルネサンス時代に行われたローマ=カトリックの総本山サン=ピエトロ大聖堂の大改修工事は多額の費用を要した。その費用の捻出のため、ローマ教皇レオ10世はドイツでの贖宥状(免罪符)販売に踏み切る。贖宥状とは、それを買えば現世の罪が許されて天国へ行けるという、いかにも教会の御都合主義による資金集めに使われたインチキ臭いお札のことだ。1517年、これに対して強い疑義を呈したのがドイツの修道士マルティン=ルターである。彼は「95か条の論題」と呼ばれる公開質問状を提示し、キリスト教世界に激震をもたらす宗教改革の口火を切ったのである。

もともとルターは贖宥状の販売に反対していたのであって、カトリック教会そのものを根本的に批判していたわけではなかった。だが、ドイツで発した宗教改革の波は各地に広がり、ルター自身も聖書のドイツ語訳を完成させるとともに、1920年には「キリスト者の自由」を著して信仰の拠り所を教会の権威ではなく聖書そのものに求めるべきだという理念を明らかにした。ルター派の人々はカトリック教会の支配に抗議する人々という意味でプロテスタントと呼ばれ、現代にまでつながる新たなキリスト教勢力となる。スイスのチューリヒではツヴィングリ、ジュネーブではカルヴァンが改革に着手し、フランスではユグノー、イギリスではピューリタン(清教徒)と呼ばれたプロテスタントたちが勢力を伸ばした。

もちろん教会の権威への挑戦は各地で激しい闘争を引き起こした。ドイツではシュマルカルデン戦争、フランスではユグノー戦争と呼ばれる新旧宗教戦争が起こり、イギリスではヘンリー8世の離婚問題に端を発してイギリス国教会がカトリック教会から分離した。カトリックのお膝元であるイタリアでは15世紀末から神聖ローマ帝国のハプスブルク家とフランスのヴァロア家の勢力争いから起こったイタリア戦争が、宗教改革の影響と東方からのオスマン帝国の介入によって長期化し、泥沼化しつつあった。総じて16世紀のヨーロッパは宗教戦争の時代であったと言える。

しかし宗教改革による新興プロテスタントの台頭があったからこそ、旧勢力のカトリック教会も危機感を持って自らの改革に取り組むことになったのも事実だ。批判があるからこそ成長もある。16世紀半ば、カトリックの側からの対抗宗教改革の先頭に立ったのは、日本へのキリスト教布教の立役者となるフランシスコ=ザビエルらによって結成されたイエズス会であった。

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